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以下は『オリジナル夏期講座〜』の別バージョンです。
Nの編集者的人物にして友人である、harunohirune氏によって再構成されたものです。
話の区切りと整合性、設定の改善、分量極小化、人称表現等に配慮して全体を読み込んでくれました。ありがとうございます。
N単独バージョンではなく、最初にこちらを読んでもよいかと。
どちらのバージョンが気に入りましたか?





【四瀬美の可能解答選択試験】

                   §

 S市の駅前には、とあるマンモス予備校が存在する。グレーのブロックと鉄筋コンクリートで組まれたその堅牢な建物は、震度八の地震が来て周りのビルがのきなみ潰れようとも、何事もなかったかのように佇立し続けるであろうと言われている。受験生を取り込んで逃すまいとする意気込みの表れだろうか。灰色のビルの中には講座案内のポスターがシステマティックに貼られ、整然と区切られた大教室では今日も予定通りスケジュールが消化される。
 日曜日ながら教室は満員御礼である。私語も全くない。現役受験生も居れば浪人生も居るであろう。彼らが共通して没頭する一つの仕事がある。
 所定の用紙をシャープペンで塗り潰す作業である。
 今日は模擬試験なのだ。
 ……ざっと見積もって三百人は下らないこの教室の人間が、紙のどこを黒く塗ったかによって鮮やかにランク付けされていく。じつに人を食ったステムと言える。
 しかし、そんなことを考えつつシャープペンを握る受験生は、たいがい成績が良くない。問題が解けないからこそ、試験そのものについて考える暇が生まれるのである。そして彼は一年間の浪人生活を許してくれた親に感謝したり、雑誌のモデルに合わせて服や髪形をコーディネートする長い時間を悔やんだりすることもなく、試験中にメタフィジカルな思考を推し進めるのだ。

 ……そもそもだな、これは一種のゲームに過ぎない。どういうゲームかって? まず始めに『満点』の雛形がある。完璧なマーク分布図があって、その通りにマークすりゃあ、野比のび太だって神童と奉られるような、マークシートのお手本があるわけだ。この大教室に神妙な顔をして集結した俺達は、そのお手本マークシートにちょっとでも近いマーク図を完成させようと、北極みたいにエアコンがきいた中で汗水を垂らして唸っているわけだ。無能のび太にもできるような馬鹿馬鹿しい作業のくせにな! 
 くそお。俺に超能力があれば。
「『俺に超能力があれば、大学に入れるだろうに』を英訳しなさい」――なんて問題は良く出そうだよな。俺には解けないけど。つまり、そういうわけだ。俺が超能力を持っていたら、その「模範マーク図」を見ることができる。きっと解答用紙を見ているだけで正しい番号が浮かび上がってくるんだ。ちぇっ。模擬試験なんて阿呆くさいぜ。こんなものは俺が本気を出すまでもない作業なんだ。だいたいな、俺に突然超能力がめばえないとは言い切れないだろう。むしろ今めばえてもいいわけだ。よし。今、めばえる。俺は、全テストで満点を取る超能力にめばえるぞっ!

 彼は真剣に見詰めた。ほかの受験生達が真剣に問題用紙に向き合う中で、それ以上に真剣に、解答用紙を。眺めること三分。超能力が近付いて来ている気がした。もう、すぐそこまで来ている感じがした。彼は芝居めかした動作でシャープペンを手に取った。
「……見えた!」
 ひと思いにシャープペンを加速させる。超越的霊感を逃がすまいとするように。
 彼の模擬試験が終わった。

                   §
                   
 予備校の一階ラウンジ。模試に集中した反動で通常よりちょっとテンションの高い受験生たちが、仲間同士でむやみに騒ぎながら帰って行く。
 耐震自慢の巨大柱に背をもたせ、要一は思考停止状態にある。頭脳も体力も使ってないのに疲れるということもあるものだ。帰途につくためのモチベーションを高めるには、もう十分ほどの放心が必要だろうか。

 ……ひどいもんだよな。確信を持って書けたのは、自分の名前だけだぜ。馬鹿げた妄想で馬鹿げた解答を作り上げちまった。それにしても、俺ってあんなに集中力あったか?

 外から差し込むのは、夏の夕方の黄金色である。要一の正面には、予備校の出入口。密集して帰りを急ぐ受験生たちを、希望の光に向かって羽ばたく鳥の群れに喩えることもできるだろう。

 ……まあ、どう見ても俺は、その群れから取り残されてるわけだがな。

 要一は一緒に帰る仲間でも、と考えかけて、それから柱に向けて笑いかけた。居ない、居ない。要一はドがつく田舎町であるK町の県立第五高校出身だ。友達もみんなK町に残っている。何となく口にした首都圏の志望大学、全教科における得点増の必要性――気が付けば、要一だけがS市に出て来ていた。市内には寮も完備されていて、予備校との往復を繰り返す毎日だ。地元に残って悪友たちと遊び呆けるくらいならば、と要一の両親が用意したのだ。ただ一つの誤算は、息子の頭脳が偏差値という尺度を用いて測られるにはとても都合の悪い代物であるということだったのだが。

 ……月収三十万円もねえくせに、カワイイ一人息子様をS市にまで出しやがって。ご苦労様なこった。
 ……俺だって、S市のT大みたいなクソ中のクソ大学に収まりたいわけじゃないし、両親の期待に応えて家庭を円満に保ちたくないわけじゃない。むしろ望ましいって思う。だけど俺じゃどうしようもないんだ。模試の日に反省した気持ちを、翌日テキストと対面しただけで忘れ去っちまうんだからな。そして早くも季節は夏ってわけか……

 誰も聞きそうにない甘っちょろい呟きを、心の中で繰り返す。
 その時、呟きを強制的に終わらせる出来事が起こった。
 要一が予備校に通っている理由が、目の前を通り過ぎたのである。
 つまり、かわいい女の子が。
 クラスも名前も知らないが、まさに彼女は要一の浪人生活の持続動因であると言ってよかった。彼女のスタイル、服のセンス、歩き方に至るまで、要一にとっては完璧だ。顔? 当然、言うまでもない。眠気であるとか、雨天であるとか、何となく憂鬱だとか、浪人生活を引きこもり生活へ変じしめる脅威は至る所にある。そこで彼女のような強烈な輝きを放つモノがあれば、予備校に出てくる動機付けにはなる。たとえ二、三日に一回しか拝めないとしても。今だって、要一に気付くこともなく、外に出て行ってしまったとしても。彼女は出口に向かう大勢の中へと飲み込まれていった。
 動きを失った回転ドアを見つめるのに飽きるくらいの時間、要一は彼女の姿形と存在感を無意識に反芻していた。
 ただ、その要一の行動も中断されることとなった。
 出口から逆に、一人だけ吐き出されて来る者があったのである。
 しかも、それは、
「や〜。君が要一君だよなぁ。初めまして〜」
 要一は挨拶されても返事が出なかった。
 いま帰って行った彼女じゃないか。
「こ、こいつは、どうも」
 ぶつ切りされた大根のような返事をする。
「やーだなぁ、かたくなるなよぉ。わたしはあんたに呼ばれたから来たんだぞぉ」
 寸暇を無駄にしない受験生にしては、異様におっとりした口調。
 遠くから見ている彼女にはクールでドライなイメージを感じていたが、話してみるとホンワカした喋り方をするものだ。要一は今までの浪人生活で培ってきた彼女の脳内イメージを修正する必要に迫られた。
 もう一つ気が付いた。それはファッションである。今出て行った彼女は着物を着ていただろうか? というよりまず和服でさえあったか? あとは髪の毛だが、要一の中にインプットされている彼女は大抵長い巻き髪をサイドでアップにしている。髪色は常に栗色だった。黒いストレートの髪を垂らしっぱなしにしている彼女なんか、一回だって見たことはない。
 しかし、この顔。パッと見には紛れもなく彼女のものだ。まじまじ見ると、いつもの彼女よりも多少作り込みが甘いようにもみえるが、夏の汗は化粧を落とすほどのものなのか。

 ……いくら俺でも、女を顔だけで認識するほど単純じゃない。あの子に顔が似ているってだけで即本人扱いするほどボケてもいないぜ。
模試会場に和服で現れるわけないし。でもなんだ、見てるとやっぱり似てるなあ。これが別人だなんて残念だな。よし、こうなったら、あの子は捨ててこの子で……

 彼女は妄想にまみれている要一を気にも留めず、ラウンジをきょろきょろと眺め回し、
「なにやら人々の動作も会話も落ち着きがないなぁ。素早く喋らないといけない遊戯でも流行しているのかぁ? 久々に出て来たんだけど、今はまだ明治かい?」
 そんなことを大きい声でゆ〜っくりと言うものだから、要一は人目が気になってその場でジャンプしたくなったくらいである。実際に跳んでみても仕方がないので、要一はその場で頭を振る。

 ……何だこれは? ひどすぎる、完全にイカレてる。ここは予備校だ、精神病院じゃないぞ。

「ん。その目。異人を見るような目でわたしを見ているなぁ。空気の腐りかけているニオイといい、光りモノの多い景色といい、どうやら明治ではないらしいな〜」
 少女はぱたたたと下駄の音を立てて周囲を検分している。最後には何度かジャンプして足場の感触を確かめていたみたいだった。
 
                   §
                   
 さて、少女のセリフは、予備校裏にある猫の額の公園で続けられることになった。要一がやたらといかめしい顔をして少女を引っ張って行ったからだ。
 要一はしきりにタンクトップのすそで顔をぬぐう。日陰の公園なのに、いやな汗が玉になって噴き出してくる。

 ……恥ずかしいったらないぜ。なんなんだこの狂人は? 思わず連れて来ちまったじゃないか。どう扱えっていうんだ?

 和服少女はブランコが止まりそうになるごとに両足で軽く地面を蹴り、控え目な振り子運動を継続させていた。水道から水を飲む要一をじいっと見ながら、彼女は言う。
「おい。驚くのも無理はない。わたしは答案用紙の精霊だ。条件が揃わないと人の世には出て来れないのでなあ、出て来た時には大概時代が変わっている。わたしも時代に合わせて自分を調整しなきゃいけないんだ〜。今は西暦二〇××年とな。また随分過ぎたものだなあ。前回は維新だの開花だのと言っていたものだったが」
「冗談はよせ」
「冗談なんかじゃないぞ〜。要一君は先の試験で全三十五問を@の欄にマークしただろぉ。そのとき、わたしを呼び出す条件が整ったんだ。そーゆー解答をする人間は滅多に居ない。わたしはそーゆー人間のところに現れ、人生の助けになる」
 要一は冷や汗も暑さも、なにもかもどうでもいい気分になってくる。
「疑問その1。明治時代にはマークシートは存在しねえ」
「試験はあるし、答案用紙もある。あんたみたいな人間も居るさぁ」
「その2。その答案用紙の精霊とやらが、なんで俺の見たことあるような女の子の姿で出て来なきゃならないんだ?」
「答案精霊の役目はなあ、君の人生にできるだけ望ましい選択肢を提供することなんだ。わたしの姿はその一環で、君の潜在的な理想像を反映しているわけなんだ。だから君の意中の人間と似ているだろぉ? 似てない部分もあるかも分からんが、そこは君の想像力の弱さに由来するものだ。自分を責めなさい。あとは、世のハヤリの問題だな〜。明治時代とは違って、今の世は男らしい男なんてのはギャグ上の存在で、中性的な男女が持て囃されているようだな。ならば女は男を兼ねることができる。だけど、逆はちと厳しい。見た目の問題があるからなあ」
「疑問その3だ。日々試験勉強に打ち込まなきゃならないこの俺が、そもそもあんたの話を最初から信じると思うか?」
「かっはっはっはっはっ。心配ないさぁ。わたしは断言するが、君は絶対に勉強をさぼっている。わたしが現れるのは、そういう人間の所なのだからな〜。さぼる日が三〇〇日から三〇一日になるぐらいは構わないと思うがな」
「……」
 要一は肯定的な返事を返さなかった。
 しかし、少女を無視して予備校に引き返すこともしなかった。
 つまり、立ちぼうけている要一の状態は、少なくとも彼女がブランコに飽きて次のセリフを口にするまで待つということを意味していたのである。 

 ……やれやれ。S市に出て来たのは良かったぜ。

 地元は古い体質の町なので、たちまちのうちに「頭がちょっと気の毒な今時和服の女の子に、誰々さんちの要一クンは気に入られているのよ」と近所の噂になっていたであろう。だが、S市は都会だ。K町みたいな粘着的な人付き合いはない。それどころか今の要一は寮でさえ孤立状態にある。まわりの受験生たちがマジメすぎて要一のノリに合わなかったからだ。
 さらに都合のいいことに、現在のS市はナントカという夏祭りの真っ最中で、県内外から膨大な数の観光客が集まっている。こういうハレの日は奇抜な格好で繰り出しても当然のように許されるものである。香水のにおいを漂わせた色黒茶髪の若者が和服少女に付き纏われるとしても、誰も不思議には思うまい。
 要一は公園が薄暗さを増したように思った。見上げると、予備校のてっぺんにある看板に光が灯っていた。
 行ったこともないナントカという祭りのお囃子が、公園まわりのビルを乗り越え、ここまで流れ落ちてくる。

 ……信じられるわけねェし。あるわけねえじゃん。妄想、妄想。

 要一は冷徹な口調で呟いた。

 ……だが、俺は今から、妄想と分かってるモノにしがみ付くぜ。それでもいいか? 見込みのない時間が繰り返す毎日とか、それがこれからも繰り返すのが分かってるとかなぁ、こういうのが現実だってわけなら、偉そうな顔して現実の看板を下げてのし歩いてもらわなくても結構だ。俺はたった今から、現実を転換する。現実はそっちだ。この女から見れば、奇抜なファッションをしてるのは俺の方だし、こいつはそんな俺の世話を焼きに現れちまったわけだな。
 そして、こいつを気に入ってるのは俺の方だ、と。――ようし、頭の中で現実転換は完了したぜ。だからきちんと見返りをくれよ。浪人生の現実にふさわしい、ずっしりと重たい報酬をな。

 要一は少女を急き立てた。黙っていると真夜中までブランコに乗っていそうだったからだ。明治時代にはブランコは無かったに違いない。
「おい。紙女。立てよ」
「わたしの名は四瀬美(よせみ)だ」
「お前は俺に人生の選択肢を与えるって言ったよな。話を聞こうじゃねーか。祭りでも見ながら、ゆっくりとな」
 祭りと言う単語に反応して四瀬美の目がキラキラしはじめた。お祭りは明治時代にもきっとあっただろう。要一は眼下に彼女を見つめると、都会では味わえない,もぎたての水瓜のような瑞々しさを感じるのだった。
 ナントカ祭りが開かれているS市中心部は予備校からすぐ近くだ。イルミネーションやら提灯やらが飾られ、お決まりの露店や屋台が軒を連ね、山車やパレードが通り、見られる人を見る人が取り囲み、商店街は便乗セールやバーゲンを行い、そういったものがまとめて、夜へと向かう温くて冷たい空気に覆われていた。
 祭りの雰囲気を味わうのに、それが何の祭りであるかは知る必要はない。普段は立ち食いそば屋で学割セットを食べるくらいの要一がコーヒー一杯五〇〇円の喫茶店に入ったのも、今なら特に不思議ではなかった。
 とはいっても、混雑をきわめる店内で四瀬美が時代錯誤なことを口にしないかという心配は大きかった。四瀬美とコミュニケーションを図るのは本当に困難で、正直なところ、ぼけが始まった要一のばあちゃん以上に話が通じなかった。顔がかわいくなかったら放り出しているとは言い過ぎだろうか。ただ、一度カフェに腰を据える作業が完了したら閉店の時間まで立ち上がりたくはないくらい、前時代の精霊のには世話を焼かされた。ガラスやポットや角砂糖にいちいち声を上げて驚くというお決まりの反応は、せめて自重してもらいたい。この日、予備校で四瀬美と会ってから駅前で別れるまで、まったくジェットコースターに乗って夢の中を駆け回っているような具合だった。四瀬美は寮と反対側の方向に、とととっと駈けていって、夢の合間に消えてしまった。

                   §
                   
 それがどんな種類の夢だったのかは分からない。翌朝、寮でひとり目を覚まし、予備校のラウンジに来てみても和服少女の姿は無かった。その時の要一の心情から推察してみると、悪い夢ではなかったように思える。
「いいかぁ。わたしが今からあんたに出題するものは、あんたの将来のビジョンさ。これは可能解答≠ニいう。それには四種類あって、赤色、青色、黄色、黒、の四択だ。そして、マーク式試験が苦手なあんたには、マークシートの精霊の特別サービス。わたしの四択は、お手つきすることができる。その肢(あし)が気に入らなければ、あんたは拒否して選び直していい。ただし、一度拒否した肢を後からもう一度選ぶことはできないからな。そこだけ注意だぞ〜」
 四瀬美がカフェで話していたことは不思議と覚えていた。英単語も古文単語も全く覚えられないくせに。
「ついでに言うと、人間の人生はねー、本当は肢のようなものじゃないんだけど。川の流れを無理矢理四分割するようなものさぁ。川の渦中で道を選ぶのは本当に大変だからね。今回の精霊ボーナスを活用しろよ〜。あ、試験時間は明日の日中から日没までだよ」
 しかし、覚えているだけ空しいものであった。そもそも、要一は試験の形式も解答方法も聞いていない。その事実には受験生としてさすがに反省したが、要一は言い訳だけはうまいのだ。

 ……ジェットコースターに乗りながら冷静でいるのはどう考えても無理。ていうかそもそも現実っぽくなさすぎだろ、これ。

 それに、試験日とやらに試験官が現れない。昨日やおとといと同じように不毛な講義だけが次々と実施されている。午前中だけで三コマも! 日本語を使っていることは分かるのだが、何を言っているかは良く分からない。講義の効用を無理して挙げてみるとしたら、退屈から開放された後の昼食が美味しく感じられることだろうか。難しい講義でストレスが溜まったときは定食に丼物を加えるなどの大食いを敢行し、気持ちを晴らすに限る。おまけに今日は例の彼女が学食に来ているとなれば、要一は彼女を鑑賞しながらお腹一杯に食いまくり、眠気とともに午後の講義をキャンセルしたいところだ。
「すいません。そのカツ丼もらってもよろしいですかー?」
 隣の席から非定型な挨拶が飛び、トレーの上からカツ丼が去る。どこかで見た和服少女が割り箸を横にくわえ、手を合わせている。
「……あんたか。何してんだ?」
 要一は意外なほど冷たい言葉しか四瀬美に掛けない自分に感嘆すら覚えた。予備校に閉じ込められていると、マークシート精霊のような異常な存在さえも、邪魔な一他人と変わりなく見える。午前中だけで講義を三つも重ねると、人は感覚が磨耗してしまうようだった。四瀬美はカツ丼を食べ終えるまで一言たりとも口にしなかったが、それは異常であるべき自分のアイデンティティを要一に再確認させるためだったのかもしれない。
「いや〜、食べた〜。人間界の食事っていうのはガツッとくるなぁ。そいじゃ、おやすみぃ」
 四瀬美は椅子にかけたままグウグウと寝始めた。なので要一は、食堂にごった返していた受験生たちが一人残らず出て行き、パートのおばさんから急き立てられるまで、四瀬美の寝顔を見ていることになった。午後はさぼる予定だったので構わない。四瀬美の横顔は幼い妹のようにも、身体の縮んだお婆さんのようにもみえる。精霊ってのは本当に年齢不詳なのだから、見た目もやはりそうなのだ。
 食堂が閉じられる段となって、要一は寝ぼけ眼の四瀬美の手を引いてラウンジまで出た。まったく、他人が勉強しているときに自由行動を取るというのは爽快だ。ここの冷房もたった二人のためにかけてもらっているようなものである。
「ふ、あ〜あ。よくねたなぁ」
 四瀬美は猫みたいな大あくびをして体を伸ばした。
「じゃあ、やるか〜」
 四瀬美は和服の合わせから手を入れて胸のあたりを探り、中から四つのガラス玉を取り出した。赤・青・黄・黒の四色に輝くそれは、彼女の豊満な胸に比べても小さく、四個程度収納しておくことは簡単そうに見えた。
 だが、
「カツ丼のお礼をやるよ。はいゴックン」
 と言って次から次へと飲み込まされた時は、要一は特大卵を飲み込む蛇の心持ちだった。
「なにしやがる」
 と叫ぼうにも、まず息が吸えない。更に四瀬美の腕っぷしは狂気じみて強く、要一はプロレスラーに歯科治療をされる三歳児のような心持ちだった。コイツが人間じゃないのは本当なんだなと感動したが、じつにイヤな感動である。処置時間中に抵抗するより、玉を四つとも飲まされてから一時間でもむせ続ける方がマシだと直感したので、要一はもはや逆らわなかった。もちろん、実際むせた。
「ようし、終わり。全部入ったな」
 と言って四瀬美が要一のポケットティッシュで手を拭くかたわら、窓口の受付嬢が要一のところに駆けつけてくれたくらいだった。
「おい。今更だが一応言っとくぞ。なにしやがる」
「未来のビジョンが見えるようになるためのセンサーを君の中に入れた。人間界の物質とは違うから、体内に入っていても心配はいらない」
「そのわりに、飲むのは苦しかったがな」
「それはまぁ、授業料さ。……ほい! センサー、オン」
 四瀬美は頭上高く手を打ち鳴らした。きのう祭りの会場で踊っていた観客みたいに。
 すると、要一の日常がふと逆転した。突然、祭りの真ん中に迷い込んだように空気が変わる。要一は、はっと自分が立ち尽くしていることに気づき、それから、自分の足下から覗き上げるような気分で周りを見回した。二人だけだと思っていたラウンジに、無数の人影が溢れ返っている。彼らは影を無理矢理立体に起こしたようにフラフラとしていたが、やがてそれぞれの視線を固定した。誰も要一を見ていない。彼らは散り散りになってゆっくりラウンジを出て行く。なかには壁を無造作に通り抜けていくものもある。
 あまりに突然かつ劇的な変化だったので、要一は幻影でも見ているのだと思った。そこへ四瀬美は言った。
「いいかい。これは幻影だ」
「な、なんだって?」
「耳元で大きい声を出すなよぉ。この人間たちは、君の未来に何らかの形で関わる可能性がある人たちのビジョンさ。君自身の可能性も含まれてるよ。で、こいつらの影をよくみるんだよ。赤だったり青だったり黄色だったりするだろう。それぞれの人間は、君の可能解答≠ニ密接に関わっていて――」
「ちょっと待て! あのなあ――」
「こんなのが見えたら実際の人間と混ざって日常生活が大変だ、って言うんだろぉ。分かってる、分かってる。これは慣れるまでの問題なのさー。慣れてしまえば、区別は簡単だよ。それに、君が可能解答≠決定すれば、ビジョンは見えなくなるさ」
 受付嬢なみにこなれた口調で四瀬美は応じるのだった。
「結局、俺は何をすればいいんだ? あいつらは何なんだ? もうみんな行っちまったぜ?」
「だから``可能解答"のビジョンさ。役割を果たすために向かったんだよ。あとは説明するよりも、実地で学んだ方が早いぞ。まず訊いておきたいのだが、君が現在持っている最大の希望は何だい?」
「え……?」
「ほぅ。たまに会う名も知らぬ女の子と喋りたい。というかキスしたい。そのうえさらに」
「ちょ、ストップ!」
 要一は四瀬美の口を塞ぎ、建物の外に引っ張って行った。
 途中で色付き影の人間にぶつかったが、妙な感触がして、すり抜けてしまった。
「なにするんだよぉ、慌ててこんな炎天下に連れ出して〜。君みたいに日焼けしたくないぞ〜」
「そうじゃない。なんであんた、俺がチラッと思っただけのことが分かるんだ」
「精霊だからかなぁ」
「あんな大勢の前で、あんな大声で言うなよ」
「だからー、あの人間たちはマボロシだっていうの。君を笑っていたのは受付嬢三人だけだ」
「そうかよ。それならまだ……。って、受付には行きにくくなったなぁ」
「さしあたり、君が望むコトは分かった。要は、あの女と懇(ねんご)ろになりたいのだな?」
 四瀬美は予備校の出口を指差した。

                   §
                   
 冷房の効いたビルから空気の断層を越えて、例の少女が歩いて行く。細腕で日光を遮りながら、まぶしそうに目を細めている。
 要一は彼女を凝視しつつ考える。どうして四瀬美は俺が好きな子の顔を分かっているのだろう……きっと、心を読めるならそこにあるイメージも見えるのだろう。
 それよりも気になるのは、少女の影がセロファンのように赤く煌めいていることだ。つまりこの少女は幻で、要一が背後から抱き付いたり胸を触ったりしても、きっとすり抜けてしまうわけだ。
「このエロ」
「いちいち人の心を見るな!」
「まあいい、とりあえず赤の肢≠検討か。ほれ、ついて行くぞぉ」
 今度は四瀬美が要一を引っ張って行く。
 幻影の少女が向かった先は、近くのコンビニであった。
 道路を挟んで向かい側から、四瀬美と要一が覗く。
「赤≠フビジョンはな、君の潜在的願望の肢なのさぁ。本能的欲望と言ってもいいかな。彼女をよく見てなよ。ほら、来たぞぉ」
「あら〜。こいつは……」
 要一は愕然とした。
 コンビニの窓際で雑誌を立ち読んでいる彼女に、見るからにバカっぽい色黒の茶髪男がアプローチ。ナンパのようだが、ずいぶん馴れ馴れしい様子だ。
「……って、あれはどう見ても俺じゃねえか。キモい奴が居るもんだと思ったよ! ……だが、奴の影も赤々しく光ってやがるな」
 四瀬美がわきで囁いた。
「コンビニの壁に掛かっている時計を見てみなよ〜。何時を指している?」
 要一は勉強時間の短さには自信がある。おかげで視力も2・0だ。コンビニの時計は二時半を示している。さらによく見れば、動く秒針の影は確かに赤。
「君の時計は?」
 要一は携帯電話を見た。午後一時半。一時間遅れている。
「遅れているんじゃない。あっちが進んでいるのさぁ。そろそろ分かったかなぁ? 色付きの影がくっついている人間や物品は、君の未来のビジョンを映し出しているんだよ。本当はあそこには君も居ないし、女の子も居ない。時計は一時半を指している。だけど君はわたしの力で、少し先の未来が見えている」
「……じゃ、じゃあ、あれは一時間先の俺なのか? なんで俺があの子と喋ってるんだ?」
「わたしに訊かれても、知らんよ。今のところ言えるのは、一時間すると彼女は予備校から出て来て、コンビニに行くってことだね。そいで、その時の彼女に君は話し掛ける。そうすればあの通り、今見えているようになるっていうことだ。それが可能解答≠ネんだから」
「はぇ〜、まじでか。そりゃヤバいな! ヤバすぎだろ!」
「君の言う単語は時々わからないな。明治には無かったものがある」
 要一は四瀬美の指摘も耳に入らないほど興奮して、勝手に道路を渡ってコンビニに接近した。ドア近くの新聞立てに刺さっている新聞は、確かに今日のものである。明日や一年後の日付ではない。光に透かして影が赤いことも確かめる。
 二メートル先で意外にも談笑している二人は、キッカリ一時間後の二人に違いない。どういういきさつなのか不明だが、一時間後の要一は、こうして大好きな彼女と会話できているわけである。
 そういう不思議な結果を思うと、要一の胸は高鳴った。
 未来の二人は要一の前を過ぎ、外に出て行くのだった。
「……気がきくじゃん、俺。冷たいお茶なんか買ってあげちゃって」
「赤の肢、出だしは良好のようだなぁ。もうちょっと見てみようか?」
「おっ。……なんだ、あんたか。一瞬、彼女と間違えるぜ。迷惑な奴だ」
「なんだとぉ」
「これが俺の未来か。いいな。すげえいい」
「まだそうと決まったわけじゃない。君が選ぶまでは、あくまで選択肢の一つさぁ。これは赤≠フ可能解答=B青≠烽るし黄色≠烽るし黒≠烽るぞー。ほかの肢も検討してみたらどうさ?」
「必要ねえよ。この肢でいい。赤の肢、最高じゃねえか!」
 要一は周囲のお客がたに妙にじろじろ見られているのも気付かず、冷えた紅茶を二本レジに持って行った。
 清算を済ませると、お茶の一本を四瀬美に渡した。
「やるよ。前祝いだ。っていうか、一時間後の予行演習だな。飲みなよ」
「飲んでもいいけどなぁ、わたしの姿は君以外の人間からは見えないし、声も聞こえない。お茶がちょっとずつ空中に消えるように見えるぞ。学食みたいに激しく混雑していれば、却って怪しまれないのだけどねぇ」
「え?」
 と、マヌケな声を出しちまってから、要一はあたりを見回してみる。レジの店員も、後ろのお客たちも、要一の視線を感じると途端に顔をそむけるのであった。
 店を出てから四瀬美を追求したのは言うまでもなかった。
「普通、精霊が見えるわけないだろぉ」
 という一言で片付けられたのだが。
「それより、選ぶ肢は赤≠ナいいのかい? もう少し観察してみてもいいと思うけどな〜。ほかの赤い可能解答≠フ材料だってその辺にいるかもしれないし」
「うるさいな。いいんだよ。早くしないと一時間経っちまうだろ。予備校の中でスタンバイしてていいんだよな?」
「まあ、そうさ。彼女がコンビニに行くのを見計らって話し掛けてごらん。うまくいくように祈るよ」
 それから四瀬美はラウンジに戻り、人が居なくなったのを確かめ、紅茶のボトルに手を付けた。
 
                   §
                   
 一時間と十分後。予備校裏にある猫の額公園のベンチに、要一は横たわっていた。
 四瀬美の顔が上から覗き込む。
「大丈夫かねー。かなり殴られたなぁ」
 うるせえな、と言おうにも、唇の動きが生み出すのは言葉ではなく痛覚だけだった。
 途中までは、神懸かり的にうまくいった。まあ、実際に精霊は懸かっていたのだが。彼女は見た目通りに優しく大人しい性格であり、要一の方が何か悪いことをしているような錯覚に陥ったほどである。軽いノリで公園に連れてくるまでは、大成功と言えたのだが――彼氏が近くに居たのだ。
「こんな男がどうして彼女と?」という驚きは、迫り来る男の足音とともに、「こんな男に殴られたら死ぬぜ」という恐怖に変わっていった。ボコ、ボコ、ボコとかなり執拗に殴られても、やっぱり浮かんでくるのは「ヤバいな」という単語だけ。自分の貧弱な語彙力へと感覚を脳内逃避しかけたところで、謎の透明人間が男の腕を払い飛ばし、足払い一発で地べたに転がしたのであった。助けてくれた相手に向かって「もっと早く助けろ」と罵るわけにもいかなかったから、黙っているしかない。

 要一は同じコンビニに行ってバンソウコウを買った。そしてトイレを借りて自分で自分を手当てしている。
 四瀬美もしばらく黙っていたが、自分を恨みがましく見詰める鏡像に気付いたのかどうか、あっけらかんと言った。
「わたしの役割は、君に未来のビジョンを選択させることだ。選択した肢が君にもたらすものを阻む権利は無いよ。それに、わたしの役目とも矛盾する。いま助けたのは仕方なくだよ。君の体が痛みすぎると、ビジョンを選択するどころの話ではなくなってしまうからな」
 要一は脳を経由させないような口調で言葉を返す。
「一つだけ言えることがある。これは最悪な肢だった。あんな女はもうウンザリさ。なんであんなやつを気に入っちまったのか、自分でも分からねえ。今までの俺は、勉強のしすぎでおかしくなってたんだろうな」
「苦しい言い訳だなぁ〜!」
「うるさい! 俺自身にとっては上等な言い訳なんだよ!」
 最後のバンソウコウを張り終わるや、ゴミを放り出したまま店外へ。そのままS市の中心へとつながる瀟洒な大通りを、二人でさまよい歩く。
「あんたの提供してくれる選択肢とやらは、いちど選んでも拒否できるんだったよな」
「できるけどね。お手つきは一度きりだよ。だから、君がいま赤≠フ肢を拒否したら、二度と選べなくなるがなぁ。それでもいいかい? 日没までに決めればいいんだよ」
「当然、拒否させてもらう。あんな女を目指すコースなんて、誰が二度も選びたがるかよ。ヘドが出らあ。本能的なものはくだらねえよ。食べ放題も、パチンコも、女もだ」
「パチンコなんて、やったことあるのかい?」
「高校時代、たまにな」
「だから浪人するんだぞぉ」
 要一はお得意の脳素通りで四瀬美の台詞をかわし、身勝手に話を進める。
「他の肢はどういうのがあるんだ? たしか残りは青≠ニ黄色≠ニ黒≠チて言ったな」
「よく覚えてるじゃないか――。その通り。君は赤≠拒否した。残り三つの中から選択するしかない」
「ためしに、青≠チていうのは、どういう未来なんだ?」
「青≠フ肢は、君の社会的な部分が希望する未来さ。選んでみれば分かる。たぶん三つの中では一番マシだ」
「なに? 他の二つの肢は、悪い未来だっていうことか?」
「ご名答〜。ずばり、黄色≠ヘ不幸なる未来の肢=Bどう見ても青≠フ方がマシだろぉ?」
「なっ、なんでそんな迷惑な肢が混じってるんだよ!」
「幸福な未来があるなら、不幸な未来があってもいい。それを具現化した肢なんだよ。たまに真性の自虐趣味も居るしなぁ」
「現代でいうマゾってやつだな。ま、俺はどっちかって言うと逆だけど。で、ほかに黒≠チていうのが残ってるわけだが……? ていうか黒い影って普通と同じだぜ?」
 すると、四瀬美はいつものヌルい目を珍しくマジにして、要一の進路に正面から立ち塞がった。
「やめとけ。慌てるな。まず落ち着け。本当に真っ黒なんだ。見ればわかる。おぞましいまでの真っ黒なんだ。」
 四瀬美は身振り手振りを交えて必死だ。むしろ要一の方から「落ち着け」と言ってやりたかった。その深刻ぶりはまるで普通ではなく、わずか一寸の距離に顔を近付けて要一を説き伏せることさえさも当然の責務と思っているようである。なにげなく目をやった四瀬美の唇からは、かすかに若草色めく和三盆糖みたいな歯列が見えた。
「頼む。黒≠フ肢はやめてくれ。これだけは洒落にならないんだ。なにしろわたしも精霊として長いこと生きているが、黒≠選んだ者は一人も居なかったし、わたしも選ばせなかった。それくらいひどい肢らしいんだぁ。黄色≠フ肢すら比較にならない、空前絶後の最強不幸が訪れる未来だって聞いているぞ。絶対にやめた方が身のためだ」
「わ、わかったって。そんなに念を押さなくても。不幸な肢って聞いて、選ぶ奴がいるかよ」
「そ、そうかぁ〜。よかったよ〜」
 四瀬美は文字通りに胸を撫で下ろす動作を行い、接近しすぎている顔に今頃気付き、要一の隣の空間へと身を翻すのであった。
「つ、つぎは何を選ぶことにする? 青≠ゥい、黄色≠ゥい?」
「そーだな。あらゆる理由からして、青≠オかねえだろうな。黄色≠ヘ不幸な肢だって聞いたし、ちょうど俺の目には青い影≠ェ見えているところだしな……」

                   §
                   
 要一は「××書店」の大看板と、それが投げかける青い影を仇敵のように睨んだ。
「ほほー。これはシュールな光景じゃないの。なあ、マークシート精霊ちゃん」
 要一は書棚の前で一冊の受験参考書を手にしながら、「フツーの人には見えないものが見えているアブナイ人」さながらに独演した。「フツーの人」たちの視線がぶすぶすと突き刺さる。
「が、もはやなぜか気持ちがいいぜ。ハトポッポの群れでも散らしながら歩いている気分だ。人間、おかしくなると、おかしくなかったものがおかしく見えてくるもんだな。俺は確実に臨界点を超えたね。今の俺の問題は、この参考書が落とす青い影が俺にハッピーな未来を呼んでくれるかどうかってことだけさ。……おい、この参考書と、あとはこれとこれか。たしかに影が青いな」
「とりあえず観察した方がいいぞー。そいつらを可能解答≠フ君が買っていくのか、それとも床に叩き付けるのか、最初のページからむしゃむしゃ食いだすのか」
「それのどこが社会的なんだよ」
 要一は本を戻し、四瀬美と本棚の影に潜んだ。待つことしばし、要一は着物にかかる四瀬美の後ろ髪をぼんやりみていた。まるで無縫の絹のように滑らかに揃っている。精霊の髪型が変わったりなんてことはあるのだろうかと、そんなことを考えていると、
「……おいでなすったぜ」
 青い影を持った自分自身を観察するという異常事態に、要一はすっかり夢中だ。
「そうだねぇ。買っていったなー。青≠ヘ社会的期待の肢さ。それを買うことが東大への第一歩かもしれないぞぉ」
「社会的ね……それにしても東大か。大胆不敵な未来の俺、悪くねえな」
「未来じゃなくて可能解答≠セよー」
 要一は三冊で計千五百ページにもなる参考書をレジに持って行った。会計は六千円なり。

 二人は店から大通り沿いに、特殊ライトで照らされたごとき影を付けた要一を追う。行き着いた先は予備校の自習室であった。
 可能性としての要一は、空席に座り込んだ瞬間にユラユラと消えてしまった。
「ここに座ればいいのか? で、どうすりゃいいんだ?」
 ひとしきり受験生達の視線を吸収し、参考書に目をやる要一の問いに、四瀬美も参考書を見下ろして答えた。
「やればいいんじゃないか?」
 それから、三十秒。
 三冊の参考書がゴミ箱行きになるまでの時間である。
 二人はラウンジで何度目かの口論に至った。普通人から見れば、受験に要求される常識的頭脳とは反対の脳みそを有してしまった哀れな少年が、椅子にふんぞりかえって空気中に叫んでいるようにしか見えまい。しかし本人はまさに王様の気分で家来を立たせ、説教していたのだ。
「冗談じゃねえよ! 選択肢について行けば勝手に東大に入れてくれるんじゃねえのかよ!」
「勉強は自分でしなきゃダメだと思うぞぉ。可能解答≠ヘ『やるべき参考書』ぐらいは示してくれるだろうけど」
「六千円返せよ!」
「最初に見込み違いをする君が悪いのー」
「赤≠熈青≠焜Nソ肢じゃねえか。やめたやめた! なんて使えねえ精霊だよ」
「な、そりゃひどい」
「だいたいな、全ての元凶はといえば、てめえじゃねえか? 六千円だってそうだし、あの女の彼氏にボコボコに殴られたのもそうだ。喋り方はとろいし、助けに入るのは遅いし、説明も遅いんだよ。自分で勉強しろ、だと? そんな結末が分かってたら、六千円もゴミ箱に捨てなかったよ!」
 要一の唾が飛ぶのを嫌ったのか、四瀬美は一歩下がった。要一と一生懸命に議論していた顔にはしらけの色がよぎり、声も喉の上だけで出すような他人行儀な色になる。
「君がわたしを呼び出したのはどうしてだい? マークシートで全部@にマークしたのはどうして? こう思ったんじゃないかー? 普通に解いたって一問も当たらないんだから、思いっ切り突飛なことをやれば、意外に何十点か取れるかもしれない、なんて」
「思ってねえよ。あんなん、気の迷いだったんだ。まず俺はてめえなんか呼んじゃいねえ。勝手に出て来やがったんだろ」
「そういう嘘は無駄だよ。わたしは望まれた人間の所にしか出て来ないようになってるから。君は、現状では駄目だと思っていた。もっと良くなりたいと思っていたんだ。君には期待があった。日常を非日常に変えたかった。わたしが君に未来を選ばせてあげるのは、君の期待を少しでも満たしてあげたかったからさ」
「余計なことは必要ねえ。てめえがしたことは、全部逆効果じゃねえか。喋れるようになったばっかりの幼稚園児みたいなトロい声を聞いてると、イライラしてくるぜ。そうだ、分かった。てめえが悪いんだな? 俺の未来を心配してるフリして、本当は俺を不幸に落とし入れようとしていやがるんだ。きっとそうに違いねえ。他人を幸せにしてやりたいっていう動機で何日もつきまとう奴なんて、居るはずねえだろう? 俺を誰だと思ってる? 受験生だぞ。俺の周りには、俺が蹴り落とす人間しか存在しねえ。てめえも俺を騙そうとして近付いたんだろ? 楽しかっただろうな? 殴られたり金をすったりしている俺を見て、さぞ嬉しかっただろうな?」
「君は一体、何を……」
「黙りな。もう分かった。てめえと接点を持った俺が馬鹿だった。てめえの策略にまんまと嵌ったんだ」
「なあ、要一君。試験の精霊として一つ言わせてもらうよ。試験勉強っていうのはさー、人間の体力≠みるものなんだよ。受験勉強は無駄なことばっかりさ。八科目も九科目も必死で勉強してさ、二十年後に残ってるものっていったら信長・秀吉・家康くらいだ。そういう究極・激烈・異常な無駄作業をやれるかどうかっていう体力≠ェ審査されるんだよ。わたしができることは、君が期待≠キるような肢を選ばせてあげるところまでさ。そこから必要になるのは体力≠セよ。肢は選んで終わりじゃないんだぞぅ」
 四瀬美はもう一度要一に接近し、耳元でこっそり囁いた。
「さっきの『やめたやめた』って言葉は忘れといてやる。悪いことは言わないよ。青≠フ肢を選んでおくことさ。青≠拒否してしまったら、黄色≠ニ黒≠オか残らない。最悪だよ……」
「うるせーなっ!」
 要一は耳元にあるのが発泡スチロールの球体にすぎないかのように、力を込めて四瀬美を撥ね除けた。四瀬美は土のうが投げ出されたみたいに尻餅をついて、そのままコロコロと床に転がっていった。あの女の子の彼氏ですら傷付けられなかった四瀬美のほっぺたが赤く色づいている。
「消えろよ、疫病神! てめえが俺を落とし入れようとしてることはお見通しなんだよ! てめえの言うことを聞けば聞くほど、俺は酷い目に遭うんだ。てめえの声なんざ耳に入れたくもねえ。失せろ、今すぐ失せろ」
「……そうか」
 四瀬美は頬に手を当てて立ち上がった。
 要一は相手が怒鳴り返してきたときに打ち下ろすため、ひそかに拳を握り締めた。
 しかし四瀬美は要一の目を見さえしなかった。横顔こそ要一に向けられていたが、着物の合わせは完全に予備校の出口方面に向いていた。
「それなら、わたしが居るのは邪魔なんだね。迷惑がられているとは思っていなかったよ。君が望むのだから、わたしは立ち去るさぁ。だけど、わたしが居なくても、君は選択しなきゃいけないよ。肢が与えられたら、選択しないっていう選択肢はないんだ。幸運を祈っているよ」
 四瀬美の背中は、町へと消えて行った。
 要一は込み上げる笑いをそのまま顔中から発散させて、捨て台詞を浴びせた。
「おまえの世話になんかなるもんか! うるさい奴が消えて晴れ晴れしたぜ」
「うるさいのは、君じゃないですか」
 意外な方向からのレスポンスに振り向くと、予備校の警備員が立っていた。

                   §
                   
 要一は予備校裏の公園の入り口にいた。警備員室から近い裏口を出ると、それは目の前だ。もう辺りは暗くなり始めている。
 いつも薄暗い猫の額は、夕刻になると一層、鬱屈としていた。暗がりに足を踏み入れた要一は、先客が居るのも知らないでベンチに腰掛けようとしたくらいだ。しかし、驚きと不快感を混ぜたような異常な感覚が、要一を手前で踏みとどまらせた。
 まずは、町の中でディズニーキャラの着ぐるみが歩いているような不自然感。それからもう一つは、漬け物と納豆を混ぜて腐らせ放題に腐らせたみたいな臭いである。
 ベンチで休んでいる先客はホームレスであった。予備校から三キロ東へ行った×××公園では珍しくないが、この男はなぜ生息域を抜け出して来ているのだろう。まったく、人に与える迷惑も考えて欲しいものだ。――と、要一は警備員に食らったお小言をそのまま呟いた。
 やがてホームレスの男は、岩石とも半液体ともつかない着膨れしたしたシルエットを引きずり、どこかへ居なくなった。しかし要一も公園に留まっている気にはなれなかった。というのも、きょうは一日じゅう、予備校と公園では災難ばかりが降り掛かっていたからだ。やっと災難の元の答案精霊と別れたと思ったら、ホームレスのお出迎えとは、目の保養にもなりはしない。要一は公園をあとにし、ホームレスと反対の方向へぶらりと歩き出した。

 腹が減ったな……弁当を買いにコンビニへでも行くか。……肢の選択は、どーする?
 四瀬美は「青≠選んでおけ」と言い残してたっけ。
 ……拒否だな。百%。
 男子たるもの、一度決めたことは翻さないものだぜ。
 それに、青≠フ肢を見ただろう。
 要するに、「自分で勉強しなさいよ」という肢だ。
 馬鹿を抜かせ。今までの予備校生活と何も変わらないじゃないか。予備校にカン詰めになる生活なんか、いつでも送れるんだ。そんな未来を選ぶなんて吐き気がすらぁ。
 俺は分かっているんだ。あいつと居ると、不幸な目にしか遭わなかった。あいつの言うことは、全部嘘っぱち。真実とは逆のことを抜かして、俺を陥れようと企みやがった。あいつの本心なんか、俺はお見通しなんだよ。
 だから、あいつがオススメしない肢に幸福が隠されているに違いないんだ。そう、黄色≠ニ黒≠チて言ってたな。
 まずは黄色≠探すとするか。あいつは不幸の肢≠セなんてハッタリかましていやがったが、赤≠熈青≠熾s幸な肢そのものだったじゃねえか。許せねえ。俺をハメやがって。
 よぉし、決まり。俺は黄色≠選ぶ!

 要一の思考には加速度がついていった。彼は周囲を忘れて思考に没頭していたのだが、こういう特質が勉強において発揮されていたら、今ごろ浪人生活を送っていることはなかったろう。
 そして、赤信号の横断歩道にふらふらと飛び出し、空中を舞いながら、「俺は車に轢かれたのか?」と自問していることもなかっただろう。
 要一の肉体は走り高跳びのように華麗に舞い上がり、道路わきのガードレールを越えた。要一は頭が悪かったから、その一瞬に今までの人生が走馬灯のごとく駆け抜けることもなかった。思い出せたのは最近の出来事だけで、マークシート精霊とお祭りを見に行ったことぐらいだった。やっぱり「ヤバいな」という言葉しか浮かんでこない。
 轢かれて落ちたのは偶然にもコンビニの前だったが、体を起こすことはもちろん、指を動かすことも出来ない。弁当を買うための小銭入れすら取り出せやしない。要一が小銭入れを出すのを諦めたあとに、自動車のブレーキの音がやむのが分かった。
 驚くほど痛みを感じなかった。余りにも強い衝撃が加わった場合、衝撃の強さが身体の知覚をはみ出してしまい、痛みとして感じられなくなる。そんな眉唾的な現象を要一はまさに体現しているのだった。
 その時、酔っ払った若者のグループがコンビニ前を通り掛かった。彼らは伏せ字満載の下ネタを応酬しつつコンビニに入ったかと思うと、安物のチューハイを何本も持って出て来た。店の軒先を銭湯だとでも思っているのか、手足をぐだっと伸ばして座り、酒盛りを始める。
「助けてくれ、車に……」
 要一は目と鼻の先に居る彼らに申し出た。しかし彼らは明らかに要一が見えている距離にもかかわらず、てこを使っても腰を上げることはなさそうだった。……車のエアロパーツの話とか女の子の話はどうでもいいから、こっちに気付いてくれないか? くそ、聞こえてねえ。こいつらは、見た目からして、T大の学生どもだな。漢字の読み書きも怪しいこいつらでも、耳ぐらい聞こえてくれたっていいだろ。
 要一は怒りをこめて見続けた。
 すると、彼らの足下でピカピカと黄色の影が輝いていることに気付いた。
「……これは、黄色≠フ肢?」
 ということは、幻影か。ならば声が届かなくても仕方がない。しかし、このクソ大学生たちは、要一の未来とどう関連してくるのだろうか。
 そう考えてみると、要一は不可解な事実に気付くのだ。
 学生グループの一人が、どう見ても自分そっくりだということに。

 ……あいつは……、未来の俺、なのか? ……未来の俺は、名前さえ書きゃ受かるようなクズ大学に収まってるっていうのか。わざわざS市に出て来て浪人してるのは、じゃあ何のために。だけど心底から嬉しそうに馬鹿笑いしているもんだなあ。ホッとするけど、悲しくなるな。

 絶望的予兆を感じつつ、黄色≠フ可能解答≠観察していると、学生姿をしている要一は、やがて唐突に消えた。要一が見たイメージは、事故のショックによる突発的症状だと片付けることもできただろう。奇妙な幻像がそれきり現れなかったなら……。
 追い打ちをかけるように、別のイメージが続々と現れた。要一は現実・現在の世界でボロボロに打ち捨てられながら、自動車運転手の責任追及や自分の肉体のありさまにツユほども注意を向けることなく、目の前で厳然と立ち現れる可能解答≠ひたすら見続けていた。
 あたためてもらったばかりの四百円弁当のビニールを破りながらコンビニから出てきたのは、作業着姿の中年男だった。高級な干し柿のように赤くてらてらと硬化した顔面は、作業場の熱気や冬の冷気や太陽光に長年さらされたことを予感させる。若々しいカタツムリの身のように黄ばんだ目玉は、酒を欠かさない毎日を確信させた。男は自分の目玉よりは色の淡い黄色の影を足下にたゆたわせ、弁当の薄いカルビ肉を一心不乱に噛み始めながら消えていった。
 中年労働者の次に現れたのは、公園にいたあのホームレスだった。あの時は気付かなかったが、このホームレスもまた黄色の影を引きずった人間であった。「なるほどな」と要一は思った。俺は馬鹿だから、ものを見る目が無いんだな。自分の未来に関わるものさえ、命の危険にさらされるくらい追い詰められなけりゃ目に入らないときてる。

 ……こいつらも未来の俺なのか? どうしようもねえ。

 ホームレスはゴミ箱からスポーツ新聞を探し出し、小脇に大事そうに抱えた。同じく、缶コーヒーの底に残っていた数滴を口の中へ落とした。「こいつは何をやっているんだろう。何のために生きているんだろう」そう思った要一に応えるかのように、男は正面から要一を見詰めてくる。その眼光に宿るものは驚くべき真剣さである。四六時中なにかに脅かされ、その危機から逃れるための手を絶えず打ち続ける生き物の、全身全霊からの真剣さである。その何分の一かがあれば、大学受験はきっと突破できるとすら思わせる。
 そして、男は確かに要一に向けて言った。「何のために? 知りたいのか。じゃあ、俺を選んでみるか!」と。
「い……嫌だ!」
 反射的に口が動き、要一は目を閉じた。身体が自由に動くなら、ガードレールを飛び越え、予備校まで走っていたかもしれない。要一は怖かった。男の目が。男にそういう目をさせる、この世界の未来が。
「嫌だ! 俺の未来がこんな末路だなんて……。嫌だ!」
 要一は人目もはばからずに叫んだ。
 すると、この一言が、黄色の肢≠拒否する表明として受け取られたらしい。
 要一の世界は、激しく姿を変えだした。
 まるで空から雨が降るくらい簡単に、数え切れない人々が視界を満たした。かれら全員の足下に、赤≠竍青≠竍黄色≠フ影が伸びていた。人々は地面を滑るように進み、あるいは映像のように点滅しながら歩いた。今までに拒否した可能解答≠ェ、一挙に溢れたのだ。
 それらのビジョンは予備校前の大通り上に集まり、上空でぐるぐると渦を巻き始めた。要一が仰向けになって視野の片隅で見ていると、各色入り乱れて寄り集まった人々は、やがて上空で巨大風船集合体みたいなものを形成した。その巨大ぶどうみたいな形をした浮遊体は、本物のぶどうが熟れる時間の一パーセントも要さずに表面をおぞましい黒に変え、中からは重油のように黒いレーザー光線を地上に放射した。予備校も大通りもレーザーを浴び、なにもかもが真っ黒に染まっていく。
 誰かが要一の腕を取った。
「要一君!」
 規格外の非日常現象の中,要一は不思議と冷静にその声に振り向く。四瀬美だった。
「しっかりしなよぉ、どおしたんだい、この怪我」
「あんたか」
 けんか別れした相手だが、憎まれ口をぶつける気にはならない。この期に及んで緩慢な四瀬美の口調に、思わず頬と涙腺が緩んでくる。
「どうして戻ってきてくれたんだ?」
「君には怒り心頭だったさぁ。わたしは一人で町に行ったよ。お祭りは今日もやっていた。でも祭りより腹が減ってなぁ、食べ物の買い方とか分からないし、レストランとやらの入り方も分からないしでね。君に買ってもらったお茶しか、腹に入ってないよ。この世界でひとり生きるのは心細くなってねぇ。わたしにも選択肢は無かったんだよ。君を頼るほかにはな〜。それで、この怪我は?」
「へへ……。車に轢かれたのさ。未来≠ノ気を取られてたらな」
「言わんこっちゃないやぁ。君は、赤い肢も、青い肢も、黄色い肢も拒絶した。残りの一つで確定だぞぅ」
「ほんとかよ。黄色≠ナあの調子なんだろ。黒≠ネら俺はどうなるんだ」
「知らないよぉ。だけど確定は間違いないよ。天に祈るぐらいしか無いんじゃないかなぁ〜」
「あんたは、どうなるんだ?」
「君の肢が決まるまでが、わたしの役目さぁ。またマークシートの中に戻るんだろうさぁ。精霊(わたし)の世界にね」
「まじかよ」
 要一は恐怖を覚えずに居られなくなった。
 四瀬美が見えなくなったのだ。
 黒い。何もかも黒かった。視界が黒で染め抜かれた。
 腕に感じていた四瀬美の指先も、スッと消えた感じがした。

 ……四瀬美?
 ……誰だ、それ?
 ……というか、何だっけ?
 ……何が何だっけ?

 要一は、自分が何を考えていたのか思い出せなくなった。そして、自分という意識が段々に崩れていくのがわかった。そして、崩れていく意識を感じていた意識も消える。意識消滅の無限連鎖が要一の意識すべてを覆いつくした。
 要一は,「俺……」と呟いたのを最後に、その語が何を意味するのか分からなくなった。彼は言葉を使うのをやめた。そのため、彼の考えは言語化されず、単純な電気信号のようなものとなって体を伝わるにとどまった。
 その信号の内容をあえて言葉で表すと、
「呼吸って、エネルギー使うなあ。する必要あったっけ? 分からねえ。しないでいいのか?」
 というような、単純なものであった。
 そのうち彼は、知覚したり呼吸したりすることをしなくてもいいような気がしてきた。そこで、実際、それらを停止した。

                   §
                   
 人間の精神や身体はときに驚くほど単純で丈夫であるものだ。物語、要一の精神と身体同様に、単純で丈夫で何事もなかったかのように続くのだ。
 要一は病院のベッドで目を覚ました。不幸中の幸いにして当たり所は良く、バンソウコウが十枚近くに増え、左ひざに包帯を巻く程度で済んだ。
 要一は、夏期講習を三回休むという犠牲だけを払って退院を許され、保険金も手に入れることになった。
 そういえば、要一が手に入れることになったものは、もう一つある。
 炎天下の病院前で、洋服を着た少女が要一を引き取りに来ていた。
 人間になった四瀬美だ。
「よぉ〜。おひさ〜。意外だったよぉー。こんなふうになるとはねぇー」
 四瀬美は、要一がゆっくり歩けるのを確認すると、要一の隣を歩く。
「今も可能解答≠ヘ見えるか〜?」
「見えない」
「だろうねぇー。わたしは能力を失ってしまったみたいなんだぁ〜。おまけに人間になってしまったぞ。もう精霊の世界には戻れない。こっちの世界で暮らさなきゃならない。マークシート精霊にとっては最大級の災難だぞぉ。まさに空前絶後の不幸と言っていいくらいだ」
「黒い肢≠チて……。あんたの不幸だったのかよ」
「そうみたいだな〜。しかし、これじゃ商売にならないよー。責任とってくれよなぁ〜。まず、これから住む所が無いんだぁ。君の寮に居座るぞぉ」
「仕方ねェな……」
 要一は答える。
「まぁ、ゆっくり行こうなぁ。何が起こるか分からないけど、のんびり楽しめばいいだろぉ。だけど、勉強はしなきゃいけないぞぉ」
「そーだなぁ……」
 と呟いた要一は、心の中で言った。俺の喋り方まで、こいつみたいにのんびりしてきやがったなぁ、と。
 要一は四瀬美の手を取り、ぎゅっと力を込めた。
「とりあえず、昼めしでも食おうか?」
「だなぁ。食堂行こうかぁ?」
 巨大なぶどうみたいな形をした真っ白い入道雲をバックに、予備校が見えてくる。

 ……そーだなぁ、たしかに俺の日常はずいぶん変わっちまった。日常の極みたるマークシートの模様制作で,ついに現実認識機構が変質しちまったのか? しかしこの報酬は悪くないかー。俺が努力して彼女を思えば、人間になった四瀬美ももっとかわいくなっていくのかね。とりあえず茶髪なんかにしちゃったりして。この非日常はいつまで非日常でいてくれるんだろうね……

(終)









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