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【能力主義。】


 -5月10日 15時30分-

 新年度、第一回・保健委員会。
 4月の保健室利用者が、昨年同時期の四倍強にのぼっているというデータが報告された。
 このデータは、利用者名簿に記帳してある人数だから、未記帳の利用者を合わせれば更に膨れ上がる見通しだという。
 5月になっても、利用者は多目で推移しており、この傾向が続くと思われる。
 保健委員たちで原因を討議するも、出た結論は「原因不明」。
 今回の会議の要旨は、次の二点である。
 花粉症の時期が続くので、マスク等の着用を呼び掛ける。
 生徒が日頃から健康管理につとめ、校内で体調を崩さないようにすることを呼び掛ける。
 二時間ほどをつぶし、初回の委員会は終わる。
 会議室を後にした委員たちは、無言で散って行く。
 中には、オフレコの会話をしながら帰る生徒たちの様子も。
「結構みんな支持してるんだねえ! 謎のカウンセラー=B原因は不明? そんなの、嘘なのに!」
「噂を聞く限り、生徒の評判はいいみたいだものね」
「そりゃあねえ、必ず悩みを解決してくれるっていう評判のカウンセラーだもんねえ。重宝されないわけないよね!」
「これからも密かな相談相手で居てほしい――ってとこかしら」
 スーパーボールが弾むようにイキイキした声と、高山でそよぐ風のように淡々として冷えた声。二年五組の保健委員をつとめている二人だ。
「ねえねえ。その謎のカウンセラー=Aいつまで居てくれるのかな? あたしも相談に行ってみようかな!」
「あんた、いま悩みがあるの?」
「それが、無いんだけどさ! けど、そんな凄腕のカウンセラーなら、悩みを作ってでも会ってみたいものよね!」
 上杉里美は、常にボディランゲージのスイッチがオンになっているみたいに身ぶり手ぶり豊かだ。重そうなブラックネイビーのブレザーが、手ぶりに合わせて紙のように動く。自然なウェーブによって動きを演出するロングヘアも、彼女らしい特徴である。
「会ってもねえ、たぶん面白くないわよ。カウンセラーって、悩みを聞く人だもの。悩みのある人にしか用は無いはずでしょ。板金業者が壊れた車にしか用が無いのと同じよ」
 板谷円(いたや まどか)は、歩きながら顔だけを里美に向けた。買う気が無い時にスーパーの棚を見て回るような、穏やかな表情である。こちらは、色が薄くクセも無いセミロングの髪。里美と比べるとひんやりとした印象。
「……でも、まあ、しばらく居るとは思うけど。新年度になってから一ヶ月は経ってるしね。今年は間違いなく居るんじゃない?」
「そうだよねー。会いたいような、会いたくないような!」
「私がカウンセリングしてあげてもいいよ。ただし、一回六千円でどう?」
「円ちゃんー、相変わらずお金にシビアだね! でもそれ、微妙に高いよ。ディスカウント待ちでよろしく!」
「賢明ね」
 からからと里美が笑い、くすくすと円が笑う。
 似通った背格好の二人、肩を並べて歩き去る。
 
                    Ψ
 
 -5月11日 15時30分-
 
 省電力を心掛けているため、廊下は薄暗い。省電力を実施する理由は、学校というのは、聞こえのいいキャンペーンはとりあえずやってみる所だからだ。
 薄暗いので、保健室を目指して来た生徒も通り過ぎる。そのくらい目立たないところに扉がある。扉のわきには、二つの札が掛かっている。上は「養護教諭 外出中」の札であり、下は「カウンセラー 在室中」の札である。
 保健室の中は、簡易な壁で仕切ってある。どうかすると、本来の半分の広さしか無いように見える。保健の先生が机に陣取り、体調不良の生徒がベッドに二人も寝れば、室内は満員である。
 だが、謎のカウンセラー≠フ相談スペースはそちらではない。
 薄壁の向こう側である。
 どうして謎のカウンセラー≠ニ呼ばれているかというと、相談者に顔を見せたことがないからだ。薄壁の向こうは更に衝立(ついたて)によって区分けされていて、相談する生徒は衝立越しに謎のカウンセラー≠フ声を聞くそうである。
 
 
 今日も今日とて、かどうか知らないが、壁のあちら側のスペースでは秘めやかな会話が交わされていた。
「打ち明けたいことがありますか?」
「はい。あの……」
「どうしました?」
「やっぱり、やめます。こんなこと打ち明けても、信じてもらえるかどうか」
「心配しないで。信じます。話して」
「なら、言うけど……。私は、ときどき考えることがあるの」
「何をです?」
「自分の能力≠ェ招いてしまった事件、について」
 しばらくの沈黙がカウンセリング・スペースを満たした。
 カウンセラーらしき声が、ロボットのような棒読みで訊く。
「能力≠ニ言いましたね。どのような能力≠ナすか」
「信じてもらえるかなぁ。じつは、人の不幸を忘れさせる能力≠ネの」
「興味深い能力≠ナすね。もちろん、信じます。珍しい能力≠ニも思いません」
「ありがとう。信じてくれて。それだけでもホッとするわ」
「能力≠ェ事件を招いた、と言いましたね」
「ええ」
「その事件のことを、話せるなら、話してくれますか」
「そうね……」
 と女子生徒は答えたものの、訪れたのは二度目の沈黙だった。
 彼女が息を吸い込む音さえ聞こえてきそうな静寂。
 そして彼女は話しだす。
「能力≠ェ発現したのは、中学三年の時だったの」
「はい」
「その頃、私のお父さんが会社をクビになっていたのね。本人は上の不始末の責任をかぶせられたんだって言って、毎日お酒を飲んでた。私も商店街まで買いに行かされたことがあったわ。一升瓶を」
「重かったでしょう」
「うん。重かった。でも、それよりもずっとお父さんの心の方が重かったと思う。だから私は――」
「――能力≠使い、お父様の不幸を忘却させた……?」
「それで良かったんだ、と思ってた。だって、素晴らしいと思うでしょ? 不幸を忘れさせてしまう能力なんて」
「確かに、素晴らしく思えます」
「ところが、現実は違ったの。お父さんの不幸は、会社を辞めさせられたこと≠セった。私はそれを忘れさせてしまったの。お父さんは毎日会社に通い始めたの」
「自分をクビにした会社に」
「おれはここの社員なんだ≠チて、ずっと本人は信じ込んでた。毎日私たちを振り切って会社に行っちゃうお父さんを、毎日引き取りに行くの。お母さんが行く時もあったし、私が行ったこともある。結局お母さんは愛想を尽かしちゃってね……」
「離婚したんですか」
「ええ、そう。妹はお母さんに引き取られて、私はお父さんの方に。A市のマンションを引き払って、今年からはK町のアパート住まい。私ね、忙しくない時は、駅裏の酒蔵(さかぐら)でアルバイトしてるんだ。学校には内緒だけどさ」
「お父さんは健康なんですか?」
「そうでもないの。クビにされた会社に出て行って、狂人扱いされたわけね。お父さんを引き取りに行った時、私がお父さんを連れて帰るのを、会社の窓からみんなが見ていた。見ていただけじゃない、みんな笑ってたわ。お父さんはビルに向かって怒鳴って、会社の人達はお父さんを指差して笑ってて、私だけどういう顔したらいいか分からなくて、たぶん青ざめたりしてたかな。K町に引っ越ししたけど、人の噂ってついて来るものね。同じアパートの人や近所の人たちが好奇の目で見てくるの。お父さんと一緒に道を歩いてたら、『気ちがい!』っていう声が降って来たこともある。まわりを見渡しても、誰もいない。お父さんは、職探しどころじゃなかったわ。ひどい鬱病になっちゃってね。今は町外れの病院に入院しているわ。今でも前の会社の社員だっていう妄想≠ノ侵されてね」
「察するに余りありますね。さぞ辛いのでしょうね」
「さぞ辛かったら、今ごろ私だって自殺ぐらいしてると思うけど、実際はしてない。どうしてかっていうと、信じているからよ。自分はお父さんに正しいことをしたんだって」
「正しいことを?」
「そう。だって、私がお父さんの不幸を取り除かなかったら、事態はもっと悪くなっていたかもしれない。毎日酒をあおって、会社の人たちを恨んで、だけどどうしようもなくて、自殺に走ったかもしれないわ」
「確かにその線も有りでしたね」
「私からすると、あの時に能力≠使わなかったら、じゃあいつ使うの? っていう話。だって、不幸を取り除くのが幸福だ≠チて信じなかったら、不幸な人は何を依り所にして生きていけばいいの? このまま不幸でいいんだ≠チて思うわけ? 不幸を取り除くことは、絶対に正しいのよ。そうじゃなきゃいけないはず。能力≠使って人の不幸を取り除くことができるなら、私は何回だって能力≠使うわ」
「不幸な人たちを、幸福にするために?」
「お父さんの出来事があってから、私は自分で分かるくらいに変わったと思う。どこが変わったかっていうと、間違いないのは暗くなったことね。昔の自分からは相当遠い性格になった気がする。そしたら、今まで見えてなかったことも見えてきたの」
「何が見えてきました?」
「よくある言い回しだけど、お父さんの会社の人達や近所の人達を見ていたら、世の中には二種類の人間が居るんだって分かったの。それは、鈍感な人間と、そうじゃない人間よ。でも鈍感人間は鈍感だからそのことが分からないの。だって、A市に居た頃の私は、そんなこと考えもしなかったんだから」
「昔は、あなた自身、鈍感人間だった?」
「私はね、鈍感人間って、さほど不幸じゃない生物だと思うのよ。鈍感だから、不幸にも鈍感だってわけ。不幸な目に遭っても、そんなに不幸を感じないし、感じても一瞬のことなのよ。鈍感人間が自分は不幸だ≠チて言ってても、信じるに値しないわ」
「それは本当ですか?」 
「本当」
 また静寂。
 今度は、緊迫した静けさではなく、一息入れている感じだった。「お茶をいれた。飲む?」「ありがと。悪いわね」……というやり取りが聞こえる。
 また真剣なカウンセリングが始まる。
「私の能力≠ヘ、鈍感人間に使うためにあるんじゃないと思ってる。だって、鈍感人間は、自分で言うほど不幸じゃないんだもの。もっと不幸な人が、たくさん居ると思うの」
「そう言えるかもしれません」
「だから、できれば、すごく不幸な人達に能力≠使っていきたいと思ってる。医者が病気の流行を願っているみたいで不遜かしらね」
「いいえ。大丈夫」
「カウンセラーらしく、柳に風な聞き方をしてくれてありがとう。日頃から結構モヤモヤしてる部分だったの。喋ったらすっきりした気がする。結論は出ていても、つい考えちゃうことってあるでしょ。通わなきゃ≠チて分かっていても学校に行きたくなくなるとか、好きだ≠チて分かっていても付き合い易いから、好きだって思いこんでるだけなんじゃないか≠チて悩むとか」
「カウンセラーをやっていても、実はカウンセラーなんて向いてないんじゃないか≠ニか」
「ははは。そういう感じ。じゃ、終わりにしようか」
「終わりましょう。おつかれさまでした」
「おつかれさまでした」

                     Ψ

 -5月15日 15時30分〜16時00分-

 保健室前の廊下をのべ二十人の生徒が通り過ぎる。
 のべという理由は、そのうち三人は同じ生徒によるものだからである。
 この生徒は三十分かけて保健室の前を行ったり、来たり、行ったりしたわけだ。
 顔色は美味な干し芋のように青白く、甲子園でチャンスに打順の回った球児みたいに胸を押さえている。どこかしら具合が良くないのだろう。
 一回目は「養護教諭 外出中」「カウンセラー 在室中」の札をチラ見して立ち去った。
 二回目は二秒ほど立ち止まったものの、後ろから別の生徒が来たので立ち去った。
 三回目はドアの陰で聞き耳を立て、再び札を確認して立ち去った。立ち止まり時間は九秒。
 四度目に登場した彼は、通勤ラッシュで先頭を切って階段を登るサラリーマンのように異常に颯爽と歩いて来た。
 険しい顔をして保健室へ飛び込んでいった。
 
 
 -17時00分-
 
 保健室のドアひらく。
「――ざいました!」という叫びが廊下に漏れる。お辞儀する生徒の尻が入口からハミ出ている。生徒はフタをするようにしっかりとドアを閉じ、鼻歌を歌いながら笑顔で帰って行った。
 夕方なので、全部の壁にブルーベリージャムを塗ったかのように、廊下は薄暗くなる。
 
 
 -17時10分-
 
 保健室の明かり、消える。
 中から板谷円が出て来る。「カウンセラー 在室中」の札をクルリと裏返して掛ける。特別教室用の長めの鍵を挿し、入口にカギをかける。
 そこに男子生徒の足音と声が近付いて来る。
「おーす」
 訪ねて来たのは。不健康に見えるほど健康的な褐色に焼けている男だった。同じクラスの圭一だ。ちなみに彼女持ちであり、彼女の名前は桂子という。圭一と桂子というわけで、覚えやすい二人である。もしかするとカップル成立のきっかけは名前トークだったのではなかろうか。
 冷暗所で貯蔵された濁り酒のような肌色をしている板谷円と並べば、コントラストは歴然だ。日本人としては少し色抜けした円の髪や瞳が、かろうじて少年の肌の色より暗い程度である。
「あれっ。保健室、終わったのか」
「終わったわよ」
「板谷は何してんの?」
「当番だったのよ。保健の先生が出てる日は、保健委員が代役だから。先生から指示されてる仕事しかできないけどね。保健委員が椅子に座ってるの、見たことない?」
「何だよ、残念だな。カウンセリング受けたいと思ったんだけどな。噂を聞いたんだよ。謎の腕ききカウンセラーが居るらしいってさ。今日はもう帰っちまったんだろ?」
「……うん」
「じゃあ仕方ねえ、また次にすっか。今日は帰るしかねえな」
「あなた、カウンセラーに相談するような悩みあるの?」
「あるある。大あり。それに、謎のカウンセラーとやらの顔も拝んでみたいじゃん? あそうだ、おまえ××地区のアパートから通ってるんだろ? 俺もそっち方面だから、途中まで一緒に行こうぜ。べつに話相手がカウンセラーじゃなくてもいいわ」
「私、教務室に鍵を返さないと」
「じゃあ、階段おりたとこにいるから。先に行ってるからな。あっと、悪い!」
 圭一が最後に謝ったのは、行き過ぎる時に筋骨隆々のたくましい肩が円に当たってしまったからである。それだけで保健室のドアに背中を受け止められてしまった円は軽すぎるのであろう。あるいは貧血とか。
 圭一が去った廊下にて、円は乱れた長髪に手櫛を入れ、蟻地獄の巣のように乾いた目で呟いた。
「そういえば、朝から水しか口に入れてないんだった。栄養が足りないな」

                    Ψ 

「おい、おせーよ。何してたんだ?」
 から始まった圭一の独演会は、駅を過ぎてもとどまるところを知らない。円としては、たまに相槌を打てばいいので楽ではある。
 もっとも、弛緩してばかりもいられない。現在円は体内糖分欠乏状態だが、少ない脂肪層を分解してでも脳の活動へとエネルギーを回さねばならないような話題もあるからだ。
「最近、桂子に飽きてきたんだけどさぁ〜。どうすりゃいいと思う?」
「ここに桂子さんが居たとしたら、誉められたセリフじゃないね」
「こういう話、おまえは全然興味無さそうだろ。クラスでも妙に落ち着いてるところあるじゃん。酒の蔵元でバイトしてるんだってな。金銭感覚や生活感覚もしっかりしてそうだろ。だから冷静にアドバイスしてくれそうな気がしてな」
「私より落ち着いてる人なんて、たくさん居るんじゃないの? 皆野(みなの)さんとかはどう?」
「ああ、あいつはダメだよ。言葉自体喋らないから。ハッハッハッハ! 寝てばっかりいるしな。ありゃコミュニケーション無理だよな。……で、どう思うよ?」
「桂子さんとは、ケンカでもしたの?」
「いいや、別に」
「嫌いなところがあるとか?」
「ねえよ。わっかんねえ奴だなあ」
 圭一は飼い犬に芸でも仕込んでいるみたいな目で円を見下ろす。
 円は無関心な目で進行方向を眺めている。
 圭一は歩きながらアクビと伸びをした。
「なんか、あいつと出会った頃のトキメキっていうの? 最近急激に薄れてる気がしてさ。あるじゃん? ほんとにコイツ、桂子なんだっけ? 桂子のフリしてる宇宙人なんじゃねえ? っていう。デートする時、待ち合わせの場所で会った瞬間、あ、コイツじゃない。チェンジ≠ンたいな。あいつさー、やたらと俺に付きまとうし、お節介焼きまくるし、しかもあいつケチなのよ。A市に買い物行ったりすると、それ高いから駄目≠ニか言うわけな。わけわかんねえって! 何の為の買い物だよ」
「憎まれ口が出るのも、好きだからなんでしょ」
「だからさあ、好きは好きなんだけどな、好き度合いが急降下してんのが困るって言ってんだろ。使えねえなあ。やっぱ今度、カウンセラーのとこ行くか。冷めた心がもう一回熱くなるような催眠術でも掛けてもらいたいもんだ。ガス欠じゃあ車は走れねえからな!」
「一つ訊いていい? あなた、もともとは、桂子さんのどこが好きで付き合い始めたのかしら?」
「そりゃ色々あるよ。優しいとことか、まじめなとことか、一生懸命なとことか」
「カウンセラーみたいなこと言うけど、美点は欠点と表裏一体なものよ。落ち着いて桂子さんの美点を見るようにしてみたら?」
「あ〜。無理無理。俺はそーゆー安易な自己啓発思考は嫌いなんだ。いくら見直したって、しなびた花はしなびたままだろ。次々枯れるから花屋は儲かるわけでな。枯れた花が元に戻ったら手品だよ。違うか?」
 圭一はカメラを向けられたコメンテーターみたいに喋りまくった。
 円は立ち止まった。
 二人はT字路に突き当たっていた。
「その手品……」
「ん? なんだよ」
 円は酒を口に含んだ利酒師みたいな目で圭一を見上げた。そして、判定が終わって酒を吐き出す利酒師みたいな目をして、溜め息をひとつついた。
「……なんでもない。桂子さんと仲良くしなさいよ。私からは、それだけ。じゃあ、私の家、この近くだから」
 と言って、円がT字路の右側へと体を翻すと、
「おお、そうか。じゃあお前の家で一服しようか。喉かわいたな」
 セントバーナードが雑種にくっついて散歩するように、圭一が円と一緒に再び歩き出した。円はラガーマンのような圭一の肩によって、あわやガードレールの外へ押し出されかかり、幅の狭い歩道に二度目の溜め息をついた。
 
                    Ψ
 
 西日の差し込むアパートで、円は小さな座卓に茶を置いた。
「どうぞ、飲んで」
「ありがたい!」
 圭一の手が大きいのか、湯呑みが小さいのか、とにかく圭一はすぐに飲み干した。そこに円が二杯目を注ぎ、圭一が飲み干し、円が急須に湯を足しては同じサイクルを続けるという時間が流れた。
 ハァーッと充実の溜め息を吹かせた圭一は、卓を挟んで正座している円に、
「あれ? お前は飲まなくていいの?」
「茶葉と水の節約。でも安心して。吝嗇(りんしょく)は私の趣味。お客に出す分は惜しまない」
「そうか。よー分からんが、もう一杯ついでくれ。ところで、カーテン閉めて電気つけねえか? 暗くなってきたぞ」
「まだしばらく大丈夫。ぎりぎりまで自然採光を利用して電気代を浮かせる。そういえば、ケチな女は嫌いだったかな?」
 夕日を浴びた円の影が、首を傾ける。笑っているようだ。セミロングの髪の外縁部が、溶けた鉄のようなオレンジ色に見える。
 円は枝毛のある毛先を手に絡め、卓上で弄ぶ。
「……いい機会だと思って教えるわ。私の髪の色、どうして茶色なのか分かる?」
「えっ? し、知らねえよ。なんでお前の髪の話になるんだ? それより俺の話の続きを」
「これ、地毛なの。昔は黒かったんだけどね。あるトラウマのショックで色が抜けたと言ってもいい。トラウマの一言で片付けるのはカウンセラーみたいで安易だけど、そこは問題ない。それに、このエピソードは、私の能力≠ニも切り離せないからね。あなたにはトラウマのことを話しておく」
「え? ん? おい、何言ってんだ? 話が分からないんだが」
「では分かるように一言で言おう。あなたが会いたがっている謎のカウンセラー≠ヘ、私よ」


 六畳一間のカーテンは相変わらずオープンで、もう寒色系の光しか差し込まなかった。
 それでも、「暗い」と圭一が文句をつけることは無かった。
「おまえ……」
 円の能力≠ニ、父親の一件について聞き終え、圭一は口を開いた。
「……ま、マジ? つーか、マジな顔してるし、良くできた話なのは分かるよ。事件のショックで髪の色が抜けたって言われりゃ、納得は納得だけどよ」
「普通は納得しないけどね。私みたいな能力≠ナも使うっていうなら、実感できるかもしれないけど。納得できるのは、あなたが鈍……。おおらかだからでしょうね」
「だけど、いいのか? 全部バラしちまってさ。謎のカウンセラー≠セったのが、謎でも何でもなくなっちまったぞ?」
「……いいのよ」
 暗い部屋の中で、砂鉄の塊みたいな黒い影が首を傾けた。
「あなたは、不幸を忘れる。それは、その不幸が関係している周辺事項ごと忘れてしまうということ。私に悩み相談したこと自体、不幸な記憶の一つとして忘れ去られるわ。もちろん、私が謎のカウンセラー≠ナあることも、一緒に帰ったことも、ここに来たこともね」
「え、おい、ウソ、マジ?」
「マジ」
「おい、ちょっと待て、それはなんかヤバい気がするんだが」
「大丈夫。目を閉じて」
 円の影は、圭一に手を伸ばした。
 
                    Ψ
 
 -5月31日 17時00分-

 保健室には、保健の先生が不在。
 先生の机には、当番らしき女子生徒の後ろ姿。彼女が文庫本をめくる音が聞こえるほど静かだ。
 後方の簡易な壁の奥には、知る人ぞ知る空間がある。
 今日も既にカウンセリングは始まっているが、その内容が外に漏れることはない。 


 相談者は、小柄な女であった。
「今日は、どうしました?」
 衝立の向こうから、謎のカウンセラー≠フ声がする。
 女は顔を上げ、嘘のつけなさそうな大きな目を全開にして言う。
「あの、どこかで会ったことあります? 誰かの声に似ているような……」
「偶然でしょうね。それより、相談内容をおっしゃって下さい」
「はい。あのう、最近、あたしの彼氏が冷たいんです。あたしのこと、その、飽きたんじゃないかと思って、心配なんです」
 女は俯き、石でも吐き出すように一つ一つ言葉を並べた。
 涙の薄い膜が大きい目を覆っていた。
「そうですか。苦しいでしょうね。でも、ご心配なく。あなたの悩みは、すぐに消して≠げます。楽になりますよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
「それでは、しばらくの間、目を閉じていただけますか?」
「あの、もう一つ悩みがあって」
「おっしゃって下さい」
「その、彼氏のことなんですけど、あたし、心配なんです。前は明るい人だったのに、最近、鬱病みたいに塞ぎ込んでしまって……」
「……」
 沈黙の後、謎のカウンセラー≠ェ尋ねた。
「失礼ですが、その彼氏の名前は?」
 女は彼氏の名前を答え、
 また長い沈黙が支配した。
 女は、全問印刷ミスだらけの試験問題を見るような目で衝立に目をこらした。カウンセラーが居なくなったのではないか、と訝かしんでいるようだ。
 試験で高得点を確信して鉛筆を置いた生徒のような声が、衝立の向こうから届いた。
「大丈夫です。きっと彼は、今、幸せだと思います」
「え、あの、どうしてですか? だって彼はあんなに……」
「それは、無痛覚であるということが、彼の不幸だったからです。無痛覚というのが言い過ぎなら、要は鈍感であるということです。彼は鈍感なので、彼女のあなたがカウンセリングに来るほど心配し、悩んでいることが分かりません。察することもできません。鈍感な人間は、周りの人々に痛みを与えます。あなたがいま、心を痛めているように。痛みとは、苦痛であり、不快であり、不幸≠ノ他なりません。つまり、鈍感な人間は、存在自体が不幸なのですね。彼が鬱病になったとしたら、喜ばしいことです。彼は痛覚を手に入れたのですから。鈍感という不幸を取り除かれたわけです」
「でも、でも、あたしは、彼が痛々しくて見ていられないんです! 彼を楽にしてあげて欲しいんです! お願いします。お願いです」
「……よろしい。わかりました。では、彼をここへ連れていらっしゃい。まとめて二人ともカウンセリングしましょう。もちろん、無料です」
 ……というわけで、今、衝立の前には圭一と桂子が並んでいる。
謎のカウンセラー≠ヘ、しなびたナスのように猫背で座っている圭一に声をかけた。
「どこか苦しい気分ですか?」
「……ええ……。……その……。……無性に……。……ハァ……。……気分が沈む感じがしまして……」
 カウンセラーは桂子にも訊く。ラジオのDJのようにテンポがいい。
「そちらの彼女はどうですか?」
「色々な悩みが……。ほんとに色々な悩みがあって、心が苦しいんです」
「よろしい。では目をお閉じください。私がいいと言うまで、つぶっているんですよ。絶対に楽にしてあげますから。さあ、リラックスして……」

                    Ψ
 
 廊下は洞穴のように暗い。だが、圭一と桂子は、保健室から出るや手を握り合うほどウキウキしている様子だ。
「ほんと、何を悩んでいたんだろうな!」
「私も! どうかしてたのね。嘘みたいに吹っ切れてるのが分かるもん」
 二人の影は廊下の奥へ消えて行った。
 
 
 カウンセリングを終えた円が、仕切り壁の中から出て来る。
 養護教諭の椅子に座っている少女は、机の上で文庫本を広げている。
「帰るわよ。終わったから」
 円は少女の肩を揺すった。
 少女の手から文庫本がパタリと倒れ、綿毛のようなショートの髪がフワリと舞った。
 しばらくしてから、皆野マチは、低体温状態の両生類のように緩慢に振り向いた。
「珍しいわね。初めてじゃない? あんたがベッドで寝てないのは」
「入室時、ベッドは使用されていた」
「ベッドの子達なら、カウンセリングの前に追い出したじゃない」
「一度こちらに座った。移動するのはめんどう」
 皆野マチは円と同じクラスの生徒である。よく寝る無口な生徒ということ以外、クラスでは彼女の生態は知られていない。
 しかし、保健委員である円は、頻繁に保健室で寝ているマチのことをクラスメートよりは知っている。そしてマチも円の情報を多少持っていた。たとえば、円が謎のカウンセラー≠ナあることなどを。
 マチはフランス菓子の名前みたいな長たらしい著者名の文庫を閉じ、そのタイトルよりも短い文字数で言った。
「何をやったの」
「ん? あの二人のカウンセリングのこと?」
「そう」
「二人とも、忘れさせたのよ。鬱病であることも、悩みで心が苦しいことも」
「まるで、対症療法」
「え?」
「表にあらわれた問題を消し去っているだけ。根本にある病巣はそのまま。日ごとに悪化する」
「……いいのよ。本人が不幸を忘れたいって言うんだから、対処してあげているだけ。あの二人は死ぬまで不幸と追い掛けっこすることになりそうね」
「最後は、捕まるかも」
 マチは、先刻から微動だにしない無表情で円をジッと見た。
 円は、マヌケな顔で写っている自分の写真でも見たように赤面した。
 しかし円は、顔の赤さがペイントに見えるくらいの落ち着いた表情をして、
「……なに? どうかした? マチ」
「あなたは不幸を飼っているタイプ。自分の中に」
 円の顔色は土色へと急変した。
 こわばっている笑顔のせいか、どこかマチを非難しているようにも見える。
「あははっ、そりゃそうかも。私のカウンセリングを受けた人間は、人生がガラリと変わってしまう。しかも、それが幸福に繋がるか不幸に転がるか、時が経ってみないとハッキリしないからね。こんな能力≠アそ不幸だと思うもの。でも、不幸だと思うなら、能力≠ネんて忘れてしまえばいいのよね。鏡に向かって、自分で自分に術をかけてさ。だけど、それは、嫌。こんな特別な能力≠ェあることを忘れてしまうなんて、そっちの方が耐えられないもの。たとえば、私が何の値打ちも無い人間だとしても、この能力≠ノは価値があると思うの。カウンセリングはこれからも続けていくつもりよ」
「……気持ちは、理解できる」
 マチは立ち上がり、もう一度円を見詰めた。
「では、あなたがカウンセリングを必要とした場合は?」
「私??」
 円は、どう考えても記念受験だった大学の合格発表で、自分の番号を発見してしまった瞬間のような表情を見せた。
「いいの。それは」
 何も描かれていないカンバスのように色の無いマチの顔に向かい、半分ほど分けても目減りしないくらいの微笑を与えた。
「だって、あんたが居るから。この前のカウンセリングごっこ、覚えてる? あんたがカウンセラー役で、私が相談者役だったやつ」
 マチは黙ってうなずいた。
「私が疲れたら、あれをまた頼みたいわ。遊びでいいから、あんたがカウンセラーになって。余計なこと喋らないし、カウンセラーの適性があるかも。心理学的な立場から言うと、友達と喋るだけでも有効なセラピーだしね」
「……構わない」
「ありがとう。――さあ、帰ろうか。戸締まりするよ」


(終)
(0903)









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