Ψ 次の日、啓太は珍しく寝坊した。 昨日のハガキやメールが引き金になったわけではないさ、と一人言をいう。 K駅から学校までの道は流行らないテーマパークみたいに人がまばらだ。啓太は一限目の序盤を捨てることも覚悟した。まだ社会人でもないことだし、将来社会人になったら軽い鬱傾向など抱えて毎朝必死こいて定時に出勤することだし、高校でのたまの遅刻くらい許されるだろうという計算もある。 ブレザーのポケットから携帯を抜き出してみると、ちょうど一限の予鈴が鳴ろうかという時間だ。 忙しい足音と一緒に、少女の声が投げ輪のように降って来た。 「よ、あれからハガキ来たかい?」 「夜は郵便配達しないだろうが」 横一線に追いついたユミ子に答える。 「だが、メールは来たぞ」 「メール?」 「ああ。それによれば、近いうちに俺は俺の好きな人と接近ないし接触することになるんだそーだ。それからどうなるかは知らん」 「な、なんだそれぇ? 誰なんだよー、そんなピンポイントな電波予言を送ってくる人間はさぁ」 「お前でないとしたら、他に心当たりは無い。そしてお前であるとも考えられない。お前の性格的に、あんなまめまめしいイタズラはできん。昨日だけで十一通もメールが来たんだ。今日はまだ来てない」 「そりゃもちろん、私じゃないわよ。イタズラなんてしないわ。だけど啓太さあ、じつは私のことが好き? なんで今まで言わなかったの」 「冗談ぬかしなさい。なんでそうなってんだい。お前の顔と名前と性格が神内サユリさんと一緒だったら前向きに考えさせていただこうか」 「あっ、なにげに物凄いひどいこと言ったんじゃない?」 「それは違うな。俺は恋愛に興味が無い……」 「ホモだからか?」 「最後まで聞きなさい。恋愛に興味が無い……と言うと語弊があるが、どうやら俺は、恋愛という概念について考える必要のない生活を今まで送っていて、これからも送ろうとしている。ムッツリだとか奥手だとかいうわけではない……自己申告によればな。どうやら、俺の場合は、恋愛感情なるものが発生するためには外部の触媒を必要とするらしい。俺単独でブラブラしていたら、永遠に縁が無いものが恋愛だ。ここまで分かるな? さて、突然うちの学校が軍事的組織体になり、神内サユリは松森啓太と三年間同棲生活を送らねばならないという命令が定められたとしよう。俺は神内さんと一緒だ。寝ても覚めても、当然学校でもな。雑誌の扉から抜け出たような≠ニいう形容さえ陳腐なほどの美しさと性格のかわいさとを併せ持つという評判の彼女だ。毎日密着同棲生活など始まってみなさい。さすがの俺も彼女を守りたい≠ニか俺の一生を彼女に与えよう≠ネどと宣言しないとも限らない。よろしいかな。恋愛なるものと俺との距離感をつかんでいただけたものと思うが。それにしても、恋愛という語を朝から連呼するのは胃がギトギトしてくるな」 「とりあえずね、女の子が啓太を落とすにはどうしたらいいかっていうヒントは分かった」 「落とすって……。そう来ますかい」 「啓太を落とそうと思う女の子が居るのかどうかは問題になりそうだけどね。では胃がギトギトしているところに、さらに重症になってもらいましょうかね。私は遅刻するつもりが無いので……」 ユミ子はいつものごとく屈託のない顔にウィンクを織り交ぜてみせ、すばやく啓太の背中に回り込んだ。 「ほらぁ、走れ! 今なら三分前に入れるわよ! 常習者の私には分かるの!」 間に合うと聞き、啓太は学校までの労役を引き受ける気になった。 ユミ子の屈託のない顔はいつも見ているので新鮮味もまたないのだが、今の場面が印象に残ったのは何故だろう。いつもしないウィンクを取り入れてみたからだろうかね……。そんなことを思ってみながら、ユミ子の予言通り三分前に教室へ入り込んだ。 いつもの習性により、啓太は教室に入ると自分の席についた。いつもの習性によれば、そこで十分ほどかけて一日分の予習をやってみたり、課題のやり忘れがないかチェックしたり、後ろの座席の山本と新聞記事より若干おもしろい程度の広汎な会話をしたりなどして、一限目を迎える。本日も一瞬そのような気持ちで着席したものの、いつもと比べて七分以上遅刻していたことを考えていなかった。 (やべ。一限は何だ? 政経か。レポートは出されていなかったな。だが、教科書と用語集を用意しないとな) 通学カバンを軽くするため、あまり使わない教材はロッカーに入れてあった。 クラスの中には、入学した四月時点から全部の教材のみならずマンガにPC、ゲーム機、へそくりまでロッカーに収納してしまった猛者も居るが、啓太は節度ある男であるから、手を抜くのも勉強するのも平均的に行っている。さしあたって今は政治経済の教材を取って来る必要があった。 縦長な形をした個人ロッカーが並ぶスペースは、二組と三組のあいだ。行って帰って来るまで、四十五秒というところである。 啓太は席から立ち、百円入れるとコースを一周するミニSLのような自動的な動きでロッカーへと向かった。鍵は財布のキーホルダーに留めてあったはずなので、これも自動的に尻の財布に手をやり、鍵があるのを確認。……していたら、教室を出たところで少女とぶつかった。 というより、少女の方から衝突してきたと表現した方が正しい。早歩きしてきて、一方的にぶつかり、一方的に転んだ。 少女は派手にべったりと横転し、今はワックスの光る廊下に背中と片手をつき、しかし紺色のスカートから伸びる足はバラ売り不可の曲がりねぎみたいに二本ぴたりと重なっている。アッシュブロンドの長髪は絶妙のコシとハリがあるだけに、かえって吸い付くように廊下に放り出されてしまっていた。夜の新雪のような青白い顔は黙って啓太を見上げ、ピスタチオの殻のようにとがった瞳が、煮えたぎる生チョコレートみたいな濃厚な色を投げ掛けた。 アンナ・ヘーゲル。 まぎらわしいほどに神内サユリと似た特徴を備えるも、絶対確実にサユリとは異色である少女だ。 まず全体的に小さい。サユリと比べて体のスケールが小さいだけではなく、手足と胴体も何パーツかダルマ落としされたみたいに短い。要するにチビなのである。 服装もなぜか知らないが違う。第五高校のブレザーではなく、一人だけ他校のセーラー服を着ているのだ。白を基調とし、セーラーとスカートが紺色というオーソドックスなものであるが、それがブレザーの海に投げ出されたら目立つのは無理もなかった。とはいえ、入学して三分の二年が過ぎるまで服装を直されないということは合理的な理由があるのだろう。経済的事情か? 最も神内サユリと乖離しているのは、もちろん、人格。 ぶつかった啓太の顔を見たら分かる。身に覚えがないのに突然逮捕される不条理小説の主人公みたいにシリアスなのだった。 啓太を見上げつつ、アンナは最初のセリフを呟いた。 「PCは無事のようだ。よかった。これが壊れてしまったら大変なことになる」 廊下についていない右腕で大事そうに抱え込んでいるのは、革製の黒いパスケース。その中にどうやらPCが入っているらしい。 「す、すまん。大丈夫だったか?」 オセロの黒石が一つずつ裏返るように、クラスメートの顔が自分を向くのを背中に感じながら、啓太は口だけ動かしてみる。 こういう時、ラブコメ世界においては手を差し出すものだろうけれども、現実世界なのでグダグダのまま後味悪く終わるのが鉄板であろう。 アンナはサユリよりも幼い大きな目を啓太の膝あたりに向け、もう一度啓太を見上げた。 「こういう時、助け起こすのが紳士というものではないかと思うのだが、どうか?」 アンナは手を差し出した。その目はまるで、餌を持って帰った親鳥を見る雛のような、とでも言えようか。怒りや苛立ちではなく、好奇心と力強さがある。 前からはアンナの目、後ろからはユミ子を含むであろうクラスメートたちの目。鉄板に挟まれたような圧力。いやおうなく手を差し出すしか選択肢は無い。 「すまん、大丈夫か?」 場をつなぐためだけに口をつく言葉を垂れ流しながら、軽くて小さいアンナを助け起こしてみる。 啓太とてクラスの中で背が高い方ではない。その啓太よりだいぶ下に、アンナの頭はあった。頭のてっぺんにハンドボールを一つ載せたら、同じぐらいの高さになる。ハンドボールではなく、右の肩口から、細長い皮製のケースがにゅっと突き出ている。弓道部所属なので、背負っているのは矢筒だろう。 「む」 アンナは背中に手を回し、皮の矢筒の口をひらく。中へ手を突っ込んで取り出したのは、真ん中あたりでポキリと折れている矢だ。 「PCは守れたけど、こっちは守れなかった」 「あ……。そうか……」 アンナは折れた矢を二本指でつまみ、ぶらぶらと目の前で揺らす。啓太は何を言ったらいいか分からず、アンナの感情の風向きによってなびき方の変わる旗みたいな反応を続けている。しかし、余計なことを口にしないで早々に立ち去りたいという願望は持っていた。いらぬホトケ心など出して謝罪してみた結果、「謝るのなら弁償してもらいたい」等々、因縁をつけられかねない。 実際はもっと簡潔だったが。 「弁償しなさい」 あいかわらず、餌がもらえないわけがないと確信している雛鳥の目。 だから、笑顔も期待も心配も無い。真理を体現しているリラックスがあるだけだ。節度ある生活を心掛けている啓太は、そのリラックスの空間に割って入ることすらできそうになかった。 アニメやマンガには、無口ないし物静かなキャラがしばしば登場し、なぜ登場するかというと、一定の根強い需要があるからであろう。しかしだ。無口な人間が現実に存在したら、厄介この上ない。何も喋らなかったり、一言しか喋らないという時点で、普通にウザがられること確定である。無言ないし一言のつぶやきから、裏に込められた意図や心情を推察しつづける学校生活など、同じクラスの生徒たちは決して望んでいない。だって面倒なのだから。「もったいぶるなよ」。「全部喋れよ」。「訊いてんだから答えろよ」。それが現実である。したがって、無口キャラが現実に存在しようとするなら、苛烈な反発やイジメを覚悟する必要があるだろう。 だが何故かイジメも無視もされず、それどころか啓太を見れば分かるように、ある種畏怖めいた感情まで抱かれている存在がアンナである。 オプションその一、喋る言葉のほとんどが突飛で荒唐無稽なこと。 オプションその二、キツそうな上にどこか思い詰めた病的な顔付き。 オプションその三、数々のブラックな逸話がついて回っていること。 ――これらオプションが無口属性に加わっていることにより、クラスメートはアンナを恐れるようになったのだ。 中でも逸話については事欠かず、見てくれだけに誘われて告白してきた男子に「アタシは秘密結社の構成員だけどそれでもいいの?」と告げたとか、部活の練習で十時間も矢を打ち続けたとか、しかも一本も的に命中しなかったとか、そうだと思ったら的を封鎖する正七角形を六百セットも描き続けていたとか、そんな腕を持っている以上いかにコミュニケーション不全少女だとしても弓道部はアンナをエースとして遇するしかないのだとか、「真実は十パーセントも含まれていないような話ばかりだな」と啓太は思っていたのだが、パーセンテージを少々引き上げてもいいかなという気に今はなってきていた。 「折れた矢を買いに行く。こんどの金曜日はどうだ」 啓太がドイツ語でも聞いたみたいに解釈に手間取り、頭の中でアンナの発言をグルグルかき回していると、 「オマイも行くのだぞ」 と会話を〆て教室に入って行った。 舌足らずな発音のために「オマエ」が「オマイ」と聞こえてしまう一言が、啓太の耳で響いていた。うち消すようにチャイムが鳴り、啓太は教材を取りに行った。 ロッカーの鍵を締めていると、ポケットの携帯電話が震えた。 今日もまたおいでなすった。アドレスが空欄のメール。 『がつこうきたね きようからとくべつなかんけい よろしく』 なぜか真っ先に浮かんだのは、アンナの顔だった。いま会ったばかりだからというだけではない。謎めいた言動は謎めいたメールとリンクするではないか。 教室に引き返したら、入った時点で既にアンナの視線に射抜かれている。アンナは腹黒そうな笑みを浮かべながら、真っ黒なモバイルPCのモニタに視線を戻した。啓太はマジメくさった表情によって顔を固めるしかない。不安や嫌悪を顔に出したら呪術的なお仕置きでも受けそうな気がした。なんとなく。ユミ子だけが能天気に啓太を眺め、ほかのクラスメートは誰も啓太を見ようとはしない。アンナに因縁をつけられた啓太を憐れんでいたのだろう。 ふわり。 そのとき、長身な女子生徒の後ろ姿が啓太の横を通りぬけた。人間型の人形なのではないかと思うほどスタイル抜群。飴色の美しい長髪をなびかせる。一目で神内サユリだと分かる。「やっぱりこっちが本家だな」と思わざるを得ない。後ろ姿の時点で言い切るのも酷だが、神内サユリを映した網膜ですぐにアンナを見ると、ただの幼い寸詰まり少女でしかない。アンナがよりくすんだ髪色をしているのもマイナスだ。 本日の神内サユリは、まるで墓石みたいな大きな黒革ケースを背負っていた。その中に入っているのはサックスだろう。彼女は吹奏楽部に所属しており、たまの朝練にも欠かさず参加するほど熱心なのだ。 (誰かとは背負っているものが違うぜ。たとえ壊しても、弁償しろなんて言わないだろうな) 啓太は黙々とPCに取り組むアンナを一瞥した。いまちょうどアンナの隣を歩いて行ったサユリは、教室後方の壁に楽器のケースを立て、窓側前方の席にさりげなく着席する。もちろん、まわりの生徒との挨拶も丁寧。まさに深窓の何とかである。 いや、まったく神々しい容貌だ。バランスの取れた大人の色香が感じられる。幼くてとげとげしい顔のアンナに接触した直後だと、余計に。アンナだって外見に騙された男子が言い寄るほどのレベルにはあるのだろうが、サユリは背格好から内面的人格に至るまで全てにおいてアンナの優良版だと言ってよいように思える。話したことさえ無いものの、同じ教室で暮らしているのだから分かる。 サンタクロースに会えることになったら胸がわくわくしない子供はあまり居ないと思うが、サユリが近くに居るだけで同じような非日常的高揚を感じられる生徒は多い。おしとやかで肌色がよくて美麗な外見とか、勉強にも課外活動にも全力かつ誠実に取り組む姿勢とか、しかし運動はダメダメというチャームポイントも完備されているとか、笑った顔が太陽のように朗らかなのに月のように穏やかでもあるとか、彼女の魅力をいちいち明文にすることは容易い。 しかしもっと明瞭に、「そういった記述可能な魅力が掛け合わされた集合である彼女の存在そのものが、記述不可能かつ根本的な魅力を溢れさせているのだ」と一言で記述してしまう方が早いだろう。 何はともかく、アンナに捕まってしまった現在、サユリは聖女のように良くできた人に見える。 もちろんアンナは、魔女だ。とげとげしい暗黒的雰囲気をまとって漆黒のPCをばしばし押し込む様は、晩秋のグロテスク植物の代表格であるアレチウリの実を思い出させた。 今朝の通学時、駅の近くの空き地でアレチウリを目にした。ゴキブリを百匹こね合わせて球状にした物体にイワシの小骨のありったけを突き刺したような、グロテスクな実だった。その実は固くて苦く、鳥も食わないという。現代文の苦手な俺にしてはアレチウリは傑出した喩えだ、と啓太は思った。マイナーな植物なのは頂けないけれども。 しかしそこは、同じウリ科のクインシーメロンにでもサユリを喩えれば埋め合わせられるだろう。マイルドな黄色の実には、甘くて清涼感ある果肉が詰まっている。旬の時期が短いあたりも憎い。 アンナがPCを閉じた。同時に啓太は転びかけた。マゲを結えなくなって引退した力士みたいな政治経済の先生が入って来て、啓太を押しやったからである。慌てて着席した。 もろもろのハプニングによって、啓太の自慢の落ち着きが乱れたためだろうか。 政治経済の授業は、やたらと印象深かった。 先生の話が金本位制から円高へと移り、景気循環や不動産売買へと飛び、さらに銀行の融資へと移った時のことである。 「お父さんがマイホームを建てようとして銀行にお金を借りるケースを考えてみるか……」 残念だがそのケースは我が家では五年前に終わり、ローンがあと二十年続くのだよ、などと啓太は思う。 「このケースでは、お父さんは銀行への債務を負っていると言い、銀行はお父さんに債権を有しているというわけだな。この債務を支払う時、金利が変動すると……」 退屈な論議である。啓太は机から顔面への引力を強く感じていた。 ところがその時、軽自動車の自損事故みたいな音がして、一瞬で目が覚めた。 はるかナナメ前で……いや、そう思ったのは背の低さからくる錯覚で……アンナが立ち上がっていた。すすきの葉っぱの纏まりみたいに鋭さとしなやかさを両立した髪は、後ろの机に隠れてなお伸びている。 先生に当てられたわけではないはずだ。啓太のまどろみの中の記憶によれば……。 後ろ姿のアンナから、ハキハキした声が立ち昇った。 「債務は支払う必要は無い。無いといったら無い。債務に負われて破滅するより、断じて踏み倒さなければならん。不履行を推奨する」 クラスの誰もが、雪崩を起こしそうなエベレストでも見上げるがごとく、唖然そのものの顔でアンナを見る。 サユリさえ例外ではない。 先生は、チョークを握り、体を捻りながら固まっていた。……アンナが起立した時点からずうっと。 「アンナさんって、面白い人よね」 授業終了後、啓太はユミ子に言われた。どこがだよと思ったが、突っ込むのも疲れるから百歩譲って面白いことにした。面白いというか、どうやら変態であるのは間違いないように思える。待てよ、自分はその変態と金曜日に矢を買いがてら強制デートするわけか。洒落にならんと思った。後ろの席の山本には「松森、彼女って突然できるものなんだな」などと言われる始末である。 そういえば、ユミ子は啓太の家の台所にて、期限切れの食材を化学的と言えるほど奇妙に組み合わせ、料理を作ってくれたことがある。そのゲテモノ料理が意外とおいしかったことを思い出した。ユミ子はゲテモノの扱いが上手なのかもしれない。……いや、思考を脱線させている場合ではあるまい。何とか金曜の強制連行を断るすべは無いものだろうか。 しかし、断った瞬間に矢で三十回ほど刺されそうな予感がした。先行きは真っ暗だ。 |