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【衛星幽霊】


 人生にはザセツが付き物だ。単純に考えると、長く生きるほど、ザセツも多くなると推測できる。
 であるので、人生におけるザセツの濃密な味を若者よりも知るのは老人たちだと言える。
 だけど、若者風情でもザセツを語ることはできると、高校生の佐藤翼は思っている。
 長く生きた老人しかザセツを語れないとしたら、たとえば若死にする人なんかは何も語れなくなってしまい、かわいそうだ。
 でも一般的には、若者風情がザセツを語ると「ふん、若者風情が、その程度のママゴトを挫折だなどと片腹痛い」なんていう老人の失笑を買うのは間違いないので、語る時にはいかにもママゴトやオモチャっぽく軽々しく扱うのが高校生の身の丈に相応しいだろー。だから、軽い感じを出すため、ザセツ≠ニカナ表記してみた。
 そう思う一方、翼はこう考えたりもする。
 高校三年生の終盤ともなれば、人生におけるザセツの基本パターン≠ヘ一通り押さえているのではないかと。
 ザセツには、共通した特徴がある。それは、ザセツを味わうとガッカリするということだ。
 落胆がなければ、ザセツではない。落ち込んで動けなくなること。ますます沈みたくなること。そういう「重さ」を背負わせてくれる厄介者が、ザセツ。
 ……という具合に、翼はまがりなりにもザセツのエッセンスを抽出できた気がしたので、自分がザセツ雛形≠ザッと押さえたのは確かじゃないかという気がした。
 三年間部活に打ち込んだ結果が一回戦負け、とか。
 両親がケンカにケンカを重ねて離婚とか。
 悩んだり落ち込んだりしてる人が周りに居ても、自分が力になれる範囲には限界があるとか。
 些細なザセツだとしても、人生経験の少ない若者を抉るには充分強烈で新鮮なものだ。
 非情、
 喪失、
 無理、
 そういう気分の掛け合わせや変奏という形でザセツ雛形≠おさらいし続け、残り七十余年の寿命は終わるのではないか。
 以上が、ザセツに対する翼の見解だ。
 そして、なぜいまその見解が翼の脳内でエンジンの空ぶかしみたいに空転してるかというと、目の前で親友が人生最大のザセツを味わっているからだった。
 
 
 初詣の帰りに一方的に車に轢かれ、死につつあるとしたら、ザセツじゃなくて何だろう。
 翼もまさか、初詣に出掛けて親友が二十メートルも吹っ飛ばされるのを目にするとは思ってなかっただろう。
 高松亜理紗(たかまつ ありさ)は、陸に上げられた錦鯉みたいに体をくねらせ、もがいていた。三年間ずっとそばにあった落ち着いた美顔は何処へやら。赤と白と茶色のチェックが鮮やかなワンピースには、どす黒い血液が、たまり醤油のように滲んできた。
 翼は型通りに一生懸命介抱しようとした。けど、看護師でも医師でもないから、型通りに、何もできなかった。そういえば、さっき神社では、亜理紗が「S大学の医学部、合格できますように」なんてお願いしていたのを思い出す。
「亜理紗! しっかりしてよ! 入試までもう少しじゃない! こんな所で寝てられないのにさあっ!」
 亜理紗を抱いている翼のコートにも、べたりと血がついていた。手のひらにも、生ぬるい感触。翼は、なにか、悪いことをしたような気がした。
 弥勒菩薩のようにいつも穏やかで超然としていた亜理紗の顔が、痛そうに歪んでいた。翼は、亜理紗そっくりのゴム人形を誰かが中から叩いてイタズラしてるんだと思った。亜理紗は、何かを訴えかけるような目を向け、息を引き取った。
 
 
 悲しくなかった。涙も出なかった。事故を起こした運転手のことなんか、考えるのも忘れてた。
 翼は、純粋にびっくりした。
「え、うそ」
 というのが率直なところだ。
「人間って、簡単に死にすぎ」
 って思った。
 でも、それが事実なんだ。
 そう思ったら、翼は、死神のひんやりした手で心臓を包まれるような気がした。
 葬式は終わり、亜理紗は灰になった。
 
 
 つぎに翼の中に芽生えたのは、「信じたくない」「信じるもんか」という、怒りに似た思いだった。
 この時期の翼は、怖い顔をしていたんだと思う。実際、学校でもあまり話し掛けられた記憶がない。
 暗示のように唱える。信じるもんか、信じるもんか、信じるもんか。
 ――でも、亜理紗はもう居ないじゃないか?
 その一言だけで、暗示空間は壊れてしまう。
 親友が簡単に死んだという現実を、受け入れてしまっていたから、「信じたくない」なんて思ったんだろう。
「信じなくてもいいけど、それでどうするの?」
 という答えはいつまでも見えなくて、そのまま今までと同じような日常が続いていった。
 翼の横には常に、亜理紗が居なくなった空白があった。
 翼はその空白と一緒に日常を送ることになったけれど、亜理紗が居ない何もない空間が隣にあることは、結構重いことだと分かった。
 まるで自分は、この重い空白を背負って人生という長い道のりを行商するおばさんのようだ、という詩的なのか的外れなのか分からない独白をしたりして、気がついたら浪人生活が始まっていた。
 地元のK町には、予備校は無い。
 翼は、県立五高出身の浪人生がみんなそうするように、A市の予備校に申し込むことにした。
 浪人生にとって、勉強と同じぐらい大事なのは、ありあまる暇をどう潰すかということだ。A市の予備校に電車通学する時間を惜しむような、気合の入りすぎている浪人生は、大型連休ごろには息切れを起こすだろう。そういえば、関東圏では中高生の片道二時間通学すら珍しくないそうだ。片道三十分でどうこう言っていたら、都会人に笑われるね。
 なんて考えると、また翼は亜理紗を思い出した。関東圏の通学事情は、東京から転入してきた亜理紗に教えられたんだった。
 翼は、A市の街なかを歩きながら、ハラリと涙をこぼした。
 今がまだ四月終盤で良かった。すれちがう人々に見られるけど、「花粉症です」と言えないことはない。本当に花粉症でもあるし。
 そういえば、医学部志望だった亜理紗は、毎年花粉症で苦労している翼に言ってくれた。「私が医学博士になったら、翼のために、日本全土の花粉症を根絶してあげますよ」って。どうやって根絶するのか訊いたら、「チェーンソーで一本ずつ切り倒します」なんて言ってた。
 優秀なのに天然。亜理紗の性格は、翼のお気に入りだった。
 わたあめと霜柱が合わさったような、芯がありながらふわふわしている長髪も。
 学校にミサイルが落ち、目の前で千人が死んだとしたって、百済観音みたいに変わらなさそうな微笑みも。
 ほんとに、おかしい子だったな。
 行きたい学部は決めてなかったらしいけど、友達が花粉症だと聞いて、「それなら花粉症を根絶するために医学部に行きましょう」なんだから……。
 いけない。また亜理紗のことを思い出している。これじゃあ、翼は、目覚ましが五分ごとになるたびに飛び起きる人みたいだ。どうにかアラームを止めなければ。
 翼は立ち止まり、涙がこぼれないように、空を見上げてみる。
 
 
 自分の上空に、翼は、衛星≠もっている。
 翼と、翼のいる世界を見下ろしている衛星=B
 衛星≠ェ見ている画像は、リアルタイムで翼の脳内に送信されている。
 たとえば、いま見えているのは、A市の人混みの中で、冬を引きずっているようなすすけた服装をして立っている佐藤翼の姿。
 手ぐしも入れないで草やぶみたいに乱れているショートヘア。なぜか知らないけど充血している不健康な目。青白いというより、積極的に青と黒とで塗ったみたいな顔色。なんなんだ、この疫病神みたいな顔。ナンパすらされなさそうな感じだ。
 翼は、物心がついた時から、自分が置かれたどんな場面でも冷めた目で見ることができた。自分の置かれた状況を、あたかも一枚の絵のように客観視していた。
 この機能を、翼は衛星≠ニ呼んでいた。
 小さい頃から、絵を描くのが好きだったし、中学も高校も美術部だった。
衛星≠フ機能は、絵の構図をとる作業から身についたものかもしれない。
 今までザセツ雛形≠経験した場面でも、翼は衛星≠使ってきた。
 すると、まるで遊園地のアトラクションのように混沌としたエネルギーが渦巻くザセツの場面の中で、自分がポツンと立っているという絵柄が見えた。
 もちろん、亜理紗の死≠ニいうアトラクションも、衛星≠使って眺めることはできた。
 今回のアトラクションは、初詣以来なので、すでに四ヶ月も継続していることになる。
 いくら何でも長すぎる。ザセツ雛形≠ザッと押さえた自負はある翼だが、今回のアトラクションは、かなりこたえているようだ。自分ではノイローゼではないと思うけど、ひどいノイローゼの奴ほど正常だと言い張りたがる気もするし。正直、亜理紗のことを考えるのは、心からウンザリなくらいだ。だけど、考えられないのは心から怖かった。
 そうして流れた四ヶ月。
 最近は、亜理紗の家族からも憎まれるようになった。亜理紗のお母さんが翼に漏らしたコトがあった。
「初詣に行かなかったら、事故には遭わなかった」
 亜理紗を初詣に誘ったのは、翼だ。
 返す言葉が無かった。


 翼は何回も亜理紗の夢を見た。
 夢の中身は、いつも同じだった。
 暗い空間に翼と亜理紗が立っていて、夢の中の翼は亜理紗の手を引いて、暗い闇の中へと連れ去ってしまうのだ。
 いつも翼にしている冷涼な微笑のまま亜理紗が連れ去られるのを、指をくわえて見ている。夢の中の翼には、「勝手に亜理紗を連れて行かないで」と言いたい。
 奇妙な夢のせいかは知らないけど、翼は最近、異様な喪失感を覚えてしまう。そのせいで立ちすくむことさえある。
 それは、自分の半分が剥がれ落ちてしまい、この世界のどこかに迷い込んでしまったような感じだった。
 またもや詩的な形容というわけではなく、確実に自分の中から重要な何かが逃げてしまい、今の自分は従来の半分の成分で生活している気がするのだった。ペアになる螺旋を失ったDNAのひもみたいに、フワフワと漂っている感じがした。
 しかしまあ、浮遊感というのは浪人の身分にはふさわしいかな、とも思った。
 
 
 翼は予備校の申し込みを終え、A市からK町へ帰る電車に乗り込んだ。
 予備校には明日から通うことになった。受験に落ちてからブラブラしてダラダラしていたので、市内の大手予備校は受付を締め切っていた。翼を受け入れてくれたのは、市の外れにある少人数制の予備校だけだった。
「いーね。浪人生活の初めから、つまずいてる。あたしらしい半端さだわ」
 嬉しい出来事でもあったように、翼は微笑した。
 ボロっちいローカル線が動き出した。窓の外には青い空と白い綿雲が鮮やかで、アンリ・ルソーの油絵みたいにパッキリと明るかった。







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