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                    Ψ

 翌朝、啓太は始業の遥か前、電車に揺られていた。
 ローカル線のため、朝早かろうと遅かろうと、乗客は一定して少ない。
 朝早かったゆえ、眠りこけてしまい、三つ先まで運ばれた。
 ローカル線ゆえ、反対方向の電車もなかなか来ず、待っているうちに腕時計は三分の一周した。
 校門を走り抜けながら、中学のバスケット部時代が思い出される。
(朝練だったら、終わってる時間だな。遅れてきた奴は一日中仲間から白けた顔をされかねん。つくづく運動部というのは熱血な若者の娯楽だよ)
 なまっている自分の体には怒りを覚えるが、それでも一応、まだ早い時間帯に学校入りできたことは安堵したいと思う。
 じつは昨日の夜であった。金曜日にアンナとの強制デートも入っていたことを思い出したのは。もともと無理矢理させられた約束である上に、同じ日を指定してサユリからもお出かけの申し出があったのだから、これは忘れても致し方なかろう。
 約束は二つ。啓太の体は一つ。サユリに日程をずらしてもらうのは恐れ多い気がした。アンナの方をずらしてもらう以外にない。しかしご周知の変態的人格であるから、頼み事をするならば誠意くらい見せなければ。……とうわけで誠意を見せるべく早朝から弓道場を目指している次第だ。
 アンナが平日休日を問わず早朝練習しているという話は、瘴気のように彼女を包む噂の一つとしてポピュラーだし、ユミ子に確かめても真顔で肯定したぐらいだから、「夜になると銅像が動く」系の校内伝説よりかは信頼できる気がする。
(まだ練習終わってないといいけどな。……というか、弓道場に居ればいいけどな)
 近道しようと思い、校舎の中へ。裏手の弓道場には、校内を抜けて行くのが早い。
 しかし、電気のついていない廊下は薄暗かったうえ、駅から持久走してきた啓太には惰性で前へ進む能力しか残っていなかったわけで、まもなく校舎を抜けようかという所で、ある男子生徒にぶつかった。啓太とは逆に、校舎へと入って来た生徒である。早朝にぶつかるのは可愛い女子と相場が決まっていて欲しいところであったが、その男子は部活で足腰をいじめ抜いてでもいるのだろうか、スモールサイズの制服姿は杭のように微動だにせず、啓太だけがピンボールみたいに弾かれて壁で手首をくじいた。
「す、すいません」
「気を付けろ」
 猫背のチビ男は、縮れ髪の間から一つだけ覗く目を動かすこともなく、まるで周辺視野で啓太を捉えているような不気味さを発している。
 男の首はインコみたいにクルリと回った。
「ん、お前、確か……」
 高級和紙製の人形が一気に握り潰されたみたいに、男は顔じゅうグシャリと皺寄せた。泣いているのか? 笑っているのか?
「松森啓太か。いい所で会ったな。一つ言っておくぞ」
 ネクタイを掴まれ、強引にひざまずかせられた。チューしてしまいそうな近さに男の顔がある。怒っているらしい。おまけに、啓太のことを知っている様子ではないか。口から朝飯の残り香が漂ってくる。ネギ入り納豆を食してきたようだ。
「おい。あんまり粋がらない方がいい。神内サユリに近付くな。これは忠告だぞ」
 男は啓太の胸を突き放し、かすかに納豆の臭いを残して立ち去った。
(なんだ、あいつは。近付くなってことは、神内氏の彼氏か? 神内氏を好きなだけの嫉妬深い男か? なら、俺の名前を知ってるのも納得だが……)
 後者であってほしいものだ。初対面でネクタイを引っ張ってくるような男が彼氏だとは思いたくない。啓太は膝頭の埃を丹念に払った。
 外の渡り廊下を誰かが歩いて来る音がした。
 足音は消え、ほのかな風がほっぺたに当たったような気がして、
「ここで何やってるんだ。オマイ」
 見上げてみたら、アンナが立っていた。
 陰影の具合で青白く見える弓道着姿。体温が上がっていることを示す桜色の顔。
 少しドキッとした。
「何でもない、と言いたいところだが、ちょうど良かった。あんたを探しに弓道場に行こうと思っていたところだ」
 啓太はそう言ってから、サユリには丁寧な喋り方をするのにアンナにはしていない自分に気付いた。それは何となく嫌だった。
「アタシに何か用か?」
 しゃがれた声と黒い袴が通り過ぎる。
「ああ、その……」
 アンナは、すぐ近くの水道で顔を洗っている。
 啓太は最敬礼して頼んだ。
「ごめんっ。金曜日に弓を買いに行く予定あっただろ? あれ、別の日にしてくれないか」
 水の流れがシンクを伝う音が無限の糸のように続いている。鏡に映っているアンナの顔を見ようとするも、蛇口に顔を近付けているので表情は分からない。
 アンナはピンと背を伸ばし、人形が台座ごと回されたみたいにクルリと振り向いた。
 無表情だが、中で千匹の虫が蠢いているようないたずらっぽさがあった。
 ばしゃ。
「……?」
 濡れた顔を撫でながら、啓太の頭蓋の中を疑問符が乱舞している。
 アンナは水を浴びせたのだ。口から吐き出された水は啓太の顔に一直線。鉄砲魚なみである。
「きゃっはははははっ!」
 アンナは天井を向いて陽気に笑った。意外すぎるほど無邪気な笑顔だったから、啓太は顔を拭くのも忘れてぼんやりしていた。
 しばらく笑ったアンナは、穏やかな顔に戻った。奥深い輝きに湿った静かな瞳を開く。
「今のは、お仕置きだ。こっちの都合だってあるんだぞ。勝手に日程を変えるな。あと買うのは矢だろ。弓を買ってどーする」
 啓太は不思議だった。背が小さいくせに、どうして三十センチ上から見ているような目ができるのだろうと。
 アンナは弓道着の懐から手拭いを取り出し、渡してくれるのかと思ったら、自分の顔を拭った。
「じゃあ、今日だな。今日の放課後、K駅に来い」
 そう言って立ち去りぎわ、啓太のブレザーの隙間に湿った手拭いを差し入れた。
 とりあえず、その手拭いの乾いている面を使って、啓太は顔を拭いた。
 実はちょっと、濡れている面を使いたくなったのは秘密だ。



『まつてるよ』

 昼休みには、またメール。いいかげん電波メールにも慣れてきた。「誰なんだ」と訊いても「せんさくしないで」と返ってくるばかりだから、アンナかサユリかユミ子なのかを確定させる作業は諦めていた。
 『まつてるよ』という今日のメールに関しては、アンナのような気がした。何かの専門誌を読み耽っているサユリや、いつものように男子連中と談笑しているユミ子よりは、モバイルPCをカチカチやっているアンナがメールを送ったと考える方が自然であった。
 が、「メール出したか?」と本人に訊きはしなかった。どうせ放課後は嫌というほどの長い時間を過ごすのだ。というか嫌気なら既に差している。苦痛な時間を先取りすることもないだろう。 







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