あたしは家の中から料理を持って来るのを手伝った。 料理というのは、バニラアイスとか、チョコアイスとか、ラムレーズンアイスとか、要するにアイス全般だ。 屋上には、まるでポリバケツのような業務用アイスのケースがずらりと並んだ。この容量じゃあ、あたしたちの体じゅうの水分が砂糖・水飴・植物油脂に置き換わっても、まだまだ片付きそうにない。牛氏がフルコースなんて所望してくれたからだね。そしてマチさんも加減を知らない。 その後、あたしたちは屋上でアイスパーティーを開いた。さやきさんはマチさんに張り合ってアイスを食べていたが、ラムレーズンを二リットル以上食べ、ペースが落ちてきた。 マチさんは工作機械みたいにスプーンを口に運ぶ。その横でさやきさんは苦しげにうつぶせになった。今の彼女の胃は、太ったさつまいものように膨らんでいることだろう。しかし憎まれ口は忘れない。 「アイスぐらいで私を買収したなんて思わないことね」 「思ったことはない。その前に、発言の意味が分からない」 「私は異常≠ヘ許さないのよ。力がついたら、必ずお前を殺してやるんだから」 「止めはしない」 さやきさんはアイスクリームのラベルを恨めしげに睨み付けた。「止めはしない」なんて言われたら話は終わりだ。悪口は止まってしまう。 さやきさんは、あたしたちから離れて座った。 フウとため息をついた。 「今までの私は幸せ者だったわね。自分の手で摘み取れないエーテルなんか無いと思っていたわ。だって実際、無かったんだから。でもあんな……。町ごと覆っちゃうようなエーテルは摘めるわけがないわ。竜ヶ崎市じゅうの田んぼを一晩で稲刈りしろって言われているようなもんだわ。摘めるわけがないエーテルがあるってことは、この世を正常≠セけで構成するなんて絶対ムリってことじゃない。なら、絶対ムリな目標を掲げている委員会≠ヘ、一体何なのかしら」 静かな口調だった。コールド負けした野球部員が用具を片付ける時のように、いじける気力もない感じだ。 牛氏が口を挟んだ。 「委員会≠ノは、上の偉い方々の事情があるのですよ。世の中には、特定のエーテルを消してほしいという願望を抱く人がたくさん居ます。その人たちの願望を叶えてあげれば、委員会≠ノは報酬が入ります。その報酬は上の偉い方々の懐に入り、われわれの旅費になり、さやきさんの学用品になります。『正常∴齔Fの世界をつくろう』という委員会≠フ目標は、意気込みを示したものです。交通安全の標語と同じですよ。目標達成が不可能なことは、われわれ凡人には自明です。しかし、さやきさん、あなたは今まで自明だとも感じないで突っ走って来ました。それくらい非凡だったということです。確かに、今のあなたは強大なエーテルには為す術はありません。しかし、このまま成長していったら、ひょっとして……。そう感じさせる逸材であることも、また確かですよ」 「絶望させたくせに、今度はおだてるの?」 「おだてるわけじゃありません。わたくしと比較して述べているだけです。わたくしは昔、ある家庭に降り掛かったエーテルを処分する任務を引き受けたことがあります。しかし、そのエーテルはあまりに強大でしてね。わたくしの力では歯が立ちませんでした。そのエーテルは、わたくしの『壁』になりました。今でもわたくしは『壁』を越えることができないでいます。今回わたくしが呈示したのは、さやきさんの『壁』というわけです。あなたはわたくしのような凡人とは違います。わたくしたちが越えられない『壁』でも、あなたなら越えられるかもしれません」 「……」 さやきさんは黙って聞いていた。彼女によくなじむ厳しい顔をしていた。 そのまま顔を上げ、刺すように冷酷に言った。 「無能のお前が『壁』を越えられないのは当然よね」 「いや、恐れ入ります」 「ハア、これからどうしようかしら。あのエーテルは絶望的だわよ。今の私じゃまるでムリ。今はやる気のカケラも無いわ。みじめだわ」 「……ねえ、さやきさん」 お節介かもしれないが、あたしは声をかけた。 「異常≠設定し直してみたらどうだい? さやきさんは異常≠ネものが真っ赤に見えるらしいよね。で、異常≠カゃないものは赤く見えない。その感じ方って、どうやったって絶対に変わらないのかい?」 「変えるのは不可能ではありませんよ」 と牛氏が言った。 「生まれ持った異常♀マを変えるのは非常に難しいことです。しかし、訓練しだいと言えるでしょう。世の中は広いですし、異常≠ヘたくさんあるものです。見方が変わることはあり得ますよ」 「そうなんだ。安心した。さやきさん、じゃあ訓練してみたらどうだい?」 あたしはアドバイスしてみた。無視されても構わなかった。殴られても仕方ないと思った。 さやきさんは異常≠刈るプロだ。一般人の思いつきなど一笑に付していい。しかし、プロはプロで大変なんだろうと、あたしは一般人なりに思った。出すぎたことと知りつつ、口を出したのだ。 さやきさんはあたしをジロリと見た。何も言わなかった。あたしの提案を受け入れてくれたのかどうかは分からない。 「ふん、なによ。人の気も知らない……で……。ふんっ……。ふうう、うむうう、ううううううううう」 さやきさんは屋上の隅で座り、詰め込むようにアイスを食べた。心配になるくらい速いペースで食べた。呻き声を漏らしながら食べた。 深夜までアイスパーティーは続いた。子供やお年寄りは眠っている時間だ。皆野家の屋上以外は静まり返っていた。 牛氏は思ったより食べた。最初に飛ばしたさやきさんがバテているそばで黙々と片付けた。終わってみれば牛氏はさやきさんの何倍も食べていた。さやきさんは食事後なのに青白くなっていた。うん、無理ないね。 「う〜。胃の中が甘酸っぱい〜。体が甘ったるい〜。塩辛い漬け物が食べたいわ」 「レオパレスに戻ったら青菜の漬け物をお出ししましょう。お吸い物もお付けしますよ」 「当然でしょ。牛のくせに」 さやきさんは酔っ払いのように動きが鈍重だ。しかし、高まっている数値は血中アルコール濃度ではなく血糖値だろう。 「それじゃ、お暇しましょうか」 牛氏は中腰になり、さやきさんに肩を貸した。「余計なことしないでよ。私はね〜、一人で歩けるわよ」なんて言うけれど、さやきさんは目玉が固定してしまっている。望遠鏡などは雨上がりの傘みたいに置き去られていたので、牛氏が後片付けをしていた。 「ごちそうさまでした」 「ごちそー」 二人の声がハシゴの下に消え、屋上は寂しいくらいに静かになった。 ふぅ。あたしは自然に息をついた。今日は大変なイベントがあったけど、何とか終わったかな。――いや、まだだ。業務用アイスの残りが溶け、ペンキの入ったバケツよろしく並んでいるのを片付けないといけない。 すると、バケツに異状を発見した。 アイスの水位がみるみる下がっていくのだ。底が抜けたかのようだけど、下に漏れている様子もない。肩を叩いてマチさんに異変を知らせた。マチさんは何食わぬ顔で見ている。バケツの中身はどんどんなくなる。まるで、空気がアイスを食べているみたい。バケツは次々に空になった。二十個以上あったバケツは空気で満たされた。 不思議だ。これは不思議としか言いようがない。 けど、単に不思議なだけではない。 あたしの中に引っ掛かるものがあった。 なんだったかな。この景色は。 バケツ……。 無くなっていく液体……。 あっ。そうだ! 分かったよ。 その時、液体の無くなっていく映像が、あたしの中で逆再生した。 増えていく液体。 隙間から滲み出す液体。 赤い液体。 共通点があった。 前回、マチさんの家で見た光景と。 まるで、操られているかのように、液体が増減するということ。 操っている何かの存在を感じさせるように。 ……ということは、あたしは結論できる。 なんだ。べつに驚くような現象じゃないや。 こういう現象はマチさんの家ではよくあることだもんね。 がしょん。 マチさんがバケツを重ねる音がした。眠たげな瞳は「片付けがしやすくなった」と呟いているようだった。腰を伸ばしては折り曲げ、バケツを積み重ねる。 「マチさん、片付けがしやすくなって良かったねえ」 「お腹がすいていた模様。しかし根本的には食べなくても問題ない」 「え? なんの話?」 「姉」 ん? やれやれ。マチさんにはよくあるけど、また会話が霧の中だ。「あね」とは一体なんだろう。 マチさんにはお姉さんが居るそうだが、今の会話の流れで登場するのは唐突すぎる。 マチさん、あんたはいつも通り寝ぼけているね。 「お姉さんかぁ。今度紹介してね」 とはいえ、あたしも違和感なく対応した。マチさんと喋るときはこういう方法もあえてやる。現実と夢の境目を行くように話を続けると、いつも思いがけないイベントに行き着くのだ。それがあたしには面白い。 今回も面白かったよ。マチさん。 不思議な友達も一人増えたことだし、うん、感謝感謝。 しかし、マチさんは言った。 「今回は迷惑をかけた。あやまる」 「迷惑だって? どうして?」 「『面白いイベント』を見せられると思っていた。しかし私は台帳の記述を見間違えていた。起きると思っていたイベントは起こらなかった。あなたはここに足を運んだだけ損をした」 「面白いイベントって、何?」 「〈天箒さやきが皆野マチを殺害する〉こと」 「何を言ってるのよ」 と言うしか無かった。そんなイベントは面白くはない。 「あたしは『面白いイベントがあったら教えてね』と言ったけど、マチさんが殺されるのは面白いとは思わない。だから、台帳を『見間違えて』くれたのは嬉しかったんだよ。マチさんがミスするのは珍しいことだけどね」 「私が死亡するイベントは、私にとっては興味深かった。私は死亡したことがないから」 マチさんは真顔で言った。いつも真顔だけどね。 まあね。マチさんとかさやきさんは、「不思議」という空間に包まれているような人種だからね。「私が死ぬのは興味深い」などと真顔で呟くとしても、ぜんぜん不思議ではない。不思議な世界には不思議な世界の感性があると思われる。あたしは、こういうとき常識人がやるように、溜め息などついてみるしかないのだった。 「なるほど。マチさんからすれば、自分が死ぬイベントなんて大したことないわけかな」 「ちがう。何も言うことができない」 「どういうこと?」 「私は、私が死ぬイベントを経験しない。皆野マチが経験するのは、皆野マチが死ぬイベントの直前まで。それは、イベント自体ではない。経験しないイベントは形容できない。何も言うことができない。里美を呼んだのはそのため」 え? 唐突にあたし? 「興味深いイベントにもかかわらず、私は経験できない。しかし、里美なら見ることが可能。見てもらえば私は満足する気がした」 「どうして満足するの?」 「おそらく職業病」 マチさんは卵の殻のように生気のない目で言った。つまりいつもの目だったが。 「史士≠フ仕事をしていると、毎日台帳を眺める。その中でこの町について分かったことがある。それは、K町は人々の欲求が各方向に荒れ狂うガラス瓶のようなものであること。そして、K町がそうであるなら、おそらく世界もそうであると考えられる。私はそのような町のありかたを認める。言い換えるならば、私はこの町を構わない。史士≠フ仕事はガラス瓶を掻き回すことではない。ガラス瓶の内部を記述し、観察すること。台帳の仕様を見ても分かるが、史士≠フ仕事は、まずもって町のイベントの記述ありき。記述は、とても重要。イベントが起こったら、全部記述されるべき。〈皆野マチの死亡〉というイベントも例に漏れない。記述されないのは史士≠ニして収まりが良くない」 「はあ」 「私が形容できないものをあなたに形容してもらう。形容は、即ち記述。私は満足する。〈皆野マチの死亡〉をあなたに見てもらおうと思ったのは、そのため」 「なるほどね」 あたしは分かった気がした。さやきさんに刺された時、マチさんは悲しくて甘い笑みを浮かべた。どこか満足げにも見える表情だった。 マチさんは、死んでもいいと思っていた。 いや、いいとは思わなかったかもしれない。だけど、自分が死ぬところをあたしが眺めていることを、マチさんは大いに肯定していた。 マチさんが死ぬことは、マチさん一人にとってのイベントではなく、あたしを含んでのイベントだったのだ。あたしはマチさんと一緒に肩を組んでイベントに参加したようなものだ。マチさんの死を分かち合ったのだ。死に対してマチさんがどう思おうと、その思いを含んでイベントは起こり、そして流れ去る。そういうことなのだと、あの時のマチさんの表情は言っていたのではないか。あたしはそんな気がした。 「しかし、私は死ななかった。すべては私の早とちり」 「そのようだね」 でも、早とちりで良かったと思う。たしかにマチさんは死んでも構わないという姿勢だったのかもしれない。だけど、生きていても構わないという思いも、きっとあるはずだ。 あたしは、復活の瞬間、マチさんの目に表れた驚きを忘れないだろう。 びっくり。がっかり。嬉しい。それらが不規則に明滅する瞳を。 あの時のマチさんが、史士≠フ怜悧な観察眼でマチさん自身を見たなら、きっと驚きの感情を示した自分を興味深いと思うだろう。 そして、さりげなく呟くに違いない。「生きていても構わない」と。 「マチさん、これからは、台帳を見間違えちゃダメだよ」 「以後、気をつける」 うん、そうだ。 あたしは「現在」を信用することにしよう。こうやって何気ない会話を続けていると、縁起でもなかった夢の存在感は嘘みたいに軽くなる。 マチさんは生きている。あたしも生きている。現実はそれしか無い。 あれは本当に嘘だったのだろう。そう思わされる。 「意識ある人間を乗っ取れるのは一瞬だから一言」 マチさんが呟いた。 「あれは嘘じゃないよ」 あたしは、何を言われたのかまるで覚えていなかった。 だって、マチさんが今までのキャラを否定するような笑顔で喋ったものだからね。 あたしの脳味噌は、一瞬で消えた豊穣な表情を再生するだけで精一杯だった。 表情を失ったマチさんが、魂を抜かれたように倒れ込んできた。 あわてて受け止めた。 あたしの腕の中から、寝息が聞こえてきた。 いつも通りのマチさんだ。 たぶん。 Ψ 「今回は申し訳ございませんでした」 帰り道、さやきは牛久に謝られた。 「教育プログラムとはいえ、あなたの同意を得ないで実行してしまいました。お詫び致しますよ」 「世話役のくせに、重大な越権だわ。本部に報告してやる」 「そ、それはご勘弁願いたいですねえ。首を切られてしまいます。もうしばらくは委員会≠ノ勤めたいのですがね」 さやきは甘酸っぱい息を吐き出した。二リットルのアイスが体じゅうを回っている。頭の中に角砂糖がいっぱい詰まっている感じがする。今の自分の脳味噌をスプーンで掬って食べたら、シャーベットみたいで旨いんじゃないだろうか。 「ねえ牛。坂道を降りるの疲れたわ。やってらんないわ。おぶりなさいよ」 「いいですよ」 牛久はさやきを背負い、望遠鏡を手に持った。 さやきが命令すれば牛久は必ず聞く。3Kの仕事だってやるし、女物の下着だって買ってくるし、煩雑な事務仕事もやる。内心は穏やかではないかもしれないが、嫌な顔をすることは絶対ない。 そういう日頃の態度で安心させておき、今回のように主人を嵌めてみせたりする。 しかし、牛久はMだ。主人から嫌な仕事をやらされれば嬉しい。主人を欺いて罰を受けるのも嬉しい。この人間関係は、牛久の完全勝利ではないだろうか。さやきは不公平だと思う。ムカつくので脇腹に蹴りを入れてやった。 「や、やめてくださいよ」 うれしそうによろめいている。手に負えない。 「ねえ牛。おまえみたいな奴、大嫌いよ」 「了解しました」 「私に言い返すんじゃないわよ」 「了解しました……グボッ!」 もう一発、蹴っておいた。 「言い返すなって言ってるでしょ」 「了解しました……グバァ!」 「嬉しそうに悲鳴を上げるんじゃないわ。このカス! クズ! 死ね!」 「あいたた〜〜!!」 今度は頭に肘打ちを落としてやった。なに、心配することはない。ほんの百%の力だ。牛はMなので気持ちいいに決まっている。 あまりに気持ち良すぎたらしく、頭を押さえて倒れる牛久だった。 「ちょっ……坂道で倒れないでよ……っ!」 さやきは投げ出されてしまった。勢いで坂道を五メートルくらい転がり落ちた。蛇の目模様の古いコンクリートが、冷たくて気持ちいい。目の前には望遠鏡のケースが横たわっている。こいつを枕にして寝てしまいたい気分だ。と思ったが、ふたたび牛久に背負われ、望みは叶わなかった。 牛久がのんびりと歩いていて、なかなかアパートには着かない気がした。 さやきは口を開いた。 「ねえ牛。こんな話、いつもはしないんだけど、アイスを食べ過ぎて気分が変だから喋ってあげるけど、ちょっと聞きなさいよ」 「はい、何でしょう」 「さっき言ってたけど、おまえは『壁』の前で挫けた軟弱男なんでしょ?」 「仰る通りです。歯が立たないものに刃向かっても仕方がありません。その事に気付いてからは、エーテルを解消する実務ではなく、さやきさんがたのアシストをする雑務に回るようになりました。しかし、それで良かったのだと思いますよ。世話役の仕事は性に合っていると思っています。さやきさんから無理難題が出たりしますが、それがまた、いい」 牛久は恍惚の表情を浮かべた。 さやきは眉をひそめた。 「性に合ってるんじゃないでしょ。それは性癖って言うのよ。変態」 「そうとも言うかもしれません」 「ねえ牛。『壁』に当たって挫折するなんて、みじめだと思わない? 私なら絶対にごめんだわね。だって、おまえみたいな性格のねじまがった変態にはなりたくないんだもの」 「仰る通りです。わたくしはさっき、『目標達成が不可能なことは自明』と言いましたね。それは本当です。現時点での事実です。ですが、わたくしたちが越えられない『壁』でも、あなたなら越えられるかもしれません」 「フン、好きなだけ期待させてあげるわよ。私は委員会℃nまって以来の逸材なんだもの。おまえみたいな凡人に夢を見せてあげるのも仕事のうちだと思っているわ」 「ご立派なお言葉です。委員会≠フ見立てにたがわない成長ぶりと存じます」 「おまえはどう思うわけ?」 「わたくしも同意見でございます」 「ふん、そ」 さやきは短く答え、どうでもよさげに空を見上げる。それから、牛久の頭に言葉を投げた。 「変態で無能に過ぎないお前は、逸材の私の世話をする光栄に恵まれたのよ。そこは唯一誇っていいわ。私の足手まといにならないうちは、おまえに雑務をやらせてあげる。見限られないようにせいぜい頑張って働きなさい」 「まことに光栄でず」 牛久は鼻にかかった声で答えた。彼は鼻をすすりあげた。 「失礼。ちょっと鼻水が……。もう冬ですからね」 「なに言ってんの。まだ夏じゃない。百歩譲っても秋よ」 「そうでしたかね。いや、齢を取りますと時間の流れが速いものでして。勘違いしたようで」 「ボケるには十年ぐらい早いわよ」 「わたくしを若年性認知症にしないでもらえますか。それより、明日こそ学校に行っていただきたいのですが」 「私に意見するんじゃないわよ」 「申し訳ありません」 「でも、言われなくても学校には行くつもりよ。皆野マチを監視しなきゃいけないもの。あいつが異常行動を取った時は、止められるのは私しか居ないと自負しているわ」 「ええ、その通りです。仰る通りですとも」 女子高生をおんぶした青年は、町の暗がりへと消えて行った。 |