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                    Ψ

 K町方面に向かう電車には、客の姿が無かった。幽霊しか乗っていないみたいに。夜の鈍行列車に乗ると、この地方全体で人が如何に少ないか分かる。
 電車は定刻通りにB駅のホームを発車した。古い筐体が軋みながら走る、なじみの音が響く。
 がらあきのロングシートの端っこに、啓太とサユリは腰掛けている。
 まだ七時半程度だが、終電で帰っているような実感があった。それはきっと、いつもより忙しい一日を過ごして疲労したからだと思う。
 あとは、サユリと一緒に銀行に居た時間が、この世界の時間のメーターに振り込まれていないせいだと思う。
 あのイベントは、アンナが言うには、「分岐現実≠ニいう世界形式」だそうだ。
 要は、いま啓太が電車に乗っているのはもちろん現実であるが、あの銀行強盗イベントも現実には変わりがない、ということ。
 世界がイベントを行うとき、現実から独立したイベント用の特設時空間が作成される。この時空間は、現実から弾き出されたもう一つの現実だ。こうして、二つの現実が並行して存在し、イベントが終われば特設時空間は分岐したポイントに合流する。したがって時間は進んでいないように見える。だから、あたかもイベントは幻覚であったかのように感じられる。「一続きの現実」の合間に、幻覚を見ていたのだ、と。
 しかし、こういう騙し方は世界なら造作も無いことだ。「一続きの現実」なんていう認識の方が、本当は余程幻覚的だといえる。
 ……などという内容の説明文を、アンナはPCを開いて朗読していた。組織のひら構成員だから、「あまり分からない」という。分かっているのは、組織から支給されている道具の使い方ぐらいのものだそうな。ゴーグル、手袋、ブーツ、それに今回啓太を救った弓矢など。組織の実動隊員は、これらのツールによって分岐現実≠ノ介入するのだとか。ツールの選び方や使い方は、実動隊員の腕の見せ所だそうだ。
 隊員たちには組織からPCが支給されるのだが、このPCには組織が開発した特殊なソフトが仕込まれている。世界によるイベントを予測し、メールで通知してくれる仕組みだ。現在のところ、予測の精度は極めて低く、不明瞭な文やキーワードの羅列になってしまうことが殆どらしい。的確にイベントのアウトラインを言い当てるには、毎回明智小五郎が必要に思えるほどだとか。
 イベントを予測したメールは、揶揄を込めて「問題文」などと呼ばれることもある。「問題文」が難解なことなどから、組織によるキー人間救助は遅々として進まない傾向が慢性化してしまっている。
 近年、組織は活動強化をめざし――
 ……アンナの朗読は続いていたが、
(そんな数々の情報は、俺達には全く意味を持たないものだな)
 と結論付けてしまうのも当然だった。
 それよりも、隣に座っているサユリが気になって仕方ない。
 ベンチで目を覚まして以降、サユリは豹変していた。
 世界に操られ、イベントの主役を演じていた期間の記憶は失っていた。
 自分が平穏な生活を送っていて、現在B町に来ているのも買い物のためだと思っていた。
 それと――、静かになった。
 白い紙にドローイングソフトで描かれたような、薄い表情しか浮かべることはなかった。まるで、活き活きと咲いていた百合の花が、一瞬で氷の中に閉じ込められたかのようだった。自分一人しか居ない教室へ何年間も登校し続けている生徒みたいに、周囲への興味を綺麗に失っていた。
 たった一点、啓太への興味を除いては。
 サユリは磁石に吸い寄せられる砂鉄のような自然さで、啓太にピッタリ寄り添っていた。
 対面のシートから、アンナの圧迫的視線が刺さるのが理解不能だ。


 パスケースにPCをしまい、アンナは、さも事務的に呟いた。
「離脱症状≠チてやつだな。標章を剥ぎ取られた人間の中には、抜け殻みたいになっちまう奴が居る」
「何だ、それは」
 アンナは向こうのシートから渡って来て、吊革にぶら下がり気味に見下ろした。
「標章が無くなったってことは、世界からのお墨付きを奪われたってことだからな。天国だった世界が、わけのわからない不気味な場所に変わっちまったんだ。遠足に行ったと思ったら、着いた先は病院だったようなものでな。戸惑うのは自然なことだ。オマイに縋り付くのもな。標章を奪われるまで一緒に居たのがオマイだ。標章が付いてた時の幸せを思い出すのだろ」
 啓太は小声で訊いた。
「元に戻ってくれるのか?」
「この世界に戸惑う必要はないってことを、分からせりゃいい。生活の楽しさを覚えさせてやるんだ。地道にな。だが……」
 しかめ顔でアンナは詰め寄る。
「元に戻ってほしいのか? そのままでも良さそうな顔だが」 
「そんなわけあるか」
 と本気で言っているのに、アンナの目は百円ショップの皿みたいなチープな眼光を投げる。百二十パーセント疑っている目だ。
 火星の極冠のような無機的な目をして、サユリはさらりと言った。
「わたしは松森君と一緒に居られれば、それでいいけど?」
 吊革がきしむ音がして、アンナの微笑が引きつった。肌色が白いから、血が上るとすぐ赤味がさす。
「世話焼いてやるつもりか? 栄耀に目が眩んで標章を前借りしたのはソイツぞな。前借りのケースは、救出も大変になるんだぞ。今回は運が良かったから助かったものの、肉片になっててもおかしくなかったんだ。そしたら今頃、愁嘆場だろう。元をただせば、この女の自業自得。放っておけばよかろうに」
「そういうわけにはいかないさ。神内さんが標章とやらの前借りに至った気持ちは、分からないでもないんでな。それに……。せっかくあんたが助けてくれたってわけだしな」
「……フン。勝手にしろ。お節介な男め」
 アンナは対面のシートに戻り、しばらく大まじめな顔で床を睨みつけていたが、唐突に顔を上げた。
「そうだ。そのう、あれだ。オマイ、アタシ達の組織で活動しないか? 現在、組織は活動を強化中でな、救出件数が伸びないもんで、猫の手も借りたいくらいなんでな、ちょうどオマイは組織のことも知ったし、入れば活動内容も詳しく分かるし、狐につままれたみたいに助けられて終わりなんてモヤモヤするだろうし……。いやその、もちろん、オマイが乗り気じゃなきゃ、入る必要なんてないんだが。あとべつに今すぐ答えなくてもいいから、ゆっくり考えて……」
 などと予期せぬ勧誘を受けた啓太は、即座にお断りしておいた。
 セカイ系組織の一員となって人間を救う役割など、平凡とバランスを愛する自分のキャラではないからだ。
 以後、電車を降りるまで、アンナは一言も口にしなかった。どこか元気なく見えたのは気のせいであろう。
 一緒にサユリを家まで送り、その後アンナとも別れることになった。なぜかその時、初めて、アンナが私服姿であることを認識した。
「今日はセーラーじゃなかったんだな」
「ど、どーしたんだ、今頃そんなこと」
「いや、いつものセーラー服の印象が強かったんでね。そりゃワンピース型のカーディガンか? この季節には暖かそうだな」
「そ、そうだな。いい加減セーラーだと薄いからな」
 といった他愛ない会話を交わして別れた。
(それにしても、長い一日だったな)
 ひさしぶりに濃密な一日を過ごした気がした。中学時代の大会直前期を思い出した。弱小チームながら「絶対優勝」などという無根拠な確信を抱き、朝練・昼練・夜練をこなしていた青春時代であった。
 ただいまも言わず家のドアを開け、いつものように淡々と階段を登って行ったら、ユミ子が部屋で待っていた。
 
                    Ψ

 ユミ子は机でPCを打ち込む作業をやめ、固いブレザーの肩をとがらせて伸びをした。回転台上のチョコケーキのように滑らかに椅子ごと回転し、腕組みをして啓太を見上げた。
「おめでとう。合格よ」
 その目は会計士が赤字企業の帳簿を眺めるように冷ややかで、新興宗教の教祖が信者へ説諭するように一途だった。真面目で、力強くて、少しだけ儚い。始めて見るくらい魅力的である。
 しかし、正午の太陽に輝くマッターホルンみたいな表情で「合格」などと宣告するユミ子だが、一体なにを言っているのだろう。
「今まで黙っていたけど、私は組織の一員です。役職上は納屋君と同じブロック長≠ノ当たるわ。アンナさんの一つ上の役職。アンナさんとは直属関係には無いけどね。あの子は納谷君の部下だから」
「ハァ!?」
 啓太は顎を外さんばかりに驚いた。ここ三年間のユミ子の素行を頭の中でなぞってみたが、そんな真面目な副業をやっているような顔は見たことが無い。
 もっとも、現在のユミ子が真面目な顔をしているのは、猛烈に嫌な予感を誘う。
 そして、ユミ子が机の上に持ち込んでいる黒色PC。
 首元のリボンの少し上に引っ掛けているゴーグル。
「今回のイベントは、啓太の適正をみるテストケースだったの。結果、組織に入る適正あり≠ニ判断した。アンナさんからお誘いはあったかしら?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て。一息、いや百息ぐらいつかせろ。その後で説明を許してやってもいい」
「なに生意気言ってるの。ひら構成員のくせに。ひねるよ? 冗談だけど」
「お前、本当にユミ子なのか? いやすまん、ユミ子に決まってるよな。うちに毎日来てる奴を取り違える認識能力なら、怖くて外すら歩けん。俺は明日から部屋に引きこもる。……って、待て。事情も分からんのに、なぜ組織とやらに入ってることになってるんだよ」
「事情なら簡単明白よ。教えてあげる。服、脱ぎなさい」
 ユミ子は自分のブレザーの肩に手を載せ、命令する。冗談を許容している目ではない。
(まったく、どいつもこいつも、何故にこういう真剣な目が好きかね。そしてどいつもこいつも馬鹿すぎる。組織だとか標章だとか、セカイ系の非現実的な話に真剣になっているところがな)
 啓太がブレザーを脱ぐと、ユミ子は組んだ足をステッキのように使って立ち上がり、ブレザーを取り上げた。
「啓太が組織に入らなければならない理由は、これよ」
 背中の裏にくっついている標章の数が、二つに増えている。
「どういうわけだ? イベントは終わったのに――そういう顔ね」
「いや、違うな。まだお前が組織の一員だということを納得していない顔のはずだ」
「イベントなら、終わったのよ。確かに」
「完全無視ですか……」
 ユミ子は真夏の都会を歩くサラリーマンのように啓太の上着をぶら下げ、部屋の中をぐるぐる歩き回る。
「今回終わったのは、啓太のイベントじゃなくてサユリさんのイベントよ。サユリさんにとっては、銀行強盗のイベントは荷が重かったんだろうね。前借りをしちゃうと、イベントの難易度は増すからね。でも、標章の更新契約を勝ち取るためにも、失敗は許されない。だから彼女は啓太に手伝いを依頼した。同じキー人間である啓太にね。というわけで、啓太は他人のイベントに付き合わされただけよ。そして、アンナさんから聞いてると思うけど、世界の債務返済イベントは、ほぼ確実にクリアできないイカサマ的難度を誇っているの。だから、啓太が手伝った程度じゃどうにもならなかった。当然、サユリさんは潰される運命だったし、啓太も一緒に潰されるかもしれなかった。そこを救ったのはアンナさん。二人とも助かってホッとしたわよ。今回、かなりのバクチだったの。私たちが問題文≠解いていないうちに、既にサユリさんが啓太を引き込んでしまっていた。世界が啓太を巻き込んで動き始めていたのよね。組織としては、未然の救出は諦め、イベントが始まってから啓太を救出するしかなかった。私が行こうとも思ったけど、アンナさんに任せることにしたの。実行力なら、彼女は私や納屋君よりも断然上。彼女に賭けた。結果は、万歳よね。私の中学以来の親友が潰されなくて済んだんだから」
 ユミ子は下から啓太を覗き込み、小気味良くウィンクする。
 後ろ手に下げていた上着を押し付けるように返してきた。
「でもね。世界は理不尽なものなのよ。つまり、世界の債務は人を潰しながら転がって行くの。イベントをクリアできなかった人の債務は、近くの人間に移転しちゃうのよね。これを債務の強制譲渡≠ニ呼ぶのよ。……なんて説明する私、上司らしいでしょ? エヘヘ。笑ってる場合じゃなくてね、サユリさんがクリアできなかった分の債務は、近くに居た啓太にのしかかってくることになった。だから啓太はいずれ自分のイベントを迎える時、二倍の債務を返済しないといけなくなったわよ。覚悟はいいわね?」
 ユミ子は二倍の声量で「二倍」と念を押してくる。
 しかし表情は意外に明るい。ヤマ場でセーブしていたRPGを再開する時みたいな顔だ。
「啓太を組織に入れた意味、分かってくれたわよね? このまま一般人として生きていたら、啓太は自分のイベントの時に死ぬわ。絶対死ぬ! でも、世界をやり込める方法はある。こっちから打って出ることよ。世界に追われる側じゃなく、追い込む側に回るの。わが組織に入れば、さまざまなツールによって世界から身を守ることができるわ。もちろん、世界に追われる人間を助けることも。だから入るわよね? 契約書はデッチ上げて本部に送信しといたから、了解だけちょうだい」
 大手ゼネコンの本気の年度末突貫工事のように、啓太を担ぎ上げる建物があれよあれよと作られていった。これが周到なイタズラだとしても、イタズラだと判定する分析能には自信が無く、啓太は論理的に頷くしかない気がした。入らなければ死ぬ? どういう殺し文句だ? そう思いながら、
「本気ですか……?」
 と呟くぐらいしか、やることが無かった。
「ようこそ、わが組織へ!」
 ユミ子の強制握手が待っていた。
 わけがわからない。いつのまにかゲームの登場人物になってしまったみたいな浮遊感だ。だが今は確実にユミ子のきつい握手の感触を味わっているわけで、これは、現実だ。「なるようになれ」という呟きが、脳内でスクロールされていることに気付いた。たぶんこれが、答えなのだろう。
「実はさ、組織に入ったら啓太が必ず助かるとは言い切れないの。確かに色々ツールはあるし、世界に関する研究も行われているけど、いつも世界の方が組織の上を行くからね。でもいいでしょ? そこは親友補正で大船に乗ってよ。啓太が危なくなる時は、私も一緒に戦ってあげる。約束する」
 ユミ子は啓太に軽く抱き付いて、部活終了後みたいに爽やかさしか無い笑顔を残し、部屋から出て行った。いかにもさりげなかった。
 しばらくぼーっとしていた啓太は、ハッとして窓辺へ行き、急いで窓を開けた。
 木枯らしめいた風がビュウと当たり、顔じゅうひんやりしてくる。
「ユミ子っ」
 スカートから伸びる長い足が止まり、ユミ子の影が振り返る。
 啓太の胸の中は、ワインを沸騰させているみたいな感じだった。熱くて、くらくらした。
「その……。よろしくな!」 
 啓太が地味に手を上げると、ユミ子の影は溌剌と手を振った。
「組織に入っても、アンナさんを好きになっちゃダメよ! 啓太には私が居るんだからね!」
「え、なんだ? 聞こえない!」
「……みんなで仲良くやりましょう、って言ったの! 近いうちに、アンナさんも入れて集まりたいわね! じゃ、また!」
 影は踵を返し、となりの宅地への道を駆けて行った。
 
 
(終)
(0902)




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