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【プラタナス色コーヒー】


『将来の夢』

「閃輝暗点」は、一時的ないし慢性的な脳の血流異常による症状です。一種の幻覚のような症状です。インターネットによると、黒っぽくてノコギリの刃のようなギザギザした図形がチカチカ光って見えるそうです。暗いネオンのように光るこの図形は、視野の大部分を占領することもあります。芥川龍之介という作家も閃輝暗点に悩まされていたらしく、『歯車』という小説の中でこの症状を描写しているそうです。このノコギリないし歯車のような図形は拡大しながら視野の外側へ向けて移動し、数十分で消えるとのことです。でも、目のピントが合う部分で図形がチカチカしているため、読書や運転といった作業は全くできないらしい。症状が収まるまで安静にしているしかないらしい。だけど他の人には暗点が見えているわけではないので、「ズル休みしている」と思われるみたいです。
 中学三年の時、私は、蝿が見えました。母におつかいを頼まれた時のことだったのですが、八百屋に行ったら店先のカゴに積まれている野菜が黒かったんです。みんな真っ黒でした。私が近付くと、黒い野菜は普通のトマトとかトウモロコシになりました。たかっていた蝿が、私に気が付いて飛んだからです。でもまたすぐにたかってしまいました。私はこんな八百屋では買えないと思い、別のスーパーに行くことにしました。そしたら、スーパーでも、蝿が飛び回っていました。一匹や二匹ならいいのですが、千匹とか一万匹とかです。みんなよく平気で買い物しているなあと思いました。
 蝿は、その夜も現れました。私が夜中にトイレに起きようとしたら、部屋のドアが開かなくなっていたんです。カギ付きのドアでもないのに、開きませんでした。私は困ってしまいました。それでふと天井を見たら、お相撲さんのお腹ぐらいあろうかという巨大な蝿が、そこにへばりついていたんです。巨大蝿の化物は、私に向かってボトリと落下してきました。そして私に抱き付きました。あの六本足の感触は、今でも忘れません。しかし、そんなことよりもっとビックリしたことがあります。蝿の眼って、複眼っていうやつですよね? 一つの目に見えて、じつはたくさんの小さい眼が集まっているのですが……。
 その眼の一つ一つが、人間の顔だったんです。
 私は逃げようとして窓を開けました。動転していたんだと思います。だって部屋は団地の八階なんですから。そして、窓を開けたら、もっと怖ろしいことになっていて……。部屋が千メートルぐらいの上空に浮かんでいたのです。
 私の部屋だけが、です。七階から下は、見当たりませんでした。
 ものすごい風が吹いて、部屋はぐらぐら揺れていました。ちっぽけな夜景が、部屋の真下に見えました。A市の夜景でした。ちょこんと突き出ているのは、市内で一番高いセントラルタワー≠ナしょう。真っ黒い山に囲まれて、盆地になっているのがきれいに分かりました。私は夜景どころじゃありません。嵐の中の舟みたいに、浮いている部屋はあちらこちらに傾きます。窓から落とされないよう、勉強机にしがみついていました。蝿の化物も私にしがみついていました。そして、喋りました。私に喋りました。それが何というか、もう、蝿が喋っているとしか言い表せない声でした。
 今スグ死ニタキャ飛ビ降リロ。死ニタクナケレバソウ言エ。
 と……。
 私は、蝿に取り憑かれることになりました。
 
 
 何だあ、こりゃ。
 俺はその女生徒の作文を見て、極めて月並な一言をこぼすことしかできなかった。
 理解しにくいものに遭遇したら、まず一服。俺は教務机の引き出しに手を掛け、煙草を取ろうとしそうになった。
 だが、今はまだ夕方か。ほかの先生方が帰っていないんじゃ、この場で大っぴらにというわけにもいかんな。現代では愛煙家は肩身が狭い。有形無形の圧力によって自動的に煙草代が節約できてしまうほどにね。まったく、この俺がどのくらい煙草を愛しているかを知らねえな。
 それにしても、この作文は何だ。俺はどういう角度からツッコミを入れるべきなんだ?
 まず、このタイトル指定作文・「将来の夢」だが、これは学年主任のおふれにより、クラスの全生徒に書かせたものである。学年主任の宣(のたま)うには、「生徒には入学当初より職業意識を養わせ、云々」。んなわけで俺も、うちのクラスの生徒達に面白くもない作文を書かせ、提出させた。それが春先のことだ。
 植物が葉っぱへの栄養供給を遮断し始める時期に、俺がなぜ春先の作文を読んでいるかというと、もちろん俺の担任としてのやる気がゼロであるためだ。読むのはおろか、作文の存在さえ完全に忘れていた。だが今になって、ある後ろ向きな事情により、作文は初めて日の目というか俺の目を見ることになった。
 秋というのは年度の折り返しの時期である。担任を持っている教師がこの時期やることの一つに、生徒の欠席計算がある。要は、出席簿を見て学校を休み過ぎている生徒を見付け、「このペースで休むと危ないぞ」と通達するわけだ。
 俺のクラスは初々しい(?)一年生であるから、留年しそうな奴はまず出ないだろうと思っていたのだが、これが残念、危ない奴がいたのさ。美奈・コイヴネンという女子生徒なんだが、目立つ名前の割には記憶があまり無い。まあそれももっともで、留年危機にある生徒が俺の印象に残るほど学校に来ているわけもない。
 で、俺はこう考えた。呼び出すなり電話するなりして本人に危機的状況を通知する前に、美奈・コイヴネンがどういう生徒なのかを覗き見してみようと。そうか、春先に書かせた作文があったじゃないかと。
「女検事になりたいです」なんていう大それた将来像を描いていたら、現状とのギャップを嘲笑ってやろう。「私は心が弱いので将来に自信が持てません」なんて書いていたら、その通りだなと笑ってやろう。教師の毎日のルーチンワークにも飽き、日ごとに心の無感覚化が進んでいる俺は、そんな心にもみずみずしく沁み渡る愉快な刺激を求めていた。人が不幸かどうかなどはどうでもよく、自分が笑えさえすれば構わなかった。とまあ、そんな下世話な意図を秘めて美奈・コイヴネンの作文に手を出したのである。
 結果、俺の期待は脆くも崩れ去った。
 閃輝暗点?
 空中に浮く部屋?
 蝿の化け物?
 わけがわからん……。
 最初、医学的な話で始まっただろう。だから、「医者になりたい」という方向に持って行くんだなと俺は予想していた。
 野菜に蝿が群がっていたというあたりで、「公衆衛生関連の仕事でもしたいのかな?」と思い始めた。
 だが、高度千メートルに浮く部屋と蝿の化け物のくだりに来て、さすがの意地悪い俺も追及を諦めた。これは作文としては0点だよ。「私の将来」というタイトルなのに、将来のことが何も書かれていない。内容ときたら夢のように支離滅裂。俺は、顔も知らない美奈・コイヴネンという生徒が「バカね。まんまと最後まで読んじゃって」と俺を嗤っている気がした。
 それなら、まだいい。いや、良くはないし悔しいのだが、俺をからかうような作文を意図的に書いたというなら、ある意味安心できる。
 しかし、美奈・コイヴネンが額に汗して一生懸命この作文を書いたにもかかわらず俺の予想の上を行ってしまったのであれば、非常に危険な事態と言わざるを得まい。つまり……。
 素でこんな作文を書いちまうとしたら、美奈・コイヴネンは間違いなくここの病気だ。至急治療の必要がある。
 自分の頭を指でつつきながら、俺は怪作文との睨めっこを再開した。
 すると、原稿用紙を睨むもう一つの視線を感じた。
「オウ、『将来の夢』。生徒の作文ですね? 夢と希望に溢れていますか?」
 俺の隣に机を並べる社会科教師・アダム氏である。いつのまにか俺の背後から覗いている。香水くせえな、この白人は。
「なんだ、アダムちゃんか。いつもながら喋る時の距離が近いぞ」
「ハハ、ソーリー。柴山先生が机で仕事してるの珍しいからね。興味湧きました。今日も無精ひげが似合いますね」
 無精ひげなのに、似合うも何もあるか。やつはソーリーと言いながらも、俺の背中にネクタイが乗っかるぐらいにまで接近してくる。
 氏のアメリカ仕込みのなれなれしさには定評があるが、コミカルさとフレンドリーさにも定評があり、時には博識な一面も覗かせる。職員室での評判は総じて良い。俺は好きでも嫌いでもないがね。
「オウ、ミーナ・Koivunen? それ彼女の作文なりか? 彼女の将来の夢は何です?」
「それがさっぱり要領を得なくてねえ。……あれ? アダムちゃん、この生徒のこと知ってるのかい」
「イエス。彼女の父親フィンランドの人。彼女はスオミ語も日本語もOK、英語もちょっと話せます。ワタシ、授業前の休み時間とか、喋ったことありけるよ」
「どういう生徒です?」
 アダム氏はブルーの目を真ん丸くした。担任から訊かれるとは思わなかったんだろうね。
「そうね、べつに、普通の生徒よ。とてもいい子ですね。柴山先生、彼女がどうかしたの?」
 普通の生徒、ねえ。それがこんな作文を書くのか? アメリカ流の社交辞令だろうな。俺は、図々しげに作文を読もうとしてくるブルーの瞳を遮るように、原稿用紙を閉じた。そして、一年一組の作文の束を、机の下段に押し込んだ。代わりに上段からは煙草を取り、胸ポケットに忍ばせた。ちょうど授業が終わった頃だ。一服吸いがてら、クラスを見て来るか。美奈……何だっけ。とにかく、問題の女子生徒が登校しているとは思えないけどね。
 
                    Ψ
 
 その予測も、あっけなく外れた。
 重厚なブラックネイビーの冬服に変わったばかりの生徒たちとすれ違いながら、俺は奴らを散りゆく落ち葉などに見立て、深まりゆく秋への慕情を募らせ……ることなどない。まあ、一年中適当なワイシャツの着たきり雀である自分を若干情けなく感じはしたがな。しかし俺の不精なところは改善の見込みが無いんで、この際いいだろう。いつものように男子生徒の「あのアニメの二期見た?」という質問や女子生徒の「先生彼女できた〜?」という質問を「早く帰れよー」の一言であしらい、俺は落ち葉の流れてくる川を遡上して行った。
 するとまさに今、一組の教室から美奈ナントカその人が出て来たところであった。なぜ分かるか? そりゃ分かるよ。一足早く冬空を持って来たみたいな灰色の瞳に、一発で純日本産じゃないと断定できるアイボリーの長髪を見ればな。おまけに、手ぶらだしね。学校には顔を出しただけ、というのが丸分かりだ。俺は呼び掛けようとした。おっと、名前は何だったかな。美奈……。美奈……。忘れちまってる。呼び捨てるか。
「おーい。美奈」
 グレーと白の対照がハッキリした目玉が、静かにこっちを向いた。俺は柄にもなく緊張を覚えた。アダムもそうだったが、どうも外人の顔ってのは慣れるまで時間が掛かる。美奈の方も不審げだ。そりゃ、いきなり名前で呼ばれたらな。
「美奈……。でいいんだよな?」
「そうですけど」
「あー、俺は担任だが」
「はい。知ってます」
 まるで漫才みたいなやり取りだな。ま、担任だと認識していてくれて助かった。
「あっ、お前……」
「何ですか?」
「ああ、いや、何だったかな……。忘れちまった」
 ことにしたが、じつは口に出掛けたセリフを思いとどまったのが真相だった。というのは、失礼ながら、俺は目の前に居る女子高生の顔面に驚いてしまったのである。いくら目元・口元・鼻の下あたりに深々とした皺が何本も走っているとしても、十六歳の女の子に正面から指摘するわけにはいかない。下衆(げす)を自認する俺だって、俺の生活環境をなるべく良好に保つための、「礼儀」という処世術くらい弁えているつもりである。
 しかし、生まれたその日から現在まで一日二十時間も奴隷的重労働に従事してきたかのごとき老け込み具合だな。日本とフィンランドの合作たる薄ピンクめいた肌といい、マネキンみたいにゆとりをもって服を着れる良好なスタイルといい、申し分ないんだがね。顔を見れば一気に四十代のオバサンというスプラッタ。いや、仮にも受け持ちの生徒に対してスプラッタは言い過ぎだな。しかしなあ、外人は老けるのが早いという風説はあれど、ちょっと早過ぎじゃないか。……そういう諸々の疑念と興味に満ちた目で見られるのに慣れているんだろうか。美奈は無言で横を通り過ぎた。
「用が無ければ失礼します。急いでいるので」
 そこでやっと俺は教師のつまらん自覚を取り戻した。
「どこへ急いでいる? 学校に出ないで行く必要がある所なのか?」
 美奈は立ち止まる。素人が初めて硬球で投げてみたカーブのようにナチュラルな線を描いている長髪が、背中で軽く弾む。
 彼女が振り返ると、粉チーズみたいな薄色をした長髪は、魔法に掛けられて柔らかくなった剣の束のようにまとめてなびいた。
「学校は来てるじゃないですか」
「今日のことじゃない。いつもの話だ。出席簿見せてもらった。このままのペースだとお前は危ないぞ」
「そうですね。危ないです」
 美奈はお空の雲行きでも案じているみたいに、そっぽを向いて答えた。
 まるで他人事である。
 ひょっとして、既に四年計画での卒業を考えているのか?
 それはいかん。高校を留年込みで出ることがどうして悪いのか知らないが、われわれ教師の通説では悪いことになっているから、俺は四年計画を考え直すよう指導しなければならない。チッ、面倒臭いですねぇ。それに、お説教くさいのはどうも嫌いなんだよなぁ。俺は人に説教できるような人生を送ってきちゃあいない。教師になりたかったわけでもない。実家の農家を継がされるんじゃなきゃ、仕事は何でも良かったんだ。免許があったから教師をやってるだけだ。真の俺の姿は相当な下衆であり、さっきもお前の作文を興味本位で読んでいたぞ。
 ああそうだ、
「ところでな、美奈。春に提出してもらった作文あるだろう。お前の書いたやつ、読ませてもらったんだが……」
「作文? ……ああ」
 美奈は不機嫌に見えるほど素っ気なく言い捨てた。が、俺はその頬から額に向けて朱が差すのを見逃さなかった。女は目的の為なら計算して泣くし、怒るし、キレてみせるもんだ。かつて学生時代フラレにフラレた後で、俺が学び取った真理である。
 俺は、話をより掘り下げようと努める。もちろん、悪趣味な根性からね。
「あの作文、何を書こうとしたんだい?」
「春先に書いた作文の中身なんて……。覚えてません」
 俺は美奈の表情の奥だけを見るように気を付けた。
 しばらくして、美奈は昔のアルバムを見た後のような乾いた笑みを浮かべた。
「忘れてください」
 光の当たり加減で、口元の皺が何本か消えたかな。
「忘れるのは構わんが……。お前、大丈夫なのか。そのー、色々と」
 あんな作文を書くような精神が、とか、そういう精神状態にさせる家庭環境や友達関係が、とまでは訊かなかった。泣き付かれて相談相手にさせられたりするのは面倒だからね。
 ちょっと話してみた限りだが、美奈は頭の病気というわけではなく、少々不安定な悩める心によってあの作文を生成した様子である。それなら教師が出しゃばる問題ではない。カウンセラーにでも投げておけばいいだろう。彼女の精神状況を推察できて俺の野次馬根性は満たされたし、出席日数の危機もちゃんと言い渡した。あとは適当な挨拶を交わして別れるだけだ。
 ところが。
「先生って、デリカシーのかけらも無いんですね。他の人たちが下校しているのに、私の出席のこととか、作文のこととか、よく口にできますよね。両方とも私のプライバシーじゃないですか。先生だったら、知り合いが居る前でプライバシーを公表されたいと思いますか」
「ああ、それは、確かに……。すまん」
 みろ。逆に俺の方が説教を食らっている始末だ。
「そんな先生の言うことなんて、信用できません。聞く気にもなりませんね。あなたのような人種は理解できない」
 あなた呼ばわりかい。参ったね。
 美奈は、表情を動かすのも喋るのも億劫だといった様子で、俺に背を向けた。
 すたすたと距離を広げていく背中は、「くだらないモノの相手をしてしまった」とでも主張したげであった。俺は、寝起きの不機嫌なところへ訪問販売が来たらこうやって追い返すだろうというような、教師の尊厳などあったものではない応対によってあしらわれちまった。
 そしてふと、美奈が一度だけ不思議な応対を見せた場面を思い出す。
 作文のことを「忘れてください」と言った時の、あの仄かな笑みは何だろう。
「笑う気も無いのに笑ってあげました」という侮蔑と、「だけど、笑わないのは気が済まないんです」というような礼儀正しさ。ロシア猫の毛並みのようなグレーの瞳が何を表していたのか、俺には分かりかねた。俺は他人を一目見て、その表情から、深遠な文学的心情を洞察できるような人間ではない。世界認識は一方的に世界から与えられるもんではなく、あくまで世界と俺との相互作用だからだ。俺が鈍感なら、世界の色もぐだぐだに濁って見えるという面がある。病人に豪勢な料理を見せても食欲が湧かないってのと同じ理屈さな。
 というわけで、俺は美奈の個人的問題に踏み込むという厄介事は放棄し、本日も早上がりをして国道沿いのパチンコ屋を二件ほど打ってみようと考え始めていた。
 ところが。
 廊下に響いていた美奈の足音が止まった。俺の雑念を止めるかのようにね。
 もう一度、美奈は俺を振り向いた。
 相当遠ざかっていたことは間違いない。ということは、ギリギリの離れ具合だったのだろう。美奈の顔がハッキリ見え、呟きがしっかり届く距離としては。
「先生」
 美奈の顔が、俺を見詰める。
「私は、死神です」
 大マジメな顔でそう言ったあと、自分から茶化すように美奈は嗤った。例の笑み。諦めと希望とが混濁を極めているような笑みだ。
 その時、俺はなぜか、踏まれたら崩れる落ち葉でも見ているみたいな脆さを感じた。
 何にやられたのか知らんが、「してやられた」と感じた。
 すたすたと立ち去って行く美奈をぼんやり眺めつつ、しばしの間だがパチンコのことが頭から消えていたのは確かである。
「死神……、ねえ」
 本気にしているわけではない。
 ただ、異常者なのか異常者のフリをしているのかという俺のモノサシごと忘れさせ、一瞬でも不思議な空間へ引き込んだ演技力には敬意を表したいと思う。
 そういえば、死神と言うには相応しいかもな。あの皺だらけの顔は。固まり始めたセメントのような俺の心に波風を立ててくれる刺激的なモノに遭遇したのは、学校では久し振りかもしれないね。
 
                    Ψ

 だが帰り道、愛車のハンドルを握りハイウェイ然とした国道を飛ばす俺は、学校のガの字も綺麗に忘却している。
 体に感じるのは、踏み込みに反応して空気を突き破るように進む車のパワーと、ロードサイドは未だ田舎の暗がりながら俺の頭では既に燦然と輝いているスロット台のみだ。
 俺はギャンブル中毒者だった。
 中毒とは、ああなんと甘美な至福だろう。
 出るか出ないか。勝つか負けるか。世界が白と黒の二色だけにカッキリ塗り分けられる。
 そして俺は常に、絶対に、白だけが出ると思っている。小さな負けがあっても、それは大きな勝ちへの布石に過ぎないと信じている。
 ここしかないというタイミングでボタンを押し、スロットマシーンの大当たりを呼び寄せる瞬間。それを想像するだけで、俺の血圧は三十も四十も上がる。
 マシンのボタン押しに熱中する時、俺はアホらしいほど単純な一つの法則に支配される自動装置と化す。つまり、「神のみぞ知るタイミングに合わせ、ボタンを押し込むべし」という命令の他には何も知らない、赤子同然の存在に。俺は、教師の仕事をやっていることなんか忘れるし、家に帰ったら冷蔵庫に何も入っていないことも忘れるし、春先の検診でコレステロールが高かったことも忘れちまう。俺であることすら、俺は忘れてしまう。大当たりや大ハマリというド派手な祭りに翻弄され、祭りのド真ん中で踊り狂うためだけに存在している自動装置。俺の指先を介してマシンから流れ込んでくる、疾風怒濤な騒がしいお祭り世界。そこにできるだけ長く身を置いていることが、俺の楽しみさ。
 難点があるとすれば、ハマリが続きすぎる時には、その至福感を味わうどころか、両隣のやつらに回転ラリアットを掛けたくなったり、「明日もウゼエ仕事があるから帰らねえとな」と焦ったり、いつのまにか財布の中がスカスカになっていたりするところかな。だがこの俺は中毒者、ハマリ尽くすことなんか気にしていたら始まらない。至福を得んと欲せば、足しげく通うのみよ。身を滅ぼすぞって? ご心配なく。今日も俺は立派に生きていて、爽快に車を飛ばしているだろう? 八時間にもわたる「資金調達」を終えて。
 それに、スロット通いの毎日には、良い思い出しか無いしね……。つまり俺の脳には、大勝ちした記憶しか蓄えられていないわけなんだ。
 われながら、勝ったことしか覚えていないというのは、実にアホで白痴だと思う。しかし、これはたぶん人間の本性だ。しこたま負けた不快な思い出を無意識に消してしまうのは、人間の自然な防衛反応だと思う。おそらく、殆どの人間は生来白痴なのであり、十回中九回の不快経験に見舞われたとしても、残り一回の快経験によって生きていくことができるのだ。そうに決まっている。でなけりゃ俺なんかは、十日も仕事をしたら死んでしまっているはずさ。パチンコ屋に人が集まるのは、そこが人間の白痴ぶりに肯定を唱えてくれるすばらしい場所だからなんだと思うね。
 ……お、見えてきたな。山繭蛾(やままゆが)の翅のごとく、げに美しきネオン。さあ、始めようか!

 
「やあ先生、お勤めご苦労様です」
 パチンコ店の屋内駐車場にて、男が俺を待っていた。紺色のスーツが良く似合う好青年だ。秋物の黒いロングコートも、男の長い足を引き立てている。俺の知っている男の中では、俺の次に美男子だと言ってもいい。この男はいつもニコニコ笑っているんで、学級日誌に俺をイラスト化して遊んでいる女子生徒たちの手にかかれば、一思いに線目で描かれる可能性が高い。顔立ちや骨格も中性的な感じなので、髪をもうちょっと伸ばせばそこそこの女としても通用する。
 無感動なだるさを保持するにかけては自他共に認める俺だが、この男に会うと、素直に顔に嫌悪感が出る。
「パチ屋の立体駐車場にまで参上とは、精勤なことだな!」
「ありがとうございます。黄色のNSXに乗られている方は、県内でもあなたぐらいじゃありませんかね。一服しませんか?」
 乾いた骨どうしをガリガリと擦り合わせているような、耳障りな音だ。俺は煙草を吸いながら、奴にも一本出してやった。
 こいつの名は神明夫(かみ あきお)という。COBカンパニーという会社の営業マンなのだが、もろもろの虚飾を取っ払って一言でいうと、金貸しである。
 俺はこいつに二千三百万ほど借りているそうだが、そんなに借りた覚えは無い。しかし、奴が保有している借用書には俺の判が押してある以上、どうやら借りたらしい。
 ボタン押しに通っていると、「今、この瞬間、あと何万円あれば」という状況が頻出する。もうちょいつぎ込めば出るのに、少しの金が足りないばかりに勝つチャンスをフイにする……愚かなことだ。
 その悲劇を防止するため、ギャンブラーなら誰でも、財布の厚さは一定ミリ数を保っておかねばならない。そこで仲間から紹介された優良な金貸しというのが、神明夫であった。熱心な銀行マンの風情さえ持つ神は、たしかに優良な男である。「今必要なんだ」という時にこいつを訪れ、こいつの右手から「ボタン押し用紙束」が差し出されなかったことはない。もっとも、左手の電卓でどういう計算をしているのかは知らんがね。
 そして俺も、借入金の総額が二百万を超えたあたりで、返済するという概念をうっちゃることにした。二百万とは、訳の分からぬ数字ではないか。俺の給料が毎月二十一万。その十倍とは何じゃらほい。もはや概念的に把握できんのだが。それでもいいだろう。神の右手からは金がぞくぞく溢れ出る。俺はそいつをぞくぞく使う。この流れが現に続いているのだから、何も問題ないのであろうと、そう考えているわけだ。だいいち俺は刹那的にしか生きていない。「今」にしか責任は持てん。長期スパンで産み出されたモノにまで責任を持てと言われても、そりゃあ暴論でしょう。したがって金は返さなくていいのだ。『罪と罰』はドストエフスキーだっけ? その主人公のラスコーリニコフ青年だって、家賃は踏み倒しているそうじゃないか。
 そのうち腎臓でも売る羽目になるって? 最近は腎臓も値崩れしているらしいぞ。それよりも、毎月きちんと給料を取って来てもらった方が、長い目で見れば儲かるそうだよ。つまり、元本は削らないで、利子分だけ毎月払っていただく。そうすれば、金貸しとしては永遠にしゃぶり続けられるわけだな。神の会社もそういう営業方針を掲げている。
「こんな所まで取り立てご苦労さんだが、まだ給料日じゃねえぞ」
「営業で近くまで来たものですから。債務者の健康状態を定期的に確認しておくに越したことはございません。顔見せです。あわよくば剰余金が無いかと思いましてね」
「無いな」
「気持ちのいい御方だ。敬意を表しますよ。これからも末永くCOBカンパニーの御利用を宜しく。われわれはあくまで顧客には紳士的です。それが我が社のモットーでして」
「よく言うもんだ。毎月十五万も取って行きやがって」
「我がCOBだからできる低額弁済です。借入金の大きさを御存じですか? 他の会社から借りたら、あなた、とっくに雪山に埋められてますよ。それで来年の夏スキーの時に発見されたり、されなかったりね。そこへいくと我が社はA市育ちの地元密着企業ですから。田舎のパイが少ないことは弁えております。そこで長いお付き合いを、とね。首都圏からA市に進出してくる会社たちは、そこらへんが分かっていないんですよね」
 枯れ葉がざわめくような奴の低い声とニコチンの作用によって冷静になった俺は、神に訊いてみる。
「何か裏があるんじゃないのか?」
「ありません。我が社にはおっかない人は一人もおりませんし、我が社の取立てによって涙を流した顧客さえ一人も居ないのですから。ただし顧客については当方の基準で選ばせて頂くのですがね。先生のような破滅的なお客なら、私は大好きですよ。夢があっていいじゃありませんか」
「どこまでが営業トークなんだかな」
「いえ、私めは先生とはウマが合うのではないかと、結構本気で思っておりましてね。これは本音でございます。職場が違うのが残念至極。いっそ我が社に来ませんか? 破滅する側から破滅させる側に……。おっと」
「神くんよ。俺の何処が破滅的なのかは知らんが、転職の案内は気持ちだけ貰っておこう。電卓一つで帳尻を合わせられる仕事は窮屈だ。百万長者の中にだって事故や病気で不幸だと思ってる奴は居るだろうし、無一文で精神病院に入っていたって、溢れるほどの幸福を感じている奴が居るかもしれない。数字で人間の心を縛ってしまうことはできん。そういうのが面白いのさ」
「それは残念ですね。分かりました」
 奴はニコニコ顔で答え、吸い殻を踏み消した。
「予定では、次回は二週間後に参ります。先生の給料日です。では、さようなら、先生」
 神は重量感ある固いコートを波打たせ、らせん構造の立体駐車場を下りて行った。
 
                    Ψ
 
 五日ほど経った。
 何から? 美奈・コイヴネンとのファーストコンタクトからである。この五日間一度も欠かさなかったスロット遊びの話から始めない理由は、ギャンブルは俺の教師業どころか、ひいては生活自体の前提条件みたいなものだから、いちいち語るまでもないためだ。それに、職員室に居る時には不適切な話題でもある。
 俺は現在、一組のこの間の試験の成績が学年最下位だというので学年主任から叱責を食らい、残業のマネごとなどやってみせている。
 堅物ハゲ主任め。生徒のテストの点にまで俺が責任持てるかい。あんたが帰って職員室の照度が百ルクスほど落ちたら、俺も明るく輝くスロット台を求めて帰ってやるからな。
 五日間の成果として、俺は、美奈・コイヴネンという彼女のフルネームを覚えた。もちろん、彼女を出席が危ない「問題児」と認識し、日ごとに出席簿をチェックすることにしたからである。パチンコ屋のネオンのごとく赤色の斜線が増えていく美奈の出席欄を見るたび、ある言葉が俺の脳裏をかすめる。
 ――私は死神です。
 実のところ、俺は美奈のセリフに何らかの意味があると考えてもいいのではないかと思ったりすることがあった。魔が差しているんだろう。大人として恥ずかしい限りである。それならこの言い回しはどうかな? 担任として見た場合、美奈は俺に何かを伝えようとしている気がした、と。「あれは何を言ったんだ?」と直接尋ねれば、美奈は答えるかな。ま、さほど興味は無いし、尋ねようにも本人は学校に居ないがね。出席簿を開いたから思い出しただけさ。
「柴山先生、あんたに電話だよ」
 主任の野太い声がした。老ゴリラみたいな相貌が、文明の利器を手に俺を睨んでいる。
「あ、はい。誰からです?」
 俺は彼を焦らすためにゆっくり移動し、その手から受話器を拝領した。受話器を耳に持って行く俺を、ゴリラから鬼の形相に化した主任先生が見詰める。
「A市の中央警察署からだよ、君。何かやったんじゃあるまいね」

                    Ψ

 ローギアで毛虫のように低速移動する愛車は、あからさまに不機嫌なエンジン音をさっきから響かせている。田舎とは言うものの、県庁所在市の中央部分ぐらいは渋滞することだってある。この時間は飲み会帰りの客を狙ってタクシーや代行が集まるしね。
 俺は助手席の美奈に尋ねた。
「お前の家、どこって言ったっけ?」
「長谷(ちょうこく)団地」
 あぁ、あの化け物マンションがある所か。
 一度、NSXでマンションの周りを走ってみたことがあるが、いつまで走っても建物の端っこが見えてこなかったのを覚えている。吐き気がするくらいに、同じ窓ばっかり続いているんだよな。臓物みたいなサーモンピンクの外観も毒々しい。町造りシミュレーションゲームでしかあり得んようなモノを実際に造っちまった場所だ。
 あの蜂の巣箱の人間版みたいな団地にどのくらいの住人が詰め込まれているのか知らないが、一日あたり二世帯や三世帯が消滅したり入れ換わったりしても、誰も気付かなさそうな規模ではある。市内の西の外れということになるんだろうが、ここから遠くはない。A市自体が小さいからな。
 この渋滞さえ抜けてしまえば、バイパスに乗って団地まであっという間だ。
「出席簿見たよ。お前、今日も学校に来なかったみたいだな」
「ええ」
 美奈は、しおれた小さい両手の中に、緑色の早生みかんを握っている。
 学校を休んで、そんな物を万引きしていたのか?
 車はパイパスに抜ける道へ右折した。スムーズに流れ始めたな。よし。
 美奈の顔はずっとウィンドウを向いている。正直、その方が俺も色々話しやすい。
「どうして俺を身元引受人に指名してきたんだ?」
「パパは働いてる時間だから。無理して来させたくない。親とはあまり関わりたくない。先生なら、どうせ暇でしょ。仕事中に人の作文読むくらいだもの」
「あのなぁ、俺はそれが仕事だ」
 そう言ってみるものの、覗き根性から読んだ側面も否定できず、声には自信が宿らない。
「じゃあ、お母さんは? 迎えに来てくれないのか」
「それでも国語の先生? 親とは関わりたくないって言ったでしょ。それにね、ママはこの夏に死んだわ」
「そうだったか。それは……。申し訳なかった」
 我ながらムカつくほどに脆弱なる返答だ。仏壇に焼香にも行かず、というか生徒の家族が死んだことさえ知らない担任がここに居る。美奈の教科書朗読するような口ぶりも、俺を突き放しているように感じた。
「私が、ママを殺しましたから」
 はぁ〜、またかよ、お前〜。この前は死神だなんて呟いてみせていたけど、人をおちょくるのはお前の趣味か。インパクトある発言なのは認めてやるが、乱用すると信用を失っちゃうぞ? 
 それとも、意味深な発言に託してメンタルヘルス的な問題でも訴えているのか。冗談、まっぴらごめんだよ。なるほど、お前とお母さんの間には色々な確執があったのかもしれないし、その心労がお母さんの死を早めたのかもしれないな。しかし、俺はお前の泣き言に優しく耳を貸してやるボランティアではない。お前の家の問題など、お前が何とかするんだよ。俺はさっきまでK町の学校で勤勉に働いていたのだ。A市まで二十分かけて万引き少女を引き取りに行く身にもなってみなよ。
「あのなぁ、どうして万引きしたんだ? 金が無いわけじゃないだろ? スリルでも味わいたかったのか?」
「お腹が減ったから……」
「だったら買えばいいだろう」
「のんびりレジで買ったりしてたら、バエルが触ってくるんだもん」
 意味不明な呟きを残す。俺は、話をはぐらかそうとする美奈に腹が立った。まるで、職場で主任をやりすごす俺自身を演じられているようでね。自分がやるのはいいけども、他人にやられると好かん。
「美奈。あんまり訳の分からないことを言うんじゃねえぞ」
 いつもの締まらない顔が引きつるのを感じつつ、俺は美奈を見た。
 美奈は黙って涙を垂らしていた。
 夜にこいつの顔を見ると、更に二十も更けたみたいだ。
「先生、前!」
 美奈は鼻声で叫ぶ。
 俺はこの時ほど、ハンドル操作に危機感を覚えたことはなかった。
「お、おわあっ!?」
 フロントガラスに蝿が一匹くっついていた。
 この時期K町によく出没し、冬眠に備えて畑を荒らしていくツキノワグマなんか、屁のようなものだと思ったよ。
 だって、こっちは蝿だぞ? 
 ツキノワグマ並の体躯を持った蝿が、ガラス一枚向こうで、黒真珠みたいに光る腹をべたあと押し付けている。視界が蝿一匹のせいでゼロだ! 俺はサイドミラーのみを見て車線変更を二度成功させ、なんとか路肩で停止した。
 すでに涙を拭き取っていた美奈が、俺に紹介する。
「先生は、作文で存在を知っていた。私が名前を明かし、秘密は先生の中で完全になった。だから見えるようになった。蝿のバエル」
「ぬな……。こりゃあ、バカな……」
 ウィンカーの点滅を横腹に浴び、俺達を注視する巨蝿。無数×2の複眼で車内に視線の雨を降らせる。2を掛けたのは、いいか驚かないでくれよ、複眼の一つ一つが人間の顔になっていたからなんだ。
 カビのように顔中にヒゲを生やした中年男である。その鬼気迫る形相については、「魚の死んだような目」の対義語として「蝿の生きてるような目」という新語をここで提唱したくなるほどである。マジで恐い。
「大丈夫よ。先生には悪さをしないわ。煙草でも吸ったら?」
 平然としている美奈の手前、俺は五ミリほどの振れ幅で震えている腕を使い、やっとこさ煙草に点火した。
「……で?」
 俺は、見掛けだけは蝿と睨み合いながら尋ねる。
「この蝿は、いつまで居るんだ?」
「いつまでも。私が居る限り」
 美奈は半分謝っているみたいな嘲笑をくれた。
「この蝿はね……。死神です」
「死神か。その言葉、誰かさんから聞いた覚えがあるな」
 と真顔で返しながら、俺は新鮮な発見をしていた。俺の中にある、常識なる基準線は、状況に牽引されて一瞬で引きなおされるものだということをね。さっきまで、死神という単語を鼻で笑っていたんだけどな。ハハハ。
「そう。私も死神です。でも、元々は人間。この蝿に取り憑かれるまでは」
「なんだと?」
 俺は追い訊きするしか役割がない。
 高一の女子生徒の声なのに、なんでこんなに重たく聞こえるんだ。
「先生。春は魔が差して書いてしまったけど、あの作文は本当です。私は、中学卒業とほぼ同時に、突然バエルに襲われた。取引の結果、私は人間の人生を奪われた。死神になってしまったのよ」
「取引、だって?」
「そう」
 消え入るばかりの美奈の声。
 代わって響く声があった。
「ソウダ。『死ニタキャ殺シテヤル。死ニタクナケレバ俺ヲ受ケ入レロ』ト言ッタ。美奈ハ生キタイトサ! ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!」
 俺は内心膝を打ちたかった。ああ、なるほど! 作文で書いていた『蝿が喋っているとしか言えない声』というのは、これかっ。
 だが、なんという下衆な声。こいつが喋るごとに、体中の毛が引き抜かれるような気分になりやがる。
「バエルは人間に取引を持ち掛け、自分を取り憑かせろと迫る。取り憑いたら、バエルはその人間を死神に変化させる。そしたら、その死神を殺すことがバエルの目的。いわば、死神の死神」
 俺は美奈と一緒にバエルなる巨蝿を見詰めていた。
「美奈、テメエ、コイツニ俺ノ存在ヲ喋ッタナ。マアイイ、俺ヲ見エル奴ガ増エルノハ退屈シネエ。今ノトコロハ引イテヤルヨ。特別サービスダ。グケケケケッ!」
 バエルは一直線に飛び去って行った。奴のシルエットが満月ぐらいになり、やがて点になったとき、入れ換わるように長谷団地の巨大マンションが俺の視界に広がっていた。だいぶ近づいていたようだな。
 美奈は、俺が警察を通して店に弁償した青いミカンを突き出した。
「先生、これ食べていい?」
「ああ、どうぞ、勝手に。……お前が食ってる間、俺は頭の整理をさせてもらうことにするよ」
 美奈はミカンを少しずつ齧り、残さずきれいに食べた。
 緑の皮ごと、全部ね。
 俺は煙草の煙とミカンの臭気が交じり合う濃密な空気に息苦しさを覚えた。
「人間の食べる食品を摂っても、死神の飢餓問題の解消にはならないのよね」
 美奈は果汁に濡れた口元を手の甲で拭い、俺をチラリと見る。
 ちょい待て。それはどういう眼差しだ? お前は死神だと言ったな。俺はいい大人である体裁上、お前の話など政治家の演説でも聞くように流してみせているが、俺が殺されてみることで心から納得という結末は遠慮したいぞ。
「先生」
 と呼ぶ生徒の灰色の目を、俺は癌宣告を今にも受けんとする患者のごとく恐れている。
「傑作な事実を教えてあげるよ。人間が死神になったら、どんな食べ物を食べたってお腹が空くの。一時しのぎにはなるけどね。体感的には二十分ぐらい。死神は人間の食べ物を食べても全然栄養にならないのよ。毎日相撲部屋のちゃんこ並に食べ続けても、みるみる痩せ細っていって、最後は死んじゃうんだ」
「死神が死ぬ? そりゃ傑作だ。食べても食べても腹が減るとは、死神っていうより、地獄の餓鬼のようだな」
 俺は餓鬼からつなげて針山地獄や血の池地獄や地獄の無限的刑期について話を広げ、時間稼ぎをしようと狙っている。だが、徒労。完全無視!
「死神の空腹を満たしてくれるモノは一つだけ存在する。ある新月から次の新月までのことを死神用語で一期≠ニ言うんだけど、一期の間にそのモノを摂取しないと、どんなに若くて体格のいい死神もシワシワのガリガリ。枯れ木みたいに萎(しお)れて死ぬそうよ。さて、そのモノとは何でしょう? 答えは勿論、国語の先生なら予想できるでしょうね。それを食べ続けることでのみ、死神の永遠の命は可能になるんです」
 美奈……。もとい、死神の灰色の双眸は、形状・眼光ともに刃物のごとくにて、俺に正対する。
「死神の空腹がどれほど激烈なものかなんて、あなたに分かるわけない。だから言わないわ。でも、ひどいものよ。腹の中には胃が八百個も入っているみたい。私の肌、ぼろぼろでしょう。だった一日食べなかっただけでこうよ。春先から今まで、毎日A市に出ている。飢えを満たすために。私を学校に来させようなんて思わないで。先生の大切な生徒がどうなるか知らないよ」
「お前なぁ。小学校の道徳の時間に教わらなかったか? 人を殺しちゃいけないぞって」
「教わってない」
 確かに、そんな当たり前のことは教えんよな。だが俺は、ギャグめいた台詞で話をはぐらかすぐらいしかできなかったんだ。曇り空みたいな色をしてるくせに、俺なんか問題にならないほどスッキリと澄み渡っている美奈の眼差しの前にな。
 それは自分を絶対的正義だと信じて疑っていない目だ。桜吹雪を見せるばかりの遠山の金さんといった迫力があった。マネキン人形みたいな、あからさまな造り物の迫力がね。その均一な皮をべりべりと剥げば、血液やら膿やらその他体液の付着したカラフルな真皮が見えてきそうだったが、俺は皮をめくろうとは思わない。刺激の強いものには弱いんでね。
 俺は煙草を揉み消す動作を借り、死神との睨めっこを逃れた。やむをえないだろう。俺は死神なる稼業を経験したことはない。美奈がNSXを運転したことがないのと同じだ。要は、死神とやらの気持ちなど分からん。分からんということしか、分からん。だからお前がどういうつもりで真剣に睨んでいるのか分からんし、俺も真剣に睨み返すことはできんのさ。
 心配は要らない。死神のお前が生きるということが、A市の人々を日々殺し続けることを意味するとしても、俺が非難したり反対したりする理由は無い。きっとお前が金さんのように俺に見得を切るまでには、お前にしか分からない悩みや葛藤があったことだろう。その末にお前が自分なりの正義に辿り着いたなら、俺が文句を付ける筋合いはない。そうだろ……。
 すまないな。
 横目でチラリと美奈を見る。鎌のようにいやらしく口を歪め、侮蔑をあらわにする死神。
「ま、『人を殺すな』って教わっていたとしても、くそくらえって感じだわね。ここで先生の魂を頂いちゃっても構わないのよ? 先生が私を団地まで送り届けてくれなかったら、本当にそうするかも」
 美奈はクスクス笑った。
 俺はNSXに乗車拒否されそうな鬱屈とした気分で、再びエンジンをかけた。
 田んぼの海に浮かぶ国道を走っている間、美奈は助手席でボソボソ喋っていた気がする。
 バエルとやらに憑かれ、死神化させられたのは、本当に突然の出来事だったこと。
 そこにはもはや、人間の人生に戻るという選択肢は存在していなかったこと。
「死神の死神」であるバエルは、死神を死ぬほど羨んでいること。
 バエルは、取り憑いた死神を殺すことによって、死神の心身に寄生するという習性があるのだという。寄生状態に持ってゆくことは、バエルの最大目標だ。
 寄生状態は、死神の餓死や事故死によっても生じてしまう。
 従ってバエルは、あの手この手で死神を殺そうと企む。死神を殺すための様々な能力をも有している。たとえば、バエルの前脚には劇毒成分の分泌腺があるため、死神はバエルに触れられた食品を口にしないよう注意しなければならない……。
 バエルはどうして存在しているのか?
 それは、癌に対して「どうしてお前は癌なのか?」と問うようなもの。存在の理由などない。あったとしても死神が共感できるものではない。
 死神を殺すためならあらゆる手を使うバエルは、醜い。そんな醜いモノから寄生されるだけの肉塊と化し、冬虫夏草に乗っ取られた蝉のようになってしまうなんてごめんだ。
 だから自分はバエルに殺されるわけにはいかない。バエルの襲撃や食事妨害には屈したくない。
 他にも死神の敵は居るそうだ。バエルの言っていた信憑性の疑わしい情報によれば、死神の命を専門に狙っている死神というものも存在しているとか。まだ遭遇したことはない。
 そういう諸々の話を、美奈はこう締めるのだった。
「私は毎日バエルに脅えて生きてる。油断したら、殺される。私の命を狙う死神だって、いつ私を見つけるかもしれない。私は毎日、『今日は死ぬ』と思っている」
「……」
「でも、今のところは、まだ死んでいない。そして、明日からもA市に出て人間の魂を奪う。『今日は死ぬ』と思う毎日を延長するために。疲れる時間だよ……。時々、気が狂いそうに苦しくなる。そういう時に私の近くに居る人は運が悪いわ。カッとして何をやりだすか、自分でも分からないから。ちょっとお小言を言っただけのママを殺したみたいにね」
「……」
 美奈は、助手席でうずくまっていた。
 車に轢かれたあと、小学生のガキどもの靴先で散々小突き回された猫の死骸みたいにね。轢かれた猫ってのは中の骨がバラバラになってるから、ちょっと蹴るとグニャグニャ曲がるんだよな。なかなかに快感なんだ。
「チッ!」
 俺は舌打ちした。
 なぜだか知らんが、無性に腹が立ってきてな。
 俺はアクセルを無意味にふかすと、中央分離帯の切れ間から鬼のようなUターンを決めた。
 俺は美奈の背中にギュッと手を押し当て、一方的に呟いた。
「蝿が待ってるマンションに早く戻ってもつまらん。今からちょっと付き合いな。制服だと補導されるから、俺のレインコートを羽織れ。シートの後ろに落ちてる」
 俺はA市の中心部を目指す。ほお……。今夜の愛車はレスポンスがいいね。まるで右足の付け根から先は全部アクセルみたいだよ。加速しながら勢力を増して本土へ近づく台風のような気分だ。
 俺は運転に夢中になっていたから、美奈がどういう顔をしていたかは知らん。だが、構うものか。もはや俺の突発企画に同意したものとみなしてやる。今はなぜか、騒音の滝壺のごときホールに身をさらし、金を湯水のように消し去っちまいたい気分だ。そして美奈、お前は隣に居ろ。担任命令だぞ。まったく、毎日死ぬだの、ママを殺しただの、辛気草臭い奴だね。この俺を見なよ、毎日が退屈かつ不毛すぎて、死ぬ気にすらならん。エキサイティングな時間や空間といえば、これから行く所くらいのものさ。きっとお前は煙草の臭いに鼻をつまみ、俺を含めた客どもの血走った目に眉をひそめ、スケールの大きい騒音に耳を押さえるだろう。それでいい。ずっとそうしているんだ。
 死神のことなんか、忘れろ。


 団地の駐車場に車が入ったのは、夜の十一時前だった。俺は夜遅くまで生徒をギャンブル施設に釘付けにするという行為を冷静に悔いていた。この冷静さからギャンブルの結果を推して知るべし。美奈はいつも通り曇天めいたポーカーフェイス。どうやら夢中になっていたのは俺のみだったらしい。
「美奈。お願いがある。俺がパチンコ屋に連れて行ったなんて、親御さんには言わないでくれるか。首が飛ぶ」
「わかった」
 美奈は不機嫌そうにボソリ。その見詰める先には主人≠待っている蝿が居た。
「遅カッタナ。俺ノ対策デモ練ッテイタノカ? ファファファ」
 ちっ、駐車スペースの真ん中に、この蝿め。
 美奈が車から出ると、すかさず蝿は頭上一メートルほどを旋回しはじめた。見るからにウザい奴だ。
「もう寝る時間だ。停戦の約束でしょ」
「マダ五分アルダロウガ。クサレアマ」
「私の腕時計を見なさい。もう終わり」
「テメエ、時計進メタンジャネエノカ?」
 蝿と話している美奈の背中は、何か遠くに感じるな。
「おーい。俺は帰るからな」
 背中に呼び掛ける。
 美奈は、忘れていたように俺の方を向いた。
「あ、先生、そういえばね」
「どうした」
「……少し、まぎれたかも」
「なにがだ?」
「気分」
 相変わらず、俺を見下すような気配漂う無表情。
 刃物のようなグレーの眼光は、ちょっとだけナマクラっぽくなっていた。いい傾向だな。
「そうかい。じゃあな」
 俺はシフトレバーに手を掛けた。
「美奈じゃないか? 何をしてるんだい?」
 遠くから流暢な日本語が近づいて来る。俺も美奈もそっちを見る。声の主は、作業服に身を包んだ金髪の外人である。
 美奈の親父さんか?
「お帰り。今日は早いのね」
 美奈は通行人とでも話す調子で言った。親父さんはというと、娘の傍らで黄色のスポーツカーに乗る格好いいお兄さんを怪訝に窺っている。
「お父さん、担任の柴山先生。お父さんに話があるみたい」
 お、おい。なんだその無茶な振り方は。
「間が悪かったな……。何とかやってよ。私、知らない。万引きの話はしないで」
 美奈は腰を曲げ、助手席の窓から囁いた。微妙にマジな目だね。
 ……って、美奈のやつ、全部俺に投げてとっととマンションに向かいやがる。
 おーい。
「美奈の父のヤンネ・コイヴネンです。あのう、娘が何か……」
「ああ、いえいえ、その」
「ここでお話も何ですから、よろしければ上がって頂けませんか」
 ヤンネ氏は娘が絶対にしないような深々としたお辞儀をする。何だい、この流れは? ともかく俺は車から降り、ヤンネ氏の後ろを歩きながらネクタイの結び目を正すのだった。
 見上げてみたら、でけえマンションだなあ。さながら人間蟻塚。もしくは五年ものの蜂の巣ってとこだね。
 
                    Ψ
 
 それでだ。いざ応接室に通されたら、これまた妙な空気。美奈は自室に入ってしまったらしい。応接室には俺とヤンネ氏の二人きりである。俺ごときを相手にお茶が出て来ないのはまだしも、差し向かいのヤンネ氏がちっとも喋ってくれない。むしろ俺を恐れている風情である。
 やっと口を開いたと思ったら、いきなり問い詰めるようにこう来た。
「先生、娘が何かしましたか?」
 うむ。実際、したんだが、そのことを言う権利はお先に差し押さえられているんでね。この親父さんが娘の万引を既に知っているとしても、俺が生徒を守る担任として振舞うことは許されるであろう。
「いえ、特に何かしたわけではありませんよ」
 と言ってみて、俺はここからの準備が何も無いことを少々焦る。美奈によれば俺はヤンネ氏に話があるということになっていたはずだな。
「そうなんですか。とても安心しました。では先生、一体どういったお話なんでしょうか?」
 ほら来た。何も考えてないのにねえ。どうするかな。俺はここで咄嗟にトピックを創作できる頭を持っていない。毎日職員室でぐだぁ〜と過ごしているから、脳の深部まで錆が浸食済みである。ゆえに、そんな脳味噌でも直ちに思い出せることを口にするしか無かった。悪くはないだろう。その問題が度を過ぎれば、学校の指導方針とやらにより家庭にも連絡せざるを得ない事項ではあるのだから。
「実は、ご存じかと思いますが、美奈さんの出席が最近あまり芳しくない様子でして。ああ、現状では進級に影響があるわけでは全くありませんが。ただ、ご報告程度に申し上げておこうと思いましてね」
 そのセリフを聞きながら、ヤンネ氏の顔が一月あたり三百時間のサービス残業を命じられたみたいに歪むのを見て、俺は「失敗したな」と思った。
「そうですか……。あの子が……」
 ソファからズリ落ちかねんほど、うなだれているヤンネ氏。まるで時効前日に逮捕された殺人犯だ。
「ご存じでなかったのですか」
「毎日制服を着て、出かけては行くのですけれどもねえ……。何となく気付いてはいたんです。昔のあの子とは様子が違う感じがしまして。ですが私は、気のせいだと自分に思い込ませたかったのでしょうね。仕事も忙しかったものでして」
「美奈さんをあまり責めないでやってくれますか。色々と本人なりの事情があってのことかもしれません」
 そう、死神の生活という事情がね。
 ヤンネ氏は無造作に生やした金髪を抱え込む。
「責めるわけにいきませんよ。私は仕事にかまけて、あの子を放り出してしまったのだと思います。自分で分かっています。高校に入ってから、娘の様子が変わったのは気付いていたんです。近付きがたいというか、自分の方から私たちに距離を置いているというか。あの年頃ですし、高校にも慣れていないのかもしれません。夏に家内が死んでからは、ますます口数も少なくなってしまいまして……」
「そうですか」
 ヤンネ氏は、祈祷志願者が神主を見詰めるような目で問う。
「先生。学校でのあの子はどういう様子でしょうか? クラスの人とは仲良くやっていますか? 昼ごはんは食べてますか? 授業にはついて行けているでしょうか?」
「よく分かりません」とありのままに答えるのは血を見る思いがしたので、俺はこう答えた。
「私が見る限り、問題ありません。大事なことは、きちんと伝えられる子ですし……。私などよりずっと、しっかりした子です」
 そりゃそうだ。俺は教師とギャンブラーの二足のわらじを履き、借金まみれの腐れ人生を体感中だからね。
「そうですか……。先生にそう言っていただけると、随分と救われた気分です」
 ヤンネ氏は俺にお辞儀を繰り返した。まったく教師とは詐欺めいた職業である。腐れギャンブラーが人様から頭を下げられるんだからね。
 話は一区切りとなり、俺はヤンネ氏に玄関まで送られた。
「ところで、先生にお願いがあるのですが」
「何ですか?」
「美奈がクラスで孤立しているような時があったら、お暇なら声を掛けてやってくださいますか。無愛想な子ですが、ああ見えて優しいところもあるんです。幼稚園の時、日本人ぽくないというので苛められた時も、私は園長先生から連絡が来るまで知りませんでした。他人を心配させるよりは、悩み事を抱え込んでしまうほうでして。いつも本人は『大丈夫』『何もない』の一点張りなんですけれども……。たまに話相手になってやってくれればと」
「いいですよ。私で良ければ」
 基本的に、人の頼みは引き受けない。面倒臭いからな。毎日の遊興に使う時間が減ってしまうだろう。しかし俺は承諾した。なぜなら、既に話相手にはなっているからな。現状を追認したに過ぎない。
 駐車場から八階のコイヴネン宅を振り返ったら、小さなベランダに出ている美奈の姿があった。
 そこがお前の部屋か。さすがに表情までは良く分からんが、もし一人で寝る夜が心配なら、もっと安心していいぞ。
 そこは高度千メートルじゃない。
 




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