さて、きょうも一日つぶしたので帰ろうか。日が昇ってから沈むまで何もしないのも大変だなあ。 入試まであと何百日潰せばいいのかと思うと気がめいる。考えるのをやめよう。 予備校を出てみると、向かいの宗教ビルの明かりがまぶしい。今夜は定例の集会でもあるんだろう。予備校より格段に活気がある。信者らしい若者たちが十人くらい、ビルの入り口で談笑している。みんな揃って覚醒剤でも打ったみたいに活発なのは素晴らしい。自分も信者になれば世の中がお花畑に見え、世界という劇場の中心で演技する女優みたいな心地になれるんだろうか。 しかし、覚せい剤がうまくハマればいいけれど、バッドトリップの時もあるからな。 信者がさっき配っていたパンフレットが道端に落ちてる。ゴミは始末してほしいものだ。 パンフには気合の入った金色の筆文字が踊っていた。 あなたの願いは叶います! なんという安っぽい謳い文句。思わず、苦笑と失笑。ここまで直球ど真ん中だと、好感すら込み上げる。うちの予備校のやる気のない学生たちは、向かいのビルに移籍した方がいいかもしれないな。 翼はパンフを拾ってみた。道路の掃除になると同時に、帰り道の気晴らしにもなりそうだ。単語帳なんか読むより楽しい。読んだら駅のゴミ箱に捨てよう。 アコーディオンみたいな厚いパンフレットを伸ばしたら、「教団に入信して願いが叶いました」という人々のアツイ体験談がほとばしった。 こういうパンフには失敗談は一つも載っていないんだな。当たり前だけど。 それから、やたらと目につくのは、「感謝」「人のため」「生きる幸せ」みたいな感じの、公園の池にある百円の貸しボートみたいに薄っぺらく浮かぶ言葉。――生きることの幸せを神に感謝し、人々のために何ができるかを考えたい=Aみたいなね。これほど立派なことを言える人なら、神様の助けなんて要らないんじゃないの。みんなして毒を抜かれたみたいにエゴの無い体験談を語るのが不思議だよ。 宗教に入る動機なんて、自分本位なものだと思うけどな。 病気が治りますようにとか、人間関係がうまくいくようにとか、……大学に合格しますようにとか。 私も初めは利己的な人間でした。しかし、この教団で修練を重ねるうち、このちっぽけな我が身は神によって生かされており、同じように神に生かされている人々に支えられていることを知りました。人々と世界のために力を尽くすことが何よりの喜びだということを悟ったのです。 なるほど、ね。 信者が自分の願いばかり追求していたら、教団として立ち行かなくなってしまう。ところが、教団は信者を集めてナンボだ。だから、信者を増やしながら信者の願いを叶えるというウルトラCをやらなくちゃいけない。そこで、教団の信者として生きるだけで、最高に幸せなのだ≠ニ教え込んでしまえばいい。 こうして人生を狂……。いや、理想的人生を手にした人々が、あのビルに今日も詰め掛けているんだろう。 神様かぁ。神様も万能じゃないからなぁ。だって、神様を信じる人しか、神様を信じられないのだから。 パンフレットを一通り見渡したので、元通り折り畳んだ。 なにげなく裏表紙を見たら、 ―御神影― とあり、願いを叶えてくれるという神様≠フ写真が載っていた。この人が教祖だろうか。それとも、教団幹部に裏から操られているだけの飾りだろうか。まだうら若い女性のようだけど、ともかく教団に入ったらこの人を神様扱いして崇めることになるらしい。 「……あれ?」 翼は、夢の中で「夢だ」と気付いた時みたいに、乾いた笑いを浮かべた。 怪訝そうに辺りを見回してから、もう一度パンフを見る。 「これ、あたしじゃん」 十八年の人生は夢だったに違いないと思った。夢の中なら、同じ人間が二人存在しても構わないんだから。 なんて思ってしまったほど、神様≠フ写真は翼に似ていた。 いや。 同じだ。 全体の雰囲気や目鼻立ちが似ているというレベルではなかった。 目とか、口とか、鼻とか、右目の泣きぼくろとか、全部のパーツが同じに見えるのであった。 最初は「似てる」という共感じゃなくて「誰この人?」という違和感にすら襲われた。それも当たり前で、自分と少し似てる人やけっこう似てる人に会ったことは今まであるけれど、同一の顔をした人には出会ったことがなかったのだから。 なんてことだろう。 教団のビルに乗り込んでも、誰一人、翼を神様≠ニ見間違えてくれない。 もしかしたら、顔パスで教祖の部屋にでも通してくれると思ったけど、普通に入信しに来た一般人扱いだ。 「集会がありますから、どうぞご見学ください」 などと言われ、閻浮提(エンブダイ)≠ネどと名付けられた五十畳ぐらいの広間に通される。すでに信者たちで埋め尽くされ、熱気がすごい。まるで朝一からコミケに並ぶ若者たちのようだ。それもまた別の信者ではあるけど。 「いやあ我が神の教義は実に素晴らしいですね」 「教条の第七項の汝思うところこそ神あれ、他のものは妖魔なり≠ニいうくだりがですね、我々の世界を造る鍵だと思いますね。この教条は自己矛盾を含む形で自己否定を行うという究極の転回形式なのでして……」 うわあ。なんなの、この異様な会話。しかも、どの人も立て板に水だし。もっと恋愛話とかファッションの話とかせめて現代の政治問題くらい喋ろうよ。やっぱり宗教ってやばいなあ。 「あれ、あなたがたは」 「新入りさんですか?」 「見ない顔ですねぇ」 あばた面のもぐらみたいなむさ苦しい男たちに声を掛けられたところで、さりげなく晴樹が翼を外に連れ出した。 「おいっ、何の真似だ。おれが翼ちゃんに好意を持ってるのは確かだが……。宗教にハメるのは勘弁してくれ」 「ちがうわよ。人を探してるの。あの広間には居なかったわね」 「人を? 友達が宗教にハメられてるのか?」 「ちがうわよ。あたしよ」 「はぁ?」 翼は晴樹をエレベーターに引っ張り込んだ。 神様≠フ部屋は何処だろう。ビルをしらみつぶしに探すしかない。 「きみは、自分が足りない感じ≠チて、味わったことがある? 寝てる時でもいい、無意識のうちでもいい、いつのまにか自分の中身が半分ぐらい何処かに消えていっちゃうの。今のあたしがそう。気が付いたら、あたしは、自分が半分死んでるような感じで生きていた。何をやってもどうでもよくて、自分の体が幻になったみたいにフワフワ浮いてる感じがした。あたしの中の大事な部分が、世界の何処かへ迷い込んでしまった気がした。――だけど、見つけたのよ! あたしが無くしたあたしは、ここに居たわ」 パンフを晴樹に見せた。 晴樹は何回もパンフと翼とを見比べ、 「あ、あれ? あぁ。あ〜」 なんて、分かったような分かってないような挙動を繰り返す。 上出来だ。 翼自身も、分かっていないんだ。 エレベーターは最上階に止まった。 〈貴賓室〉の札が貼られたドアがあった。 ドアは開けっ放しだった。それなりに豪華な調度品が見えた。雑居ビルに入っている弱小宗教団体にしては奢ったな。信者から吸い上げたお金だろうけど。 ふかふかの赤じゅうたんを踏み、部屋の中へ。 図書館なら館内∴オいになりそうな大部の書物が収められている本棚。翼の適当なカーディガンとか、まして晴樹のタンクトップなんかじゃ、おいそれと座れない感じのする応接セット。それと、博物館の飾り物ぐらいにしかならなそうな、化け物みたいに大きくて年代物な机。 人の気配は無い。 なのに、本棚のガラスには長髪の少女の姿が映っている。 振り返ったら、最初からそこに居たように、現れた。 神様=B 「よくぞ嗅ぎ当てた。いずれ会うとは予感していた。ようこそ我が元へ」 翼よりメリハリのある声と、みずみずしい笑顔だった。 神様≠フ皮膚は、大切に育てられた月下美人の花みたいに白かった。翼は純日本人な真っ黒の瞳だけど、神様≠フ目にはどことない金色の深みを感じた。ルネサンス期の彫刻家たちが喜びそうなヒラヒラな衣装を着ているけど、ピンクハウスのカタログのモデル写真に載りそうなほど現代的にも見えた。 いちばん違うのは、髪だ。翼は肩から下まで伸ばしたことはないけれど、飴色のロングヘアが軽く膕(ひかがみ)にまで達している。 現実離れしすぎだ、と突っ込むべきか。そして、「神様だもん」と言われて終了か。なんなの、その髪、その衣装。疑問は山ほどあるけれど、まず一つハッキリさせてもらいたい。 大きな机を両手で叩き、翼は身を乗り出すのだった。 「誰なの、あんた」 「幽霊(ゴースト)」 少女も身を乗り出した。 机を挟んで少女の白い手が伸びた。少女の手は、翼の頬に触り……。 はんだづけでもしたみたいに、翼の頬にくっついた。 少女が腕を引いたら、翼も引きずられ、べたりと机に落ちた。 「このように、吾(われ)と汝とは親和性がある。もともと吾は汝の一部。分かれた今もそれは変わらない」 少女は翼の肉から手を引き抜いた。水生植物の髭根のような細かい突起が指から出ていたが、糸ミミズが泥に隠れるみたいに綺麗に収納された。 少女は回りこんで来ると、精肉屋が市場で品定めするみたいに、晴樹をぺたぺた触り始めた。 「これは汝の彼氏か? 冴えない男だな。結合する男は選んだ方がいい。人生の運気を左右する」 「いや、結合はまだっス。もうちょっとっス」 晴樹は照れながら呟いた。翼は机にへばり付いている場合ではなく、急いで割って入り、少女を引き剥がした。 「な、な、なんなのよ、あんた。あたしの彼氏とか、どうでもいいじゃないの。まず彼氏じゃないけど」 「おれ的には既に彼女レベル」 黙って晴樹の股間に後ろ蹴りを食らわす。 「汝のことを知る権利はある。言ったはず。吾は汝の一部だと」 「どういうことなのよ」 「語らずとも、感じているはず。吾を探そうと感じた時点で、汝は吾を深層にて認めている。吾は、汝より分裂した幽霊(ゴースト)。汝の霊体が、情念により人格化した存在(もの)だ」 お茶の席でうまい茶菓子でも口に入れたように、神様≠ヘ微笑んだ。 少年少女向けのマンガなら、正体が明らかにされたところで、「なんだってー!」という驚愕のアクションを行わなければならないだろう。 しかし、翼は醒めた浪人生なので驚かなかった。醒めていれば、何も怖くはない。宇宙人でも悪魔でも幽霊でも、一言「ふーん」と言うだけだ。日本語で喋ってくれたら、何者の話でも聞いてあげる用意はある。 話が面白かったら、「ふーん」の後に「面白いね」と付け足すだろう。それが、「信じる」っていうことだ。 宗教団体のビルの中に居る翼には、こんなにふさわしい面談は無い。 翼はソファに体を沈めた。 「説明してごらんなさいよ。詳しく」 「了解した」 少女は冷蔵庫からお茶を運んで来た。 |