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                    Ψ
  
 次の日学校へ行ったらユミ子は異常に静かで、前日の面影すら残っていないのが却って怖かった。 
「よお」
 と声を掛ければ、
「……おはよう」
 の一言。
「昨日は良く眠れたか?」
「いや、あんまり。ていうか、ごめん。きのう熱があってね。頭がぼんやりしてた。啓太の家で失礼なことやった記憶がある。謝るよ。許してくれる?」
 めずらしく数学の問題に取り組んでいるユミ子は、問題集に向かったまま呟いた。
「そうか。昨日は顔色悪かったからな。今は大丈夫か?」
「うん。落ち着いたみたい」
 ユミ子は三色ペンをぐるぐる回しつつ、和やかな顔で言った。
 その様子を、アンナがいつものように醒めた目で見ていた。
 その様子を、サユリがいつものようにニコニコして見ていた。
 淡々と時間が流れた。平穏無事のベールがクラスに掛けられたみたいに。
 
 
 放課後、啓太は早足で校門を出た。
 一・五キロのウォーキングを経て、小走りにロータリーの縁を回り、K駅の中に潜り込んだ。下校中の電車待ちの生徒が六人ほど見えるが、知り合いの顔は無い。
「お待たせ」
 という声に振り返ると、入口に神内サユリが立っていた。
「荷物が重かったから、遅くなっちゃって。さあ、行きましょう」
 背中のサックスケースを撫でる仕草から、啓太に並んで歩き出す動作まで、サユリの言動にはからくり人形のように無駄が無い。買ったばかりの花束みたいな芳香が、ふんわりと漂った。
「重いんなら、楽器を持ちましょうか」
「大丈夫、取り扱いには慣れてる」
 と返答する。柔和ながらもクールな瞳が印象的だ。クレオパトラの昔から脈々と続く女性美の魂みたいなものが現れている気すらしてくる。二千年の歴史を貫く普遍的な重みに思いを馳せるのは感動的だなあ、などと心に独白しつつ、B町方面の電車に乗り込んだ。
「今日は、どんな用事があるんですか」
「どんな用事かしら? 楽しみね」
 サユリは笑い、その顔というのが幼児の頃の面影すら見える純度百パーセントの笑顔だった。どちらかといえばお姉さん的なイメージの強いサユリがそういう顔をすることは、とても意外だったし、とても魅力的に感じた。
(多少悔しいが認めよう。俺の生活は、他の一般的日本人と同じように普通であり、平均的であり、ゆえに退屈でもある。退屈こそ、俺の人生の基本色だと言っていい。だが、退屈を撹乱する事象というものが、この退屈な世界にはあると言わなければならない。そういう事象は実はスパイスに過ぎず、退屈というメインディッシュを一層強化するだけなのかもしれんが、仮にそうだとしても、スパイスを味わっている間だけは退屈から開放されているのは間違いない。うむ、ビター・スイート。この場合、俺はどちらの方向に舵を切るべきだろうか。今までの退屈な俺のように、世界の退屈な事象を一つでも多く目の当たりにし、世界を退屈の一色で塗り込めるライフワークを継続させるべきか。それとも、この広い世界には数多(あまた)のスパイスがめくるめく輝きを放って俺を待っており、俺は大航海時代のキャラック船のごとくスパイス集めの旅に帆を上げるべきなのか。答えが出ているかもしれんな。今日の帰り、ここを登る時には)
 サユリと一緒にB駅の橋上駅舎の階段を降りながら、啓太は考えるのである。
 二人はB駅前の広場を通り、ごみごみした町へと繰り出して行った。
 そして、町を見下ろせる駅ビルの屋上には、小柄な銀髪少女がスタンバイした。


「すこし、ぶらついてみようか?」
「いいですね」
 以外の答えを返すわけもない。サユリと一緒の時間や空間は、今のところ何でも新奇で刺激的に感じる。
 情趣ある下町といえば聞こえはいいが、何のことはない、あばら屋が未だに多いだけだ。貧相で猥雑な商店街が、吐瀉物のように不規則に広がっている。
 サユリが言うには、いま歩いている細道を右に三回曲がるコースをたどれば、首尾よく駅前のロータリーに戻ることができ、その時にはB町のメイン部分を一通り見ているだろうし、ほどよく時間も潰れているだろうということだ。
「時間を潰すのが目的なんですか?」
「そうね。お店に入るっていう手も考えたけど、一箇所で座りっ放しじゃあ、いやでも緊張してくるじゃない。せり上がってくる心臓を、こう、必死に飲み込んでいる感じがね。あれは不健康だもん」
 サユリは眉間に皺を寄せ、指先を刃物のようにまとめ、自分の喉をつついた。
「こうして散策していれば、緊張で多くなっている血流が、運動で使われる血流と釣り合うわ。不快なドキドキを感じなくて済む。名案でしょう?」
「緊張緩和のために体を動かすのは、名案だと思いますね。俺も、高校に入ってから一ヶ月ぐらいして、バスケ部のやつらに退部の意思を伝えた時は、同じような緊張感を味わった覚えがあります」
「うふ、ふ、ふ。飾らない人ねえ。おもしろいわね、あなた」
 サユリは口に手を当て、おかしそうに笑った。飾らない点を褒められたので、さらに踏み込んで「もっとも、その時以上の緊張感を覚えているのが今なんですけどね」などと呟いてみるべきだろうか。いや、キザすぎる。
(やば、俺も相当ドキドキしてきたな。とにかく会話だ。間が持たん)
「俺はですね、あなたの行動力には驚かされましたよ。そして素直に賛辞を申し上げたいですね。こういうふうに退屈しない時間は久しぶりのことです。だって、あなたとは接点が無かったでしょう。声が掛かるなんて思いもしないじゃないですか。あなたみたいに行動力があれば、人生は退屈しないのかもしれません」
「おだてるのがうまいわね」
「いいえ。本当ですよ。俺も見習いたいくらいです。……ところで、今日はこの町で何をする予定なんでしょうか? それとも、別にやることは無くて、忙しい学校生活の気晴らしという具合ですか?」
 啓太は何気なく言い、何気なく首を回した。
 新月みたいに顔色を失ったサユリが立っていた。


「なにをいってるの」


 まるで、サユリの映像に第三者の声を重ねたVTRでも見ているみたいだった。そのせいか、啓太は、二人のやり取りを離れた位置から眺めている気がしてきた。
「……いえ、すみません。気を悪くしましたか? あなたの意図をうるさく訊ねるつもりは、俺にはありませんよ。俺などと一緒に居ることで、あなたが少しでもいい気分になってくれるのかどうか? という点だけが問題ですからね」
「今日の予定が分かっていない? どういうことだ」
 サユリが急に詰問調になったことよりも、火星人に会ったみたいな目で啓太を観察していることの方が奇妙に思える。怒っているのではなく、不思議がっている。
「りかいふのう、りかいふのう。ナカマのじょうたいをかくにん……」
 サユリは発作的に頭皮を掻きむしった。ばりばりいう音が啓太にも聞こえる。
(ああ、せっかくの美麗な髪が乱れますよ)
 と思うと同時に、さすがに、どことなく変だと感じた。
 サユリは、内部から誰かが覗き見ているようなプラスチックじみた目で近付き、右手の小指を差し出す。これで、二度目である。
「約束を忘れちゃいないでしょ? 場の空気を和らげようとしてるのは分かる。でも、そろそろ時間よ。発散よりも集中。浮遊よりも沈潜。もちろん、未来の試練は博打も同じ。当たるも八卦、当たらぬも八卦。とは言え、成功のためには、真剣さと集中力は重要だわ」
「ハ、ハア……」
 啓太は二度目の指切りを緊密に交わしたものの、流れ的に改めて質問することはできなくなってしまった。
 一体何だというのだろう? サユリがこの町で行おうとしている、未来の試練というのは。
「和やかな空気も大事だけど、そろそろ詰めの時間に入ってるわ。町を一周してステージ≠ノ戻って来るコースを取ったんだから、ステージ≠ノ着くまでに、頭の中で確認しておいてちょうだい。自分がやる作業は分かっているわね?」
 啓太は、サユリと隣り合って歩く機会を羨ましがる多数の男たちに、たとえば山本あたりに現在のポジションを譲ることを考えてもいいだろうか、と自問した。愚鈍すぎると言われるなら、今すぐ認めても良かった。なるほど、サユリはいかにも委員長らしく真面目に、真面目な話をしているに違いない。落ち着きの内側に熱を宿しているサユリの顔を見れば、痛々しくなるぐらいに分かる。
 しかし、その真面目な話の中身だけが、分からない。
 自分がやる作業? 
 到底、分かるわけがない! 
 が、鬼気迫っているサユリの真剣さを前に、「分かりません」と涼しい顔で答えられるはずがない。いや、啓太は既に、涼しい顔で隣を振り向ける自信すら無かった。
 正面を向いて散歩を続けるだけなら、まだ平静な顔をよそおうことはできたから、力の抜けた顔を頑張って作る。
「……俺の作業はともかく、あなたの方は大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫よ。何をやればいいかは把握してきた。今回のイベント、わたしの働きがメインになるのは当たり前。もともとはわたしの前借(まえがり)≠ゥら始まったことだからね。私信で指示されていることは、一字一句間違わずに頭に入れてきたわ。世界からの通達を間違えるわけがない」
「ししん、ですか。なるほど」
 無意識の生返事を終えた後で、ししん≠ニいう言葉が啓太の脳の奥から記憶を引きずり出した。
 思えば、最初に届いた謎のメールの文面は、『ししん、とどきました?』ではなかったか? 
 そして、そのメールの前には、おそらくししん≠フ正体と思われるハガキが届いていた。
 謎のメールとししん≠ニやらが関連していることは間違いない。
『せんさくしないで』『まつてます』と残して途切れた謎メールは、差出人不明のままだ。しかし、どうやら、メールはししん≠ニ繋がりがある。そして、ししん≠ノついてサユリが自分の口で語っている。
 ということは、つまり、
「ちょっといいですか、神内さん。謎メールの差出人はあなたですか。いや、あなたですよね?」
「そうよ。あれは隠密に連絡を取り合うためのシステム。世界に刃向かうギャングどもが、わたしたちを嗅ぎ回っているっていう情報があったからね。ほら、いつだったかな、二通目の私信に注意書きがあったでしょう。『あしき女と関わるな』って」
「はあ、二通目……」
 啓太は黒目を上方に泳がせる。あのハガキがししん≠セとすれば、受け取ったことがあるのは一通のみだ。他にも何通か届いていたのか? 見た覚えが無い。
 おとついは、ダイヤル錠を回すのを渋ってポストを覗かなかったし、きのうはアンナに連れ回されて帰ったから、疲れてポストを覗いていない。二日のうちに、もしかしたら届いていたのか。あるいは、四日前、五日前はどうだ? しかし、妙なハガキが何通も来ていたなら、ユミ子や両親が部屋まで届けてくれてもいいと思うが。
「ところで、ししん≠他人に見られた場合、どうなりますか?」
「なにをタワゴトをほざいているの? 私信はイベントの関係者にしか見えないのを忘れた?」
 サユリは笑顔で抉ってきた。思わず目が合い、見透かされていないかと緊張する。サユリだけが理解している事情が、あまりにたくさんあることを。
「ギャングどもにイベントを妨害されたくないからね。だから、あなたと手を組んでいることも、表に出ないようにした。たぶん、ギャングどもの組織は、学校にスパイを送り込んで偵察をかけてきているはず。私信が教えてくれた『あしき女』は、そのことを示していたはず。だけど、わたしたちは、誰にも尻尾をつかまれるような動きは取らなかったからね。今現在までギャングの側から何もないのが、その証明。無事にイベントまで漕ぎ付けられたようね」
「そのイベントが、とうとう始まろうとしているわけですね?」
「ええ。頑張ろうね。頼りにしてるからね」
 サユリは秘密基地を共有している親友に向けるような笑顔でしめくくった。
「いえ、あの、俺はですね……」と、よっぽど素直に白状しようかと思った。
 もちろん、できなかった。
(このまま散歩を続けたら……)
 町の中を一周してステージ≠ノ戻って来るコース、と言っていた。ステージ≠ニは何処だろう。駅か、広場か、ロータリーか。
(そこに着けば最後、俺が存じないイベント≠ニやらのアプリケーションが強制的に立ち上げられるというわけだな。神内氏はその中に組み込まれたプログラムとして正常動作する予定のようだが、……この俺は? どう見てもバグにしか思えん。なぜこんな状況になったんだ。いや、それは後回しで構わん。とにかく俺は……。神内氏に協力する約束をした。そうか。悪いのは俺だな。だが今更約束を反古にするわけにはいかないぞ。少し時間をくれ。いや、少しでは足りないな。俺のプログラムを教えてくれ。神内氏にバレないように、カンペ一枚にまとめてコッソリ渡せ。この散歩が終わってくれる前に!)
 願い空しく、商店街一周ツアーは終わろうとしていた。細い道の消失点には駅とロータリーが見え始めた。
「さて、準備しなくちゃ」
 サユリは道の真ん中で立ち止まった。
 背中のサックスケースを、ゴトリ、と道路に立てた。そのケースを、割れ物を扱うように静かに寝かせてから、両端の止め具をパチリ、パチリ、と外した。石碑のように重そうな上蓋が、バガン、と音を立てて開いた。サユリの肩越しにケースの中身を覗き込み、啓太はギョッとする。まわりの主婦や小学生も、歩きながら見ている。
 背後からクラクションが鳴らされた。駅のロータリーに戻って来るタクシーの列ができていた。啓太とサユリは、通行の邪魔になっていたようだ。――サユリは立ち上がった。その手に、三歳児ほどのボリュームを誇る銃を抱えて。
 タクシー運転手は、片手に缶コーヒーをすすり、もう片方の手でうるさそうに追い払う仕草。サバイバルゲームか、「発達の遅い少女」だとでも思っているんだろう。銃社会でない日本では、ほかに反応の仕方も無い。
 炸裂音が、商店街を揺るがした。
 時間が止まったように、道路は静かになった。タクシーのフロントガラスは、左半分がコナゴナに砕け落ち、残った右半分の向こうで運転手が硬直している。
(絵に描いたようなマヌケ面だな。だけど、気持ちは分かるぞっ。俺なんか腰が抜けたからな)
 と、心の中で呟き、サユリを見上げた。クラス会で真剣に議案を検討している時のような顔で立っていた。片手にサブマシンガンをぶら下げて。
「うわっ、うわああああ」
 運転手はタクシーから転がり出て、足が一本取れたバッタみたいに逃げて行った。定刻になると自動的に噴き上がる噴水のように、同時多発的に悲鳴の大合唱が起こった。買い物に集まっていた人たちが散った。
「さぁ、行こうか」
 サユリはスーパーに特売品を買いに行くような微笑みで囁いた。啓太はサックスケースを元通りに閉じ、ケースを杖の代わりにして立ち上がる。
「……どこへ行くんですか」
「松森君って、地理オンチ? ほら、見えるでしょ」
 サユリは銃を指示棒のように軽く振り上げ、道の奥を指すのだった。
 とうとう駅前に戻りつつあったが、サユリが何処を目指しているのかは未だに分からない。
 ここから見える景色というと……。
 金物屋。
 飲み屋。
 百円ショップ。
 ロータリー。
 駅ビル。
 ロータリーを挟んで駅の対面にある、銀行。
 背後霊のようにフラフラついて行った啓太は、
「準備はいい?」
 と訊かれる。
 赤い看板の下、サユリは銃を胸に抱き締めた。
「銀行強盗しましょ?」
 サユリは満点の答案を返される時のような顔で、啓太は赤点の答案を受け取りに行く時のような顔をして、立っていた。
 もはや、顔から不安が漏れているのを気にしている場合ではない。耳に入ってくるのは、B町の日常空間が激烈に崩壊していく音。
 よりによって、事件の中心に啓太は居た。
「ま、待ってください」
「待つ? なにをよ」
 言葉は出掛かっている。
「今ならまだ戻れます……。いや、既に撃ってしまいましたけど、今ならまだ器物損壊だけで……」
「何を言いたい? 早くお言いなさい。強盗なのに入口で立っているのはマヌケだわ」
 高校生の二人組が銀行に押し入るという状況の方が余程マヌケだぞ、と啓太は思った。「マヌケよねぇ、ふふふ」などと笑って、サユリが銃をしまってくれないだろうか。もはや、白状するしかなさそうだ。
「神内さん、ちょっと待ってください。銀行強盗に入るなんて、俺は聞いてないんですよ! これは何なんです!?」
 つるりと、
 サユリの顔が冷たい無表情で塗られた。
 啓太は、周りの騒がしさが遠ざかっていく感じがした。まるで、二人の立っている場所が、限りなくのっぺりと拡大したみたいに。
「ちょっと気がかりだったけど、まさか……。お前は、本当に、知らないの? 『今日、この銀行で、十億円奪わなければならない』ということを」
 サユリは、もう何秒になるだろう、まばたきしない目で啓太に接近する。ブレザーの肩から、光るモノが顔を出す。金ののべ棒みたいにまばゆい光を放つワッペン。アンナのPCに写った標章≠ニ同じモノだ。そして……。啓太の肩口にも標章≠ェ浮上してきた。
 額に固い銃口を押し当てられた。
 サユリの冷たい顔が言った。
「どうしてなの? お前はナカマじゃなかったの?? 私信を受け取ったはずでしょう。ナカマの危機だと。だから協力して乗り切るようにと。確認しなかったの? どうしてお前の体は、ワタシタチの意志を無視する行動を取るの?」
 なるほど。
 アンナの言葉が良く分かる。
 銃に気を付けろ、か。
 まさかなぁ、と呟く。アンナのフシギな話は、どうやら本当らしい。だが、どうすればいい? フシギめいているだけの問題ならまだしも、フシギそのものに対処するデータベースなど啓太の脳内には無かった。
「ナカマのくせに、働いてくれないとは思わなかった。悪夢を見ているようね」
 一層強く銃を押し付けられる。一層啓太は顔を歪める。悪夢というなら、こっちも同じだ。
(アンナは言っていたな。俺のことを「珍しい例」だと。そうじゃなけりゃ、俺は今頃、銀行に突入でもしていたのか。そっちの方が気楽だったかもな)
「揉めている場合じゃないわね。お前がナカマなのは確か。システムにアクシデントが起きたら、こちらで補完するまでだわ。お前には是が非でも手伝ってもらうからね……」
 サユリは心筋梗塞に襲われているような苦渋の表情を浮かべ、視点の定まらない目で吐露した。
「強盗の計画を把握できなかったことは、お詫びします。でも神内さん、もう一度考え直しませんか。その銃を何処で手に入れてきたのか知りませんが、それ以上ブッ放すのは止めて下さい。その方が絶対にあなたのためです。お願いです」
「フン……。本当につける薬がないのね。この男。いいこと、よくお聞き。そのお寺の鐘の中みたいな頭に情報を緊急輸送してあげるわ」
 サユリは鎮痛剤を打たれたみたいに、苦悶の中に微笑を織り混ぜる。
「何百発ブッ放そうがね、何百人ミートソース状になろうがね、そんなこと問題じゃないッ。イベントが成功するかどうかだけが、この時空間の法則を握っているのよ。わたしたちが十億円奪って店外に出れば、イベントは成功。強奪できなければ失敗。その時点で時空間の構成が枝分かれするの。世界はわたしたちを見ているわ。イベントが成功したら、世界は満足してくださる。イベントの遂行に伴う現場の乱れは修復され、何事もなく復元されるわ。だけどイベントが失敗に終わったら、世界はご不満になられる。わたしたちは見放されるわ。壊した物は復元されないし、死んだ人間は生き返らないし、わたしは逮捕される。……でも、そうなってしまったら、わたしには関係ないことね。栄耀の無い生活なんて、どれも所詮はゴミなんだから」
 サユリは悲しい笑顔を手でわしづかみにした。
「去年のことだったわ。世界からわたしにコンタクトがあったのは。今までの半端な生活と決別して、世界一の栄耀に浸ってみないか≠チて。栄耀の〆期に来るイベントを遂行することが、栄耀を前借りする条件。そして、引き続き栄耀を手にする条件でもあった。わたしは世界から栄耀を借り入れたわ。生きてるのがつまらない≠ニ感じながら生きていくだけの生活なんて、続けたくなかったもの。ええ、そうよ。わたしはイベントを成功させるわ。半端や、地味や、無力を思い知るだけの人生なんて、吐き気がするほど嫌。もう戻りたくない。きっとイベントを成功させるのよ。それしかないのよ。そしてもう一度契約を勝ち取るの。わたしは、引き続き、栄耀のもとへ……」
 サユリは涙声で独白し、顔を覆っている手を外した。
 強い決意で固まった瞳には、一パーセントの不純物も無い。
「なんてね! ハハハッ、そんなわけないでしょ? 鉄砲かかえてお涙頂戴も無いものよね。イベントの前から失敗すること考えてどうなるのよ。今は遂行あるのみ。成功あるのみ。そのためなら、お前を利用し尽くしてやる。さあ答えなさい。わたしのミッションを手伝う? 手伝わないなら邪魔。ここで殺して行くだけよ」
 サユリは啓太の眉間に銃口を向けている。好きな男に優しい言葉で振られた女みたいな顔をして。
「御免ですね。殺されるのは……」
 啓太は両手を上げた。
「家庭科室で俺が答えたこと、覚えていますか。協力しましょうと言ったはずです。非常時なので言っちまいますが、俺は安請け合いしたわけじゃありません。申し出たのがあなたでなかったら、やることの中身も知らずに頷くはずはなかったでしょうよ。ですから、あなたが犯罪者へと堕する顛末は極力回避したいと思っているんです。……信じていいんですね? 銀行強盗が成功したら、あなたは銀行強盗ではなくなるんですね? 本当に世界が復元とやらを施してくれるんでしょうね? だったら、それでいくしかない。銃を引いて下さい」
「……」
 長い無言の後、サユリは銃と一緒に回れ右をして、華奢な背中が語った。
「あなたの仕事は、現金の運び出し。わたしが銀行員の動きを止めるから、素早くやるのよ。世界に誓いなさい。イベントの成功を」
 サユリに続いて、啓太は銀行の自動ドアをくぐった。たぶんこの支店開設以来の、強盗の御入来だ。
(あれ、まてよ。ということは、俺も強盗の一人というわけか。なるほど、人が道を踏み外していくときというのは、こういうものか……)
「全員、動かないで!」
 サユリはカウンターの女性たちに銃口を向けた。
 そこで勝負はあったようなものだった。
「いらっしゃいませ」
 おとなしく手を上げてサユリを出迎えたのは、なんと、
 サユリであった。






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