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 雨の中を傘なしで出掛けなければならない時のように、鬱々たる気分で教材をロッカーに戻していたら、ユミ子でもアンナでもはたまた山本でもなく神内サユリに話し掛けられたことにどう反応すればいいかマジで分からなかった。
 啓太の耳が正しければ「松森君」と呼ばれたはずなので、とりあえずフリーズしているより何か言った方がベターだろうと思い、素で「どうしました?」と訊いた。春夏秋と一度も話したことのなかった人間から話し掛けられたため、普通にその意図を知りたいと思ったのだ。ラブコメにおけるアホみたいにウブなキャラのように「かかか神内さんっ!!?」などと舞い上がることはなかった。
 神内サユリがクラスの生徒たちの人気者であり偶像であり象徴であることは啓太を含めて周知のことであり、つまりいわば神みたいなもんである。
 神の存在は、神と人間をきちんと区別することから始まる。神は天上から御利益を与えてくれる存在なのであり、人間があくせく暮らしている地面には立たない。立ったとしても、滅多にない。舞い上がったりするなど、神を人間と同列視する愚行だ。
(何の事務連絡だろうな。神内氏に御足労いただくとは)
 神内サユリがクラス委員を務めていることは知っている。もちろん、あさましい自薦ではなく奥ゆかしい他薦によるもので、クラス総員の支持で選ばれた。啓太は彼女が一度辞退してからやはり引き受けた経緯を覚えている。控えめだが真面目という彼女の美点がよく出た一幕であった。
 それで、そのクラス委員が直々に声を掛けるということは、クラス運営上の事務連絡があるに相違ない。
(前日のホームルームでアンケートでも出してなかったか? 課外活動で行ったボウリングの金が足りないのか? というか本日もあなたは穏やかで恬淡として見目麗しいですね。背は俺と同じぐらいなのに頭身が全然違いますね。ガラス張りの希少な植物でも観賞している気分です)
 純粋な関心をもってクラス委員からの連絡事項を待つ。
 するとサユリはペコリと頭を下げ、
「よろしくおねがいします」
 啓太のブレザーの袖口をついとつまみ、そのまま引っ張って行ったのだが、啓太もサユリと同じ速度で足を進めたことは言うまでもないだろう。一方的に馭者との連結を断ち切ってしまう馬車があろうか? 
 なぜか今、自分の袖口をつまみ、一度も振り向くことなく歩く神内サユリが居る。自分が立ち止まったらサユリがびっくりして、あるいは悲しそうな顔で振り向きそうな気がしたので、それだけは避けたいと明確に思っていた。
 しかしどうして突然に二人での学校探索ツアーが始まったのかは一向に思い当たらず、見慣れた学校内部を歩いているはずがジェット機で洞窟内を突っ切るアクションゲームでもしているように感じられた。
 ぱたん、とドアを閉じる音がして、啓太が連れて来られたのは「家庭科室」だった。
 まれに調理実習があるときに使われる部屋である。あまり使われていないためか、カーテンは八割がた閉まっており、今が午前中だというのが嘘に思えるほど薄暗い。棚の中に入っている包丁とかザルとかボウルとか、それ系の金属的な臭いが漂っている。
「神内さん。何の用なんです。休み時間、終わってしまいますよ」
「大丈夫よ。教室から近くて、さらに誰も居ない場所なの。リサーチしてあるわ」
 サユリは二枚組のスライド式黒板を上に滑らせる。海鮮丼らしきレシピの書かれていた板はガラガラと上へのぼって行き、まっさらな黒板が下りて来る。
 サユリは手早く黒板に文字を書き付けた。
 
 栄 耀

 たった二つの文字が黒板の全面を埋めたのは驚きであり、書家ばりの激しい字体をサユリが書き付けたことも驚きである。サユリは行儀悪くスープを冷ますみたいに、指先の粉を吹き飛ばした。
 スレンダーな肢体の中でもひときわ細い腰へと手を当て、鋭角的なラインの顎を少ししゃくってみせる。
 いつもと変わらない笑顔のはずが、薄暗がりの中で白黒二色に塗り分けられ、何やら怪しい気配を帯びる。ハッとした啓太がパチパチまばたきを繰り返してみると、生真面目な天使のごときいつもの笑顔に戻ったように見えた。そういえば啓太の家にストックしてあったポテチを一時間で三袋ほど平らげたユミ子が、親指の塩を舐め舐め、「女は誰でも怪物よ」など嘯いたことがある。それとは別なごく真っ当な意味で、サユリが怪物めいて見えたりした。パラパラマンガをめくっていたら一カットだけ突飛な絵が挟まれていたような感じだ。
 ……じつはそんな理屈は結構どうでもよく、啓太は二メートルほど離れた所に立っているサユリの体から何処となくカーネーションのようないい匂いがしてくる気がして、緊張しながらもリラックスしていた。客観的に現在の心境を分析してみるならば、「正直、嬉しい」とでも言えるように思う。
「用っていうのは、ほかでもないのよ。協力をお願いしたい仕事があるの」
「クラス委員の仕事の補助ですか?」
「いいえ。ものすごくプライベートな仕事。ほかの人に手伝ってもらうより、松森君の協力をもらえれば一番いいんじゃないかと思うのよ」
 サユリの少し伏せた目線の先には、統計学的資料でも存在しているかのような口ぶりであった。啓太はこの場面が冗談ではなく真面目なのだと察知したのだが、すると明らかに普段より心臓が早く脈動するのが分かった。
 それでも表向きは完全に落ち着いていた。クラス委員の仕事であろうとなかろうと、サユリが啓太に何かを依頼したい様子なのは間違いなく、であるならば依頼人に失礼は働きたくないと思う。急に恥ずかしがったり格好つけたりするのは、サユリに不快感を与える恐れがある。だから啓太はテストの一夜漬けを倍する気力をブーストさせ、決死でいつもの飄々たる顔を保った。
「……どういう用事なんでしょう? 詳しく聞いてみないと、何とも言いかねますね」
「うん、それはそうね。じゃあ、わたしから一つ質問させてもらっていいかしら? わたしが睨んだ通りの適性≠ェ松森君にあるかどうか、それを確かめておきたいわ」
 啓太はサユリが本当に睨んでいる気がした。さらに、まるで舌なめずりのように口の端っこからベロを覗かせて笑った気がしたけれど、気のせいだろうと思った。そういう歪んだ顔のサユリは一度もクラスで見たことがないし、第一ありえないことだ。国会にて総理大臣が「日本なんかどうでもいいです」と演説するくらいありえない。
 コン、と手の甲で黒板を叩く音がし、サユリが問い掛ける。
「考え過ぎないで、素直に答えてね。では問題です。わたしたちは現代人ですが、ある日急に、明日から平安時代程度の生活レベルで暮らさねばならない≠ニいう法律が施行されました。逆らう人には厳しい処罰が下されるそうです。さて、こういう状況でのわたしたちの心境は? どうぞ答えて」
 サユリは見えない花束でも持っているように両手を差し出し、将来彼氏ができたらこういうふうに笑うのだろうかという笑顔を披露した。
 啓太は笑顔と質問のギャップに硬直した。歌い手が独唱するオペラの見せ場で、同時にヘヴィメタルの爆音演奏も始まったような、ちぐはぐなプレッシャー。「この開き直りっぷりは、ドッキリだな」と勘繰りたくなったくらいである。しかしサユリがドッキリなどやるわけもあるまい。つまり、本気なのだ。そこで啓太も本気で考えてみた。
「そうですね、やはり国民が反発するんじゃないでしょうか。レストランも映画館も遊園地もネットもテレビも無し、夏は暑く冬は凍える生活を送れというわけでしょう。明日からそんな生活になったら、各地でデモや暴動でしょう。大真面目に政府打倒を唱える輩も現れることでしょうね」
「うーん、やっぱり、そうよねえ」
 サユリはあさっての方を向いて考え込む様子。なにげなく顎の先に人差し指を当てる動作が可愛い。
「じゃあ、こういうことでいいかしら」
 人差し指を黒板へ。読み方が分からない上、すっかり存在を忘れていた栄耀≠フ文字。
「一度手に入れた栄耀(えいよう)は手放したくない。ずっと栄耀の中に包まれていたい。そう思うのは普通のことよね。当然なのよね?」
「まあ、そうかもしれません」
 なるほど、栄耀というのは、楽しさとか華々しさとかいった程度の意味であるようだ。
 サユリがわざわざ栄耀≠用いたのは、ここが家庭科室であるゆえ栄養≠ニ掛けたのだろうか? 真面目そうな顔をして、意外と、ま……。
 
 
 ぎゅっ。
(な、何だ!??)
 サユリが近寄って来て、啓太は何をされたのか分からず、サユリの両手が自分の手をふわりと押し包んだのを見ている。
 考えてみれば、会話するという段階からは随分離れているものだ。クラスの人気者であり象徴的存在であり委員長でもあるサユリから手を握られるという段階は。やわらかい指の肉の向こうにある骨の繊細な感触すら分かる。
 サユリは迷子を保護するインフォメーションカウンターのお姉さんみたいな笑顔のまま、啓太から身を離した。
 
 
 その時、ボタンを閉じていないブレザーの内側で、黄色いワッペンのような刺繍がギラリと輝いた。
 
 
 サユリはブレザーの後ろで手を組み、黒板を向いて独白する。
「わたしはね、中学校までは全然目立たない生徒だった。友達は居なかったし、いじめられてたし、自分でもいじめられて当然だって思うくらい取り柄が無い人間だった。毎日の生活は、重苦しさの無限ループ。死にたくなったこともあるけれど、わたしは取るに足らない人間だから、死ぬなんて大それたことは最初からできるわけない。十五年生きてみた限りでは、どうもわたしはグダグダな星の下に生まれたみたいだと思えた。それは自然の摂理なんでしょうね。華々しく生きる人が居るんだもの、グダグダに生きる人だって居るわよね」
「ハア……」
 突然始まった人生語り。どう反応したものか。アドリブを要求された駆け出し芸人みたいに内心汗だくの啓太。心配いらない、とばかりに華やかな顔で振り向くサユリ。
「生活が楽しくなってきたのは、高校生になってからかな。むかしより友達はできたし、部活も勉強も何か楽しいし、ごはんもおいしいし、ごはんの後のデザートは更においしい。不思議なほどに変わったわ。環境が変わったから? メガネをやめてコンタクトにしたから? それだけじゃないと思うのよね」
「信じがたいですね。あなたが中学時代そんな方だったとは」
 啓太は想像の中でサユリにメガネを掛けさせてみる。貧困な想像力のためか、全然イメージできない。同じく、いつも誰かしらに取り巻かれているサユリが一人寂しく席に座っているところも想像できない。
「信じていいのよ。証人はわたしだもの。今のわたしから昔のわたしを見たら、こう思うわ。なんていう雑魚≠チて」
 まさにそういう目で啓太をジトリと見た。どういう反論も許さずに全反射してしまう鏡のような目であった。サユリの内側に根を張っている、過激で危険な人格を見たような気がした。たとえば、天使の像が描いてある油絵をがりがりと削っていったら、土台には既に黒々とした悪魔像が描かれていたかのように。そしてその危険な空気を、
(なかなか凄いじゃあないか)
 啓太はかなり魅惑的だと思っていた。
 安全だけでは物足らない。危険だけでは疲れてしまう。両方混ざれば、どっちでもなく、それで初めて完全だ。
 そんなふうに直感したのは、啓太が人よりもバランスを重視する性格だからであろうか。
(というか、まず考えてみろ。俺は二人きりで神内さんと話しているんだよな。で、クラスでは一度も打ち明けたことないような話を神内さんがしているわけだよな。俺にしているわけだよな。……くわぁ。こういうのは、だめかもしれん)
「よーするに、今のわたしは、強力に運が向いている状態と言えるでしょ〜。だから思うの。いま死んだり昔のわたしに戻っちゃったりしたら、惨めだろ〜なあって。手にした栄耀は、手放さないようにしたいのですっ。そうでしょ?」
 サユリは体をこごめ、小さなガッツポーズをする。男がやったら絶対に気色悪い戯画的動作だが、むしろ一瞬にしてホンワカと室内が適温になるような心地よさ。やはり女は怪物かもしれない。
「ええ。さっき確認した通りです。栄耀を手放さない努力をするのは自然だと思います」
「問題はね、わたしの体が一つしか無いことなの。毎日の生活は異常に楽しいのだけど、ちょっと忙しいのよね。友達づきあいも部活も勉強も手は抜きたくないし、たぶんそういうわたしをみんなも期待してると思うし、だからその期待に応えたいと思うし、頑張れば応えられる自信だってないわけじゃなかった。今までは。だけど急に最近、大きな仕事が一つ舞い込んだ。この仕事は、正直わたしの手に余るの。でも、とても大切な仕事。きちんと片付けないと、わたしから全部の栄耀を奪ってしまいかねない。わたしの存亡に関わる重大な課題なの。だから松森君の協力が得られたらと思って……。手伝ってくれないかしら?」
 口調は柔らかく、表情は真剣。
 隙間から雪のように真っ白く差し込む日光を浴び、菩薩像みたいに曇りのない顔である。
 対する啓太は、顔をしかめてみた。大した腕もないのに荘重な雰囲気だけは離さない木っ端ギャングのように。
「神内さん。自分が何をやっているかはご存知ですよね。秋になるまで一回も喋ったことのない男子を呼び出して、ご自身のイメージをバラバラに破壊するような脈絡ない話をされているわけですが……。俺は、こういう展開は非常に苦手でして」
 そっけなく言い捨て、サユリの横を通り抜けた。
 目薬をさすぐらいの近距離には黒板があり、ニシキヘビの腹のように太い文字が二つ。啓太は前髪の先端に黒板の感触を覚えつつ、続けた。
「ぜひ、協力しましょう。あなたの話を聞いたら、何でも手伝おうという気になりました。俺は今なら、フシギという現象を信じてもいい気分ですよ。恥ずかしいので、そのままで聞いててもらえますか。小学生の頃なんですが、俺は筋金入りのオタク≠セったことがあるんです。某アニメのキャラに本気で恋したことがありましてね。バレンタインデーになったら、きっと彼女≠ェ俺にチョコをくれるはずだ、なんて信じていたんです。現実と非現実がごっちゃになっている小学生的には、アニメキャラなんだからそのぐらい実現させてくれると信じたっていいでしょう。実際、俺は呼び出されました。小六のバレンタインのことです。下駄箱に彼女≠フ手紙が入ってました。手紙に書いてあった場所へ行った俺を待っていたのは、一部のクラスメート達で、およそ十五分に渡ってからかわれましたね。そのとき思ったんですよ。オタクだった俺が悪いにしても、人間は怖ろしいものだ≠ニ。世の中には取ってはいけない行動(アクト)≠ェあると知りました。なぜなら俺がその行動(アクト)≠取ってしまうと、人間たちは持ち前の怖ろしさを起動する存在へと豹変するように思われるからです。行動(アクト)≠取らないようにするのは簡単でした。俺の中に隠れている特定の性格を発動しないで、隠したままにしていればいいだけでしたからね。俺は、自分の一部を忘却するようにしたんです。怖い目に遭うのは嫌でしたからね」
 啓太はことさらな棒読みで思い出話を終わらせ、サユリを振り向いた。
 内心、小六のバレンタインと同じぐらいドキドキしていた。
「とにかく、あなたは魅力的です。完璧に魅力的です。その仕事とやら、協力しない手はないと思ってます」
「そう言ってくれると思ったてた。松森君に相談してよかった。だって松森君は同じクラスだし、それに、同じ――」
 サユリは流麗に振り返り、啓太に右手を差し伸べた。
 小指を立てて。
「きっとわたしの助けになってくれるわね。約束」
「わかりました」
 と答え、右手の小指を鉤状にジョイントさせた。
 いまだに仕事とやらの内容が不明なのが、一抹の不安をそそる。
「約束守らなかったら、殺すから」
 サユリはジョイントをほどき、呟いた。
 啓太は良く聞こえず、「また何か魅力的なフレーズを囁いたんだろう」と判断した。声が遠い時は表情から類推するまでだ。
「それでね、肝心の、松森君にやってもらうお仕事なんだけど」
「何をやればいいんです?」
「金曜日、わたしと一緒にB町まで出掛けてもらいたいの。行ってくれる?」
「行けばいいんですか?」
「当座はそうね。あなたが何をやったらいいかは、行く時には分かっているはずよ」
 サユリはディズニーランドのキャストみたいに完成された振り付けを交えて答えた。
(意外と簡単そうな役目だな。と言うか、ひょっとするとこれはデートなんだろうか。ぼかした表現をするところが実に奥ゆかしい)
 などと思いつつ、啓太は即答した。
「分かりました。金曜日ですね。放課後でいいんでしょうか?」
「ええ。授業が終わったら駅前に来て。待ってるから。それじゃあね」
 今までの会話が夢だったかのようにサユリは唐突に話を終わらせ、それと同時にチャイムが休み時間の終わりを知らせた。
 サユリはお城から帰るシンデレラみたいに小走りに出て行った。
 啓太はいそいそと黒板の字を消し、家庭科室の扉を閉めたところで、
 金曜日に何かどうでもよい適当な用事が入っていたような気がした。

                    Ψ

『きようはせつしよくできてたのしかつた』『こんどまたよろしくね』

 どうでもよくないメールほど気付かない時に届くというつまらない法則が存在するらしい。もっとも、法則は大概つまらないものだという法則も言えそうだが。
 不吉なメールが二通まとめて届いていたのは、下校中だったらしい。携帯を片手に、家のドアを開けると、いつもはリビングに根を張っているユミ子が玄関まで出て来た。二年ぶりぐらいの珍事だ。
 おやつが切れて台所へでも物色しに行くところだったのであろう。
「おう、また私からの嫌がらせメールが届いたかい」
「冗談に思えなくなるからやめてくれ。たった今、問題の謎メールを確認したところなんだ」
 靴を脱ぐ啓太の目に浮かんでいるのは出迎えたユミ子の顔ではなく、モバイルPCを叩きながら不吉に笑うアンナ・ヘーゲルの顔だった。こっそりと電波メールを送りつけて楽しむ人間というと、存在自体が電波発信源みたいなアンナ以外に誰が該当しよう。
(ん、待てよ……?)
 腰をかがめて靴を揃えようとした時、ある疑いがぷかりと浮かんできた。
(せつしよく≠チて、なんか覚えがあるような)
「そうだ、朝のメール。確かに接触≠ニ……。いやまて、あのメールは……」
「なにをドアに向かって呟いてんのよ。おまけに、風邪ひいた子供みたいに顔真っ赤にして。エッチな妄想してんじゃないだろーなぁ?」
「な、何でもない。ちょっと待ってろ」
「あ、おい!」
 啓太は赤い顔を今更隠すように口を手で押さえ、ユミ子を放り出して二階へ駆け上がる。部屋につむじ風でも入ったかのようにバタンとドアを閉め、そこにズリズリと背中を滑らせる。見上げる天井に向かって、熱い顔で溜め息。
(好きな人との接触≠チて書いてあったんだよな。なんてことだ。確かにな、朝に比べたら神内氏を何十倍か好きになってしまったことは否めん。むしろ今まで何故に神内氏に何十分の一しか興味を持ってなかったのか純粋ミステリーなほどだ。俺は高校の家庭科室にて小学校時代の暗黒経験を吐露するという愚を犯してしまったが、何故そんなことをしちまったんだ。だが今はこれだけは言えそうだな。謎メールを送った人物が不遜にも神内氏だとしたら、そのメールの予言は当たってしまったということが……)
 謎メールの犯人候補に、アンナだけでなくサユリまでも急浮上してきた。
 メールフォーマットの異常さからしてアンナだとは思うものの、好きな人と接触するでしょう≠ニいう予言的内容はサユリがピッタリくる。
 正直、どっちなのか全く分からなかった。
 そういえば、一方的に十四通も届けられている謎メールに返信はできないのだろうか。
 手に握っている携帯をカチカチとやり、最も新しい『またよろしくね』のメールを開いてみる。
「くそ、俺もヤキが回ったかな。こんなバカバカしいものに返信を考えるなんて――」
 メール上でメニューボタンを押す。返信のコマンドが普通に表示された。
「――できるのか?」
 画面は返信文の編集モードへ。
(おーい、アドレスが空白なんだぞ。これで返信したら、一体どこに届く? 教えてくれよ、電話会社)
 啓太は喜怒哀楽が綿密に混ざって奇妙な雰囲気を放つピエロみたいな顔をして、ポチポチと返信文を編集した。
 馬鹿なことを真剣にやっている自分に嫌気がさすものの、「人生とはそういう徒労感を数知れず耐え抜く旅程であり……」などという警句をこね上げて自己防衛した。
 一行しか送って来ない相手に長尺の文章を返すのは癪だったから、スクリプトと思われてもいい感じに、
『あなたは誰ですか』
 と送った。
 メールは返って来た。
 
『わたしをせんさくしないで。きんようにわかること』
 
 初めて句点で区切ってきたなと驚く前に、わずか一分足らずという返信時間の短さに驚いた。
(まるで俺の行動が見えてるみたいに、絶妙のタイミングで来る)
 そう考えると、勝手に同じ屋根の下に居るユミ子の可能性も消せないことになる。
(いや、ユミ子のずぼらさからして、小器用なイタズラはあり得ん)
 ということは、結局……。
 犯人は神内サユリということになる。
 家庭科室での約束を思い出せばいい。啓太は、金曜日にサユリと出掛ける予定になっている。「金曜に会えば分かる」と、メールは言っているのだから。
(ん、なにか忘れているような……。いや、気のせいか)






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