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 次の日もよく晴れた。
 花粉も旺盛に飛んでいる。こういう日は、花粉を避けるために予備校の教室で日がな一日寝るに限る。それって、いつもと同じか。
 だけど、教室はいつもと違った。
 毎日最後列の長机を一人占めし、量子力学や病理学の本を読み漁っていた、パーマ男の姿がない。
 同じ席には、別の少年が座っていた。
 五分刈りの茶髪に、細長フレームのメガネ。チンピラともインテリともつかない少年である。しわ一つない真っ白なワイシャツが眩しい。
 少年は、翼が見ているのに気付き、単語帳を読むのをやめた。
「なんだよ。坊主頭がそんなに珍しいのか?」
「その声……。って、あんた、堀畑晴樹?」
「今頃気付くのかい」
「驚いたぁ。どうしたのよ、たった一日で、向かいのビルの幹部信者みたいな頭になっちゃって」
「髪、切ったからな。男前だろ?」
「例の専門書は? 量子力学とか。一冊も積まれてないけど」
「もう、やめたんだ」
「やめた?」
「実は昨夜、おれの壮大な夢が絶たれてしまう出来事があってなあ」
「あんたの夢って? ――ああ、世界改変がどうとかいう?」
「ほかの生徒が居る前で言うなよ。恥ずかしいな。おれはすでに凡庸なる一般的浪人生でしかないんだ」
 晴樹は曲芸みたいに器用にシャープペンを回しながら、ドライに溜め息をついた。
「さほど落ち込んじゃいないよ。自分でも何となく分かってはいた。認めたくなかったものを認めさせられただけだよ。普通に考えても、自分の思い通りの世界を作れる偉人だったら、こんな所で浪人なんかしてないはずだよな」
「どういうこと? 話が分かんないわね。とりあえず、マジメに勉強するつもりらしいのは分かるけど」
「身の丈に合った夢を持ちましょうって話さ。世界改変なんて目標は、おれには壮大すぎたんだ。今のおれには、そうだな、マジメに勉強して、入れる大学に入り、翼ちゃんと結婚するのが目標かな」
「怒るよ」
「冗談だ。ってことにしておく! ――おっ、始業のアラームが流れてるぞ。自分の席に座りなよ」
「だって、ねえ、ちょっと?」
「いーから。邪魔、邪魔」
 晴樹は追い払うように単語帳で翼をあおいだ。
 翼は顔をしかめ、しぶしぶ自分の席に戻った。
「おはようございます。みなさんに連絡事項があります。聞いて下さい」
 新聞記事を朗読しているような、淡々とした声が聞こえた。
 振り向いたら、教室の入り口には、事務員の女性が立っていた。いつもなら講師が来る時間である。事務員の制服を教室で見るのは珍しかった。
「今日から新しく皆さんの教室でお勉強する生徒さんが居ますので、お知らせします」
 事務員がさりげなく身を引くと、入り口に少女が立っているのが見えた。
 端的に言って、美人だった。
 それに、どことなく懐かしい感じがした。
 美術評論家が天平文化の仏教美術にこじつけて論じそうな柔らかい微笑とか、プラトンが「これはア・プリオリにセットされた髪である」なんて言いそうなロングヘアとか、みんなの前に出て優雅で絵になるお辞儀をしてみたりとか。
 なんとなく高松亜理紗の面影を感じる。
「高松亜理紗です。よろしく」
 なんて言われたけど、翼は気怠い顔でボンヤリ眺めていた。
「ほかの大手予備校の講座は既に締め切っていまして、この時期から入れる所というと、ココくらいしか残っていませんでした。だからココにお世話になることにしました」
「高松さん、あの、そろそろ始業ですから……」
「そうですね。では終わりにさせていただきます。もう一人いらっしゃいますもんね」
 事務員との天然毒舌な会話を聞き、ようやく確信する翼であった。
 そこに居るのは、亜理紗に間違いないと。
 亜理紗が身を引くと、陰からまばゆい笑顔で現れた少女が居る。
「吾もここで勉強する。よろしく頼む」
 翼のゴーストだった。
 これは一体どういう事情!? 翼は急ぎ仮説を立てた。
 考えられるのは、ゴーストの世界変態能力=B
 それが発動したのだとしたら、世界変態≠願ったのは誰だろう? もちろん翼じゃない。願った覚えもなければ、願うことも不可能のはず。他人のための願いしか対象にならない≠ニゴーストは言っていた。亜理紗を再生させてほしい≠ニ願っても、それは翼の自分本位な願いに過ぎない。そのルールは聞いていたから、ゴーストに世界変態≠ニやらを頼むなんて考えたことも無かった。
 ……なら、翼以外の人間が翼の幸せをゴーストに願ったとすれば。
 じゃあ、ゴーストに願い事を持って行ったのは、堀畑晴樹。
 おそらく、翼の望む世界を実現させてほしい≠ニ。
 この仮説が最も信用性が高い気がする。
 けど、今はそんな考えに頭を使うのは勿体ない。アトラクションの全体図を淡々と記述している場合ではない。
衛星≠使って何事も一枚の絵のように観賞するのは、翼の得意技だけど、今やることは絵を描くことなんかではない。目の前で起こっている奇跡の美しさに感動することと、その奇跡が消えないでほしいと願うことしかない。
 そして、とっくにそうしていた以上、できることは何も無かった。
 翼は、幸せだった。
「どうしました?」
 亜理紗は自分の目尻に指を当て、翼に問い掛けた。
 翼は、目から涙が出ていたのが分かった。
「花粉症です」
「まあ。それはいけませんね」
 そう。ちょっと時期が遅いけど、これは花粉症だ。だって、泣きながらでも笑えるのだから……。
 ゴーストは漫談みたいなテンポの良さで入学の挨拶をし、みんなからウケていた。
 誰も、翼とゴーストを見比べようともしなかった。同じ顔だとすら分かっていないのか。
 いや、晴樹だけ、翼の顔を見ていた。翼がそっちを見たら、すぐに単語帳へと目を逸らした。
 ムッツリスケベな奴。
 
 
 授業が終わったらすぐにK町行きの電車に乗った。
 勉強どころか、居眠りにも身が入るわけがないだろう。
 だって、亜理紗が翼の前に戻って来たのだ。
 詳しい話なんか後からいくらでも聞けばいい。少なくとも今日はお祝いしなきゃあ。市内のセントラルタワー最上階で豪勢にフランス料理? いいや、浪人生は三人ともお金が無く、幽霊に至っては一円玉さえ持たない有様。スーパーで袋菓子を買い込んで自宅パーティーぐらいが関の山だろう。誰の家に集まろうか。都合よく共働き家庭である佐藤邸がいいだろう。
 だから、昼下がりのローカル線を、四人で貸切状態。
 まぶしい光のお風呂にでも浸かっているみたいな中を、電車が進んで行く。太陽光は透明で高い。一年で一番日が長いぐらいの時期じゃなかろうか。
「あんたね? あの幽霊の所にお願いに行ったのは」
「あんたのためじゃない、一番はおれ自身のためだ。とでも答えておこうか」
 ロングシートの右隣で晴樹が言った。
「こう見えても、自然科学屋な面もあるんでね。ゴーストガールの話が本当かどうか、自分の目で確認しておきたかったのさ。結果、驚くべきことに、みんな本当だって分かった。ついでに、おれが凡人に過ぎないっていう事実まで突きつけられることになったけどな。でも、結果オーライだろ? これが、あんたの望んだ世界なんだろ?」
 晴樹は翼の頭越しに視線を飛ばした。
「私は、これで良かったと思っているわ」
 と、翼の左隣で亜理紗が独白する。
「死んだと思ったけど、気付いたら生き返っていたの。何を言ってるか分からないと思うけど、でも、そういうことなの。私、思うんだけどね、生きるっていいものよ。どうして生き返ったかなんて、興味なくなるくらいにね」
 亜理紗は高校時代と同じように、二十四時間営業の微笑で呟いた。
 翼は不機嫌な顔をした。タネを見破れないマジックショーを延々と見せられている気分だった。天秤みたいに両手を広げ、負け惜しみの啖呵を吐くぐらいしかなかった。
「はいはい。あたしだって嬉しいですわよ。亜理紗が生きてて嬉しくないわけないし、晴樹に感謝しないわけもないですよ」
「難しいな。女心ってやつは」
 晴樹は大袈裟に嘆いた。翼の足元に置かれているスーパーの袋が、お菓子で満杯になっているのを見ながら。
「こういう女なんだ。今後とも、よろしくしてあげてくれ」
 と翼が言った。
 ように聞こえた。
 翼の膝小僧から、ゴーストがニュッと顔を出した。
 ゴーストの性能の一つ、浸潤≠セそうである。本人と合一≠キれば、ゴーストは消失してしまうが、浸潤≠ネらいつでも分離自由とか。
 翼は晴樹を睨む。この男、亜理紗が生き返るように頼みに行ってくれたのはいいけど……。
 ゴーストを翼の家に居候させるよう交換条件を出され、勝手に承諾を与えたらしい。
「つくづく厄介なモノを押し付けてくれたわね」
「ごめん、ごめん」
 心がこもっていませんよ。
「ま、しょうがないだろ? 願いが叶うかどうかの瀬戸際だったんだから。おれはむしろ、うちに来いって言ったけどね。あんたの家がいいそうだ」
「その通り」
 ゴーストは今度は翼の首から顔を出す。そのまま手足や体がずるずる出てきて、完全に分裂した。ヒドラみたいだ。ガラガラの電車だからいいけれど、A市の駅前あたりで分裂するのは勘弁してもらいたい。浸潤≠ヘ着衣のまま可能のようだから、分裂した時に晴樹を喜ばせることは無さそうだけど。
「じつはね。昨日、汝と会ってから、いつになく心身の調子がいい。どうやら、物理的な距離が近い方が、エネルギーの入出力のロスが少なくて済むらしい。吾は汝のそばに居た方が能力を出力しやすい」
 ゴーストはスーパーの大袋を抱え、向かいのロングシートに座ると、筒に入ったチョコレート菓子を袋から取り出し、ざらざらと喉へ流し込んだ。
 
 
 地元のK駅にて降り、四人は初夏の燃え立つような田園風景を歩いている。
 誤解の無いように言うけど、K町には野山や田畑しか無いわけではない。人はそれなりに住んでるし、つつましいレベルだけど繁華街だってある。
 どこまで行ってもコンクリートが途切れない東京圏とは違って、町と同じくらいに山や田んぼがポピュラーだっていうだけだ。以上、亜理紗談。
「空気がうまいな。気に入った。食事付きとはいえ、雑居ビルの最上階で籠もるよりは健康的だ」
「御神体だったくせに、あのビルから抜けて来ちゃっていいわけ? 軽い女の子だよねえ」
「軽い? それは当然だよ。もともと吾は霊体。エネルギーの集まりに過ぎない。エネルギー体には、つねに発散だけがある。いつでも発散していたら、気分が軽くならないわけない。世界を変える仕事は、実に気持ちいい。吾はこの能力を与えられてすごく幸せだ。でも、汝はつねに物憂げな顔をしているね」
「お生憎さま。生まれつき」
「吾が軽い女なら、汝は重い女だね」
「知らないわ。あんたが軽いのは分かるけどね」
「あんたとはまた、他人行儀に呼ぶ」
 ゴーストはスーパーの袋をぐるりと回した。
 田んぼを切り裂く一本道を、二人はしばらく無言で歩いた。
 ふと、田んぼの海の真ん中で、ゴーストは立ち止まった。
「吾と合一してみたいか?」
「なんで?」
「深い意味は無い。そういう気持ちになっただけ。吾は元々、汝から幸福のエネルギーが脱落した存在だ。不幸そうな顔をしている者が居ると、見過ごせなくなる。合一すれば汝は運気を回復するだろう。幸せな人生を取り戻せるはず」
「からかわないで。合一したくないって、あんなに言ってたくせに」
「気が変わったのさ。吾は、幸せな気持ちが大好きだ。あの時は、合一しないで気ままに生活したい気持ちだった。けれど、今は、汝と合一してあげたいと思う。合一できたら、吾は幸せな気持ちになるだろう」
 さらりと涼しげに言った。田んぼの緑色を波立てる風のように。
「……」
 翼は黙っていた。真剣に考え込んでいたわけではない。相手の飴色の長髪が風でただようのを見ていたら、その綺麗な髪が少し羨ましくなっただけだ。合一したいかって? 答えは決まっている。
「あたしも気が変わったわ。というか、冷静に考えてみたの。自分が新興宗教のビルで危うく洗脳されかかってたことに気付いたわ。あたしは確かに自分が半分死んでるような気持ちで生きてたけど、それは断じてお前が脱落したからなんかじゃない。亜理紗に突然死なれたせいで、抜け殻みたいになってただけなのよ。それくらい、あたしは亜理紗に生きてて欲しかった。生き返って欲しいと思ってた。それだけよ。亜理紗が復活してくれた今は、お前に望むことなんか何も無いわ。それから、幸せの押し付けはよすことね。お前が幸せなことだって、あたしも幸せだとは限らないんだから。あたしの顔が不幸そうだって言うけど、顔が不幸そうだから内心まで不幸だって言い切れるの? むやみに幸せを寄越されても、あたしは慣れていないわ」
 翼は心の中で続けた。亜理紗が生き返ってくれたことだって、どうリアクションしていいか困ってるんだから、と。
 浮ついた気持ちになっているのは確かで、それに任せて田舎道を全力疾走したりしてもいいんだけど、そこまで度胸がなかった。
 翼は今までザセツに慣れすぎていた。色々なザセツがのしかかってくる、その重さが、心地良くさえなっていた。ザセツに襲撃され、沈み切って動けなくなると、その地点から翼は衛星≠打ち上げる。そして衛星≠ヘ翼が居るちっぽけな世界の画像を上空から送ってくれる。その画像は緻密でコンパクトで、美しくさえ見えた。いわば翼は、沈むことによって浮かぶことができた。
 だけど、いま感じている気持ちは、おかしいくらい重くない。
 むしろ、軽すぎ。
 体ごと蒸気と化して空中に溶けてしまいそうだ。
 亜理紗が生き返ってくれて感じられるコレが、幸せな気持ちというやつに間違いない。
 だとすると、どうも幸せという経験には体が慣れていない。幸せな顔をして幸せを享受している自分が想像できなかった。
 だけど今は充分だ。幸せというのが思ったほどは悪くないのが分かった。それから、ザセツの重い幸福感もやっぱり捨てがたいよね、と思えるのだった。
 今は、それでいい。
 二人が立ち止まっていたから、亜理紗と晴樹が手を振っていた。
「そんなわけで、今回は合一するのはやめとくわ。お前が消えたら、亜理紗は残念がるだろうし、あのスケベ男も悲しむだろうしね。お前と分裂してるせいで運気が下がっても、あたしは構いやしないわ。不幸のアトラクションを絵のように眺めるのは、あたしのお手のものだと思ってる」
 翼は答えた。
「幸薄そう」とゴーストに言われそうな笑顔で。
 向こうの二人に手を振り、歩いて行く。
 その時、ゴーストに腕を引かれた。
「ん、どうしたの。お菓子の袋が重いの?」
「そうじゃない。なんていうかな。ありがとう」
「よしてよ。お前のためじゃないしさ」
 マジです。
「なんて言ったらいいか、言葉にするのが難しい。伝わってくれたらいいんだが、その、やはり吾は汝から生まれたのだと感じてしまった。吾は汝の全部が分からない。当たり前に合一を選ぶものだと思っていた。しかし汝は選ばなかった。きっと、汝は吾よりも大きい容量を持った存在であり、吾の知らない領域の事項を心得ているのだろう。そう思ったよ」
 ゴーストは、珍しくしんみりした口調で呟き、
 すがすがしい顔で続けた。
「ただのエネルギーに過ぎなかった霊体に、汝は人格を与えてくれた。人格があるおかげで、吾は、エネルギーを世界変態能力へと変換する技能に目覚めた。とても感謝している。人格は、エネルギーの固まりである霊体を使い倒す技術≠ネんだ。たとえば、山の上に湖がある。それだけなら、湖の水は、川になって海に注ぐだけで終わる。だけど、湖に技術≠持ち込めば、水を有効に使うことができる。ダムを造り、水路を引き、作物を一面に実らせる。水を濾過したら、数え切れない人々の飲料水にできる」
 水田のほとばしる緑の真ん中で、ゴーストは言った。
 金色を帯びた瞳は心から幸せそうに輝いていた。
「汝の人生の運気は下がってしまったかもしれない。けれど、吾の能力にかけて、汝を退屈にはさせない。吾は世界を幸せに変え続ける。変わる世界を一緒に見てくれ」
 翼は素直に答えられた。
「いいわ。見てあげる」
 変わる世界を見るのは刺激的な体験だ。亜理紗が生き返ったのを経験している翼には、よく分かった。
 浪人生になってから、翼は何一つ変わったわけじゃないし、努力したわけでもなかった。
 世の中には、努力してもどうにもならないことが多すぎる。そんな時は、何もできないし、何をやってもどうにもならない。
 でも、翼が動かなくても、世界が変わった。亜理紗を生き返らせることなんて、翼にはできなかった。だから、亜理紗の方から生き返ってくれたのだと思う。なぜって、亜理紗が生き返るためには、亜理紗が生き返るしかなかったから。
 世界は、変わる。そして、天気も景色も明るさも全部変えてくれる。そういう驚きがあり得るんだということに、翼は納得していたのだ。
 黙ってゴーストの背中を叩いた。
 二人で、ゆっくり歩き出した。
 
                    Ψ
 
 こうして、あたしは、ゴーストと暮らし始めた。
 それからの話は、また後で話せる機会があると思う。
 その時は、ゴーストに付けた名前を紹介するところから始めたい。いつまでもゴーストじゃ、影が薄いもんね。
 そして、前と比べて変わったあたしも見せられると思う。
 どう変わったか? そうだね……。月並みに、「成長した」とでも言っておこうかな。
 

(終)
(090531)





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