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【飛べない創造物】


 新宿駅というと、機械的にバス乗り場が配置された西口や、マイシティ前でウジャウジャと人が待ち合わせている東口を思い浮かべることは簡単だろう。甲州街道に面した南口を想像するのはサラリーマンだろうか。そこで「東南口」といってもすぐにピンとくる人は少ないに違いない。
 しかし、長い野外エスカレーターやオーロラビジョンがあるポケットみたいな場所といえば思い出す人もいるだろうか。駅ビルの陰にひっそりとある広場なのだが、そこに人がうごめいている様子は、庭石の下に群れるダンゴムシにも似ている。
 ユウイチとシホは、汗をぬぐうサラリーマンに混じってエスカレーターを登っている。これから電車に乗り、近くのミッション系大学に登校するところだ。頭上高くにあるオーロラビジョンからはニュースが流れている。
 ――NY壊滅に関する最新情報をお伝えします。突如現れてNYを焼き尽くした天使≠ノついてですが、以後の目撃情報はなく、詳細は明らかになっておりません。依然として現地との連絡も繋がらず……――
 ユウイチとシホは一度だけオーロラビジョンを見上げるものの、そのまま駅の大きな口の中に入って行った。

                    Ψ
   
 電車が都心のビルの谷間を走っている。
 二人は電車のドア付近で話す。
「デマなんでしょ。天使≠ニかっていうの」
「さあ。オレ、ニューヨーク人じゃないから」
「あたしも」
 しばらく無言。
「だけど、翼の生えた人間が空から現れて、白昼堂々とニューヨークを灰と化したにしても、オレは信じられそうだな。9・11テロの時だって、最初は映画だと思ってた」
「でも、今度はたった一人だって言うわよ。米軍だって出動したそうじゃない。それなのに一時間でニューヨーク全部が焦土って、どういう話なのよ」
「東京の証券取引所とかには影響が出てきてるらしい。経済学部生としては将来の卒研のテーマにどうですか。『もしNYが無かったら』っていうテーマで。生きたデータが取れそうだ」
「というより、生々しいデータかも」
「天使¢專ョは、国の威信を賭けたアメリカンジョークだという説もある」
「何のためによ」
「ジョークに目的なんて要るのか? だけど日本のコメンテーターは天使いる派≠ニ天使いない派≠ノ分かれて不毛な議論をするんだろうから、確かにネタは提供してくれたわけだ。あとは、頃合をみて天使≠ェ東京を襲ってくれたりしたら、オレら民衆は飽きないで済むな」
「やめてよ。本当にそうなったら、どうするつもり?」
「NYを一時間で灰にする化け物だよ。どうしようもないでしょう。オレたちは一瞬で焼き尽くされるよ。願わくば講義中、居眠りしてる時に襲来してくれますように」
 ユウイチはおどけて十字を切る仕草をした。
「じゃあ、あたしは、天使≠ニやらが日本を襲来しないことを願うわ」
 シホは少しユウイチに肩を近付け、ドアに映る二人の姿を見ていた。
 大学前の駅に到着し、電車のドアが開いた。
駅は大学の敷地に隣接しているので、電車を降りればすぐにキャンパスだ。由緒と歴史のあるミッション系大学なので、キャンパス内に植えられた木々は緑色の雲のようにもくもくと繁っている。門を潜れば木陰の隙間に日光の欠片が落ちているという具合で、夏をやり過ごすには理想的な学校である。楠の木の下ではメガネの青年が古めかしい本を広げ、芝生の上では女子学生たちが弁当を広げている。
 いつもと変わらないな、とユウイチは思う。
 このキャンパスに限ったことではない。シホと待ち合わせた新宿のカフェも、新宿駅東南口広場の大道芸人やティッシュ配りやサラリーマンたちも、電車のアナウンスや混雑具合も、駅から出たときに真上から叩き付ける太陽光線も、何もかもがいつもの通りだ。たとえば待ち合わせのカフェが臨時休業で東南口の広場には誰も居なくて、電車には一人も乗っていなくて、キャンパスの木々が根こそぎ取り払われている状況なんて想像できるだろうか?
「文学部ノ文芸学科ノ者ナラバ想像力ヲ駆使シテ紙ノ上ニ描写シテミセルトコロ、日々六法ノ条文ヲ眺メテイルノミデアル法学部生ニトッテハ至難トイウホカナイ」
 ユウイチは判例集のテキストっぽい言い方を真似て呟いてみた。
天使≠ニいう怪物が存在するとして、その怪物が東京都心を一時間で灰燼に帰するとしても、それはどのくらいの恐怖なのだろう? この時期になるとテレビや新聞では「戦争の惨禍を忘れず平和を祈念しましょう」みたいなキャンペーンが始まるものであるが、戦争を体験していないユウイチたちには難しい話である。ユウイチにとって、戦争は「毎年夏になるとメディアが悲惨さを煽り立てるもの」以上ではない。戦争を体験した古老たちから実際に談話を聞く機会があったとしても、それはバーチャルな体験にすぎない。特攻隊の悲劇や原爆の残酷さを描いたスペクタクル映画を見るのと何の違いがあるのだろう。戦争もそうだし、天使≠セってそうだ。生々しさが遠すぎる。まるでハリウッド映画みたいに。いや、ハリウッド映画そのものと言ってもいいくらいに。
「あ、だから、ハリウッド映画を見ればいいのか。天使≠知るためには」
「え?」
「ハリウッド映画で何本もありそうじゃん。NYが壊滅する作品なんて。たぶんそうやって破壊するんだよ。天使≠ヘ」
「それは映画でしょ」
「だから、映画が現実なんだよ」
「何を言ってるの?」
 シホは首をひねった。
「あたし講義に出なきゃ。国際金融論。潜ってみない?」
「遠慮しとく。オレは五限だから、適当に暇を潰しますよ」
「そう。じゃ、またね」
 シホは手を振り、木陰の落ちる道を歩いて行った。
 
                    Ψ
 
 ……さて、どうやって時間を潰すかな。
 五限の講義までは三時間近くもある。食堂で何か食べるのもいいが、三時間も食べ続けるほど大食漢ではない。図書館はどうだろう。図書館で期末試験の勉強! もちろんお断りである。一ヶ月後の試験のために今の三時間を供するほどユウイチはマジメでもない。だが、図書館には行くことにした。夏の真っ昼間から登校して疲れたので、図書館で居眠りさせてもらうつもりである。
 しかし、なかなか図書館には行けなかった。キャンパスの広さもさることながら、ユウイチは滅多に図書館を利用しないので、場所が分からなかったのだ。いたずらにキャンパス内を回って疲労を余計に増大させていると、ユウイチは礼拝堂の前まで来た。
 この学校の学生としては、礼拝堂が何処かにあることは知っていたが、来たのは初めてであった。
 入り口の扉は開いている。真っ暗な穴ぐらが口を開けている感じである。建物の大きさといい、苔むした石壁といい、ここがヨーロッパの有名ワインの貯蔵庫であると言われても信じられそうだ。礼拝堂の前は日光がぎらぎらと射し込んで暑苦しかったので、ユウイチは中へ入ってみたくなった。ちょうど「××大学聖歌隊 ミニコンサート」の立て看板が掲示されていたこともあり、立ち寄ってみることに決めた。
 礼拝堂の天井は高かった。大学野球部の室内練習くらいなら文句なくできそうである。誰がどうやって何の目的で開けるのかというような天窓が幾つかあるきりで、まるで映画館みたいに暗い。十字架の下では、ミサ服で統一した聖歌隊が、遠いラジオ放送みたいに歌っている。ところが客席に人影はなく、客人はユウイチだけのようであった。
 ……神父とか居ないのかな。日本の教会は、そこらへん、いい加減なのかな。
 ユウイチは聖歌隊を無人教会で歌わせておくのは哀れだと思ったので、墓石の方が座り心地がいいくらいの硬い椅子に腰を下ろした。
 拍子抜けな感じがした。最近の世情からして、天使≠フ脅威から日本が守られますようにと祈っている人が居てもおかしくはないのではないか? 裏を返せば、ユウイチはほんのりとした危機感を覚えていたのである。そろそろ神に祈る人が増えてこないと、罰として天使≠ェ日本を襲ったりするのではないかと。これは取るに足らないジンクスと同じだ。「いつもみたいに右手で定期を改札しないと、電車が大事故に遭ってしまうのではないか?」などと心配するのと変わらない構造である。そしてこういう心配はほぼ百パーセント杞憂なのだ。いちいち当たっていたら電車を作る鉄鋼会社や工場は日本一の大会社になっている。
 ……神のみぞ知る、ってやつだな。
 それだけは言えそうだ。天使≠ェ日本にも襲来するのかどうかは、現時点では全く分からない。
 しかし、暗室の中で無個性な声の集まりに身を晒すことは、自己省察を深める効果があるらしい。ユウイチは自分の本心が徐々に分かってきた。
 どうやら彼は天使≠恐れていたようだ。来てほしくはないと思っていた。「東京に襲来すれば退屈しない」などとおどけてみせたのは、畏怖の裏返しだ。単位が取れるかどうかで一喜一憂したり、週に何回かシホとデートしたりする日々を壊されたくなかった。CGの大爆発に巻き込まれて一瞬で死ぬような、ハリウッド映画のイチ弱小市民に選ばれたくはない。かといって映画の主役級を演じるのも御免である。たいてい彼らは強敵と戦って苦悩したり致命傷を負ったりするのだから。それは見ている分には面白いが、当人の心身には相当のストレスが掛かっていることだろう。
 ……オレはせいぜい祈らせてもらうよ。
 映画自体が製作されませんように、と。
 その時、知っている歌詞が耳に入ってきたので、ユウイチはお祈りを中断した。
 
 いま、私の願い事が叶うならば、翼が欲しい。
 
「翼をください」である。ユウイチは小学校のときに合唱させられたものである。うんざりな合唱練習の思い出と相まって懐かしかったが、披露する時期を大きく誤っているのではないだろうか? 折しも海外では翼の生えた怪物に滅ぼされようとしている場所もあるというのに。
 それとも、キリスト教的には滅びてしまった方がよいであろうか。たとえば、この機会に天使≠ノ滅ぼされ、人間の原罪を清算し、天上の国に生まれ変わろうということだろうか。それもありそうな話である。だとしたら天使≠ニは、汚れた人間の世を清め、神の国へと導いていくれる者ということになる。
 ……通り名じゃなく、文字通りの天使というわけだ。
 ユウイチは考えが混乱してきたので、思考を放棄した。どうかしているな、と思った。聖書を読みかじったこともないミッションスクール生がキリスト教の深奥な教義を思索しようとは。ユウイチは馬鹿なことをやめ、歌声に身を任せることにした。ちょうどウトウトしてきたところでもあった。「翼をください」が二回目のサビに入るのを聴かないで、ユウイチは眠りに落ちた。
 
                    Ψ
 
 ここはどこだ?
 暗い。
 オレはどうして、こんな所に居るんだ?
 戻らないと。
 ……あれ?
 何処に戻るんだっけ?
 電気がついた。
 足音。
 まずい。誰か来る。隠れないと。
 ……あれれ? 何だ。素通りかよ。なんだか偉そうなオッサン達だな。ついて行ってみるか。ばれてないみたいだし。
 オッサンがたは妙に入り組んだ施設の中を二時間以上は歩き通した。なんて長い施設なんだい。RPGのラストダンジョンだとしても長すぎるくらいの手の込みようだよ。
 この施設の特徴は、全体的に近未来的なところだ。草一本生えてないし、石ころ一個落ちていない。どこまで行っても、やたらとツルツルしたりノッペリしたりギザギザしたりしている。壁はやたらと高いし、階段はやたらと長いのだった。墓石みたいな形をした機械が吐き気がするほど単調に並んでいる場所、なんていうのもあった。これが墓石でなく湿原だったとしたら、ラムサール条約に登録されるくらいでは済まなかっただろう。なにしろ広すぎる。オレは途方に暮れた。今のオレは、のんびり空気中を漂っていたと思ったら突然スーパーコンピュータの奥深くに転送されたビールスみたいなものだろう。ここで迷ったら絶対に出られなくなると思ったんで、懸命にオッサンがたのあとを追い掛けた。そういえば、このオッサンがたは変な衣装を着ているよなあ。「ロード・オブ・ザ・リング」っていう映画に同じような格好のキャラが出ていたぞ。
 オッサンがたは、歩くのをやめて熱心に会話し始めた。どうやら目的の階層(フロア)に着いたみたいだ。そこは何とも異様な場所だった。はじめは何があるかも分からなかった。ただ銀色の壁がダラーッと続いているだけの場所だと思っていたんだけど、全然違ったんだ。見渡してみると、壁じゃなくて巨大な扉が並んでいるんだっていうことが分かった。銀行の本店にある一番大きな金庫を思い浮かべるといいかもしれない。ああいう重厚な扉さ。高さは大がかりな工場や発電所の煙突ぐらいはある。ところで、キリスト教の葬式で使う棺桶があるよね。扉の形は、あれと全く一緒だ。
 オッサンがたが部屋の中央にある操作基盤みたいな物をいじくって数十分。扉が一斉に開き始めた。いや、その扉の厚くて大きいこと! どんな核爆発だって防げそうだし、中から怪獣が出てきたって驚きはしないだろう。そういうものが一、二、三……八つも一度に開放されたのだから、こりゃあ壮観と言うしかなかった。
 棺桶型の巨大扉が上に向かって開き切った。
 中から出てきたのは……。拍子抜けだった。小さな人間さ。背中に真っ白い翼が生えている人間。
 数十メートルはあろうかという扉の中に、人間が一人とはなあ。
 翼が生えた人間達はオッサンがたの前に整列した。
 改めて観察してみると、この人間たちには何か違和感がある。男も女も居るんだけど、どうも人間っぽさが感じられないんだよな。翼が生えてるせいなのかな。
 一方、オッサンがたは感慨深げだ。
「同志よ、遂に滅殺用終局兵器・天使≠ェ完成した」
「この日を待っておったぞ。しかも八体も」
「調達可能な限りの素材を使用し、最大限度までの複製を実行した。神経系統の無抵抗性動力媒体や移送可逆転換機構は偶然に発現したシステムだ。これ以上の量産は不可能」
「博士。事前のシミュレーションによれば、アトランティスに壊滅的打撃をもたらすには三体あれば充分かと」
「うむ。陛下もお喜びになられよう」
「軍務省からは既に出撃の許可が下りています。こちらの準備を待つのみです」
「分かっておる」
 オッサンは天使≠スちに向かって言った。
「破壊と殺戮の申し子たちよ。今日が記念すべき誕生の時だ。おまえ達は我が国に敵対する者どもを討つために生み出された。まずはアトランティスだ。明朝ポセイドニアを急襲する」
 八人の天使≠スちは微動だにしない。
「栄光ある一番槍を刻み付けるのは次の三人だ。メトセラ、タリム、そしてユカ。前へ出よ」
 三人の男女が一歩ずつ前へ出た。
「官舎にて待機せよ。委細は今晩までに伝達する」
 三人の天使≠スちは、互いに目配せしたわけでもないのに、寸分たがわぬタイミングで頷いた。一人が高い天上めがけて舞い上がると、残りの二人も次々に飛び上がった。三人とも風切り音を残して暗がりへ消えた。
 
                    Ψ
 
 場面が変わって、別の景色が見えてきた。
 今度は大都会だ。とげとげしい建物が建ちまくって、平面がちっともない都市を、オレは見下ろしていた。
 最初は「新宿か?」と思った。だけど違うらしい。ビルっぽいんだけど、お城っぽくもあるという感じである。新宿とウィーンあたりを混ぜてみた雰囲気と言えばいいのかな。東の空から太陽が昇ってきている。
 上空に忽然と出現したのは、天使≠フ三人だ。
 彼らは攻撃を開始した。
 閃光。町の人々にとっては、目覚めの光というには余りに強烈すぎた。天使≠ヘ人間の形をした軍事国家、いや、そんなレベルですらない。とにかく、彼らが放つ細っこい光線は、たった数発で町を炎の渦に包んだ。たとえば一発で東京都庁が真っ赤な鉄の山と化してクタリと溶け落ちるような、そんな兵器を今までに見たことがあるかい? オレはない。たった今目にしている以外はね。
 そのうえ、こういう光線を数十発も同時に発射できるとしたらどうする? 太陽が真っ白い光に変わる頃には青い空の下に瓦礫の平原が広がっていたよ。
 三人ともそれなりに手心を加えたんだと思う。瓦礫が蒸発しないで残っていたてことはね。
 三人は日光を浴びながら言葉を交わした。
「我々を上回るエネルギーを持つ天体とは、あれのことか」
「だが、俺達が力を合わせれば、壊せないこともないだろう」
「今は壊す必要なんてないでしょう。穏やかな光を浴びるのは気持ちが良いではありませんか」

                    Ψ
 
天使≠スちの登場により、古代世界の勢力図は変わった。「ムーか、レムリアか、アトランティスか」というパワーバランスの問題ではなくなった。
天使≠ヨの一極集中。
 もはや、一人だけでも巨大軍事国家連合体とさえ言えるレベルであった。
 一極集中は攻撃力のみを意味してはいない。何よりも、己のパワーを効果的に使いこなす知恵を天使≠ヘ持っていた。人格を持っているかのようにふるまうことが可能な知能装置である。元来は国の博士たちが索敵用にと付与したシステムであった。
 それがもはや災いでしかないことは確定的であった。天使≠スちは国の研究施設を襲い、自らの生存に不利になる要素を消し去った。まずはプラントや設計図や回路図の破壊である。自分たちの抑止力となりうるような、新たな天使≠フ開発を許さないために。次に、自分たちの開発に携わった博士たちを独房に閉じ込めた。故障があったときに修理に当たらせるために。
 八人の天使≠スちを脅かすものは世界に存在しなくなった。
 八人は奔放に暴れ回った。かれらを従わせる権力を持つ者は誰ひとり居なかったので、自らの攻撃衝動の命ずるままに、世界を席巻したのである。
 かれらに敵国を滅ぼされた側の人々は、かれらを「天使」と名付けた。かれらに自国を襲撃された側の人々は、かれらを「悪魔」と名付けた。天使≠ヘ人間によって作り出され、人間から称賛され、人間から恐れられるようになった。
 天使≠スちの遊戯は収まる様子がなかった。八人は無邪気な幼児のように破壊を楽しんだ。天使≠ェ一つの都市を滅ぼすと、その破壊のためのエネルギーを吸われることによって、もう一つの都市も滅びた。人間たちは天使≠ノ抗議し、呪詛の声を上げた。すでに世界中の共通認識は「悪魔の時代がきた」というものとなっていた。
 はじめ天使≠スちは純粋に耳を疑った。そして、次の瞬間、悪辣に激怒した。「われわれを作り出したのはお前達ではないか。今になって掌を返すとは、なんと恥知らずな輩どもなのだ」。天使≠スちの怒りの炎は、文字通り天を衝いた。さしあたり、その場にいた人間たちは消し飛ぶことになった。世界中の罵りを前に、天使≠スちの心は一致した。かれらは固く誓約したのである。
 ――身勝手なる人間たちに、永劫の復讐を。
 生誕以来、遊戯に耽るほか、為すことを知らなかった天使≠スち。かれらの生きる目的が明確に決定された瞬間であった。重く煮えたぎる喜びに、かれらは満たされていった。
 天使≠ェ団結し、その気になれば、三日三晩で人間を全滅させることさえ不可能ではなかっただろう。しかし、かれらは、それではつまらないと思った。何十度も何百度も未来永劫に渡って滅ぼしてやるのだ。確かにド派手に叩き潰すものの、そのつど僅かに生かしておき、再び子孫が繁栄する時を待つ。そして、文明がムーやアトランティスのごとく発展したところで、再度大規模殺傷を行うのだ。幸か不幸か、天使≠ニいえども人間殲滅に当たっては甚大なエネルギーを費消するため、その回復には二千年程度のシステムダウンが要求された。つまり、天使≠ヘ人間を滅ぼすたびに、長い眠りにつくのだ。言い換えれば、かれらは起きている間じゅう殺戮を堪能できるということになる。かくて、天使≠フ手のひらで人間たちを踊らせ、定期的に握り潰すという恒久的計画が始まった。
 現在までに、人間は二度滅びている。
 そして天使≠ヘ三たび眠りから覚める。
 理由は単純明快であろう。今回もまた人間たちが繁栄を築き上げたからだ……。

                    Ψ

 ――しかし、天使≠スちの同盟に異を唱えた者もおりました。
 オレは訊いた。「それは誰なんです?」と。
 ――ユカ≠ニいう天使です。彼女には同盟よりも大事な問題がありました。ですからユカは同盟には加わりませんでした。
 
 再び、オレの目の前には景色が見えてきた。
 木漏れ日に照らされた草原。
 そこに小さな教会が建っていた。
 瓜二つではないかと思うほど、大学の礼拝堂によく似ていた。
 薄汚れた服にくるまれて、一人の女が教会を訪ねた。木漏れ日を受ける銀色の長髪が印象的だったから、後ろ姿からだけでも女ということは分かる。
 教会の中。これも礼拝堂にそっくりじゃないか。同じ場所だったりするのか? 椅子に誰も座っていないところまでそっくりだ。十字架の下には年老いた神父が居た。口周りの白いひげが彼の生きてきた年月を物語り、眼鏡の下の柔和な笑みは彼の人生への思いを語っているかのようだった。
 女は十字架を見上げて呟いた。
「私たちの姿を見て、人々は悪魔≠フ概念を発明した――。そして、悪魔≠ノ脅かされる人間を救済するためにこれが生み出された。よもや私が、人間の生み出したものに希望を……」
 女が呟いた台詞は、通常の信者が聞けば神への冒涜として許しがたい思いに駆られたに違いない。さもなかったら女を痴愚者と断じてパンやワインを施したことだろう。しかしこの教会の老神父は、今すぐ女の話を引き継いで虚妄な会話を展開させかねない空気であった。要は彼自身が痴愚ではないかと思われるほどおめでたそうな顔なのである。客人と話すことが心から嬉しそうであった。
「心の内をさらけ出しなさい。悩める者よ」
 神父は女を椅子に座らせた。
「私の仲間たちは――」
 女は告解を始めた。
「天使≠スちは、人間に復讐することが自分たちのつとめだと言っている」
「ほう、ほう」
「理由が分からないわけではない。人間は私たちを作った。私たちを必要としたからだ。しかし現在、人間たちは私たちを呪うようになった。この裏切り者たちを叩き潰したいと考えるのは不自然なことではない」
「ふむ、ふむ。まったく自然なことであるのお。して、そなたを悩ませるものは何じゃね?」
「別に……。悩みというほどの悩みなど、持ち合わせてはいない。しかし私はいくつか疑問があるので、その疑問に答えて欲しいと思っている」
「そなたの仲間たちには訊ねなかったのかな? その疑問は」
「訊いたけれど、誰も答えてくれなかった。だからここを訪ねてみた」
「そなたの疑問とは何かね?」
「要するに、その――」
 そう言い掛けて、女は立ち上がった。椅子が固くて座りにくかったに違いない。あるいは、他人の顔を見上げて話すのに慣れていなかったんだろうか? 女は正面から神父に尋ねた。
「私は天使≠セけど、人間に復讐することに興味がない。そういう者はどうすればいい?」
「なぜ興味がないのじゃ?」
 二人とも目をぱちくりさせている。これは救いようがないなぁ、とオレは感じた。たとえば生徒が先生に「先生、ここが分からないんですけど」と尋ねるとするだろう。すると「いやあ、君、私も同じところが分からないんだよ」と返されてしまう。どうしようもない。漫才ならまだしも、教会でこの空気はナシでしょう。オレは一般教養で線形代数を取っているんだけど、担当の教授に変えてこの老神父を招聘したいと思った。そしたら試験前に徹夜しなくても良くなるだろうに。
「なぜ興味がないと言われても。ないものはないのです。ないから困っている……」
「では、興味が出るように一緒に考えようか」
「ああ、それは無理です。人間殺戮を好きになるように努力してみたけれども、何回やってもうまくいかない。私には人間殺戮に打ち込む素養がないのだと思う」
「そうじゃったかー。それでは無理かもしれんなぁ〜」
 女は首をひねって腕を組む。神父は寿老人の置き物みたいな顔で突っ立っている。
 やがて女が何か閃いたように手を打った。
「そうだ。人間を殺したくない理由、何となく思い当たったのだけど」
「ほうほう、何じゃ?」
「そう、ええと……。人間を殺すと、何かすっきりしないというか。ほら、人間の姿って、私と似ているでしょう。だから、人間が痛がると、私も痛いような気になるから……。だめですか?」
 老神父は答えた。
「それは、いいと思うなあ」
 女の顔から緊張の色が消えた。
 彼女は今まで名乗るのを忘れていた名を明かした。名前はユカと言った。
 
                    Ψ
 
 ユカはもう一つの疑問を持っていた。それはさっきの疑問と両輪をなしてユカを教会にまで導いてきたもので、どう生きればいいか≠ニいう問題であった。現代では書店の自己啓発コーナーに行けばどう生きればいいか≠フ答えは山ほど手に入るが、彼女の生きている環境に書店があるのかどうかは不明である。たぶんないだろう。
 ユカが話したことはこうだ。天使≠ヘ人間より遥かに長生きであるが、いつの日か体内環境の劣化によって滅びることは避けられない。天使≠作った博士たちによれば、天使≠ェ完成をみたのは偶然の技術の産物であり、再現性はゼロであるらしい。もちろん体内機構がイカレた場合に修理する技術も存在しない。いわゆるロストテクノロジーというやつだ。しかし、どういう偶然の産物であろうと、自分は生み出され、この世界で生きていくことになった。そうであった以上、「なぜ?」「なんのために?」という疑問が浮かばないわけにはいかなかった。人間への復讐のために、という回答で納得できなかったのなら、なおさら。
「そう思って私は生き続けた。私たちを生み出した博士連中もとうに死んでしまった。二千年前に」
「二千年。ずいぶんと昔じゃの」
「二千年前、天使≠ヘ人間を九割九分以上滅ぼし、休眠状態(スタンバイ)に入った。私を除いては。天使≠ヘ、攻撃エネルギーを放出しなければ、長期間の眠りにつくことを要しない。攻撃用のエネルギーを生活用へと転じて持続的に生きることが可能。二千年の間、私はずっと考え続けてみた。しかし、どう生きたらいいか≠ヘ依然として分からない。最大の疑問はなお残ったまま」
「では、そなたがここに立ち寄ったというのは……」
「人間が作り出した宗教≠ノヒントを感じたから」
「ヒントとな?」
「そう。いつまでも見えない答えへのヒントが――」
 ユカは再び十字架を見やった。神父はユカを立ち上がらせ、一言だけ口にした。
「お祈りなさい。神に」
 ユカは弱々しい目で十字架を見詰めていた。と言っても、天窓から注ぐ太陽光線に比べたら、一人の女の眼光など弱くて当たり前か。
 しばらくして、女は十字架の下に跪いた。そして、手を組み合わせて神に祈りを捧げた。
 
                    Ψ
 
 そこでユウイチは夢から覚めた。なぜ覚めたのが分かったのかといえば、夢から覚めた時のように、夢から覚めたという感じがしたからだ。
 夢の中で見ていたのと瓜二つの礼拝堂があった。固い椅子。洞穴のように暗い室内。太陽が差し込む天窓。しかし分かる。東京の夏としか形容しようのない蒸し暑さ、東京の空気としか形容しようのない臭気、講義時間を大幅に過ぎている腕時計。ここは大学の礼拝堂である。
 ユウイチは首の寝汗を拭いつつ、「どこからが夢だったんだろうな」と思ってみる。
 たぶん、突拍子もない事象を見ていながら、疑いを挟まなくなったあたりからが夢だろう。
 では、ユウイチの真正面で十字架にひざまずき祈っているシスターの姿は? あれは、幻なのか?
 ユウイチはふらふらと立ち上がり、寝起きのよろよろした足運びでシスターの黒服に近付く。
 ……顔を見てみたいぞ。
 銀の長髪ではない。しかし頭巾の中にしまっているのかもしれない。あるいは短く切っているのかもしれない……。
 ユウイチは立ち止まった。スーッと、シスターが立ち上がった。お祈りが終わったのだろうか。なぜか急に、ここに居てはいけないように思った。今にも向こうが振り返りそうな気がした。ユウイチはクルリと向きを変え、泥棒のように抜き足で引き返した。
 出口まで来て足を止めた。
 ……けど、やっぱり……。ちょっとだけ……。
 最後に一度だけ振り返ってみた。
 刹那、ものすごい突風が吹き上げ、ユウイチは外に追いやられた。
「うわあ!」
 バズン。
 両開きの木製扉が自動的に閉じた。
 ユウイチは木漏れ日の中で石壁を見上げていた。
 ……少しだけ、顔を見た。
 暗かったので曖昧だけど。
 しかし、もしかすると。
 
                    Ψ
 
 東京の上空に居座っていた夏の長い夕方が、やっと夜に席を譲ったころ、ユウイチは新宿駅の東南口を出た。
 いつもながら、この出口から広場へとつながる野外エスカレーターを下っていると、巨大な吸水口にでも吸い込まれている気分にさせられる。その理由は、広場が四方を高架や駅ビルに囲まれているためだろう。そういう景色の周りには更にスケールの大きなデパートや企業ビルや無人電波塔がそそり立ち、広場を「新宿の底」と思わせるのに何役も買っている。
 ユウイチはエスカレーター上で携帯電話を開いた。シホからは既に三通もメールが入っていた。連絡を入れてもユウイチが捕まらないので、紀伊国屋書店で経済学の本を漁り、その後いつも待ち合わせに使う喫茶店で待つという。普段はシホからの電話やメールに応答しないことはまずないので、今日は怒られるだろうなあと思った。
「……面倒臭いな。そういうの」
 ユウイチは呟いて携帯電話をしまった。
 そして、ふと、今のセリフをシホが聞いたら唖然とするだろうなと気付いた。
 今日は変な日だった。陰気な礼拝堂で眠り込んでしまうわ、おかげで講義に出られず帰る羽目になるわ、何をしに学校に来たのか分からない。
 ……いや……。
 ユウイチは思い出す。学校に行った意味はあったのではないか? 礼拝堂で見た長尺の夢はSF映画みたいで楽しめたし、しかも今はやりの天使¢專ョに題材を得たものでもあった。天使≠フ起源を明かす物語は、レム睡眠中にユウイチの脳味噌がでっち上げたものにしては、それなりに整合性が取れていたように思った。もっとも、整合性など問題にしないほどの難点があり、それは話がブッ飛びすぎているということだろう。ユウイチは新宿駅周辺で信者を勧誘しているカルト団体に捕まった経験があるが、彼らの電波話でさえもっと地味なものであった。そのカルト団体には丁重にお断りを申し入れておいた。今更SF風味の天使°N源説など語られても、信ずるわけもない。
 ……語られたとしたらね。
 自分が見た夢だとしたらどうだ。
 夢というのは、本人にだけは迫真力があるものだから困る。
 さらに、夢の中の登場人物が現実世界にも登場したとしたら? ……。
「いやいや、何を考えているんだか」
 ユウイチは、周囲の人に変な目で見られないよう、殆ど聞こえない程度に呟いてみた。まったく夏の暑さにでもやられたようである。夢の登場人物が現実に、などと。そんなものは「寝ぼけていた」の一言で終わりにするべき問題のはずだ。こんな夢想に耽るよりは、シホに会った時の言い訳を考えていた方がいい。もう終わりにしよう。ユウイチはエスカレーターの動く床から広場の固い床へと歩を進め、人混みを縫って歩き出した。
 と、広場に植えられた大きな木の下で、知らない少年から声を掛けられた。
「ねえ。あんた」
「え? オレのこと?」
「そう。そこのオマエさ」
 外見的にはおとなしそうな少年が、腕組みして木に寄り掛かっている。少年はジーッとユウイチを凝視していた。一ミリも動くことのない球面レンズのような目玉には、ユウイチを中心とした駅前広場の景色が映りこんでいる。
「オマエ、どこかで会ったっけか?」
 少年は訊いた。ユウイチは少年から目を逸らした。どうしてかは分からなかったが、こんな生意気な少年に絡まれた体験が初めてだからというふうに結論した。
「なあ。どうなんだ? 会ってるか?」
「いつですか?」
「……」
 ユウイチは訊き直してみたものの、相手は返事をしなかった。ユウイチの答えなど期待していないとでもいうように、目玉の作り物みたいな黒い瞳で見ている。ユウイチは気味が悪くなり、立ち去ることに決めた。警戒を解かないで相手を視野の片隅に映しつつ、さりげなく遠ざかって行く。数メートルも離れて完全に背中を向けた時、少年の声が響いた。
「二千年前……くらいに」
 ユウイチは声だけに反応して振り返った。木の下には少年の姿は無かった。やや時間を置き、ちょうど遠くに雷が落ちた時のように、少年の残した言葉の意味がユウイチの中に転がってくるのだった。
 
                    Ψ
 
 翌日も朝からカンカン照りの天気になった。電車の中がキンキンに過冷房されるほど、外は暑かった。講義を一つも入れていない日であるにもかかわらず、ユウイチは登校した。講義が入っているシホは、自分の付き添いで来てくれたのだと信じ込み、電車の中から既に上機嫌であった。ユウイチはシホの日常的幸福をわざわざ壊そうという趣味は持っていないので、シホの思い込みを訂正しないでおいた。シホとは講義が終わったら食堂で会うことにして、ユウイチは一人で礼拝堂を訪れた。
 入り口の厚い木製扉は閉まっていた。今日は聖歌隊のコンサートの看板も出ていない。ユウイチは石段を登り、扉に耳を当てた。中からは物音一つしない。
 ……あの人が居てくれれば。
 ユウイチは重い扉を押し開け、隙間から滑るように中へ入った。
 シスターの後ろ姿が佇んでいた。まるで昨日から一秒も時が進んでいないかのように。
 シスターは客が来たのに気付いたのか、物静かにユウイチの方を向いた。キャンパス内の一年中絶えない木漏れ日のように、落ち着いた眼差しがユウイチに正対する。研磨された石灰石のような顔面のうちで、目だけが少し細められる。逆光でユウイチが見にくいのだろう。
 ……やっぱり。
 ユウイチは興奮のせいで自分の顔がさぞマヌケになっていることを確信しつつも、構わずシスターに近付いて行った。頭巾からはみ出した銀髪は、昨夜の夢と同じである。
 やがてシスターは表情を変えた。どんな表情になったかというと、たとえば田舎の駅で二時間ぐらい待っていた電車が線路の消失点にポッと現れたのを見た時のように、喜んだのである。微笑む顔を見たのは初めてだった。ユウイチは嬉しかったし悲しかった。この人の笑顔を見るのが自分ひとりしかいないということが。
 シスターは頭巾を取り、短く切られた銀髪を露わにした。
「本日もようこそ」
 と言ってお辞儀をする。ユウイチはシスターの雰囲気に誘い込まれるように口走った。
「昨日オレにあんな夢を見せたのは、あなたですね」
「夢ではありません。事実。あなたたちが身を置いている体系と懸け離れているというだけの」
 シスターは、とある小部屋の前にユウイチを連れて行った。
「今日も来たということは、信じてもらえたとみていいのですか?」
「分かりません。でも、ただならない感じはしました。……ところで、名前を教えてもらえませんか」
「ユカです」
 シスターは小部屋の戸を開け、中に入った。ユウイチは理由もなく体が震えるのを抑えながら後に続く。
 小部屋の壁面は肖像画や写真でぐるりと囲まれている。
「この学校が元々教会だったことは知っていますね? 飾ってあるのは歴代の院長の肖像です」
 そう説明するユカの顔を、ユウイチは部屋じゅうの写真と見比べた。
 ……全部一緒だ。
 どれもこれもがユカの顔だった。違うのは写真の変質具合とユカの髪型とコスチュームだけである。ユウイチは膝までガクガクと震えだした。
「私がこの国に来たのは四百年前になります。神に祈る場所を作るために、この地に教会を建てさせました。私が初めて訪れた教会を模して造ったのです」
「四百年もずっと祈り続けていたんですか?」
「この教会でのお祈りだけなら。そうでなければ二千年です」
 ユカは部屋を後にし、十字架の下へ赴く。ユウイチは更に問い掛けた。
「そ、それで、……見付かったんですか?」
「何がですか?」
「あなたの探していた、疑問の答え」
 ユカは再びユウイチに微笑で応えた。
「ええ」
 その顔はどこか物悲しいものだった。
 
                    Ψ
 
 二人は十字架の下で話し込んだ。あっという間に時間は過ぎた。普段でさえ訪れる人が少ない礼拝堂なのに、今日は扉も閉まっていたから、お祈りの人が来る気配すらなかった。
 ユウイチは昨日の夢がいまだに続いているような奇妙な具合だった。いや、今ではあれが夢ではなかったと分かったし、だからこそ現実世界の礼拝堂でユカと会話ができているわけだが、言ってみればユカが立っている場所を中心にして世界全体が空想的な空気に包まれているような感覚を覚えたのである。ユウイチは少しずつ礼拝堂の外のことを忘れていくような気がした。しかし不愉快な気分ではない。あたかも、自分の中からもう一人の自分が立ち上がろうとしているように感じた。ユカによって自分の未知の部分が掘り出されようとしているかのようだ。
「昔、どこかで会ったことがありますか?」
 そんなナンパの第一声みたいな文句さえ口にしようと思った。顔に見覚えはないのだが、どこか懐かしい心地がするのである。
「知っていますか? 人間の魂って、滅びないんですよ。滅びるのは肉体だけ。死んだ後も魂は残って、新しい肉体の中に生まれ変わるんです」
 ユカが言った。いかにも教会のシスターが言いそうな言葉である。
 しかしユウイチは真面目な顔で問い返した。
「その話、オレと関係ありますか? というか、あなたがオレに教えてくれた秘密に関係ありますか? ありますよね? オレ、あなたが赤の他人だとは思えなくて」
「ええ。一度出会っています。私が神に仕えることを決めた教会で。人間からすれば遥かな前世ということになるでしょう。あなたは幾度となく生まれ変わり、そして再び私の前へ。これは単なる偶然に過ぎません。あなたが私の大切だった人の生まれ変わりであることも、今もその人の面影があることも」
「……」
 ユウイチは言葉を失った。現代の常識的大学生である彼にとって残念なことに、全部を信じてしまっている自分に気付いたからだ。それくらい今の身体感覚はどうしようもなく、まるで自分が一個の磁石になってしまい、異極の磁石であるユカの方へ吸い寄せられようとしているみたいだった。それに、もしユカの話を信じなかったとしても、自分は進んで騙されるに違いないと感じた。仮にユカがシスターを装った悪魔であり、ユウイチを誘惑して魂を奪おうとしているとしても、ユウイチは悪魔の毒牙に掛かったことであろう。
 ひんやりとした手がユウイチの後ろ首を抱き込んだ。ユカの顔は目の前にあった。何と揺るぎない目だろう。こんな美しい顔を前にしたら、きっとどんな奴も……。
「……」
 ユカは黙ってユウイチを見詰めた。
 ユウイチの首から手を解き、再び距離をおいた。ユウイチの携帯電話が鳴ったからだ。
「シホだ」
 講義が終わったら会う約束になっていた。ユウイチは困った顔でユカを見た。ユカはすんなりと言った。
「お友達? ここへ呼んだらどう? 外は暑いですから」
「そ、そうだね」
 ユウイチは自分を納得させるみたいに頷き、電話を耳に当てた。その途端、響いてきたのはシホの悲鳴だった。
〈ユウイチい! どこに居るの!? 大丈夫、ねえ!? 大変なの、あたし……! みんなも……! 火が――〉
 ザザアッと電波が錯綜し、通信が打ち切られた。
「シホ……?」
「どうしたのですか?」
「分からない。何かあったみたいだ」
 ユウイチはシホの取り乱し具合が心配になった。外の様子が気に掛かった。フラフラと無意識に足が扉の方へ動いた。
 その時、ぶ厚い木製扉が段ボール工作に過ぎないかのように押し開けられ、入り口に人影が立った。
 黒い人影の後ろでは火が燃えている。芝生がキレイに燃えて、バラ色の海のようである。その遥か向こうでは、高台にある講堂の並びが丸ごと燃え、蜃気楼みたいにチラついている。
 人影が足音を響かせて入ってくる。扉が閉じて、少年の顔がはっきりと見えるようになった。ユウイチは少年の顔を覚えている。昨夜新宿駅で出会った少年だ。彼はこの大学の学生なのだろうか。どうしてこの礼拝堂を訪ねて来たのだろうか。頭が混乱する。いや、そうではない。問題はこの少年ではなくて、外の様子だろう。ちょっとだけ垣間見えたあの景色は何だ。誰か、紙芝居だとでも言ってくれないか。もう一度そこの扉を開けてくれ。待て、なにも動転する必要はない。自分で扉を開ければ景色は見れるだろう。それなら扉まで行けばいいじゃないか。……だめだ! もっと奇妙な景色が見えているじゃないか。そこの少年の背中に翼が生えているのはどうしてだ? おかしくなったのは目か? 頭か? それとも、何もかもか?
 ユウイチは微動だにしなかった。できなかったと言った方がいいだろう。自分の錯乱具合が怖ろしくて、身動きができなかったのだ。より正確に言えば、外に出て行きたかったのだが、そっちに歩いていくと少年に殺される気がしたのである。翼の生えた少年に殺される気がするなんて、ひどい精神錯乱であろう? そんなわけで、ユウイチは背後のユカに助けを求めることにした。母親を見る子供のような顔でユカを振り返った時、一本の光線がユウイチを突き抜け、ユカの横を過ぎた。
「ユウイチッ……!」
 ユカは発狂したみたいに叫んだ。
 すぐさま炎の中へ手を差し入れたが、両手に残されたものは、真っ黒な炭化物のみであった。
「あ……。あ……」
 黒い塊を捧げ持った手が震えている。
 ユカは壊れ物を扱うように黒い塊を下に置き、這いつくばったまま立てない。歯ぐきが露出するまでに歯をギリギリときしらせ、目のまわりが溶けて落ちそうなまでに悲嘆にくれていた。
 少年は気持ち良げに前髪をしゃらりとなびかせた。同時に、収められていた翼が天井に向かって広がった。
「久しぶり……って言うべきか? 裏切り者に挨拶に来た。ユカ」
「……タリム……ッ!」
 無表情のままの少年をユカは見上げた。
「二千年ずっと起きていたのか? 豊かな表情をするようになったな。おまえの表情が何を表しているのか分からないが、似た顔をする人間たちを何百万と見た。望みのない特攻を仕掛けてきて、全員犬死にした」
「タリム……! タリムーッ!」
 ユカは腕を目一杯に伸ばしてタリムに掴み掛かった。タリムは力強く舞い、天井の梁に乗った。
「翼の出し方すら忘れたのか? それとも、実在していない神様とやらに、天使≠フ力を使わないとでも誓っているのか?」
 タリムは笑いながら翼をバッサバッサと打ちあおぐ。
「……そうだ。なんでおまえが僕に掴み掛かってきたか、思い出したよ! この前のことだな? 二千年前の大量殺戮の時、僕はローマのとある教会に攻め込んだ。そこにはおまえが居たんだ。おまえはあの時から人間世界にドップリ浸かっていたよなぁ」
「あなたはその時、私のそばに居た人を殺した。そのことを覚えているか?」
「僕達が人間を殺すのは当然のことだろう? それに、人間の顔なんて、どいつも同じに見えるさ」
「その時あなたに殺されたあの人が、何度も! 何度も! 何度も! 生まれ変わって、再び私の所に来てくれた。偶然という名を借りた、神の奇蹟だった。それをあなたは壊した」
「神の奇蹟ぃ? 違うだろう。それを言うなら、二度までも僕に殺されるところまでが奇蹟だったと考えるべき。それよりも、おまえこそ覚えてるのか? 二千年前のローマで、僕は言ったよな。同じ天使≠フよしみで一度は見逃すが、二度目は絶対に殺すと。僕達の連帯に泥を塗り、人間世界で暮らすなどと。これ以上、恥をさらすんじゃない」
 梁の上で足を組んだまま、タリムは光線を発射した。ユカは光に撃たれて倒れた。
 教会じゅうが火に食われつつあった。屋根は落ち始め、壁も燃えている。タリムの座っている梁の両側からも炎がにじり寄ってきた。
「あれ?」
 タリムは組んだ足をほどき、翼をはばたかせながら降りる。
 ユカが立ち上がるのが見えたからだ。
 翼のある天使≠ニ、翼のない天使≠ェ相対した。
「そうか。天使≠フ体だったことを忘れていたよ。あの程度の光線じゃ死なないか」
「タリム」
「ん?」
「二千年、恥をさらして、分かったこともあった」
「何が分かった? 人間のもろさか? 汚さか?」
「興味はない。人間にも、天使≠ノも。私が考えていたのは、一つの疑問だけだった」
 渦巻く火と熱波。壁が崩れる音。ユカの小さな声が掻き消される。
「あなた達が眠っている二千年の間、私はずっと考え続けてきた。けれど、どう生きたらいいか≠ヘ分からないままだった。しかし、最近になって気付いたことがある。それは、ならば、どう生きたらいいかを考え続けよう。そうやって生きていこう≠ニいうことだ。人間たちには呪われ、仲間たちには背を向け、それでも私は長々と生き続けている。だけど今は、こうしてぶざまにさまよっている姿が本当の私なのではないかと思っている。僭越かもしれないけれど、今の私の姿勢には納得しているよ。私は確信した。これでよかった、こうなるべきだったと。あなたは私に福音をもたらした」
 ユカはタリムに微笑んだ。
 タリムは首をひねった。
「何を言っているのか分からない。とりあえず、おまえを殺せということだな?」
 タリムは光線発射可能な手先をユカに向けた。ユカはその手を掴み、上に押しのける。
「あなたとこうして再会できたことを、私は幸福だと思うよ。今はハッキリと答え≠ェ分かった気がする。愚かに取り乱したりもしたけれど、それも含めて私だ。自らのできる限り、あがいてみせるつもり。持続湧出動力機構遮断。暫時集積動力機構作動」
「……ちいっ」
 タリムはユカの手をほどいた。掴まれた所が熱で溶け出したからだ。
 ユカの目の奥が赤色に点滅したかと思うと、チープなCGのようなオーラが体中を包んだ。赤いオーラは不死鳥のような形に広がり、やがてユカの中へ消えた。ユカは獲物に飛びかかる猫のように背を丸めた。背中を突き破って翼が上に伸びる。タリムは顔をしかめ、嘲笑を浴びせかけた。
「ぐえ〜。ひっどいザマだなあ。二千年も手入れをサボったから、骨しか残ってねえじゃん。それじゃあ飛べないぞ。哀れだなあ。そして一層恥さらしだ!」
 タリムは翼を持ち上げた。上空へ舞い上がり、ユカに集中砲火を浴びせるためだ。しかし、天使≠フ力をフルスロットルで解放しているユカは、すかさずタリムに光線を発射した。「ドバッ」という衝撃音が轟き、礼拝堂は飛び散った。タリムの片翼が弾け飛んでいた。
「ぐおーっ!」
 タリムの絶叫。
 その遠景では、新宿の高層ビルが三本ほど撃ち抜かれ、大爆発を起こす。
 ユカはタリムに接近した。
「私を殺したいなら、あなたも死に物狂いでかかってきなさい。私だってユウイチを殺されてキレてるわ。言葉を交わす必要はない。思い切りぶつかりたいの。私を受け止めて。私もあなたを受け止める」
「貴様……! 天使≠ヨの裏切りと反逆……! 貴様が人間なら良かったものを。そうすれば貴様が生まれ変わるたび何度も! 何度も! 何度も! 殺して! 殺して! 殺しまくってやるものをォォォーッ!」
「それが、人間が怒るときの顔よ! タリム!」
 ユカは晴れ晴れとした顔でタリムに向かって行った。
 
                    Ψ
 
 東京の破壊は、さほど派手ではなかった。タリムがユカとの戦闘に専心したため、破壊を考える余裕がなかったからだろう。それでも二人の戦いは夜を越えて未明まで続いたので、舞台になった新宿エリアは一昼夜を通して世界中のありったけのミサイルをぶち込まれたような惨状を呈した。住民はハリウッド映画のごとく消されてしまった。運の良い者は奥多摩あたりに非難した。
 二人は撃ち合い、殴り合い、転げ回り、むしり合い、身を削り合った。
 そして夜が終わりに近付いた頃、タリムの光線乱れ撃ちがユカを襲った。
 ユカも同等の攻撃で応じようとしたものの、エネルギー残量が低下し、もはや光線を連射できなくなっていた。久々の戦闘により、ペース配分を忘れていたのだ。タリムの光線は次々と当たり、形勢は大きくタリムに傾いた。
 未明の新宿駅、東南口広場。
 タリムは木の残骸に体を預け、肩で息をしている。タリムは片手を失っていた。
 ユカは片手しか残っていなかった。顔も三分の一ほど無くなっていた。
 タリムは動くことができない。エネルギーを使いすぎた。動力機構も過熱している。
 十メートルぐらい先からは、ユカが片手の指だけを使い、芋虫みたいに這って来る。
 が、三メートル程度進むのが限界であったようだ。ユカは静かになった。片方の目に灯っていた光も消え、完全に停止した。
 やがて、東の空が明るくなり始めた。 
「無残に壊れたな。僕の体も……。ちくしょう……。こいつの……。こいつのせいで……」
 タリムはのろのろと近付いた。ユカを粉々に踏み潰してやろうと思っていた。
 ――と、ユカの目に光が再点灯した。
 エネルギーを僅かに残して自ら停止。時間をおいたのち再起動。事前にプログラムしておいたのだ。懐中電灯が切れそうな時にしばらく休ませると、少し持ち直す。同じ効果を狙ったのである。
「なんだと……!?」
「頭はこうやって使う」
 ユカは隻眼から最後の一閃を発射した。タリムの頭が消し飛び、決着がついた。
 
                    Ψ
 
 静かな朝を迎えた。ユカは、廃墟と化した黒いビルに囲まれ、白んでくる空を見ていた。
 ……体が動かない。
 少し休んでいこう。動けるようになったら、山の中にでも這って行き、二千年の眠りにつくのだ。色々な部分が損傷しているから、三〜四千年かかるかもしれない。それでもいい。今はぐっすりと眠りたい。
 ……あれは、何だろう。
 上空に影が浮かんでいる。
 翼が生えた人間の影だ。
 六人いる。
 ユカは自分の運命を理解した。
 ……ああ。そうか。
 私は死ぬんだな。残念だな。
 けれど、分かっていたはずだわ。
 二度までもユウイチを失った時、私は分かったんだ。私にはいつも苦しみが残されるということを。なぜ奪われる? なぜそしられる? それでもなぜ生きている? 問いは終わらない。私は、答えのない苦しみの中でもがく。苦しみ続ける者。苦しみと対座する者。物言わぬ神の像の前で祈り続ける者。それが私。
 六人の天使≠フみんな。あなたたちは復讐のために生きると言う。
 私は、苦しみのために。
 空が明度を増したように見えた。
「ざ……。残念だわ」
 ユカは呟いた。
 光が彼女を包んだ。
 
(終)
(0805)
 
 







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