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                    Ψ
 
 夏休みが明け、山あいの町であるK町には、これからもう一回夏が来るようなしぶとい残暑と、暑さより先に駆け抜けて行ってしまう夏服の期間が残っていた。
 おひさしぶり、上杉里美です。今学期もよろしくね。――なんていう脳内挨拶を教室の看板に送り、あたしは、2年5組の扉をくぐった。
 つい昨日来たばかりのような教室から、昨日着たばかりのような気もする夏服を着て、昨日見たような錯覚のする夏空を見ている。
 これで、一ヶ月以上にわたる夏休みが過ぎ去ってしまっているというんだから、絶句するしかない。
 学期が再開する気怠い気分に任せ、あたしは心中にて綴ってみる。人生とはかくも早く過ぎ行き、さして何も為さぬままに振り返れば、かなしくも鮮やかに思い出のみ残れるものなり、と。
 夏休みは、楽しくなかったわけではない。
 いや、毎年のように今年も楽しかった。
 だから、一つだけ不満だ。毎年並みに楽しかったことが。
 今年が劇的に楽しくはなかったことが。
 当たり前だけど、あたしは毎年、歳をとる。成長していく。だったら楽しさも成長してくれていいはず。去年よりも今年の夏休み。今年の夏休みより、今。あたしには、グレードアップした楽しさを求める権利がある。なんて意気込むと、ばてた時に疲れちゃう気がするから、控え目に「権利を下さい」と願うくらいにしておく。
 あたしが「いつも並みの夏休み」という財産に去年までのように感激できないのは、今年の一学期に、体験してしまったからだろう。
 あたしは、並のワクワクも充分堪能できるけど、特上のワクワクの味も知ってしまったんだ。
 うちのクラスには皆野マチさんという子が居る。小柄でかわいらしい無口なメガネっ娘だ。一学期、あたしはひょんなことから彼女の家へ遊びに行った。そしたらなんと、彼女は魔法使い(みたいなもの)であり、過去に手を加えて現在の状況を変更するとか、未来を改変してしまうとか、そういうことができるのであった。彼女いわく、史士≠ニいう特殊な職業≠セということらしい。だけど、K町のハローワークに行っても史士とやらを募集している企業の求人票は無いだろう。
 でも、史士≠フお仕事はK町の至る所に及んでいるようだ。
 たとえば、K町の町長は人間ではない。
 マチさんが行った未来変更≠ニいうお仕事によって作られた、置き物というか幻燈というか、とにかく人ならぬモノだ。けれど誰から見ても人間だとしか思えないし、あたしだってマチさんから教えられなければ、今でも町長を生身の人間だと思っているだろう。造り物だという事実を知っているのは、マチさんとあたししか居ない。
 諸々の事情により、町長本人はとっくに死んでいるんだけど、そのことを知ってるのも二人だけだと思う。
史士≠フお仕事は、気付いたときには既にひっそりと行われている。
 だけど、既にひっそりと行われているものを、どうやって気付くことができるんだろうか? 
 そういうわけで、史士≠フ存在やお仕事は知られることはない。
 今日も平穏に時間は流れていく。綿帽子のように軽そうなマチさんのショート髪が、無重力状態に置かれているように、独特の空気感を生み出している。最前列で寝ているマチさんの姿は、あたしの席からだと良く見える。ほぼ真上で喋っている先生も、もはやマチさんの居眠りには慣れ切ってしまい、景観の一部扱いのようだ。
 夏休み前に席替えがあったから、あたしとマチさんの席は離れてしまっていた。でも、あたしにとっては、マチさんは存在しているだけでよろしかった。無口キャラな上、いつでも居眠りしているこの子だけど、実はとても面白い。なにしろ魔法使いなんだから。そう考えるだけで、あたしの脳内には果汁百%のジュースが際限なく溢れるように、マチさんちに遊びに行った思い出が蘇った。そしてあたしは、いつものように楽しい気分になるのだった。
 
 
 放課後。
 始業の日だったので、いつもより早く開放された。
 なんとなく、いつもと違う面白いイベントが起きそうな気がした。一%くらい。
 てことは、九十九パーセントは起こらないわけでもある。一%の確率を上げるためには、あたしの方から動いていこう。
 帰ったら何をしよう。買い物とジョギングをかねてA市の路地めぐりツアー。地元の友達と一緒に、前から目をつけていた公園で弁当でも食べようか。映画館をハシゴする、なんかは文芸部らしいかな? お日さまが入道雲と戯れている時間から映画もどうかな。腕組みして教室を出る。
「あ。上杉さん」
 という声と同時に、二の腕をポンと叩かれた。偶然会ったのは、清涼感のある爽やかな少年である。6組の清見祐次(きよみ ゆうじ)くんという人だ。どうして名前を知っているかというと、6組の友達の所へお喋りに行った時、清見君とも立ち話したことがあったからね。
 映画や小説の話題には暗いんだけど、あたしの全然知らない領域のことには詳しかった。企業の収益のお話とか、地方経済のお話とか。「このまま円高が続いたら、うちの親父の会社は一年で潰れるね」なんて、冷静に言っていた記憶が。
「ちょうど良かった。今から時間ありません?」
 清見君は力の抜けた感じで言った。株価の計算に集中しているコンピューターが、余ったタスクを日常業務に回したような感じだ。
 時間がないかと言われれば、ない。あたしはこれから帰るところだ。
 清見君は、内部に冷却水が流れていそうな顔を近付け、画面に現れるプログラム言語みたいに静かに呟いた。
「駅まで一緒に行きません? 少し話したいことがあるんだけど。ダメですか?」
「どうしてダメな理由なんかあるんだい? やることがないから、帰ろうとしていたところだよ。喜んで一緒に行くよ」
「どうもありがとう、上杉さん」
「話したいことって何だい? 日本の景気変動とK町の自殺者数の関係? 観光資源の利用法におけるA市とS市の特色? 清見君は博識だもんねえ。いつも感心して聞いているよ」
「いや、さほどでも。知ってることを喋ってるから、物知りに見えるんだよ」
 清見君は涼しい顔のまま赤面するというリアクションをとる。器用なことをやるね。
「とりあえず、行きますか」
 という清見君の案内に任せ、駅方面へのお散歩に出掛けた。
 
 
 清見君の軽妙なトークは本日も健在だ。あたしには普通の静かな町にしか見えないK町の秘密を、世界的スパイのように、淡々と明らかにしていく。本業は高校生ではなく経済アナリストに思えるほどである。どうしてこういう逸材がさりげなく隣のクラスに居るのか不思議だ。これだから、いろんな人と知り合うのは面白い。
 清見君によると、K町は表向きは観光産業の町だけど、観光で落ちてくるお金は微々たるものだそうだ。実際は、A市やS市で働く人たちのベッドタウンの向きが強いらしい。
 だけど、何と言っても、K町の財政が破綻しそうでしない最大の理由がある。それは……。
 ちょっとヤバすぎて口には出せない。
 もはや政治経済ではなく伝奇物語に類するほどの秘密だった。
 清見君がいつも通り飄々と語るんだから、たぶん真実だとは思うんだけど、後日あたしなりに裏付け調査をしたいと思った。文芸部の活動が暇な時にでも。
 話に熱中しすぎたらしい。気付いたら結構遠くまで来てしまっていた。
 あたしたちのまわりには、大しけの波みたいにうねる形をして、瓦屋根の海が取り囲んでいる。長方形のアパートも、丘の稜線に沿ってケーキの箱みたいに並んでいる。
 見覚えがあると思ったら、ここは、「藤ヶ丘ニュータウン」じゃないか。
 七十年前に開発された「ニュータウン」。家やアパートや公園はたくさんあるのに、人間の姿は見えない場所なのだ。
 そして、マチさんが住んでいる場所でもある。
 あたしがニュータウンに足を踏み入れたのは二度目だった。一学期にマチさん宅を訪問して以来、駅のこっち側に渡ったことすら無かった。
 あたしは昨日のことのように思い出す。教室とは違う機敏な動作で史士≠フ仕事を片付けるマチさんの様子を。
 今日もマチさんはこのすすけたニュータウンの何処かに居て、ニュータウンの他の人たちとは一線を画する仕事をこなしているんだろう。
 あたしはマチさんの家に寄って行こうかなと思った。でも、用も無いのに立ち寄るのは悪いよね。第一、あたしは方向音痴だから、何処にマチさん宅があるのか分からない。
 量産型の一戸建てとアパートが稠密に並ぶニュータウンは、何回来ても迷子になりそうな不穏さがある。
 だけど、その不穏さが逆にワクワク感も生んでくれるわけでね。
 瓦屋根がおりなすゲレンデの中腹あたりに、真っ白いコンビニが浮かぶように建ってるのを見付けた時は、秘密基地を発見したみたいに嬉しくなってしまった。
「清見君、コンビニで一息入れようか」
「うん。そうしよう」
 やたらと広いガラ空きの駐車場を突っ切り、店の中へ。
 アイスのケージを物色しながら、あたしはふと思う。
 そういえば、清見君、「駅まで」って言ってたよな。
 何でこんな遠くまで来たんだろう。
 まあ、いいけどさ! 経済トーク、面白かったから。
 お喋りと散歩で喉が乾いたし、小腹もすいた。アイスを買おうと思うけど、いっぱい商品があって決められない。シャーベット系にするか、アイスミルク系にするか、フルーツ味がいいか。いろいろ惹かれるけど、胃袋と予算は一つ分しかない。こういう時にすぐに決められる人は、動物園なんかに行った時、ライオンだけ見て帰ったりするのかな。
 ……と、ケージが開いて、清見君が同じアイスを二つわしづかみにした。
「ロイヤルなんとか」というコーン型のバニラアイス。バニラは岩手の特定牧場の牛乳を使用し、コーンは北海道のとうもろこしのみ使用しているそうだ。値段的にまったく眼中に無いものだった。
「これ食べません?」
 清見君はアイス同様にクールな笑顔で言った。
 いや、無理無理。それ一本で予算の四倍。買えるわけがなく、素直に笑えてしまう。
「おごりますよ。いいでしょう? 俺も食べてみたいんで」
 清見君は二本ともレジに持って行く。
 よしてくれよ。悪いよ。
 でも、食べてみたいな。ありがとう。
 ひやりとした清美君の手から、冷たいアイスクリームを受け取った。
 立っているだけで汗ばむ炎天下だ。コンビニの駐車場にできる影は短い。人間が住んでなきゃ粗大ゴミの山みたいな屋根の連なりが見える。その向こうではモクモクと雲が湧いている。ニュータウン全体が、居残っている夏に包まれていた。かくも恵まれたシチュエーションで、うまいアイスを食べられるという贅沢。こんなうまいアイスなのに、溶けないうちに食べなきゃいけないのが名残惜しい。太陽光と競争するように急いで食べる。
 清見君は、あたしがまだコーンにも取り掛かっていないというのに、コーンの先端を口へ放り込んでいた。機械のように早かった。
「悪かったっすね、上杉さん。暑い中を連れ回してしまって。俺のせいですよ。言いたいことが、うまく言えなかった」
「え、いや、そうでもなかったよ。君が語ってくれたK町のサイコな裏話は、身震いするほど面白かったよ」
「光栄ではありますけど、そうじゃないんすよ」
 遅刻して教室に来た時みたいに、頭をかく。
「俺達、付き合ってみません? 相性いいと思うんです」
 太陽を背負い、クールな顔で提案する清見君。
 いきなり言われて、あたしは面食らった。
 でも、なぜか妙に納得することもできた。なるほど、そういうことだったのか。
 あたしは、準備されていなかった心を何度か叩き、スーパーのチラシから目玉商品をすっぱ抜く時のようなフル回転モードに切り替える。ちょいと回転させすぎてしまい、オーバーヒート気味だ。
「清見君、もったいないねえ。どうして、あたしなんか?」
 なんて訊いてみたって、人を好きになっちゃう理由を訊くくらい不毛なこともない。あたしみたいなやつだって、人に気に入られたら嬉しい。あたしは今、急に清見君に感謝したい気持ちが盛り上がっている。
「えっと……。すごく有り難いよ……」
 今度はあたしが頭を掻く番だった。
「正直、告白されて嬉しいね。相手が君だっていうのも、言うことない気がするよ。でも」
 あたしは熱い顔でクールな顔を見た。
「もっと正直に言うけど、その、いざ付き合うって言っても、何すりゃいいか分からないし、あたしはそういうところ鈍いし」
「それは、大丈夫。俺に任せてくれれば」
 涼しげなセリフの端々で、かすかにビブラートが掛かった。緊張しているのかな。
「ごめん、清見君。お断りするよ」
 不思議なもので、ひとりでに口から出ていた。
 しかも、やたらと楽しげに。
 あぁ、これは本心なんだな、と思った。
「あたし今、男の子に興味なくてさ。あっ、女の子に興味あるわけじゃないけど」
「俺が、興味が湧くようにするから」
 清見君の表情は同じ、だけど、声が小さくなった気がした。それともあたしの声がでかかったのかな。
 思っている以上にあたしの内側はヒートアップしているようで、表現が行き過ぎてしまった。本当は、「完全に興味ない」ってわけじゃないと思っている。
「そうだね。清見君なら、あたしも楽しいと思うよ」
 それは、間違いない。たぶん、清見君と付き合えるのはあたしにとってもチャンスである。あたしは恵まれている。彼ほどの逸材と出会えるタイミングは多くはないだろう。
 けれど、どんな優良なチャンスだって積極的に逃がしてしまうのが、あたしなんだろうな。
 だって、「優良」じゃなくて「最高」なものがあるのは分かっていたし、「最高」以外は別に要らないと思えてしまうから。ほんと、どうしようもないやつ。こういう考え方を「青春」なんて言ったりするわけかい?
「ごめんね。今はもっと興味あることが他にあるんだよ。そっちをやってる間は、あたしは一人でいいんだ。いつかは男の子に興味が湧くかもしれないよ。そしたら、その時は君に一番に連絡をあげるよ」
「なるほど……。そうっすか」
 清見君は肩を落とした。肩の荷が下りたようにも見えた。今の清見君は、いつもみたいに素直に笑っているように思えた。
「上杉さんは面白い人だね。俺としては、ここはがっかりしなきゃいけないはずなんだけど、がっかりできないみたいです。むしろありがとうと言いたいくらいですよ。でも、これ以上喋るのはやめときますよ。くさいことを言っちゃいそうだからね……。悪いっすけど、今日は帰らせてもらっていいすか?」
「あ、うん、もちろん」
 帰るのかい? なら、あたしも一緒に……。
 って思ったけど、あたしを見ながらも、清見君は遠ざかろうとしていた。一人で帰りたいなら、足止めする趣味はない。「面白い人」なんて、あたしへの最高の誉め言葉をくれた人を帰らせるのは、寂しかったけど。
 清見君の背中は、小さくなっていく。彼のまわりだけ見えないクーラーが効き、適温に保たれているような、淡々とした歩き方だった。
 よかったよ、清見君。いまの君は、すごく青春してるよ。青春ってよく分からないけどさ、いま君に青春って言葉を使わなかったら、他に使える対象は無いと思えるよ。
 あたしは心の中にジワリと何かが滲むような感動を、いまさら感じているのだった。
 そして手にもジワリと冷たいものが、と思ったら、すっかりアイスが溶けていた。わ〜っ! 靴に垂れてるよぉ……。
 
 
 コンビニのトイレで手を洗って、靴のアイスクリームを拭く。
 また、燃えるような夏空の下へ。
 人と関わるのって、すごいことだと思う。まだ気分が高揚している。一人でコンビニで立ち読みなどしても、なかなかこうはいかない。
 もうちょっと散歩を続けたい気分だった。あたしはニュータウンをあてもなく登って行くことにした。今のあたしには、黒い瓦屋根の波も、まるで白い雲のよう。なだらかな雲の斜面を駆け上がるように、丘を上に上に。
 しばらく歩き回った。爽快に汗みずくになった。家よりも空が広がる割合が増えてきた。てっぺんが近いようだ。
 すると、大きな建築物が現れた。
 異様に存在感のあるモニュメント。怪獣が丘の稜線から首をもたげているようだ。なんだろう? 心臓にムチを打ち、坂を登り切る。
 ニュータウンのてっぺんだ。
 と思ったら、さらにもう一段。
 ゼリーをひっくり返したような築山があった。
 築山の山頂には、さっきの異様なモニュメントが立っていた。
 
 何の建物だろう? うっそうと繁る築山のてっぺんから、古くさい塔みたいな建物がそそり立っている。真っ黒なつた植物に全体が覆われ、お化けみたいに輪郭がぼやけている。六角柱、いや、円柱にも見えるね。
 築山のまわりに巡らされている道があった。ゆるやかに弧を描いている道は、宅地の直線的道路と比べて奇異に映る。建物を見上げながら、ゆっくりと歩いてみた。大きいなあ。自分が太陽のまわりを回る地球になったような感じがした。
 さっきから見上げっぱなしで首が痛い。なんでこんなものがここにあるの? ていうか、あっていいの? 
 そう思ったほど異質なスケール。
 天気が悪くなり、雲がたれこめてきた時は、この塔だけで全部の雲を支えられそうだった。
 ……あっ。
 あたしは、立ち止まった。
 塔のへりに人が立っていた。
 まばたきしてみても、人影は消えない。象の背中に乗る小鳥みたいに小さいけど、白いブラウスとチェックのスカートが鮮やかだ。
 もしかしたら……。あの女の子は、うちの高校の生徒かな? 
 大きな測量機みたいな三脚を立て、覗き込んでいる。
 測量機、じゃない? 
 あんなに大きい、まさか、望遠鏡? 
 どうして望遠鏡なんだろう。
 今、お昼なのに。
「おーい!」
 と、自分で気付いた時は、すでに叫んでいた。だって、声を掛けてみたくなったんだもん。
 女の子は顔を上げ、二回、三回、下界を見回した。あたしは手を振って合図する。
 目が合った。と思う。こっちを向いて、止まった。
 やがて、女の子は、何も見なかったように顔をそむけてしまった。すばやく三脚をかつぐと、あたしの見えない奥の方へ引っ込んだ。
 あたしは、ニワカに好奇心を刺激された。
 行ってみよう。

 草や木をサラダボウルに押し込んで引っくり返したような築山だけど、どこかに入り口は無いかな? ぐるぐる歩いていたら、踏み跡で赤土が露出している場所を発見した。よし。ここから行けそうだ。
 途中、道のわきに茶色の看板を発見した。
 と思ったら、看板が丸ごと錆びているのだった。赤サビの中には化石のように文字が閉じ込められ、

〈ここはK村の住民に水道水を供給する施設です。破壊すると処罰されます。〉

 と書かれていた。
 ははあ、なるほど。K村がK町に格上げされた市町村合併のことは小学校で習った。この水道施設とやらは、少なくともそれ以前のものか。というより、看板の古めかしさからすると、相当前なんじゃないかな。
 こんなでっかい水道施設なんて馴染みが無いよ。嘘くさいな〜。水道なんて言って、町長の隠し財産でも入れてる塔なんじゃないの? ちなみに、あたしは知っているが、わがK町の町長は選挙戦で裏金を繰り出すような悪徳人間である。
 まあ、看板による申告を尊重し、水道施設ということにしておこう。
 だったら、この建物のネーミングは決まった。
「水道塔」だ。
 理由? 水道の塔だからさ。蛇口をひねれば水が出るくらいに安直だけど。
 それからも、

〈立入禁止〉
〈あぶない! 入るな!〉
〈危険につき 入ってはいけません〉

 といった看板に歓迎を受ける。胴回りが教卓ほどもある木がたくさん生えている。夏の昼なのに、日影に覆われている。
 うわあ……。
 水道塔の根元で、あたしはマヌケに呟く。しかない。
 あまりの古さと大きさを測る物差しが、あたしの中には無かった。
 真上にそびえる水道塔は、こころなしか上の方がかすんでいるように見える。見ているだけで手に汗が滲んできた。
 ということは、もちろん、あたしはこのシロモノを今からのぼろうとしているわけだ。「山があるから登る」という慣用句があるけど、山があったとしても、関心が無い人は登らないのだと思う。
 あたしは手すりを探し、塔の周りを歩く。この塔は普通に怪獣みたいな高さがあるから、のぼるのは恐怖である。だから手すりよ、ありませんように。でも、怖い思いをしてのぼるてっぺんに何があるのか、ぜひ見てみたい。手すりよ、ありますように。
 あった……。
 ほぼツタに覆われながらも、手すりの横棒が果てしなく上に重なっている。
「よぉし」
 汗ばんだ手をこすり、てっぺんを見上げる。
 あの女の子だって、のぼったんだ。
 望遠鏡を持って。
 それ、人間かしら?
 でも、なおさら会いたくなった。テニスの壁打ちの場所に先客さんが居たら、「一緒にやらない?」って言いたくなるようなものだろう。あたしは手すりに取り付いた。
 
 
 ……死ぬかと思ったああ。
 今、てっぺんでノビている。てっぺんに至る過程は思い出したくもないが、自動で思い出してしまう。
 汗で手がすべりまくる。
 ……って意識すると、よけい汗が出てくる。
 ツタの間から、ヘンテコな虫が出て来る。
 ビックリして、片手を離す。さらにビックリする。手すりに抱き付いてブルブル。
 ひ〜。
 下を見そうになるので、見ない。
 でも、見たい。ちょっとだけ。
 ――
 あぁ、だめだ、失神寸前。
 なんとか、のぼれました。
 女の子は、もう居なくなっていた。ハシゴは一本しか無い。素早く下りたのだろう。あたしを風紀委員だとでも思い、逃げてしまったのかな。風紀委員のくせに、立入禁止の塔にのぼると思うかい?
 景色が、とてもきれい。
 ニュータウンは勿論、ずうっと遠くの山まで見えるほど。360度の絶景は、この高さでしか見れない一枚の写真、という感じだ。
 そうして、しばらくミニチュアみたいなK町の実物を堪能したあたしは、また冷や汗をかくことになる。
 下りなきゃいけないんだった。






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