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 翼が行くことになった予備校には、場末の感じが漂っていた。
 歩くと床が割れそうなプレハブみたいな雑居ビルの中に、事務室と講師室と自習室と教室が入っていた。設備が立派な大手予備校と違って、講師は小さいホワイトボードに水性ペンで板書し、生徒は足にガタがきている安物の長机で勉強していた。講師にはやる気がなく、生徒には覇気がなかった。講師も生徒も、生きていてもつまらないんだけど死ぬのも怖いから死ねないでいるような、存在自体がどうしようもない人たちに見えた。
 翼も、その中の一人だった。
 お昼を過ぎた頃にようよう到着し、夕方まで何もしないで机の上で寝ていた。大抵眠れないんだけど、退屈にまかせてボーッとしていると、いろんなことを考えないで時間が過ぎていくので良かった。うまく眠れた時は、望外の幸せだ。
 こうして翼は心をどんどんぶよぶよにし、退屈の中に混ぜ込んでゼリーみたいにしていった。自分を退屈の中に沈め切ってしまうと、退屈なことが苦しくなくなってきた。退屈を感じられないということは、退屈じゃない楽しいことにも鈍感になるということだ。でも翼は楽しいことなんて長いこと味わっていない気がしたし、心を鈍感の塊みたいにしてしまえば亜理紗が死んだことも遠くの雲みたいに関係ないものに思えた。それは正直、助かった。
 もっとも、心はだらしなかったけど、身なりは一応きちっとしていた。予備校には男子も居たわけだから。だらしなさが限度を超え、教室に寝間着で出て来るようになったら、翼は予備校じゃなく精神病棟に送られたほうがいいだろう。
 それにしても、浪人生活は退屈の多さということにかけては退屈しない。
 起きている間じゅう、退屈しかない。
 この退屈をまぎらすためなら、いかに浪人生が無能だとしても、勉強に打ち込むぐらいするだろうと思ってしまう。
 そこへいくと、翼は生意気に学力はある。大学に落ちたのは、人生のちょっとしたイタズラみたいなものだ。正直なところ、浪人中は適当に流していたらいい。
 家に引き込もっていても構わないのだけど、娘が予備校に行っていれば両親が安心するというなら、予備校に通うのは構わない。
 予備校に行くふりをして一日中遊び呆けてもいいけど、一日中遊ぶのも結構苦労する。遊びのタネを探さなきゃいけないから、疲れる。疲れるよりは、冷房の効きが悪い教室で一日中寝ていた方がましだ。
 ……冷房? もう冷房が入っているわけ? 今って何月なの?
 
 
 自習室の机で目を覚ました。
 あたりがブラッドオレンジ色に変わっているので、ビックリする。
 昨日も同じふうにビックリしたな。寝てると夕方になっていることはよくある。
 とりあえず起きたから、そうだな、トイレでも行こうか。
 教室の最後列で勉強している男に目が止まった。
 ヘルメットのように頭にかぶさった長髪には、パーマがかかっていて、ちょうど夕焼けと同じオレンジ色に染めている。自然界で言うと、警戒色ってやつか。
 さらに、早くも夏真っ盛りな風情のタンクトップに、脂肪も筋肉もほどよくついている杭のような腕。
 一人で長机を占領し、電話帳みたいな分厚い専門書を石材のように積み上げている。
 こんな奇妙な風体の男、目に止まらない方がおかしい。
 そういえば昨日も、同じシチュエーションで同じことを考えた気がする。
 男が開いている数学の問題集を見ると、昨日と同じページをやってる。
 あっそうだ、昨日はこう思ったんだよね。「昨日と同じページやってる」って。
 じゃあ、三日で二ページも終わっていないの? というか、この人、いつも教室に居るような気がするけど。
 積み上げてある本の背表紙には「量子力学」「伝染病の歴史」「地球空洞説」などの語句が。
 なんなんだろ、この人……?
 翼は、黙って通り過ぎようとした。
「今日もよく寝てたねえ。おはよう、翼ちゃん」
 モップ状の前髪越しに、男は翼を見た。
 受講生名簿を見れば分かることだから、名前を知られていることに驚きはしなかったけど、翼は軽くほっぺたを張られたくらいにビックリした。だらしないパーマの奥には、意外と健康的な澄んだ目があったから。浪人生のくせに不健康な目をしてないなんて、異常に決まっている。
「あたしのこと、知ってるの」
 さいわい、教室には二人しか居なかった。喋っても迷惑をかける心配はなかった。
 翼は、相手をすることにした。自分の人生から気が紛れることは大事だ。厄介ごとに巻き込まれたら考えものだけど、亜理紗にまつわる強迫観念スパイラルから一時離脱できるなら、厄介なイベントに夢中になるのもいい。
「もちろん、知ってるよ。おれは、かわいい子の名前は名簿でチェックしておく主義でね。でも、かわいい子の名前をチェックするってことは、かわいくない子の名前を除外する作業も含まれるわけで、結局全員分の名前を見ることにはなるんだな。俺は、堀畑晴樹(ほりはた はるき)。三浪生だ。はじめまして。そして末長くよろしく」
 末長くなんて、不吉なこと言われても。
 晴樹は手を差し出した。
 ふつう握手は右手でするから、翼は何となく右手を出したけれど、よく見たら晴樹が出してるのは左手じゃないか。
 だけど、違う手で握手したら地球を揺るがす大破局が訪れるという話もない。
 翼は右手で晴樹の左手を握ってやった。
 堀畑晴樹は、好きな料理の皿が前にあるみたいにニタリと笑い、ベロリと舌なめずりした。
「おもしろい子だ」
「いえ、アナタほどでは。量子力学って、センター試験の科目にあったかしら」
「ある。試験三日目の、一時間目だ」
「一般のセンター試験は、二日間の日程だったはずね。三日目がある試験は、あと何年後? 浪人生活は長そうだね」
 翼は、さりげない顔をして量子力学の本をめくってみる。
 でも実は、予想外に重さがあったので、腕が震えないうちに戻そうと考え始めていた。
「浪人ってのは、酷な商売だよ。おれは昔から、気が散ることにかけては天才的なんだ。小学校の時には、六年間かけて、勇者たちが魔王を倒す大冒険絵巻を脳内で完結させた。中学の授業中は、好きな女とのあらゆるデートシーンを妄想によって網羅した。当時夢中だった女は、じつは社会科の先生でね。髪がさらさらしてて清楚な感じの人だった。分からないところは訊きに来なさいって言ってくれたから、先生のことが好きな理由が分かんないんだよ≠チて抱き締めて差し上げたら、それは社会通念的にまずいわ≠セってさ。さすが社会の先生。社会通念を知らない中学生の妄想じゃあ、そのケースは想定できなかった。おれの妄想によれば、うまくいかないケースはあり得なかったんだがなあ。だが、いま振り返ってみると、山川先生もまんざらじゃなかった気もするんだけど。社会通念上はまずいが、本心はよろしいという……。翼ちゃんはどう思う?」
「さあ。何とも。ていうか、山川先生って誰」
「おれは中学生にして、世の中には自分の思い通りにいかないものがあるってことを実感した。そこでおれは瞬時に決意したんだ。これからの人生は、世界を思い通りに行かせる¢蜴幕ニのために費やそうと」
「バカな目標を定めたんだねえ!」
 翼は心から感嘆したので、発言全体が感嘆詞であるような潔さで言った。
 あ。今、亜理紗のことは完全に忘れてた。
 これはいい具合だわ。
 ところで、浪人を重ねると、人間はごく自然に変態になるものなんだろうか?
 翼もごく自然に言ってあげた。
「世の中、思い通りにいかないってトコは、賛成。いろんなザセツ・フォーマットを体験していくのが、人生だと思うわ。浪人したりね。あ、あと、三浪したりね」
「付け足す必要あんのか?」
「でもねえ、世の中を思い通りにいかせるのは、無謀じゃないのかな。町外れの斜陽な予備校で宣言してもさあ、場末感が強調されるだけよ。粛々と勉強して合格しなきゃね。まじめに勉強して、将来は官僚とか政治家になれば……」
「そういったアドバイスは、よくもらうんだが、どうしてそっちの方向になるんだい? 官僚にしたって、政治家にしたって、まわりに居る奴らと意見を調整しながらお仕事を進めなきゃいけないだろ? 面倒臭いと思わないか?」
「面倒臭いのが嫌なら、どうするの? 死ぬの?」
「死ぬ必要は無いだろ。あんた、初歩的なことを忘れていやしないか? だって、おれ一人で世界を思い通りに改変できたらいいだけのことじゃん」
 晴樹は翼から量子力学の本を取り上げ、人差し指の上でグルグル回した。
「俺の人生最大の関心事は、世界を自分の思った通りに劇的に改変できる技術≠編み出すことなんだ。まゆつばな超能力とは違うぞ。ちゃんとした科学技術を開発したいんだ。原理的には、あるフィールドの全分子の運動を任意に操れればいいわけだからな。詳しくは他にも要件があるんだが……。というわけで、せっかく予備校に来ても、そっちの関心事に気を取られてしまってねえ。いや、受験勉強ができないわけじゃないんだぜ? 国語だけは二十点を超えたことがないけど、他はそこそこ……。気が散ってしまうもんで、三日で問題集一ページも進まないのも日常茶飯ってだけで」
「いろいろ驚いたけどさ、四浪を避けるためのアドバイスはできそうな気がする。間違いなく国語の点数を上げるべきだわ」
「おいおい、よしてくれよ。おれは注意力散漫の達人なんだぜ? 苦手な教科なんかに取り組んだら、心神喪失しちまうよ。ただでさえ今は普段にも増して気が散ってるんだ。最近、新しい関心事が生まれたもんでね」
「新しい関心事? それはなに」
「うん。それはね、あんたがかわいいことだ。かわいすぎて勉強に集中できない」
 翼は、リモコンでいじられているみたいに、意識と関係なく表情筋が緩んだのを感じた。誰だ、人に断りもなく、人の顔をいじる奴は。許せないな。しかし、不思議なことに嫌な気持ちはしない。でも、とりあえず、悪口でも言ってみよう。
「この、変態」
「それは事実」
「変態三浪生」
「いかんともしがたい事実」
 やばい。むしろ喜ばせてしまった。
 でも、変態に効く悪口ってどんなだろう。「普通」とか「一般人」とか? 
 ところで、変態と普通に会話が成立している自分は何者だろう。不名誉なような、嬉しいような、複雑な心境である。素直に嬉しく思えないところが、また複雑だ……。
 なんて、しょうもない思弁の糸を戯れに絡ませていたら、晴樹は無防備な翼にくちびるを押し当ててきた。
 翼は別に慌てなかった。
 目をつぶっている晴樹の顔を見ていたし、相手が鼻の頭に汗をかいてるのを感じたし、男物の香水と醤油味の煮物が混ざったような体臭を嗅いだりしていた。
 人がくっつこうとするのは、珍しい欲求じゃない。欲求のまま行動して満足できるなら、それでいい。
 でも、くっつきたがる欲求なんて、程度の低い子供だましだ。
 たまにくっついたからって、それのどこが満足をくれるんだろう。事実を知るだけなのに。
 本当のところは離れっぱなしなんだって。
 アーガイルチェックのシンメトリックなカーディガンに、枯れ木の妖怪みたいな手が覆いかぶさった。晴樹が翼の胸に手を伸ばしたのだ。
「怒るよ」
 と呟き、翼は手を払った。
 だって、くすぐったいじゃない。
 力を入れられたら、痛いかもしれないし。
「やれやれ。そうだな。すまん」
 晴樹は肩をすくめ、窓際まで歩いて行った。
「かわいい子と遊ぶのも素晴らしいが、おれにはやるべき事業があるからな。劇的に世界を変えるプログラムを開発するっていう仕事が。こいつは変態のおれでも一筋縄でいくかどうかの事業さ。難易度は低いとは言えない。いつになれば完成することやら……。だけど、いつか必ず完成させてやるさ。プログラム一つを完成させるために一生費やしても結構だ。おれの恩師はこういう名言を残してる。朝に走りだして、夕方に辿り着いたら、それで充分だってね」
「――ふうん」
 と翼は答えておいてあげた。
 すでに夕暮れは過ぎ、教室に入る光は暗闇までのロスタイム、という雰囲気に満ちていたけど。
 翼も窓辺に立ち、景色を眺めてみた。
 向かいの雑居ビルを丸ごと借りている新興宗教の信者たちが、道行く人にビラを配っていた。
「……そうねえ。死ぬまでに完成させられれば、幸せかもね。人間、死んじゃったら、何もかも水の泡だから。何をしたっていいと思うわよ」
「あんた、ずいぶん悟ったようなことを言うんだな」
 翼は晴樹に突っ込まれた。
 アメ玉をいとおしんで舐めるかのように、柔らかい顔をして、しみじみ呟いてでもいたんだろうかねえ。
「なにか、思うところでもあんのかい?」
「……」
 翼は、志望大学に初登校する新入生みたいに、明るく涼しげに言った。
「なにもないわよ」





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