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 左から右まで、サユリの顔をした職員しか居ない。奥に居るワイシャツ行員までも、首から上はサユリだ。白けた顔のコピーが、強盗コンビを見詰めている。
「う、うそ……。うそよ。騙されないわよ……!」
 何によってどのように騙されるのか不明だが、冷たい自分の顔に囲まれ、本人だけが動揺を隠せないでいるのは明らかだった。サユリは泣きそうな顔で銃口をフラつかせた。
「ご用件は何でしょう?」
 強盗に対して白々しく平常な振る舞いをしてくるあたり、平常ではない。
(こりゃ、どうなってんだ。……いや、こうなったら一切不問だな。手品だって見ている間はタネが分からんもんだしな。俺にしてみりゃ、神内氏が銃器を手にしている時点で、とっくに理解は諦めているんだ。とにかく俺達のためを思えば、やらなきゃならないことは一つ)
 店内に視線を巡らせ、中央奥に黒い金庫が居座っているのを発見する。
 サユリの首根っこを、若干強めに叩いた。
「しっかりしてください。イベントを忘れたんですか」
「ごめんなさい。でも、この人たち」
「情けない声を出さないで下さい。せっかくのH&K−MP5が泣きますよ。目をつぶって撃てばいいでしょう。ゲームだと思えばいい」
 啓太は自宅にストックしてあるガンアクションゲームを想起しつつ、言った。
 そうだ、もはやこれはゲームだ。そう思うしかないではないか。こんなバグだらけの構成物に取り囲まれてしまった以上は。
 そして、イベントを遂行すればこの狂ったゲームから出られるというなら、のんびりと銀行員からスマイルを向けられている場合か? ゲームをクリアしてみるほかないだろう。
「さあ、要求を突きつけてください」
 啓太の教唆により、サユリは落ち着いた。深く頷くと、自分の顔をした一人に狙いを定めた。
「お、お金を出しなさい! 現金で十億円。すぐに準備するのよ」
「はい、お客様」
 女性行員は一礼すると、
「申し訳ありません。お客様の要求に応えることはできかねます」
「なっ……! なぜなのよ……!」
 サユリは一分間の潜水を終えたみたいに思い切り息を吸い、
 トリガーを目いっぱいに引いた。
 行員は徐々に赤く染まっていき、しばらくして、パネルが倒れるみたいに倒れた。
 啓太にはサユリの中で「怖れ」のメーターが振り切れる「ばちん」という音が聞こえた気がした。もちろん、気のせいだと思うが。とにかく、サユリは生きながら死んでいるような顔色をして、よく磨かれたパワーストーンみたいな目で立っていた。
「出さないと死ぬぞ。死にたいんだな? よーし、よく分かったッ!!」
 隣の行員に狙いを定めたとき、行員は答えた。
「当行には、十億という大金はありません。小さな町の支店なのですから。今現在準備できる現金は、金庫とATMを合わせても三億程度にしかならないでしょう。それで良ければお渡しできます」
 言われてみれば納得できる理屈だ。本当は納得などしている場合ではなく、仲間が殺されても心拍数に変化すらなさそうな行員にツッコミでも入れた方がいいのだろう。が、ツッコミはもう飽きたし、今は一刻を争う。
「神内さん。どうします。受け取りますか?」
 啓太は確認のために横を向いた。
 サユリの顔は無かった。銃に寄り掛かるようにして、ぺしゃりと座り込んでいた。
「そんな……。嘘だわ。私信にはB町支店から十億を奪うこと≠ニ……。無かったら、奪えない。イベントが遂行できない。わたし、終わっちゃう……。栄耀が、逃げて行っちゃう……」
「神内さん? しっかりしてください。ある分だけ受け取りましょう。別の銀行で奪ったのを合わせるんです」
「だめ。それじゃだめ。私信の指示どおり遂行しないと、遂行したことにならない。失敗よ。わたしは失敗したのよ」
「落ち着いてください。失敗じゃないでしょう。どうやったら三億しかない銀行から十億奪えるんですか。このゲームがバグっているだけなんですよ。もう一度やってみましょう。リセットボタンは無いんですか?」
「はあ? おかしなこと言わないで。私信どおりにできなかったら失敗なのよ? わたしは失敗したのよ? もう、手遅れよ……」
「だから、その私信自体がですね……」
 平行線な話を続ける二人に、天井のスピーカーから機械的な声が降って来た。ATMからお金を取り忘れた時に反復されるような、耳障りな声だった。
 

  オワリ      
                閉店
     オワリ          
                   閉店
        オワリ          
                     閉
  店        
           オワリ          
  

 行員たちがお辞儀したかと思うと、
 いつからだろう。
 カウンターから向こうの景色が、映像に置き換わっていた。なぜなら、店内の模様を投影されたスクリーンが上がって行き、それに伴ってカウンターも金庫も店員も下の方から消失していったからだ。スクリーンが天井に吸われると、奥には何も無かった。
 啓太は気が付いた。サユリが自分にひしと寄り添っていることに。
「終わった。 ははは。 終わった」
 まのびした寝言みたいに、サユリは呟いた。
「イベント遂行、失敗、栄耀は奪い去られる、わたしが栄耀の中に居られるのは、今が最後、まだわたしは、かがやいているよね、まだわたしは、すばらしいよね、そうよね……」
「あの、神内さん、落ち着いてください。俺ならこっちです」
「ああ、そうなの? こっちね?」
 あらぬ方向を見ていたサユリは、やっと啓太に顔面を向ける。卒業式で証書をもらった後、壇上から講堂を見渡す瞬間みたいな、妙な郷愁が浮かんだ。サユリは、今まで発泡スチロールでできていた銃が急に鉄に置き換わったかのように、歯をくいしばって銃を持ち上げた。銃の重さでフラリとよろめきながら、なんとか立ち上がった。
 啓太は申し訳ない思いがした。なぜかというと、この一瞬の表情をするために生まれてきたような表情を、サユリが啓太に向けていたからだ。俺なんかがそんな目差しを享(う)けていいのだろうかと、戸惑わざるを得ない。そしてサユリは天から降る光のような声で言った。
「松森君。わたしを見てちょうだいね。まだ栄耀を取り上げられていない、わたしの姿を。今が最後だと思うから」
「どういう意味ですか」
 サユリは卒業式で挨拶する総代みたいな顔で、キッパリと言い切った。
「さよなら」
 その一言が最後。サユリがの体がぼんやりと金色に光り、輪郭がゆるんだ気がした。しゅばっ、と花火のような音がして、サユリの体から金色の光が発散した。昼間のような眩しさに啓太は目を閉じる。
 光が収まった時、生気の抜けた顔をしたサユリが、無感情な顔で横たわっていた。
 爬虫類みたいなスローなまばたきを繰り返している。サユリは起き上がった時、
 爬虫類みたいな金属的な眼光でニタリ笑った。
「神内さん、大丈夫ですか。今のは何です、か」
 落ち着いて訊いている暇も無い。うしろのATMコーナーから、脳みそにおろしがねを当てられるような不快な音が聞こえてきた。――ガシャ。ガシャ。ガシャン、シャン、シャン、シャン。振り向いたら、ATMコーナーが真っ黒い穴になっていた。穴はATMの数だけあり、入口で扇風機状の刃がくるくる回りだした。刃の回転音がくるくる≠ゥらゴオオン≠ニ言う圧倒的な響きに変わった。
 そして、床は、二人を乗せて動いていた。――回転刃が待ち構える、深い穴に向けて。
 サユリの銃が回転刃に捉えられる。
 ギュルルルルルルルルルゥゥゥゥ!
 銃身が粘土のように歪み、切り落とされていく。
「フハハハハッ、いいわ、やれえ、もっとやれ! ァハハハハハ!」
 サユリは初めておもちゃで遊ぶ子供みたいに楽しそうだ。巻き込まれているのに。啓太は青ざめた。
「離してください。吸われますよ!」
 全力で地面を蹴ると、文字通りサユリにアタックし、サユリの体ごと銃身から引き離した。
 次の瞬間、銃は粉末だしみたいに刻まれ、穴へと吸い込まれた。
「ん、何をするのよ、あなたは。このぉ、無礼者! もういい、向こうへ行ってなさい。あとで遊んでやるから」
「そっちはダメですって……! 気を確かに」
 穴に這って行こうとするサユリを抱え込み、なんとか動きを止める。
 そのとき、サユリの肩から標章≠ェ無くなっていることに気付いた。
 が、そんなことをのんびり思索している場合ではない。部屋の床は一秒たりとも止まる気配は無く、コンベアのように穴へと突き進んでいる。
「フハハハ。なによ、この子供だましな装置。プレート・テクトニクス? 今すぐゴミ箱に放り込んであげるわ。ァハハハハハハハハ」
「冷静に解説している場合ですか。いや、冷静でもないし、解説でもないか。逃げますよ。このままじゃあ、穴に突っ込んじまいます」
「ええい、邪魔よ! あんなもの、突っ込んだからどうだっていうの? 見本を見せてやるわ」
「ちょっ、一体どうしたんです!? 穴に入ったら死んじまうでしょうが。分からないんですか? くそ、立ってください、早く、肩貸しますから! とりあえず、床に逆らって走るしかありませんね」
 このセリフの後半には、すでに啓太はサユリを抱き起こし、強制トレーニングルーム化した部屋の中で激走を始めていた。
(いつまで走ればいいんだ? このコンベア状態が永遠に続くんじゃないだろうな)
 そんな考えが回転灯のように去来する。
(何が起こっても、もはや驚かんさ。どうやら俺たちは、そういう時空間に居るらしい。くそお。冗談じゃないぞ。なぜ普通の市民に過ぎない俺達が、こんなスタントシーンの撮影みたいな場面に投げ出されなくてはいかんのだ。ストレスかどうか知らんが、神内さんは妄想でも見てるみたいになっちまうし。マッドな神内さんも意外に刺激的だが……。ま、何をやっても絵になる人ではあるしな。とにかくなあ、世界の仕業だろうと何だろうと、やっていいことと悪いことがあるだろう。この危機から脱出したら、文句を付けに行ってやりたいぞ、世界とやらにな。で、この世界の何処に行ったらいいんだ? 世界とやらに文句を言うためには)
 走りながら考える。
 どうしたらこの時空間から脱出できるのか。
 なぜかすぐに浮かんだのは、アンナの一言だった。
 
 ――どーにもならんもんはならん。
 
(畜生、どうにかしてくれ! このままだとバテるだろうが。俺はまだいい。せめて神内さんを先に脱出させろ)
 中学のバスケ部時代を思い出すぐらい久々に走っている。顔じゅうが冷や汗や脂汗で湿ってきた。が、バテるわけにはいかない。サユリのためにも。
 しかしサユリときたら、恋人と浜辺で追っ掛けっこ中のような嬉々とした顔をして、汗の一粒も浮かべていないのだから不思議だ。というより異常である。
 いっそ、このシチュエーションが本当に浜辺だったら良かったのに。
「ようし、そろそろ止まりなさい」
「疲れてるようには見えませんけどね。むしろ俺の方が――」
「そうじゃないわ。あなたは分からないの?」
 サユリは夜空の星でも見ているような目で、進行方向を指差した。
 啓太はサユリを眺めて走っていたので、側頭部をフライパンで叩かれたような衝撃を味わった。じつは床の動きは既に止まっていた。啓太は気がつかないまま走り、壁に頭を強打してしまった。
 息苦しいやら、頭が痛いやら、恥ずかしいやら。サユリの狂気じみたエンドレスな笑いがやわらかく包んでくれる。
「永遠に続くかと思ったら、急に止まってくれたな。どういうつもりだ?」
 啓太は苛立ちに任せて壁に拳骨をお見舞いした。
 だが、拳骨は空振りに終わった。
 壁が、無い。
 無くなっている。
 いや、百メートルほど先にあった。――そう思った時には、もっと遠ざかり、
 今は三百メートルぐらい先にある。
 信じられない。
 部屋が、伸びている。
 後ろは? 変わっていない。拷問扇風機みたいな悪趣味な仕掛けは、駆動を続けている。
 部屋は前方にだけ伸びて行っているらしい。
 その分、横幅は随分狭くなった。縦に伸ばされた分、横は縮んだということか。
 まるで、この場所から始まった地下鉄工事を早回しで見ているかのようだった。部屋は長々と何処まで延びて行ったのか……。今はもう寒々しいトンネルに成り変わっていた。
 ジャキンという音が二回走った。
 そう。
 足元に、電車のレールが敷かれていた。まごうかたなき鉄製のレール。
 それは、トンネルの奥から延びて来ているものだった。
 この際、レール自体には突っ込まない。それより気になることがある。今ここに電車が来たら二人とも逃げ場が無いことだ。普通に考えれば、電車が来る必然性など無いはずだが、ここは普通の空間ではない。
 カン、カン、カン、カン、カン、カン。
 どこからともなく、踏切の音が響いてきた。
 カン、カン、カン、カン、カン、カン、カン、カン、カン、カン。
 
 トンネルの消失点に、小さなライトが、ともった。
 
 カン、カン、
 ゆら、ゆら、
 カン、カン、
 ゆら、ゆら、ゆら、
 カン、カン。
 かげろうのようなライトが、大きくなってきている気がする。
「まずいな。出ましょう」
 啓太はサユリの手を引き、店の入口へ急いだ。すぐそこの入口まで行くのに、どうしてレールを跨がなければいけないのか、冷静に考えると混乱してきたので今後一切考えない。
 入口のガラス扉を押してもビクともしない。外にあるはずのロータリーの景色は無く、脱脂綿のような白一色の霧が立ち込めていた。このさい、気にはするまい。とにかく今は外に出ることが先決だ。扉の下部にサムターン式の鍵があった。これをひねれば、扉は開くだろう。啓太はしゃがみ込み、鍵に指をかけた。
 サユリもしゃがみ込み、啓太の手首を握った。
「 何 を す る っ ? 」
「決まってるでしょう。出るんです。外に」
 アオダイショウみたいに無機質な、サユリの目。
 その背後には、ダイバーに悟られずに距離を詰めてきたホオジロザメのように、ありありと電車が見えてきた。
 前からは電車。
 後ろには拷問扇風機。
 すり抜けられる隙間は……見るからに無い!
 電車がレールを踏みつける音がトンネル内で反響を繰り返し、乱暴な音の塊となって迫る。レーザー光線のようなライトが二人に浴びせられる。サユリは細い指先に力を込める。
「ダメよ? ここに居なきゃ。出たら死ぬから。ネ?」
「電車が見えないんですか?」
「わたしたちは死なないわ。死なないわよ。死なないの。鍵を開けたらダメ。絶対ダメ!」
 目は笑わず、目のまわりの肉だけが笑った。
 啓太は、真夏の砂漠で雪崩に襲われるような、現実離れした恐怖を感じた。
「そんなわけないでしょう。開けますよ?」
 啓太はツマミを捻ろうとして、手先に力を込める。
 それよりも強い力でサユリは啓太の手を引き離した。そして勢い良く啓太を押し倒した。これが放課後の教室などで正気なサユリによって行われたら、啓太は良い意味で気が遠くなったかもしれない。
 啓太の首に、パン生地でも捏ねるように、容赦なくサユリの指が食い込む。
「開けられるくらいなら、殺すしかないわね……。ナカマに裏切られたら、世界に顔向けできないわ。もう死んでちょうだい。お前の役目は終わった」
「どういうわけです」……。そう発音しようとしたが、声が一粒も出ない。窒息中。
 サユリの表情は、鉄の塊が人間の皮をかぶっているみたいに迷いが無かった。怒りに血走っている目でもなく、緊張に青ざめている目でもない。水晶玉みたいに深く澄き通って、まるで自然物のようだった。
 これは、格闘技の試合か何かのイベントなのだろうか。だったらレフェリーは何処にいるのだろう。そろそろマジに殺されそうな気がしてきた。タップしてみる。しかし、力を抜いてはくれない。気が遠くなる。
 再確認せざるを得ない。
 普通の世界の素晴らしさを。
 密室で電車に轢かれるか、さもなくば同じクラスの美少女に殺されるか、二つに一つ。なんて悪意ある法則に支配された世界だ。
 世にゴマンと居る妄想気質の人間に「あなたの妄想世界を記述しなさい」という課題を出したら、相当数の人間が、怖くも美しくも楽しくもない、自分専用の辞書めいた独りよがりな世界を描写することだろうが、そんな悪夢とも言えないグダグダな世界で、殺されかけているとは。まったく悪夢である。
「ふざけないでください! お願いですから!」
 と叫び、肺に僅か残っていた酸素も出てしまう。意識が遠くなっていった。
 啓太は力を振り絞り、肩関節が故障してプロ野球選手への道が閉ざされても構わないくらいに全力で腕を伸ばした。それは自分にできる最後の行動だった。これが取ってはいけないアクト≠ナあるわけがない。指先が鍵に触り、……もうひと伸び、親指に鍵が届く。
「……させないわ」
 ビニールプールから空気を押し出すように、サユリは体重を載せてきた。啓太は指から力が抜けた。鍵が、手から、離れた。 
 その時、
 何かが二人の上空を通り抜けた。
 疾風のように速くて勢いある、何か。
 
 
 バツン
 
 
 という音がして、電車のヘッドライトに突き刺さったのは、一本の矢であった。
 信じ難いことに、その矢によって、啓太のまわりの信じ難い世界は変貌した。
 カチッ――押し込みボタンを押し込むような音がした。 
 突進して来た電車は、速度をそのままに、光の帯となって分散し、あっというまに二人を通過して行った。 
 光が去ったあとは、しいんと静まり返り、真っ黒で何も無い世界が二人を包んでいた。
「な、なに? なによこれ? なにが起きたの?」 
 サユリは驚いて力を緩めた。
 黒い世界は霧のように細かい粒になり、古い塗料がはげ落ちるように、パラパラと消えていった。
 はげ落ちた隙間からは、別世界の景色が、騒音の洪水とともに入り込んできた。
 それは、普通の駅前のロータリーや商店街があり、普通の踏切がけたたましく鳴っている、普通の世界の景色だった。
 携帯の時計を見た。
 18時31分。銀行に強盗に入った時刻と同じだった。 
 二人は何事もなかったかのように、駅前踏切の遮断機の前に立っていた。
 銀行を振り返ってみたら、強盗に入られた形跡はなく、ATMコーナーに暗い明かりがともっていた。
 二人は完全に夕方の雑踏の中に紛れ込んでいた。
 まるで、「あの銀行強盗ゲームはナシ。つまらなかったから」というダメ出しでも入ったかのように。
 そんなダメ出しができそうな奴の見当をつけてみる。少なくとも、知っている人間の中には居ない。近隣世界を力技で作り変える事業を一瞬で成し遂げてしまう存在が居るなら、普通はそういう奴のことを神と呼ぶ。神という、便利だが漠然とした概念を拒否するなら、アンナやサユリが言っている概念を当て填めることもできる。
 世界≠ノよるイタズラだ、と。
 携帯が振動してハッとする。ズボンのポケットの中。ディスプレイにアンナの名を見て、なぜかホッとする。心の中にドシリと重石が置かれ、不安がシャットアウトされる感じがした。あの矢を打ったのはアンナに間違いないと直感した。そう考えるとなぜホッとするのかは、分からなかったが。遮断機のカンカン音を背に受け、電話を耳にくっつける。
「――無事か? ――」
「ばかやろう……。三文字じゃ分からねえぞ。矢を射ったのはあんたか」
「――そうだ。ちょっと離れた所に居るので、今から急いで行く。それまで、神内サユリに注意していること。まだ危機は去っていない――」
 切るぞの一言もなく、電話はブツリと切れた。待受画面に戻ったディスプレイを確認し、携帯をズボンのポケットにしまっていたら、
 ふらりと、サユリが前に出た。
「そんな。そんなバカな。おかしいよ……」
 急性アル中みたいに、地べたに四肢をつく。
「おかしいよ。どうしてわたしは戻って来てしまったの? 何もしてないのに。わたし、世界に何もしていない」
 機械で合成されたような低音だった。 
 びっくりした啓太は、サユリに手を伸ばし損ねた。
 その一瞬、サユリは猛然と駆け出していた。
 二秒もあれば、レール上に到達するほどの速さで。
「かみう
 ――
 
 
 轟音とともに、急行列車がレールを踏み付けて通過する。
 列車の胴体に書かれた車両番号を読み取る訓練ができるんじゃないかというくらい、時間が長く感じる。それなのに、まもなく列車は走り去ってしまうことが分かっていて、レールの上に血みどろに広がる神内サユリの残骸を見るのも分かっていて、俺が神内さんの代わりになりたかったと一瞬本気で思った……。
 

 電車の通過後は、何も残っていなかった。
 遮断機のわきでざわめきが起こり、ふたりの人間が折り重なっているのが見えた。
 うつぶせに倒れているサユリと、サユリを抱きかかえている少年だった。
 少年はマジックミラータイプのゴーグルを外した。見覚えのある顔だった。昨日の早朝、啓太に絡んだ時と同じ、高圧的な態度で言い捨てた。
「言ったはずだがな。神内サユリには近付くなと。だが愚鈍なお前達のこと、イベントへと収束していく流れから脱出できないことは百も承知している。俺達の手を毎回わずらわせやがる」
 少年はフィッシンググローブのように指先を露出するタイプの手袋を装着している。
「心配無いから消えな! 見世物じゃねえんだよ。集まって来んな!」
 少年は自分の髪のようにとげとげしい口調で人払いする。気絶しているサユリの傍でしゃがみ、医師よろしく顔や体を撫で回す。
「ほっぺたに擦過傷あり。標章≠ヘ消失か。いや……」
 少年がサユリの体をマットレスみたいに無神経にいじくるのを見て、怒りがふつふつ込み上げた。もう十秒もお医者さんごっこをやられたら、啓太は少年にストリートファイトを申し込んでいただろう。
「ここは好奇の目がありすぎる。植え込みの裏のベンチまで運ぶ」
 少年はサユリを担ぎ上げた。
 サユリをベンチに落ち着かせた時、少年と同じようにゴーグルや手袋を装着した少女が、息を切らして合流した。私服姿でもアンナだと分かるのは、きっとチビだからだ。
「55点だな」
 少年は言った。どうもこの男、いちいち声が大きい。偉そうな態度と相まってウザさ倍増であるが、本人の開き直り感が手伝い、もはや浮いている。
(教室では友達が居なそうなタイプだな。この男)
 啓太の傍らで、アンナはゴーグルを上げる。
「納屋(なや)。来てたのかよ」
「火曜日に問題文が送られてるくせに、ぎりぎりまでバタバタしやがって。いつになったらオツムが足りるんだよ。俺なら一日で解ける問題だったぞ」
「だけど、矢を射ったのはアタシだぞ」
「部下が肉体労働や汚れ仕事をやるのは当然だろ。経験を積まなきゃな。俺の役目は、無能な部下の監督」
「いつもアタシは肉体労働とか汚れ仕事なんだろ」
「お前はそれしか能がねえだろうが。今回の仕事なんか、まるっきり運任せ。危機管理がなっちゃいねえ。俺が助けに入らなきゃ、神内サユリは電車に潰されていたところだ。射出場所のポジショニングも甘いし、ポジションを割り出すのだって何日かかってるんだよ。たまに問題を解かせてみりゃ、コレだからな! いったい仕事やる気あんのか? もっと気合いを入れろや」
 少年は置物でも扱うようにアンナの肩を叩き、アンナの顔も見ずに立ち去った。
 アンナは大きく息を吸い込み、
「ああああああああ、ちくしょー。頭にくるううううう」
 水風呂にでも飛び込んだみたいな苦悶の顔で、わしゃわしゃと頭をかきむしった。なので、アンナの髪型は本当にアレチウリみたいにボサボサになった。
 啓太は疲れた息を吐き、髪をいじりながら訊いた。
「おい。何やらエキサイトしているようだが、俺がとるべきリアクションを教えてくれないか」
 アンナは仏頂面で振り向いた。
 仏頂面のまま、顔が赤くなった。
「え、えっと、あの〜、そうだな、とりあえず生きてて良かったな。信じられんかもしれないが、オマイたちを助けたのはアタシでだな、その〜全然助けたように見えないかもしれないが、アタシはとにかく、その、あの、お帰りってことでな」
 アンナは無理矢理啓太の手をつかみ、投票日前日の議員候補のように全力でぶんぶん振った。セリフが投げやりな割には、顔面がものすごく言葉どおり嬉しそうだったので、そのギャップが和んだ。
 啓太は興味なげな顔をみせて、訊いた。
「ここのベンチであんたが言ってた、世界がどうたらいうイベントは終わったのか? 俺はもう銃に気を付けなくてもいいのかい」
「む、たぶんな……。納屋(なや)も帰ったことから見て、場≠ヘ安定したと思うがな」
 アンナはいつもの半分ほど自信が足りない調子で呟いた。
 納屋というのは、あの高圧的な上級生だろうか? 謎メールから始まり、不明瞭な事項は増えるばかりである。
 しかし、いちいち問い質す気にならないのは意外だった。
 啓太の結論としては、とりあえず無事だったからいいだろう、というものであった。身の回りにバラ撒かれている謎は多いが、謎はスパイスとなって、無事に生き残ったことを引き立ててくれていた。
 アンナは、ベンチで眠っているサユリに目を配り、すまなそうに言った。
「そのな、色々もやもやしてるところがあると思う。操り人形状態の神内サユリとは違って、オマイはキー人間のくせに正気があった。余計な情報を与えると、イベントを大幅に撹乱される可能性があった。アタシたちの組織は、イベントが予測の範囲を出てしまうと無力だ。早い話が、あの矢を射てなくなっちまう危険があったわけな。オマイを困らせようとして黙ってたわけじゃないぞ」
「よく分からんぞ」
「それは分かってる。勝手におかしな事件に巻き込まれ、勝手におかしな事件が解決しちまって、寝覚めがいいわけないものな。だからな、オマイがもやもやしているところを、全部アタシにぶつけていいぞ。イベントは過ぎ去ったから、今なら答えても問題ない。オマイが信じるかどうか分からんけど、アタシには説明義務がある」
「やめとこう。謎が多すぎて、長くなりそうだ」
「そ、そうか……」
 アンナは、おもちゃ屋のショーケースに何十年も陳列されている人形みたいに無言になった。
「ただ、今は他に確認したいことがある」
「なんだ!?」
 啓太の背骨がぴんと反ったくらい、アンナは素早く至近距離に詰め寄った。
「たぶん、こういう構図なんだな? そのむかし流行った、いわゆるセカイ系というやつだろう。世界に関わるイベントに唐突に巻き込まれる人間が居て、巻き込まれた人間を助ける人間が居る。前者が俺、後者があんた。そうだろ?」
「う、うむ。そうなんだ。オマイは分析能に長けているな。しかし改めて訊くが、オマイはそんな設定を信じるのか? 信じられるのか?」
「その点の分析能には自信が無いので、放棄させてもらいたいな」
 いつもとちがう感じを啓太は覚えていた。体じゅうの皮膚の内側が、ちょっと火照っているようで、心地よかった。
(今日この駅に着いた時、俺は、「帰りに駅の階段を登っている頃には……」と思っていた。フライングになっちまうようだな。まあ構わないだろう)
「今回のイベントは予期せぬものだったが、俺はこうして生きていることだし、今現在の気持ちとしては、結構楽しめたと思っている。あんたはどうだ? こういう、お仕事だか何だか知らんが、やってて楽しいもんなのか?」
「何を馬鹿を抜かす。楽しいわけないだろうよ。あたしが組織に入ってるのは、組織から衣食住の世話を受けているからなでな。組織から抜けたら、毎日教室じゃなく橋の下で暮らさにゃならんだろ。組織の仕事は、義務でやってるだけだぞ。いつも納屋に嫌味言われながらな。今までの仕事で、楽しかったことなんて皆無だ」
 アンナはふてくされた顔で啓太を睨み付けた。
 やがて、表情から全緊張を解除した。
「今までの仕事は、な」
「そうか」
 啓太は思わず訊いた。
「……なあ、アレチウリって知ってるか?」
「んにゃ、知らんけど、そりゃなんよ?」
「ちょうど今頃の時期に生える植物でな。グロテスクな実がなるんだ。こんど見てみるといいぞ。ピンク一色の桜なんか見るより、心に突き刺さるようなインパクトが残るからな。秋のトリを務める雑草と言ってもいいだろう。……全然、関係無い話だがな」
「オマイ、おかしい奴だなぁ」
 アンナはクスクスと笑った。
 どうもぎこちないのは、笑いつけていないせいだろう。
 ベンチへ歩いて行き、サユリを見守りながら、
「キー人間が知人というケースは、今回が初めてぞ。救出できて幸いと言うべきだろうよ。同級生が死んだら、後味悪いものな。しかし、神内サユリにとっては、幸いと言えるものか」
「どういうことだよ」
「世界はな、キー人間にイベント仕立ての債務を負わせる。たとえば、今回の銀行強盗みたいにな。だが、世界の債務ちゅうんは、往々にして法外なものだ。とうてい一人のキー人間がクリアできるイベントじゃない。現実の金融でいったら、自己破産間違い無しレベルだ。が、世界は自己破産を認めてない。取れるものは取っていく。イベントをクリアできないキー人間には、最低でも死。アタシたちの組織は、そういう世界の横暴からキー人間を救っている。だが、本当に救っているのかどうかは、分からん」
 アンナは額の上でゴーグルの位置を直す。
「オマイは、キー人間として例外だ。標章があるのに、正気もある。だから、オマイはいい。だが、神内サユリ始め、ほとんどのキー人間は、世界の意図どおりの動きをする自動人形だ。世界に操られることが快感≠チていう、トランス状態なんだ。理性のない酔っ払いとおんなじぞ。だから、キー人間にとっちゃ、世界から潰されることになっても、それは幸せなんじゃないのか……?」
 啓太は、銀行から出たがらなかったサユリを思い出した。
 サユリが自分から踏切に飛び込んだことも。
「アタシと納屋は、世界のイベントから神内サユリを防衛した。今はもう、この女はキー人間ではなくなった。だが、この女を包んでいた幸福感も無くなった。目覚めた時、途方にくれないといいがな。0から幸福を探していくのは、つらいぞ」
 アンナは、ずうっとサユリの寝顔を見ていた。
 いつも教室でしているのと同じ、翳のある顔だった。

 





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