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                    Ψ
 
 あっという間に夜になった。
 というか、今、午前一時を回っている。
 フェイクは台所でめしを作っている。奴には学校に行く前にひと働きしてもらうことになったわけだ。俺が作っても構わなかったんだが、炒めものしかできないし、味の保証もしかねる。それならロボットにやらせといた方がいいだろう。
 それにしても、ババアは何処に行ったんだか。いつもなら遅くても九時頃には、まずい残飯を知らせるだみ声が響くんだけどな。
 台所のテーブルには、奴がしばしば俺の前でわざとらしく記入する家計簿が、開きっぱなしになっていた。飲みかけの緑茶と、秘蔵のお茶菓子もな。
 饅頭を一つ失敬して戻ろうとした俺は、やけにヒューヒューと風が入ってくることに気付いた。そしたら玄関が開いていた。ババアのツッカケは……。ん、あるじゃねえか。なんで居ねえんだ? 嬉しくはあるけど。
 めしができるまでは暇なんで、俺はこの家の嫡男である健二の部屋のドアを叩いた。
 パソコンを借りて調べたいことがあったんだ。
 ……返事がねえな。寝てるのか? 入るぞー。
 あら、こっちも留守か。
 真っ暗な部屋。
 パソコンのモニタだけが光っていた。使いっぱなしは良くないねえ。
 俺は、光に寄り付く虫みたいに椅子に腰をおろし、ネットの検索画面に「H.L.H. ロボット」と入力した。
 フェイクが二十二世紀のネコ型ロボットみたいに夢いっぱいの道具をポケットから出してくれるなんて期待してないけど、ロボットならではの面白い機能ぐらいは搭載されているかもしれん。そこがちょっと気になってね。
 とりあえず、検索で一番上にきたサイトをクリックしてみる。H.L.H.の説明がずらあと書いてあるな。
 なになに、
『H.L.H.は、人間の外見を持つロボットである。このロボットは、いつ、なんどき、いかなる場合においても主人に奉仕をし、また奉仕することを最高の喜びとする特徴をもつ。この際、喜びやすさの度合いを、H.L.H.の職閾(しょくいき)≠ニ言う。H.L.H.は奉仕用ロボットなので、職閾≠ェ一定水準を満たす個体のみがH.L.H.認定検査≠ノ合格し、流通経路に乗せられる。……』
 俺は、愕然としたね。
 現代文のテスト問題さえ一段落目しか読まない俺が、パソコン上のテキストを何十分も読み続けるとは思わなかったよ。
 
 
 ドッバーン!!
 
 
 なんていう爆発音が突き上げて来なかったら、一〜二時間は読んでいたかもしれねえ。
 で、なんだ、今の爆発は!?
 一階の廊下まで駆け下りて行く。
 うわっ、火事か? 灰色の煙がたちこめている。煙を掻き分けて、台所を覗いたら、ゲロとコールタールの中間みたいな物体があたり構わず飛び散っていた。机、天井、冷蔵庫、カスがくっついて湯気を立てている。
「あ、まゆみさん」
 紅色の瞳をキラキラさせて、フェイクが振り向いた。お前がやってたのは料理じゃなくて、ダダイズムのアートか? いまババアが帰ってきたらどーすんだよっ。
「てんぷらを作ろうとしたら、うまくできなくて」
 分かった、分かった。とりあえず、てんぷらを揚げようとしたそのフライパンを置け。そしてコンロの火を消そう。ほら、雑巾を持て。素性の知れない汚染物質を吹き取らねえとな。……おいおい! 雑巾を絞る時に二つに分断してしまう奴がどこにいる。もういいよ、お前は屋根裏に戻ってな。いやまて、その前に風呂で汚れを落としてもらおう。そうしないと寝床にまで汚染物質が拡大してしまう。まったく、俺が結んでやったエプロンを、俺が外してやって、俺が着用するとはな。
「ごめんね。今度はちゃんとやるからね」
 世間知らずのお嬢様が優雅に習い事でもしてるような笑顔だな。ほんとに反省してんのか? 
 フェイクはくの字に深々とお辞儀をして、廊下を歩いて行った。
 さて、残った俺は両手に装備した二枚の雑巾を忙しく動かしていた。
 ネットで読んだH.L.H.の説明文が次々と頭に浮かび、消えなかった。
 
 
『このうち旧型≠ニ呼ばれるa40000〜80000番台の個体については、様々な問題が生じ、生産が中止されている。』


 問題は、すぐに生じた。
 
                    Ψ
 
 次の日。
 俺はフェイクに俺の制服を貸し、ぺちゃんこのカバンを手渡し、奴を玄関から出してやった。
「学校に行くのは初めて。どんなところなのかなぁ」
 などと言いながら、小学一年生みたいに軽やかな足運びで出て行ったが、残った俺には一抹どころか千抹ぐらいの不安があった。
 正直、あいつは危ない。
 文字通りの意味で。
 てんぷらを爆発させたり雑巾を二つに割ってしまうあたりで勘付いてはいたが、奴の本性が見えてきたのは、学校生活の諸注意をメモさせていた時のことだ。メモのために渡した鉛筆をバキバキ折ってしまうし、消しゴムでノートをバリバリ破るし、俺の極小規模な友人関係さえ全然覚えてくれないし、逆に、ムカつく奴の名前は一発で覚えたりするし……。一言でいえば、不器用きわまりなかった。
 だから、学校に行って、とんでもないドジを踏まなければいいがと思っていた。
「ただいま!」
 引きこもり初日から既に退屈していたところへ、奴が帰って来る。
「ねえ、聞いて聞いて。いいもの持って来たのよ」
 なんだ。虫でも捕まえたか。誰かから弁当の残りでももらったか。それともヘアピンやらゴムバンドあたりか。奴がカバンをまさぐって取り出した物を、俺はどうでもよさそうに受け取った。事実、どうでもいい。それより、学校で珍妙な事件を起こしてくれなかっただろうな。
 次の瞬間、俺は怪しげな中国拳法の使い手みたいに、両手を珍妙に振り上げていた。
 フェイクの土産物にビックリして、思わず手を離してしまったんだ。
 ぼすっ。
 つきたての餅が臼からこぼれたような音を立てて、それは下に落ちた。
「なんだ、コレ?」
 人間の手のように見えるんだが?
「上条京香さんの手。取って来ちゃった。エヘ」


 ちょっと待て。この場面なし。だって、場面の意味が分からん。これもダダイズムの一種なのか? 俺はどういう言動に出ればいいのだ? 突っ込めというのか? 称賛しろというのか? どちらも無理っぽい場面だぞ。なんかこう、環境汚染というか、騒音公害というかだな、そういう問題と同様のひたすらにイヤなしょうがなさが押し寄せているんだが。いっそこの部屋ごと、急に砂地獄と化してもらい、俺はコイツともども流砂に飲み込まれてしまいたいぞ?
「どうしてこんなことをした」
 一応訊いてはいるが、その間にも手首が幻のように消え去ってくれないかという期待は持ち続けている。幼稚園の頃、まだ両親と一緒に暮らしていた時には、十二月の二十五日を迎えるといきなり枕元にプレゼントが出現していたものだ。今回はその反対が起こってくれればいいわけだ。簡単だろう? それが無理な望みなら、俺はこの手首が蝋細工のニセモノだという仮説に縋るぐらいしかない。
「帰り際、上条さんに言われたの。『急にどうしたのよ。いい子ぶっちゃって。おかしくなったの?』って」
 そりゃ言うだろうな。昨日までクラスで見ている俺とは随分風変わりになって登校してきたと思うだろうから。そう思うくらいなら、なぜいっそ別人なんじゃないかと疑ってくれない。だがしかし、上条は俺よりも抜けてるところがあるから、難しい相談かもな。
「お前っていう奴は、そんな一言が気に入らなかったのか? それであいつにこんなことを?」
 派手な化粧を施した上条の顔がよぎる。季節ごとにアプローチを変える厚化粧の奥を覗いた奴は居ない。奴はいつも自分を中心にした三人のグループでつるんでいるし、俺は教室では無口な方だから、頻繁に会話する間柄ではない。俺は奴のウンチ色の髪の毛を馬鹿にし、奴は俺の金髪を「初心者」扱いしていたものだが、今こうなって分かった。
 俺は他の一般的生徒や、まして桐生寧なんかよりは格段に、上条京香を評価していた。
 たぶん上条は、俺と共通している部分があった。他のやつらが変な汗をかいてじわじわと登っている坂道を、ころころ転がり下りていくという共通点がな。そこで俺はつまらなそうな顔をして、上条は毎日エンジョイしているように見えたから、その点は異なっていると思うが。
 とにかく、フェイク。お前は奴の半分しか本気じゃない軽口に激昂し、こんな残酷劇をやらかしたわけか? 俺の顔に泥を塗るどころか、一気にギロチンを落とすような真似をしやがって! 
 俺はフェイクのブラウスを鷲掴み、頭がカチ合うくらいまで引っ張り寄せた。俺の制服だし、生地が破れるイヤな音がしたが、そんなのはどうでもいい。
 ……というか、なんだこいつ。なんでニコニコをやめない? 散り始めの桜みたいに力の抜けた微笑は何だ? 無理しているようには見えない。
 むしろなぜか、俺の方が怖ろしさを覚えてきちまった。
「だって、あの人、言ったんだもの」
 フェイクは、桜色を帯びた微笑を隠さず、大きく両目を見開いた。
 ちょっと前までピンクのカーネーション色だった瞳は、今はザクロみたいだ。
 下瞼の堰の水位がジワリと上がってくる。
「あたしに向かって、あの人、言ったのよ。『その明るいキャラ、違うから。勘違いしてるし。ウゼー』って言ったの! 本当よ! あたし、どうしたらいいか、分からなくなっちゃったんだもん。傷付いたんだもん。あっちを傷付けたって、いいよね?」
 水位が堰を越えた。
 こいつ……。
 まるっきりの笑顔から、涙……?
 俺は、苦々しくも実感したよ。こいつと俺は間違いなく別の人種であり、そしてこいつには様々な問題があることを。
 フェイクは、呆然としている俺の手を、広いパーティー会場でようやくダンスのパートナーを見つけたみたいに握った。手を離したくはないんだが、力を入れるのも遠慮しているような……。スポンジにでも手を包まれているような感じがした。
「わたしは、間違ったことしなかったよねえ? あなたはあたしを見放さないでいてくれるわよね? あなたはあたしの本人≠ネんだもんね。そうでしょう?」
 俺は奴に握られている手を、モニタに映すように無意志に見ていた。ちょいと顔を上げれば、フェイクがどういう顔をしているかは想像できたのだが、大型台風に蹂躙されたビニールハウスみたいな現在の俺の心境では、どんな顔であれこいつに向けるにはエネルギーが不足しすぎていた。
 俺は、自分の腕も上条京香みたいにもがれちまうんじゃないかなどと内心脅えているだけの、なかなかにどうしようもない奴だった。
「上条さんには力を入れすぎちゃったのかなあ。よく怒られるんだぁ。加減を知らないって。でも、大丈夫よ。加減が分からなくなるのは、他の人のときだけ。主人には優しくするわ。だって優しくしたいじゃない?」
 奴は、硬直気味に差し出している俺の指を根元から先へと愛撫するように辿り、元通り晴れやかに微笑みかけた。
 もちろん、「優しくする」なんて言われたって、一パーセントだって信じられるわけもない。これで納得するとしたら、俺は視聴率三十パーセントのホームドラマに心酔するような狂人か、道徳の教科書に出て来る偉人の少年時代だ。
 ここに完全に存在している、切り離された手首を、とにかく元に戻してきてくれよ。ちくしょう……。
 俺は、桐生一男に電話を掛けるしか思い付かなかった。三日後に会うまでは声も聞きたくない奴だったが、俺の手に余る問題が起こり過ぎる。人の手はここにあるけどな。ははは。
 実際俺は、気分が悪くなるほど変な動悸がしているんだが、外から見たら相当滑稽だろうな。はは、放火犯に火消しを頼むような屈辱をさらしてるんだぜ。
 だが、電話口から聞こえた桐生の返答は、先日から俺を包み込んでいる、「世界全体が幻想にでもとらわれた感じ」を強めるに充分なものだった。
 ――では、二人で銭湯に行きなさい。
 ? ? ?
 手首を銭湯に持って行けっていうのか?
 ――手首は放っておいていいよ。ゴミ箱にでもうっちゃっておいたら?
「おい、ちょっと待て!」
 電話は切れちまった。
 一体何だと言うんだ。俺達が銭湯に行ったら、上条の腕が再生するイベントでも起こるというのか? だとしたら、歩いて十五分以上かけてでも、喜んで行くけどな! とにかく俺は気が気ではない。上条京香にどういう顔をして会えばいいんだ? 会えるわけねえ! 「俺はやっていない」と言っても、俺とフェイクの区別ができるのは俺しかいない。
 家の下を車が一台通ったり、近くに車が止まったりする。――それだけで俺は、警察のやつらが事情を聞きに来たか、上条家関連の人間が乗り込んで来たような気がしてしまう。まるで轢き逃げ犯人の気分。こんな寿命の縮むソワソワ感ばっかり味わっているくらいなら、本当に銭湯にでも行ってしまうか。気晴らしにはなるかもしれない。
 どうせ家の風呂には入れないところなんだ。昨日、フェイクがシャワー設備を破壊してしまったからな。一人で風呂にやったのが間違いだったな。俺が見てれば良かった。
 いや待て、なぜ俺がこいつの監視役をやらなきゃならんのだ。俺のアホ、アホ、大アホ! こんなやつ放り出しておけよ。暴走ロボットなんて、勝手に暴走させちまえ。人の手首を切って来ようが、テロや強盗や殺人を犯そうが、俺の知ったことじゃない。
 ……わけでもねえか。
 なぜならこいつは、この世界においてはただ一つだけ準備されている、「小野まゆみ」の椅子に腰かけたんだからな。今ではこいつが小野まゆみ本人を務めているんであって、俺はこいつと顔が同じなだけの無所属な人間であって、しかしこいつの失態は俺にも及ぶわけなんだ。顔が同じってことはな。
 ……ん? たった今、重大なねじれ現象に気が付いたぞ。
 こいつは俺に仕えるようなことを言っていて、事実仕えているつもりなんだろうが、本当のところこいつに奉仕しているのが俺の方という関係なんじゃねえのか? だって俺は、完全にこいつの失態の尻ぬぐい役なんだぞ。
「まゆみさん、どうするの? 銭湯に行かないの? あたし銭湯に行ってみたい〜」
 奴の無気力な声に力を吸われたかのごとく、俺はベッドに倒れ込み、閉塞的で低い天井を仰いだ。
 奴を分解するぐらいに当り散らしても構わなかったんだが、それは思う壺というか、なんの思う壺なのかは分からないのだが、とにかく俺が真剣になるほどに俺の一人芝居度が増していきそうな気がしたのだ。


 結局、夕方、俺はフェイクを連れて家を出た。手にはタオルとシャンプーを持って。
 銭湯に行くことにしたのは、いま言ったように、家の風呂が使用不能状態にあるからだ。それと、なぜか知らんが銭湯に行けという桐生一男の指示が出ているから。
 俺は、二日目にして早くも、フェイクに絶望した。今さら言い訳させてもらうが、昨夜の俺は結構頑張った。なにしろ俺の代わりに出て行く奴だからな、俺として恥ずかしくない学校生活を過ごしてもらうべく、情報を叩き込んだ。いやな奴、まともな奴、寝れる授業、寝れない授業、食堂の買いメニューに捨てメニュー。
 やつが「キャー、なんてかわいいのぉ!」などとほっぺたを擦り寄せた制服だって、俺のを落としてやった。「ブラックネイビー」という重苦しい色を基調とし、襟には稲妻のごとき白線のパイピングを施し、左肩にはスポーツチームのごとく校章が刺繍されるという意匠だ。ちなみにスカートは地味なチェック柄という以外には表現が見付からない。俺には田舎者の悪趣味としか思えん制服だ。
 とにかく俺は、フェイクが俺っぽく機能するように、俺にできる準備はした。
 その結果が、他人の手首ちぎりときた。
 俺は疲れてしまったよ。というか、こいつは今も、季節先取りしすぎの浴衣ファッションをしている。……ちょっと待て。俺も殆ど着た覚えのない一張羅の浴衣を、なぜ勝手に着ている?
「たんすの中を見ていたら、これが一番目立っていたから。着ちゃいけないって言われなかったもの。サイズもぴったりなのよ」
 そりゃあ、ぴったりだろうな。


 およそこんな調子だよ。
 俺は、フェイクをコントロールするのに疲れた。
 だって、コントロールできねえんだぜ?
 それならいっそ、「銭湯に行け」という他人のコントロールを受け入れてみることにしたのさ。
 それに、二人で一緒に行動したほうが、俺のためなのかもしれない。
 こいつが何かをやらかしたとき、犯人が俺じゃないということは一目瞭然だからな。






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