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                    Ψ
 
 随分と日も短くなったものである。アンナと啓太が電車から降り、改札のために橋上駅舎を歩いていると、線路の果てにはトマトをたっぷり入れて煮込んだカレーみたいな色の夕焼け空が垂れ込めていた。ムード満点。じつに、晩秋である。明日の予行演習には申し分ない。そして、予行演習となっていることは問題だった。
(よもや、B町初上陸が、明日ではなく今日になろうとはな)
「金曜日のことは誰にも言わないで」と頼まれているから、あしたサユリと出掛けることは誰にも言っていない。アンナにも漏らしたはずはない。
(既にリサーチ済みなのか? まさか。どうやって。知ってるわけない)
 啓太は、「B駅」の看板の下、ゆっくり伸びをした。
 アンナはモバイルノートを持ち、片手で操作している。電車のボックス席でも、膝の上に載せて一心に打ち込んでいたが。
(この方は何をやっておいでなんだ?)
 横目で覗き込む機会をうかがっていると、サラリーマンやOLとおぼしき人々から次々と体当たりをいただいた。B駅前の町並みは、生ゴミのポリバケツを開けたように猥雑だ。K駅とは様相が違った。この町は、A都市圏にスプロール状に広がる人口集積地の一つなのだろう。商店街の古ビルや電線の堆積は、今にも駅に向かって崩れそうにゴミゴミしている。いっぱしに東京××銀行の支店など見えるが、ここではまるで屋台だ。大昔の戦争で焼け残った町なのかもしれない。
「オマイ、ここは初めてか? 入口の下に居たら邪魔だぞ。よけておけ」
「それは、あんたが今見ているネットの観光案内の情報か?」
「うんにゃ、ここには良く来る。弓具を売っている店があんのでな。PCは副業に使っとるんだ。副業が忙しいもんで、勉学はイマイチな。もっと人手が欲しいぞ」
「株式投資か? ネットオークションか? 親の名義を借りてやってるのか」
「うんにゃ、そんな現実なこっちゃない。情報集めて、打ち込んでる。何十時間打っても、伝票一つ、書類一枚できないような作業」
 アンナは舌足らずだし、周囲の雑音もあったので、「現実的な」の部分が「現実な」と詰まって聞こえた。
「ほんじゃ、行くぞ」
 アンナは折り畳んだPCを小脇に抱え、商店街にかかるV字型の夕焼け空に向かって歩き出した。駅のロータリーから町へと蜘蛛の足のごとく走る道を、人の流れに乗って歩いた。赤とか青の飲み屋の提灯が目立ち、串焼きの臭いや煙が漂っている。
 だが、騒がしいのもすぐ終わり、町外れの弓具店に到着した。
 啓太には、そこが箱形の二階建て民家にしか見えなかったが、アンナが弓具店だと言うのだし、止めてもアンナは中へ入って行くだろうから止めなかった。
「ここで待て」
 アンナは、ファラオの石棺みたいに厚いドアの中に消えた。
 五分たち、十分たち、イライラし始め、やがて怒りさえ通り越して自分の記憶が心配になってきた。
(あいつ、本当にここに入った……よなあ?)
 女の探し物と買い物は長いというけども、矢の一本にまでそれが当て填まるとは。
「や、待たせたな。店の人間との話が長くなっちまって」
 ようやくアンナが姿を現した。待たせた自覚ぐらいはあるらしい。
「あんた、一つ訊いてもいいか?」
「なんだよ。謝らんぞ。駅前でも散策していりゃ、退屈しなかっただろうよ」
 マジな目をしている啓太を軽蔑するように歩く。
「そうじゃない。あんた、矢を買いに来たんだろう」
「無論、そうだが」
 クソマジメな顔して見詰め合う二人。
 そのままの顔で、アンナは弓具店に引き返した。
 
 
「さて、無事かつ迅速に、買い物も終わったな」
「そうですか」
「なぜに急に敬語。アタシは偉かったのか?」
「いいえ、今のは俺なりの嫌味を込めてね」
 啓太は、アンナが握っている長ひょろいビニール袋を指し、訊いた。
「その矢のお金、俺持ちだったよな。いくら払えばいい?」
「ああ、そういえば、オマイが弁償することになっていたっけ」
 アンナは空を見上げてしばらく考えたあと、強引に啓太の腕を引っ張った。
 おり始めた遮断機や、道路を塞ぐバスや、タクシーの渋滞や、ハトの糞だらけの植え込みをすり抜け、駅前の狭い広場まで啓太を連れて来た。
 二つ向かい合っているベンチのうち、ホームレスが寝ていない方に腰掛けた。
「オマイも隣に座れ」
 ほぼ中心を占領しておきながら、迷い無くそういうことを言う。はみ出す感じで隣に座ろうと思ったものの、ハトの糞がついていたのでアンナの言う通りの位置に腰が落ち着いた。くっつき合って暖を取る季節には、まだまだ早い気がする。
「なんだ、くっつくな暑苦しい」
「あ、あんたが真ん中に居るから」
「うんにゃ、それはない」
 暑苦しいどころか、涼しい顔。まるで、猥雑な駅前風景からマイナスイオンの波動でも受け取っているような表情である。場所をずれる気は無さそうだ。
 啓太はハトの糞を凝視していた。アンナの感触を意識しないようにすると、自然に顔がそちらに向いてしまうからだ。
「あのな、金は払わないでいい。そのかわり一働きしてもらいたいんだが、できるか?」
「一働き、ですか」
 思わず敬語になったのは、デジャブを感じたからである。
 サユリに呼び出された時にも、似た場面があったような。
「一働きといっても、走ったり持ち上げたりしてもらうわけじゃあない。ちょっとの時間、アタシに付き合っていればいいという話でだな」
 今日は、放課後からずっと付き合っているじゃないか。そう問おうとしたら、
「ただし、今からの時間は、より近い感じで付き合ってもらう」
 アンナは顔を上げ、ほのかに嬉しそうな表情をした。
 こんな至近距離に同級生の顔があるのは、中学の修学旅行で朝起きた時、寝相の悪い友達の顔を間近に見て以来である。アンナの錫色の長髪が、背中から浮いて遊びはじめ、けっこう強い風が吹いているみたいだと分かる。
「これを見てくれ」
 アンナは肌身離さぬPCを開き、一枚の画像を全画面表示させた。啓太は、画面などより、二人の膝に半分ずつ載っているPCの感触のほうが気になっている。
 つまらない画像だった。
 五高の制服の写真らしい。胸のワッペンの拡大画像に見える。目が粗すぎるため、形が崩れかけているが、この盾形は五高のワッペンに違い無い。
「うちの学校のワッペン」
「とは違うぞ。偶然にして、似てはいるんだが。もっと珍しいものだぞ」
 アンナはPCをしまった。
 今度は、アンナの指が、啓太の手を捏ね回してきた。
 啓太は指の付け根で軟体動物が這い回っているような感触に驚き、あとで反動がきて一晩中眠りこけてしまいそうなほどにシャキリと覚醒した。
 アンナの横顔を見ると、一人で学術書でも読んでいるような大マジメな顔だ。顔に漂っている静けさと、下で動いている手の生々しさとが嫌でも対比され、啓太は落ちる寸前のジェットコースターに乗っているように頭がクラッとした。
 ところで、手を無理矢理ほどこうという気にならないのは何故だろう。
「世界一の幸福≠ニいうのがどんなものか、オマイは知っているか?」
 唐突に、そう訊かれた。
「偉くなりたいと言う者も居ような。金を儲けたいと言う者も居ような。病気が治ることが幸福だと言う者も居るだろう。幸福は、人によってそれぞれある。人間の側から世界一の幸福を決めることは、ありえん話だ。だから幸福は世界の側が決める」
 アンナは、空いている方の手を啓太にぎゅっと絡めた。
 たぶん、向かいのホームレスからは、イチャついている高校生カップルにしか見えない。実際、植え込みの向こうを歩いていくサラリーマンや主婦の中には、歩くスピードを落とす人も居るほどだ。恥ずかしがって顔を逸らしても、そらした方向にはタクシープールがあり、運転手諸氏から見放題である。
 啓太は、戸惑いながらも確信していた。日本の至る所でイチャついているカップルたちが、「世界一の幸福について」などという形而上学的議論に精を出しているならば、やつらが揃いも揃ってニコニコ笑い合うなどという状況はあるわけがないと。
 アンナは倒れかかる勢いで上半身を預けてくる。
 しかし目を見れば、踏切をうるさく行き来している電車の塗装よりも冷めた光があった。
「こら。矢を折ったことを申し訳なく思っているなら、もっと仲良く見えるように芝居しろ。それがオマイの役目」
「な、なんでだよ! だいたい俺は普通な人間であってだな、あんたみたいな特殊な方とは言え、女性にもてる覚えはないわけで……、ちょっと待て、芝居だって?」
「なにを妄想特急を走らせとる。しょーもない男。……フフ、だが、そういうところ、すこしカワイイかもな」
 錫色の目は一瞬、心地いい温泉にでも浸ったように穏やかになった。
 アンナは、大正期の作家近影みたいに荘厳そうな顔をしている啓太の顎をつつき、
「そ、芝居だ。なぜかというと、アタシとオマイは、ある者≠ゥら監視されている。アタシはその者の目を欺いてオマイに情報を伝える役目があり、オマイは情報を受け取る役目がある。これを達成するためには、アタシらは監視者に不自然だと思われない行動を取る必要がある。アタシらがイチャついていれば、監視者は自然だと思う。イチャついてるように見せ、裏で奴の秘密をバラしても、たぶん気付かれやせん」
「ふうん、監視者。誰なんだよ、そのヒマ人は」
「決まっとろうが。この世界(セカイ)だ」
 アンナは白鳥が羽を伸ばすように腕を広げた。そのまま啓太にのしかかり、ぎゅーっと抱き締めた。ドライフラワーみたいな乾いた芳香が鼻から脳へと届き、頭がぼんやりしてきた。
「は、恥ずかしいから、オマイも同じようにしないか。これじゃあアタシはイタイ押し掛け女みたいだろうがな――」
 アンナの声が急に自信なげになったので、ともかく啓太はアンナの体を抱き締めてみた。
 ケホケホとむせているようだが、謝らない。言われた通りにしただけだ。
 この体勢は意外と気楽だった。アンナは首元におさまってしまうくらい小さいので、顔を見詰めなくても済む。
「く、苦しい。ちょっと緩めろ」
 アンナの拳骨が背中をとんとんと叩く。了解。
「で、次はどうするんだ。キスでもするのか?」
「ば、馬鹿をぬかせ。キスなんかして口を塞いだら、話ができなくなろうに!」
 自分からくっついたくせに、アンナは啓太の胸を突き放した。真っ赤な顔で目を白黒させているのは、小動物みたいで意外とかわいい。
「そ、そうだな。姿勢的に、こんなもんだろ。楽だしな……」
 結局アンナはチャイルドシートのように啓太の上に落ち着いた。
 啓太は、落ち着かなかったし、楽でもなかった。
 
 
 着いては出て行くピストン輸送のタクシーや、せわしなく駅前道路を横断するサラリーマンが視界に映る。
 その下方で、アンナの後頭部が呟く。
「いいか、よく聞けよ。世界に気付かれないうちに言ってしまうからな」
 口を開けるなり難度の高い日本語を吐き出してくれるものだが、いちいち突っ込むのも疲労するので突っ込まない。そして、同じ疲労でもアンナに座られることによる大腿部の疲労は全然感じないのが不思議だ。つまり啓太は結構上の空であった。
「世界から見れば、人間には二種類しか居ない。鍵(キー)になる人間と、それ以外のゴミ人間だ。なあ、どうして世界は人間を作り出したと思う? ……言い方を変えれば、アタシ達はどうしてこの世界に生まれたんだと思う?」
 飼い主を好いているのか嫌っているのか謎な黒猫みたいな目で、アンナが振り返る。
「その質問なら、大昔から科学者や哲学者の方々が答えようとしているんじゃないのか」
「ほんとはな、そういう偉い人々の手を借りずとも、答えは出ているのだぞ」
 アンナは枕経(まくらぎょう)の席で家族に説法する坊さんみたいな調子で言った。
「人間は、世界の道具として生まれた。これはこの世界の人間に例外なく当て填まる真理である」
 啓太の腿の上のアンナは、自分の腿の上でモバイルPCを開く。
「……だったかなあ。研修の時のテスト以来だから、忘れてしまったぞ」
 啓太はアンナの肩越しに画面を覗き見る。
 無味乾燥な黒のデスクトップには見慣れないアイコンが並び、中には〈松森啓太〉〈青田ユミ子〉〈神内サユリ〉という名前のファイルが……。いや、クラス全員分と見られるファイルが羅列されていた。アンナが新しい画面を立ち上げたので、ファイルは隠された。
 画面にはテキストファイルが表示された。
 アンナのセリフと同じ文言で始まるテキストであった。
 
 
『人間は、世界の道具として生まれた。これはこの世界の人間に例外なく当て填まる真理である。真理がそこにあるにもかかわらず、人間たちが真理を認めようとしない理由は、まず第一に……』


「お、そうだ。これは見せちゃいけないテキストだったかな。オイ、アタシが話す間、目を閉じていてもらえるか」
 アンナの後頭部が言った。
 もちろん啓太は、怪しげなPCに非常な関心を惹かれていた。
 だが、とりあえず、目をつぶってみた。
「んと、かいつまんで言うとだな、オマイを納得させるためには、まず下記の理屈を……って、下記って、何処だ? あぁココだ。この字、何て読むんだ? たくぅ、難しく書けばいいと思ってやがって……」
 アンナの音読スピードが半分以下に落ちた。
 目をつぶってる時間が長くなりそうだな、と啓太は思った。
「第一法則。世界は、それ自身の自律性と完全性の上に回っており、世界という構造体としては、常に理想の方向へと進歩している。従って、世界が気まぐれに人間を増やしたり滅ぼしたりするように見えることがあっても、それは文字通り人間の思慮の浅さよりくる譫妄(せんもう)なのである。なぜなら、人間は世界の自己構築のために作られた道具であり、道具を使うも捨てるも、世界だけが決められることだからである。世界は絶えず自己構築し、その運動は常に正しいのである。この世界で起きる出来事は、どんな些細なことも、残酷なことも、悪逆なことも、不毛なことも、すべて理由と正しさを持つのである。理由と正しさってところ、傍点がついてるな。出来事のフタ然性は世界が与えるのであり、人間が勝手に編み出すものではない……」
 啓太は目をつむりながら指摘する。
「フタ然性じゃなくて、ガイ然性じゃないのか」
「う、うるさいぞ、細かいことを気にするでない。……という世界構造を、まず理解させましょう。……あっと、ここは違うか。なんたる読みにくい手引書か。1+1=2ぐらいの明快さがあって然るべきものを」
「おーい、大丈夫か?」
「な、なんでもない、目を開けちゃならんぞ。次の説明は……。第二法則。人間には二種類ある。世界の自己構築に直接的に関わる人間と、そうでない人間である。そうだ、そうだ。ここからはアタシも復習してきたんだ。マニュアルはもう要らんや。まだ目はつぶってろよな。PC閉じるから。その間、さっきオマイに見せたワッペンの画像を思い出してみな。覚えてるか?」
 PCをノートのようにカサリと閉じる音がした。
 腿の上からアンナの重圧が消える。重圧というほど重くはなく、いやむしろ足のコリがほぐれるくらい心地よい軽さだったのだが、それが消えてしまうと腿の上がやけに軽すぎる気がした。
「目、開けていいぞ」
 横からアンナの声。
「どうだい、駅前の景色は。今までと違った感じに見えてきたかよ?」
「いや。別に」
「……だよなぁ。今の説明で納得できたら、精神病院行きだろ」
 アンナは猫のように胴体をのばし、ものうげに頬杖をついた。その横顔を見ながら、啓太は思う。なぜアンナは、取り合ってもらえないことを自分でも知っているようなトークを、延々とやり続けているのだろう。
「……それで、ワッペンがどうしたんだって?」
「ん、ああ、ワッペンの話はな。あれは世界からの標章≠チていうことよ。標章≠ニいうか、表彰≠ニいうかな。この世界には、世界から直々に自己構築の鍵(キー)に指名されている人間が居る。そうした少数のキー人間は、その名の通り、世界構築の鍵となっている。キー人間が使命を果たしてくれなけりゃ、世界の歯車は止まらざるを得ない。そこで、世界は世界一の幸福≠ニいうもんをキー人間に与えることにした。それが、さっきオマイに見せたワッペン。世界のお墨付き標章≠セ。服の裏に、ぺたりとな。標章≠与えられた人間は、世界一の幸福を味わう。国家資格どころじゃないぞ。世界が認めた、世界一の幸福だぞ。これ以上分かりやすいものは無かろうよ?」
 啓太はなぜか、家庭科室でサユリのブレザーの内側に黄色の刺繍が見えたことを思い出した。
(あの刺繍は、何となく……。いや、まさかな)
「だけども、世界の方だって、ただで標章≠与えるわけではない。『標章をあげるから、キー人間の使命を果たしてくださいよ』ってことだ。ひとくちに使命といっても、内容はキー人間によって違ってくるんだが、使命を果たせば世界の歯車は確実に少し回る。その意味では一緒だな。――と、いうわけで、世界一の幸福なんて、至る所にある。キー人間の数だけあるんだものな。オマイの視界にだって一人ぐらい映っているかもしれんぞな」
「フシギな話だな。なかなかに」
「信じてみるか?」
「そうだな……」
 ベンチに二人並んで、寝起きさながらに魂の希薄な顔。
 別れ話でもしている恋人みたいだ。
「昨日の一時限目までの俺なら、信じなかっただろうけどなあ」
 と口にした瞬間、啓太はネクタイを引かれて犬みたいに這う。……ん、こんな場面が、前にもあったような。
「な、な、なんだと! オマイ、信じるのか? アタマは大丈夫なのか?」
 アンナは血相を変えて啓太に迫り、同時に思い切りネクタイまで引っ張ったので、見事に頭がカチ合った。
「い、いたあっ! 何をするか、気をつけろ……!」
 うずくまって額を押さえるアンナ。
 一方、啓太は男らしく黙っているように見えて、目には涙がこみ上げるのだった。
(ひ、火花が散りやがった。ものすごい石頭……。この、アレチウリ女め。有害な特性を備えやがって)
「ふ、ふん。オマイ。やっぱりおかしい人間だな。ま、まあ、信じたいんなら勝手に信じればいいんだ」
 アンナは居住まいを正す。やっぱりとは何だ、と反問せざるを得ない。啓太は人一倍普通人であることを心掛けているのだが。
「じゃあ、これでアタシの講義は終わりだが、なんか質問はあるか?」
 講義だったのですか。いつのまに。
 啓太は、向かいのベンチに寝ているメタボなホームレスを眺めつつ、言った。
「そうだな、まず俺は、あんたの言う標章=c…だっけ。至る所にあると言う割には、実際に目にしたことはないんだがな?」
「ああ、それは、なんというか……。オマイ、魚釣りをやったことがあるか?」
「釣りが趣味なのか?」
「違うわ。あんな生臭いもの、嫌に決まってよう。小さな頃、オヤジにムリヤリ連れて行かれたりしたろうが」
「堤防で投げ釣りくらいなら、むかし友達と行ったけどな」
「あれは、海に到着したからといって、堤防から海面を眺めているだけでは何も分からんだろ。底の地形がどうなっているか、どういう所に投げれば釣れるのか、まず釣ってみるしかないだろ? オモリ付きの仕掛けを投げて巻きゃあ、底の様子が手に伝わるだろ。岩になってるとか、砂地になってるとか、海藻が生えてるとかな。つまりそれと同じよ。オマイらが普通に生きていたって、標章≠ヘ永遠に見えて来んわ。見えたら大騒ぎだろうがな。なんてーか、普通の物体がタテとヨコだけでできているとすると、標章≠ヘナナメだけでできてる感じなんでな、ソンザイゲンリが違うとでも言うんだろ。要は、標章≠見るためには、それ用の道具立てが必要なんだよ」
「少年漫画で出てくるような、特殊なゴーグルでも使うんですかね?」
「にゃ、それは別だ。標章≠見るにはコツと慣れだな。アタシみたいに、いつも見ていりゃ、黙っていても見えるようになる。……それに、アタシの近くに居るオマイも、な」
 アンナはベンチから降り、啓太の前に立つと、
 啓太のブレザーを脱がせた。
「おい、何なんだ?」
「いいからっ」
 形式的に抵抗したものの、どうせ脱がされることになるだろうとも思っていたから、そこそこに両腕からブレザーを解放した。
 アンナが手に提げる黒のブレザーは風に揺れ、
 裏地にて、黄金のワッペンがひらめいていた。
「な」
「その顔、やはり……。見えてるよな?」
 アンナは顔をしかめた。
「背骨の真後ろぐらいの部分か。今まで見落としていたとは、俺の視力も落ちたものだな」
「立派な標章≠セな。さっきの画像より、ずっと鮮明ぞ」
 アンナは、父親のワイシャツをつまむ娘のような顔でブレザーを見ている。啓太は、上っ面だけは平静を保ってみる。
「なるほどな。なぜに奇妙なお話をわざわざ俺の真横でやるのかと思っていたよ。こういうオチですかい。ハハ、ちょっと面白え。だが、変だねえ。世界一の幸福な気分などツユほども感じないどころか、ちょっとばかり憂鬱でさえあるんだがな」
「そーだろな。オマイは、珍しい。だいたいな、標章≠与えられた者は、標章≠認知することはできん。世界一幸福な気分のあまり、ハツカネズミのレバー押し実験みたいに、幸福感に浸り切ってしまうからな。一種トランス状態のまま、世界の指導に従って使命≠果たそうとする。盲目人形さな。まれにオマイみたいに、標章≠フ効力が及ばない人間が居る……とは聞いたことあるぞ。見るのは初めてぞー。幼少時に世界への深い失望を抱く体験をすると、オマイみたいになりやすいという話だぞ。心当たりは?」
「……特には」
 啓太は、重苦しい沈黙が流れている感じがした。
 そして、次の瞬間、こんなことを言う自分が新鮮だった。
「なあ、アンナ。俺はどうなるんだ? 何かすりゃあいいのか? とにかく、無性にイライラしてるんだけどな」
 アンナは、大きな目を1・1倍くらいの大きさに見開いて佇んでいた。
 つかつかと歩いて来て、啓太の肩にブレザーを広げた。
「無理もなかろーよ。勝手に標章≠ネど負わせられてもな。そんなの、身に覚えのない借金もおんなじだしな。けど、アタシが話せるのはココまでだ。オマイにこれ以上の情報が与えられると、不確定要因が増えすぎる。イベントの場≠ェ乱れてしまう。そして分かってくれ、アタシはオマイの敵ではない。むしろ……」
 啓太の肩に手を置いたまま、アンナは押し黙った。
 啓太は自分でも深刻めいた顔をしているのが分かった。膝に腕を乗せて「考える人」みたいなポーズを取っている。思いつく限りの考えを、福引きの玉みたいに頭の中でガラガラと回してみた。そこには当たりの玉は含まれていない感じがした。
 ついと顔を上げてみたら、アンナの目線とぶつかった。フシギなもので、朝には小生意気な小娘にしか見えなかった少女が、今は全然別物になって網膜に像を結んでくれるものだ。それは事実なのかもしれなかった。あるいは、一緒に居たせいでアンナの有害な磁場に自分が汚染されただけなのかもしれなかった。どちらなのか分からなかった。冷たい水面が風にくすぐられるみたいに、少女は何となく笑っている感じがする。
「帰ろうか」
 アンナは熱中している映画の途中で退席させられるような顔をしながら、今度はハッキリ笑った。






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