Ψ 「やあ。銭湯ですか。ついて行かせてもらいますね」 振り向かなくても分かる。がま蛙の断末魔のような声は、桐生一男だ。 ババアの家のあたりは、平らなとところに変わりばえのしない戸建(こだて)が延々と置かれている無限ループ地形だからな。夕方ともなれば、桐生の巨体を隠す物陰ぐらいたくさんある。 奴は葉巻らしきものをくわえ、夕焼け空よりも若干明るいライターの火に近付けた。 「フェイクが早速事件を起こしたそうだね。だけど、心配いらないから。我々は全て織り込み済みだからね」 うぜえ。我々とやらが誰なのか、何を織り込んでくれているのか知らないが、お前がモクモクと煙を吐きながら余裕ぶっこいた態度を取りたがってることは分かるよ。俺が今、どのぐらいテンパってるか分かるか? お前らのせいでよ。俺は完全無視を決め込み、三つ目ぐらいの十字路を越える。 「ねえきみ! こんな話知ってる? 八百年生きる人間≠ニ、どんなバカでも明日には東大に入れる薬≠フ話」 背後では桐生一男が、俺達の頭上に垂れ込めるチグハグな空気を助長しにかかっている。 国とやらは、一度仲間になった奴には、結晶化しているハチミツみたいにベトベトと甘いんだな。こいつの脳内を見てみなよ。完全に廃人じゃないか。なのに雇用を維持してやるとはな。 それとも、一向に姿が見えてこないこいつの上役どもというのも、こいつ並みに病んだ奴ら揃いなのか? だったら終わってるな。 「だからねー、今の技術水準なら、八百年ぐらい生きることは可能だとも。頭が良くなる薬だって、三百円で市販できるレベルにあるしさ」 空想話の結論部分が聞こえてきて、俺も暇だったので、内心呟いた。 なるほど、そりゃ素晴らしい技術だ。しかし、お前さんの体型や目の黄だんを劇的に改善する錠剤の一つすら、市販はされていないわけだな? 「しかしね、不老不死の人間は、存在しない≠だ。考えてみなさいよ。八百年も生きられる体になったら、どうする? 単純に考えて、衣・食・住の必要経費が八倍。ところが地球は一個。八個にはできない。だから、きみら庶民全員を八百年生きられる体にしちゃったら、大変だ。地球がもたない。そこで、この先進技術の適用を受けられるようなエリート達は考えるわけだ。『わたしたちが八百年も生きられることは秘密にしておこう』と。少数のエリート達は、同盟を組んだりして、地下に潜ったりして、ひっそりと八百年の人生を享受するだろう。頭が良くなる薬も同じだよね。誰でも優秀になれる薬なんてものが世に出たら、優秀なエリートがうまい汁を吸う現在のシステムが、根幹から揺らいでしまうだろう。だから、そういう技術は、存在はしていても世には出ないんだよ。ということは、存在しないのと同じことだ。もちろん、切断した腕を再生させる画期的技術についても、存在しない=c…。上条京香の件は、小さなトラブルだよ。心配いらない」 俺は、思わず振り向いた。 そしたら、桐生一男め、俺が振り向いたのを確認してから、 「全部、作り話だがね。東京に居たころの課長が、空想好きな人でねえ。課長の仮説の受け売りでしたー。げへへへ。いま本気にしたろ? だ〜いじょうぶだって! 上は大丈夫だって言ってたからさ〜。上条京香のことは心配すんなって」 桐生一男はキモいウィンクを決め、真空パック詰めのボンレスハムみたいな顔を俺に肉迫させる。俺はしょうもなく笑った。ははは。空しすぎ。 要するに、こいつは、「上」とやらがやっていることについては何も分かっていないんだ。さらに、何も分かってないということも分かっていない。上から出ている意味不明な命令の伝達役を、嬉々としてこなしているだけらしい。 俺はこいつが少し哀れになり、その分またこいつへの憎しみが増した。こいつに構っていても、いつまでもチグハグなままだと確信したよ。 フェイクが口を開いたのは、その時だった。 「仮説じゃないわよ。それ、ほんとよ?」 「なに?」 俺と桐生一男が口を揃え、そして互いに睨み合うのも同時だった。 「あたしの前の雇い主が、似たようなこと言ってた。H.L.H.には守秘義務があるから、詳しくは言えないけど、そういう先進技術開発の資金を援助していた人のひとりだったわ。課長さんのお話は、空想ばかりとも言えないんじゃないかな」 桐生一男は、不愉快そうに痰を足元へ吐いた。 「あー。H.L.H.(おまえら)が派遣される場所は、いろんな所があるからな。金持ち社長のお屋敷から、売春窟までな。珍妙マユツバな情報も入って来るかもね。でさー、お前さー、そこで問題行動を起こして、凍結されたんだよね? 今回は小野まゆみに似ているモデルが無かったから、旧型のお前を凍結解除したけどさー。どうなることやらねえ。上は大丈夫だと言ってるがね、私は信用していない。だってさ、旧型は旧型なんだもんな。現行モデルに劣ってるに決まってるじゃん。どうなの、そこらへんの自覚は?」 桐生一男は、同期の出世頭を見るような目で睨んだ。 こいつの話と面相のどちらにショックを受けたのか分からないが、フェイクは表情を喪失した。 まさに、バッテリーの切れたロボットみたいにな。 「大丈夫。あたしは、大丈夫なの……。もう、あんなこと、しない……。シナイヨ?」 フェイクはツインテールの根元を両手で押さえ、自己暗示のように繰り返した。 桐生一男が常にガマの油みたいな汗をかいているのは分かるが、こいつが汗をかくとは珍しいな。そのうち、呻き声まで加わってきた。 そしてふいに、こいつは、置き物みたいに突っ立ったまま倒れた。俺は、空手あがりの反射神経でとっさに腕を持ってやった。 浴衣が汚れるのは困る。 フェイクは、意識朦朧としていそうな虚ろな目の中に俺をとらえ、微笑を取り戻した。 「ありがとう……」 そう呟きつつ、 うしろめたそうに目を逸らしたのは何故だ? どうやらこいつには、過去の問題行動にまつわる嫌な記憶が根を下ろしているようだな。 あんなこととやらがどんなことだったのかは知らないが、できれば内容が明らかにならないように願う。ラノベなんかで登場人物のトラウマが判明したときは、その人物をトラウマから立ち直らせるためのイベントがかなりの確率で発生し、そのときは周囲の人物も巻き込まれるものと相場が決まっているからな。 ラノベの登場人物ってのは、なんで大層な頻度でトラウマを抱え、そのトラウマに縛られているんだ? 過去に人を殺したりとか、殺されそうになったりとか、裏切ったりとか、裏切られたりとか、いくつか類型がありそうだが、まったくめでたいものだ。 だいたい、トラウマになるほど自分にとって重要な他人が存在しているという世界構造からしてめでたい。 たとえば俺の両親は三年前に離婚し、父親が俺を引き取ったんだが、父親は海外で単身赴任になったので、俺は現在親戚筋に預けられている。 だが別に、何の感慨もない。トラウマの気配すらない。離婚の時に母親がくれた貯金通帳の扱いに困っている程度だ。結構入金されていたのだが、人が働いた金を俺が消費していいというのも気味悪い話だろう。 離婚前と離婚後で、俺の生活が変わったわけでもない。もともと父親は残業、母親はパート、俺は部活というわけで、三人が顔を合わせる時間は滅多になかった。それに、三人ともあんまり話をする方じゃなかったからな。 父親は、カッコつけを生きがいにしているようなつまらねえ奴で、 「パパが居ないと営業所は回らないんだ」 「本社の人事部は本当に無能だ。あれはクズだ」 というのが口グセだった。自称有能な割には、なぜかいつも抗うつ剤を懐に入れて会社に行っていたよ。俺には薬の服用を隠していたようだったが、知らぬは本人ばかりなり。今も海の向こうで抗うつ剤のお世話になっていることだろう。 母親は、いつも泣くか笑うかしていた。パートから帰って来ると、年配パートや年下社員や父親や俺への憎まれ口を言い散らし、酒を飲んで泣く。その間の悪口を部屋の壁にでも書いてみたとしたら、耳なし芳一の体みたいに真っ黒になるだろうってものだ。悪口が終わると急に陽気になり、今までこき下ろしていたものを心から誉め称えだす。俺も小さい頃はこの二重人格に眉をひそめたものだったが、中学生になった頃にはちゃんと気付いていた。どっちの人格が正しいのかということではなく、単純に周囲の目を引きたいだけのパフォーマンスなんだとな。つまり、喋っている内容が大事なんじゃなくて、自分が鳴き声を上げているのを聞いてもらいたかっただけなんだ。鳥が本能的に囀るのと変わらない。パートなんかじゃなく、政治家になったら良かったのにな。 とまあ、くだらないもんの紹介に時間を割いたが、少なくとも俺にはくだらない過去しかなく、そんなものが到底トラウマに結晶化することはないということが証明されたと思う。 チグハグで、微妙で、薄汚れた現実世界の生活者である俺には、トラウマと呼べるドラマチック不幸体験は無いのだった。まあ、こんなもんだろう。 トラウマをもたらす人物や思い出には、たぶん、美しさがないとな。特に、ラノベで語られるようなトラウマには。 トラウマってのは、思い出貯蔵庫の一番奥に、御神体のごとき丁重な扱いを受けて、飾られていなけりゃいけない。貯蔵庫の中が大熊信吾の部屋みたいにゴミクズで散らかっていたら、飾り付けるどころの話ではないからな。 フェイクの場合がどうなのかは知らんが、俺よりはトラウマっぽいもんを持っていそうではある。なにしろ、色々な問題を起こして製造中止になった旧型らしいから。 ん? どうしてロボットが人間並にトラウマを持つことが可能なのかって? それは実に簡単明瞭。俺が読むのに熱中したネット百科事典から抜粋すればいいだろう。 『〈法律的ロボット論〉: H.L.H.(ヒト状劣後人間)は、生物学的構成に着目する限り、ロボットではなく人間である。 H.L.H.をして、人間ではなくロボットであると定める根拠は、 1:「ヒトの子宮から出産されていないこと」 2:「××年〜××年の、ヒトクローン研究特別猶予期間における研究の用に供されたヒト細胞のみを、培養または増殖または組み合わせて精製され、かつH.L.H.特有の組織および器官を付与された個体であること」(→「ヒトクローン時限研究特措法」のページを参照) 3:「上の二つの要件を満たした個体で、H.L.H.前提検査に合格した個体であること」 という三条件を満たしたH.L.H.について、「ロボットと定義し、関連法令においてその権利を保障するものとする」という法律が存在しているからである。 これを〈法律的ロボット論〉という。 この決まりを定めたいわゆるH.L.H.法に関する議論は現在も存在するが、法整備前においてはより活発な議論が交わされており、……』 Ψ 桐生一男が過去のことに触れたのがいけなかったらしいな。 目に見えて、フェイクの調子が悪くなってきた。 本人はニコニコ笑って先を急ごうとするんだが、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。冷や汗は滲み出てくるし、手足の震えも止まらない。 すぐそこの空ににょっきり突き出ている銭湯の煙突は遠そうだ。 しょうがないから、俺はフェイクをそこらの塀ぎわにしゃがませた。五分ほど安静にしていたら、だんだん回復してきた。しかし、こんなバケモンじみた奴も、一瞬で体調が悪化するものなんだな。これがトラウマの威力なのか? 俺はちょっとだけコイツの過去をほじくってみたい欲求を感じた。が、そういう意地の悪いことをするのは桐生一男と同じだからやめた。 クソアホ桐生一男め、てめえが厄介事を増やしてどうすんだよ。この官僚野郎は、フェイクの調子を狂わせた責任を感じてはいないようだ。もしくは、感じていたとしても顔には出そうとしない。俺はとりあえず一睨みしておく。 そんな時、桐生一男の向こうから通行人がやって来るのが見えたんで、俺は米俵に突っ張りでもするように奴の腹を脇へと押し退けてやった。 通り掛かったのは、五高(うち)の制服を着た女だった。洗面器に石鹸を入れ、胸に抱えている。 銭湯に行くのかな。見たことない顔だが、なかなかの美人だ。 表情には険があり、眼光にはキレがあった。腰まで達する黒髪がそよ風で体からハミ出たり、また隠れたりする。長めの前髪が粗雑なオカッパみたいに目にかかり、やや上がり気味の眉を隠している。 吊り目でも垂れ目でもない、バランスのとれた目が、黒目だけ動いて俺達をちらと見た。 さて、この通行人は、同じ顔ふたりが一箇所にたまっているのを見て、少しは驚くかねえ。 ……ジーッ。 なんだ? なんで俺ばっかり見ている? 一度ぐらい、エイリアンみたいな風貌の肥満中年や、俺と瓜二つのロボット女でも見たらどうだ? 「贋物を学校によこして、今度は何を始めるつもりやら。早く辞めてしまえと言ったはずだぞ」 女は、俺の耳に針金でも捩じ込むようなハッキリした声で言った。 そのまま、去って行った。 「あ、あの人。寧ちゃんじゃない。あたしが小野まゆみ本人じゃないこと、見抜かれてたのかぁ。やるわねえ」 フェイクが立ち上がり、俺の横からひょいと首を伸ばしている。 ちょっと待て。「寧ちゃん」ってお前、一日でどれだけクラスに溶け込みやがったんだ。お、俺のイメージが……。 というか、あの女が桐生だと? んなバカな。たしかに声を聞けば納得できたが、一目じゃ分かんなかったぞ。メガネはどうしたんだ。くそ、小さい胸だとは思ったんだがな。ここにいる父親からして、まず気付いてないじゃねえか。 ところで、桐生のあの淡々とした感じからすると、フェイクの手首事件は知れ渡っていないのか? ……ああもう、俺のまわりは、何がどうなってやがる。もはや信じられることは、俺が俺だってことくらいのものだな! だが、俺って何者だよ。「オレ」というただの発音記号か。この町で生活してるだけで、気が狂ってきそうだ! 俺は、頭の中に霧がたちこめているみたいに、もうろうとしてきた。この霧をスカッと晴らさないことには、町を歩くのも怖ろしくなりそうだよ。 スカッとするために、まずは熱い風呂にでも入ろう。 |