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【春はお遊び】


 保健所で麻酔から醒めた野良犬や野良猫が動き出すみたいに、教室は賑やかだ。
 本日の授業が終わったところである。
 ここは、とある田舎町の、とある公立高校の、ごく普通のクラスである。
 そして、気配を感じさせることもなく「2−5」の看板の下を出て行くメガネ男子であるが、彼は平凡というより静かすぎる生徒である。この町での二度目の桜の季節が訪れても、ヒロトの影はマイナーなモブキャラと同じぐらい薄いままであった。
「おっと! 悪い」
 ヒロトにぶつかってきた生徒は直也である。性格も行動もまっすぐな直也は、つねに勢いをもてあましている感がある。ヒロトとは対照的な人種といってよいが、席が近いという理由で入学時からの友達だった。ヒロトの少ない友達の一人が一緒なのは幸運であり、今年も体育会由来の暑苦しい根性論を語られるのかと思うと不運である。
「今日は急いでんだ。部活休みなもんで、梓(あずさ)と待ち合わせなんだよ。じゃあな!」
 訊いてもいない他クラスの彼女の名前を出し、直也は駆けて行った。
 昇降口の狭い四角から外に出る生徒の群れは、いっせいに巣から出発する働き蜂のようである。外には春らしい青空が広がり、校庭の桜も満開だ。
 桜には良い印象がない。ヒロトの家は転勤族なので、桜の花は昔から別れの象徴となってきた。なぜか学校というのはどこかに桜が植えてあるもので、ヒロトは父の転勤のたびにいろんな場所の桜を見てきた。世の中に花は数あれど、桜だけがあれほど無闇な開花を行ってくれるのはどういうわけだろう。葉や枝はもちろん、幹さえも隠れるほどに花開いてみせる。まるで、わたあめじゃないか。ゲームで言えば「チート」とも言える咲きっぷりだ。人を馬鹿にしているとしか思えない。というわけで、桜の時期になると世界の空気全体がゲンナリするような気がするヒロトなのである。
 が、今年に限ってはそうでもない。
 十メートルほど先を歩いている女子たちの中に、七条寺(ななじょうじ)かれんの姿が見えたからだ。かれんについては、直也とは違って、「間違いなく幸運」と断定できる。自分を弁えているヒロトは、かれんと交流を持ちたいなどという願望を決して抱かぬようにしていた。学年指折りの美少女を高校生活で二年間も横目で見れる。それだけで幸せというのが偽らざるところだった。だいたい、「かれんとはなす」「かれんとつきあう」なんていうコマンドはヒロトの世界に元から存在していなかった。
 とにかく、かれんの白い横顔や黒い長髪が春の空気を浴びて桜色を帯びる様子を目にしたら、あまりに美しくてヒロトは言葉も出ず、表情すら変わらないのであった。そんな自分にあとで気がつき、マヌケに笑うほかなかった。そしてヒロトは、こんな自分を嫌いでもなく好きでもなかった。要は普通である。陸上部で全国出場を狙う直也とか、学年のヒロインの一人であるかれんとか、華のある生徒たちが主演で学園青春ドラマが撮影されるとしたら、ヒロトは一秒前後で画面の隅を横切るエキストラにとどまるであろう。それでもエンドロールには名前がクレジットされるわけだから、まあいいかと思うわけである。
 校門を出て暫く経った。
 かれんはまだ前を歩いていて、しかも一人で歩いていた。
 ヒロトは、落ち着いて状況整理に努めた。一つ、今頃かれんさんに気付いたのは、僕がいつも下を向いて歩いているからだろうってこと。一つ、僕は自分の帰る方に帰っているだけで、かれんさんをストーキングしてるわけじゃないってこと。
 ……って、あれ?
 ここ、違うじゃん。
 この道、いつも僕が帰ってる道じゃないよ。
 どうやら迷っていたらしい。おかしなこともあるものだ。学校から駅までは殆ど一本道で、曲がるのは一回しかないはずだった。下を向いていたって駅に着けるはずなのだけど。ということは、あそこで曲がるのを忘れたのだろうか?
 ヒロトは辺りを見回してみた。時計回りに、雑木林・無名の山々・薄暗い神社・向こうには小さなトンネル。
「あーあ。迷いました」
 とヒロトは呟いた。最近は自分が方向オンチだということを忘れかけていたのだが、人工物に乏しく、自然な凹凸地形に富むド田舎の町を甘く見てはいけない。曲がり角を一つ間違えるだけで、見たこともない景色が現れた。それは今日見る夢と明日見る夢が違うのとおなじぐらい違った。どうやったらいつもの道に出られるだろうか。ヒロトが思案に暮れる間に、小さなトンネルの中へ、更に小さなかれんの姿が吸い込まれつつあった。
 ヒロトは後を追い掛けた。トンネルをくぐれば駅の近くに出られるかもしれないと思ったからだ。かれんをストーキングするのが目的ではない。だいたい、かれんをストーキングして深い仲になるように強要したりできる性格であれば、一年生のうちに一度ぐらいはかれんと会話しているだろう。もっとも、トンネルという頻出ミステリアスプレイスを二人ともくぐることによって、二人しか入れない異世界に迷い込んだり、明日から二人の距離が急に縮まったりする超展開を期待していないと言ったら、ヒロトは一般高校生が抱くに相応しい誇大妄想さえ抱かない異常者だということになろう。だがヒロトは、そうした超展開に期待しつつ実際には何も起きないだろう未来を同時に弁えるという、まったく地味至極なキャラでもある。こうして彼は常に精神の平坦を持続しているのだ。
 それに、このトンネルは、日常と非日常を隔てる道具立てとしては不完全すぎる。長さは十メートルもないだろうか。くぐる前から向こうの町並みが見えている。興醒めというしかない。
 まてよ? 学校の近くにあんな町があったかな?
 トンネルをくぐったら、でかい土蔵があった。今は使われていないようだ。
 落ちかかってきそうな古い塗り壁。そこに、トンネルをくぐる前から見えていた、町の景色が描いてある。なかなかに精巧で、なかなかに破天荒。うちの町には高層ビルは一本しかないもんな。
 トンネル側の石壁と土蔵の塗り壁とが対面し、路地を形作っている。かれんの制服の端っこが、路地の突き当りを曲がった。ヒロトは土蔵の壁に手をついて立っていたが、そこに立っていると自分も絵の一部になりそうな錯覚がしたので、ゆっくり先を急いだ。
 開けた場所に出た。
 小高い丘があった。町の壁画を鑑賞している間にずいぶん時間が過ぎたらしい。丘の方向から流れてくる桜の花びらが灰色に見えるほど、太陽光のスペクトルが偏る時間帯になったようだ。
 丘を登って行くかれんの制服姿も、透き通ったような濁ったような色に見えた。煙のかたまりみたいに音もなく登って行った。かれんは、丘のてっぺんにあるお堂の影に消えた。
「……」
 ヒロトはその場でじっと眺めている。丘の右にあった夕焼け雲が、溶けながら左まで流れた。お堂の黒いシルエットはしいんと静まり返ったままだった。さく、さくとヒロトは丘の上を目指した。
 お堂。
 ……と言うには小さすぎる建物だ。小屋と呼んだほうがよい。人ひとり入れるだろうか? 微妙である。崩壊寸前の木組みをトタンで固めてある。ほこらに見えないこともないし、足が取れた百葉箱みたいでもあるし、ホームレスの豪華住居と言われても納得できる。不気味な小屋であるのは確かだ。
 ズ、ズー。
 木のこすれる不快な音がした。小屋の小窓が開いた。と言っても、せいぜい柴犬までしかくぐれない犬小屋と同サイズな小窓である。そこから少女がすべり出て、向こうへすたすた去っていく。ヒロトの気配に遅れて気付き、やけに素早く振り返る。ヒロトも非常に気まずくて、どうしようかと思ってるうちに、やっぱり寸分も表情は動かず。
 あれ……?
 意外だった。そこに居たのは、かれんではない。別の女の子である。誰だっただろう……? 二人して立ちほうけていると、女の子の髪型がもさもさと変わりだし、縦巻きロングのゴージャスなお姫様髪になった。女の子はヒロトを見詰めて顔を真っ赤にした。
「松井さん……?」
 顔と髪型が揃って初めて確信。直也の彼女・松井梓である。同性異性の別なく友達が少ないヒロトであるが、直也とのつながりで話したことはある。その時、の携帯電話がけたたましく鳴った。
「出た、ら……?」
 ヒロトは何歩か後退し、彼が得意とする状況分析を開始した。論点は一つしかない。さっきのことである。髪の毛がひとりでにくるくると巻きだして、梓の髪型になったっていうこと。そして、いま電話しながらこっちをチラ見している梓の髪が、いつもの栗色に変わりつつあること。じゃあ、そうなる前は? 小屋から出て来た時は?
 空気の桜色が程よく染みた、黒のロング、ストレート。
「少し遅れそう。待ってて。うん。悪いね、直也」
 は電話を終え、ヒロトの顔を見た。
 ヒロトは、どう見積もっても二人は入れないオンボロ小屋を見た。
「……」
 は無言で再び小屋の中に入った。
 しばらく経ったら、かれんが出て来た。小脇には木の化粧箱を抱えていた。
「重大なことがいくつもばれましたね」
 クラスで浮かべている微笑みをたたえ、かれんは呟いた。
 ヒロトにとって、かれんとの初会話は、異様にエキセントリックな場面から始まった。
「すみません。ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「いや、なんか見ちゃいけないところを見たっていいますか、でもその、覗こうと思ったわけじゃないんですが、でものぞいたんですけど、とにかく、すいません」
 この間ヒロトは六回も頭を下げた。
「あなたの思っている通りでいいですよ」
 音もなく桜が散り続けるみたいな、もろにヒロト好みの抑揚でかれんは喋った。こんな声を聞けるんなら一年前に話し掛けていたのに、とヒロトは思ったほどだ。思うだけならタダだしね……。
「わたしはツチカガミ≠ニいいます。この祠に昔から住む妖怪です。特技は顔を変えること。七条寺かれんと松井梓、わたしは二つの顔を持っています」
 かれんは細長い化粧箱を開けた。中は三つに仕切られていて、そのうちの二つには木のお面が収まっていた。お面の一つには「松井梓」と筆書きされており、もう一つのお面には何も書かれていない。
「お面を着用すると、そこに名前を書かれている人間に化けることができます。今は七条寺かれんのお面を着用したわけです。七条寺かれんは、わたしが創作した架空の人物なのですが、わたしは昔から大抵そのお面で生活してきました。だから、わたしにとっては実在の人物のようなものです」
 また、松井梓のお面についてはこうだった。かれんは、というかツチカガミは、何年か前に松井梓と知り合い、気心の知れた仲になった。以来、二つ目のお面には松井梓の名前を書き、梓が忙しいときにはかれんが梓の代わりをしているそうだ。今日も梓として出掛けようとしていたところを、ヒロトが見付けたというわけであった。
 三つ目の無記名のお面は、ほかの二つが壊れたりしたときのスペアだそうだ。
「ちなみに、妖怪と言っても無害です。秘密を知ったあなたが誰かにばらしたとしても、あなたを祟り殺す力などありません」
「ば、ばらしたりしないですよ。僕は」
 ヒロトは即答する。頭蓋骨の中がぐつぐつと煮えたぎり、言葉は何も浮かんでこないのだが、勝手に口は動くから困った。もっとも、七条寺さんじゃなくて松井さんのままだったら、もっと冷静かつ理性的に応対できたんだろうな、と推測する程度には思考の余地はある。
「ばらさない? どうしてですか。信じられないから? あなたの目は、信じていない目ではありません。驚きで過熱していますが、熱が冷めれば、きっと真実として……」
「その通りです。僕が見たことは真実だと思います。けど、でも、秘密をばらすことはないんです」
 ヒロトは感じた。
 ……やばい。なんでか知らないけど、声が大きいぞ。
「なぜ、そう言い切れるんですか?」
「それは……」
 ……パチンコ屋のいきなり座った台で、7が二つ揃ってるようなもんだな。あと一つのリールは自分で止めろ、と……。だけど僕は、ギャンブルは好きじゃない。地味な暮らしを送りたい。自分の性格を考えれば分かるじゃないか。
 なのに、三つ目のボタンに手が掛かっているのは、どういうわけですか。
「七条寺さんが好きだったから」
 さようなら、今までの僕。後悔&バッドエンド決定。ごめんなさい、ほんとにごめんなさい。僕キモいです。認めます。
「そうですか」
 雨に降られて白っぽくなった桜のように淡い顔色をして、かれんは呟いた。
「納得したことにします。そう言ってくれたあなたには敬意を表したい。わたしのパートナーになってみますか?」
「そうですよね、ごめんなさい。すいません。今の間違いで、その……。え?」
「その代わり、秘密はばらさないで下さいね。わたしはあなたを、心から信じましたから」
 かれんは微笑を浮かべて立ち去った。その時、ヒロトはがっかりしただろうか? 卒業式までの間に一度しか見せないような満面の笑顔を見せてほしいとか、そうじゃないと単純な男子高校生の心は掴めないなどと、不満だっただろうか。
 違うさ。
 控えめな色が、桜のいいところなんだから。
 
                    Ψ
 
 五月末。並木の桜の葉は、みずみずしい若緑の時期を過ぎて真緑色に固まりつつある。昼の時間も長くなり、最近は夜の寸前までは昼という感覚がある。木々の葉っぱにビカビカと太陽が当たって目に痛い。ヒロトのようにメガネを掛けていると、レンズの枠にまで光が反射してしまう。こういう要因もヒロトがインドア派になった理由の一つかもしれない。ヒロトの体には強い光が馴染まない。太陽の日差しに限ったことではなく、たくさんの人間がワイワイやっているときの笑顔の「眩しさ」とか、話術を駆使して場を盛り上げようと努力する人の「勢い」みたいなものも含まれる。そう考えると、どうも集団というものが馴染まないのである。
 だからヒロト自身が進んで集団に入って行くことはまずないわけであり、放課後に十人近くで集団下校している中にヒロトの姿があるのは、その集団の一員である直也に引っ張って来られたせいと思っていいだろう。直也はとても元気で率直な男だから、友達は多いし活動的だし責任感も強い。彼女の松井梓には頭が上がらないが、部活のない日になると必ず一緒に帰っている。
「直也ー。待ってたよー」
 ちょうど校門の前に松井梓の姿。彼女もまんざらでもないようだ。下校集団は十人になるが、ヒロトは、クラスの延長のようなこの時間が早く終わってくれないものかと思っていた。もちろん、直也の誘いを断らずについて来た自分は悪い。しかし、他人の意見に逆らわないことによってその場をやり過ごす自分の性格を知っているから、ヒロトは自分を責めはしない。いつものように俯いて歩きながら、名も知らぬ前方のグループをぼんやり見ていると、「誰々の彼女がどうした」みたいな話が始まった。
 ヒロトは自分の彼女であるかれんのことを思い出した。
 かれんとは普通である。関係は良くはないが、悪くもない。デートをすれば気弱な自分が喋る前に行き先を決めてくれるし、日常的に大事件を経験しているわけでもない自分の茫洋とした話を、微笑みながら聞き続けてくれる。
 かれんはさり気ないふうを装いながら、つまらない人間であるヒロトのつまらなさが表れないような努力を払っている気がした。
 そう考えれば、関係は良好と言い切るべきかもしれない。
 しかしヒロトは常にどことないやましさを禁じ得なかった。その理由をうまく説明することもできない。
「あいつは七条寺に目をつけてるらしいよ」
 前方グループの誰かが言った。ヒロトは集団の靴音に紛らせて呟いた。その七条寺さんの彼氏はこの僕ですよ、と。
 この前までなら自分に彼女が居るなんて想像もしなかったろう。それも、クラス有数の倍率を誇るかれんが彼女になるなんていうことは。所詮正体は妖怪ではないかという指摘もあるかもしれないが、かれんを好きな男どもは彼女が妖怪だということさえ気が付く由もないのだ。それに、若い男なんていうのは、見た目が良ければ全人格もよしとしてしまうものでもある。
 しかも、かれんは性格も喋り方も歩くペースに至るまでも、僕の理想にピッタリなのだ。
 正直、「妖怪って何?」という感じだ。
 そうさ。僕は満足してる。かれんには一つの欠点もないんだよ……。
 
                    Ψ
 
 ヒロトを最後尾にして下校集団はK駅に入った。電車が近付くときだけ駅員が出てくる改札をくぐり、みんなはホームに出て行った。ヒロトは改札で定期を出し掛け、思い出したように言った。
「ごめん。忘れ物」
「学校か? ドジだなあ」
 直也と梓は既に改札の向こうである。
 二両編成の電車が滑り込んで来た。
「じゃ、先に帰るぜ。また明日な」
「うん。じゃあね」
 ヒロトは改札越しに電車を見送った。そして、そのまま改札前の椅子に腰を下ろして待った。電車が何本か行き交った。
 空には星が輝き始めた。
 かれんが改札をくぐり、ヒロトの傍まで来た。
「今日はデートの約束はしていませんでしたよね? 準備に少し手間取ってしまいました。お呼びですか」
「ごめん。……突然呼んで、ごめん」
 ヒロトは目を伏せた。
「いえ。ヒロトさんを非難するつもりでは」
 かれんはお辞儀して隣に座った。
「あっちの駅からトンボ帰りして来たんです。今日は両方持って来ていましたから。こっちが松井梓の時のもの」
「ああ。今日の松井さんは、きみだったのか」
「ええ。本人はA市まで買い物に。いわゆるズル休みですね」
 かれんはバッグから木彫りのお面を取り出した。額部分に「松井梓」と書いてあるだけの、ノッペラボーなお面。
「気になりますか? わたしが松井梓も演じているということ」
「い、いや! 別に、気にならないよ」
 ヒロトは心にもない答えをした。かれんを責めまいとして。
 別の言い方をすれば、かれんの前で格好をつけようとして。
 しかし、実はまさに気になっていたことであった。ヒロトの前では七条寺かれん。直也の前では松井梓。両方の彼女を巧みに演じ分け、いわば公然二股。付き合い始めた時期こそ突っ込まないでいたけれど、今のヒロトは、かれんを自分だけのものにしたくなっていた。かれんが梓に化けて直也の彼女をやっているのが気に入らなかったのだった。
 話が切れないように、ヒロトは姑息に努力してみた。
「さっきまでは松井梓≠フお面を?」
「ええ、そうです」
「今は七条寺かれん≠フお面を」
「ええ、そうです」
 かれんは短く答えたきりであった。このまま時間が経って終電が行ってしまっても、無言でヒロトの言葉を待っていそうな落ち着き具合であり、珍しくヒロトはかれんに苛立ちを覚えた。もちろん即座に、「何の取り柄もない地味な僕がかれんに苛立つなんて、増長するのも大概にするべきだ」という反省を覚えたので、苛立ちはヒロトの中では無いものとして扱われた。それはちょうど、意外に強い五月の紫外線が、目に見えないし暑くもないという理由で意識されないことにも似ていた。
 ヒロトは不自然に明るい様子で訊いた。
「あのさ、どうしてお面を二つ持ち歩いているの?」
「梓で居るときに、かれんに変わる必要が出てくるかもしれないから」
 かれんはヒロトの様子を映す鏡みたいな表情で答えた。
「ところで、わたしが死ななければいけなくなる二つの場合は、お話ししてありますよね」
固着化≠ノついては、先日のデートの時に聞かせられていた。一つのお面を二十四時間以上つけていると、固着化≠ニいう現象が起こり、ツチカガミの本体の方がお面に吸い取られてしまうということ。妖怪の使用する道具だから、その程度の異能があることは疑わない。
「二つの面をローテーションすることで、固着化≠防止したいという意図は、もちろんあります」
 かれんは立ち上がった。ヒロトの目の前に、形の良い胸の膨らみがある。かれんの立ち姿の背景には、ホームへの連絡口があり、暗い空には星が覗くのであった。手を伸ばしたら抱き寄せられそうだったが、ヒロトの性格なので黙って見ているだけである。お面を変えると制服のサイズや身長も一緒に変わるのかなあ、などと考えつつ。
「けれど、二つ持ち歩いている一番の理由は、急なリクエストにお答えできるようにしたいから、なんですよ。ツチカガミが化ける人間には、必ずパートナーが居ます。ツチカガミはパートナーの色に染まって生きる習性があるんです。それぞれのパートナーの満足が、あたしの生きるエネルギーになります。わたしは皆さんに生かされています。わたしのお面は、『そのパートナーだけに尽くします』という制約にして誓約。今のわたしのパートナーは、あなたです」
 つまり、この笑顔は僕以外には見せませんよ、ということか。なるほど。ヒロトは思考力が散漫になるのを気持ちいいほどに感じつつ、内心で呟いた。散漫な思考のついでに、考えはさっきのかれんの言葉にも漂着した。
 そういえば、死んでしまう「二つの場合」って何だろう。二つなんて、あったかな。固着化≠フことしか聞いてなかった気がするけど。
「もう一つの場合ですか? 言っていなかったですか。ごめんなさい。最初に念を押したつもりだったので、きちんと説明したものと思ってしまいました。――決まっているじゃないですか。こういうお話の王道です。わたしの秘密を喋ること。これでも固着化≠ェ起きるんですよ」
 かれんは何故かニコリと笑った。「あなたが喋るなんて、あるわけないですもん」と言っているようでもあり、「あなたがきっと喋るのは分かってるんですよ」と言っているようでもある。だが、やわらかい春と厳しい夏を半分ずつ混ぜ合わせたようなこの微笑みを一人占めしたいという理由だけでも、秘密を喋らない動機としては充分だ。ヒロトはそう思う。
「今日は帰ります。ヒロトさん、また会いましょう」
 彼女らしい礼儀正しさで丁重に一礼し、かれんは駅舎から出て行った。
 不思議なことに、ヒロトはかれんが去ると大きな気分の落ち込みを感じた。無人駅の静けさの中に思考を墨のように流してみると、この気分はかれんと親しくなってからずっと引っ掛かっているもののような気がしてきた。何というか、満開の桜の下で飲めや歌えの宴会に興じていた男が、朝起きてみると桜の花など一輪も咲いていなくて、「ああそうだ。今は冬だ。おれは酔っ払って、枯れ木の下で眠ってしまったんだ」と気付くような、ひどい肩すかし感。
 そして、寂寥感。
 こういう時には思い切って叫んだりしてモヤモヤを晴らしたくなった。が、そんな直也みたいなことができるほど神経が図太くはなかった。
「おやぁ、うちのクラスのヒロト君じゃないか。いま帰り?」
 元気良く駅に入って来たのは上杉里美(うえすぎ さとみ)である。誰にでも明るく接するクラスのムードメーカーだが、意外にも部活はインドアの文芸部というギャップの持ち主だ。とは言え、文芸部では中心的存在であるらしく、今日も部誌の原稿を上げるために部室に籠もっていたらしい。
「そこで七条寺かれんちゃんに会ったよ。あの子の家って、ここらへんだったかな。あー、もしかして、君と会ってたのかな?」
 なかなか勘の鋭い人である。しかし里美は元来カラッとしているうえに現在は別の悩みに気を取られているようで、それ以上の追求はせずヒロトの隣に腰掛けた。すると、完全に一人の世界に入ってしまったかのような様子になり、ウェーブのかかった長髪をしだき上げた。
「あー! 困った。実質的文芸部長であるこの上杉里美さん十六歳六ヶ月、今年最大のピンチだわ。他の部員は全員順調に下書きを進めているのに、あたしだけノルマ分を書き上げてないのよ。まあ部誌に載る二十作品中十一本はあたしのペンになる予定だけど。今日が第一次の締め切りなのに、どうしてもあと一本ができないんだよー。上杉里美さんネタ枯渇であります。こうなったら明日だよ。明日の朝までには絶対に持っていかないと。部誌の全体計画が狂っちゃうわ。困ったなあ、大いに困った」
 里美はふと頭を抱えるのをやめ、じーっとヒロトを見た。
「ヒロト君、なんかネタないかなぁ? あたしは小説のネタになりそうな話を緊急募集中であります。溺れるあたしはあなたを掴む。お礼は弾むよ、なんかない?」
 なんかないも何も……とヒロトは思った。今あなたが無遠慮に腰掛けているその席、さっきまで妖怪が座ってたんですけど。
 しかしヒロトは、終始目を見て話し掛けてくる里美を見るふうを装い、見ないようにする努力に力を注いでいたので、何かを言う余裕はなかった。里美はそんなヒロトを観察し、
「おっ!」
 と一声あげて手を打ち鳴らした。
「ていうかさ、あたし、もしかして場違いじゃないかな。だってさ、もしかしてキミ、今のあたし以上に、悩んでいませんか? 心が隣の駅に行っちまってるような目をしておりますねえ。君は何か心配なことがあるのかな? 何に悩んでいるのですか少年。あたしがもれなくズバズバと悩みを切り刻んであげるよー。ただし面白い悩みなら小説に使うかもしれないけど、ウフフフ。その時は個人が特定されないように素材を加工するから大丈夫よ? それで、何の悩みなの? 聞かせて聞かせて。客観的な立場から意見を言われることって大事よ」
「……」
 ヒロトは黙っていた。ウェーブがかったロングヘアを利用してヘッドバンギングしていた青い顔はどこへ行ったのか、今の里美の顔ときたら、栄養ドリンク三本を一気に補給したかのように茜色が差している。この切り換えのスムーズさと勢いに同調していると、スルリと悩みを吸い上げられてしまうような気がする。その証拠にヒロトは格好のネタを提供してやろうかなとさえ一旦考えた。しかし口を閉じたままでいることができた。かれんの秘密は誰にも言わないと誓ったはずだ。いや、誓うというほど厳粛な思いだったかどうかは正直怪しいけど。
「なるほど。別に悩みは無いかな? それとも、あるけどあたしなんかには言えないか。いーや、いいんだよ、フォローしようとしなくて。いくら切羽詰まってるからって、あんまり話したことない人から深い話を聞き出そうなんて、あたしが完璧にマナー違反だからね。や、今のは忘れてくれ。あたしが悪かった」
 里美は大輪のヒマワリみたいな笑顔でヒロトの肩を軽く叩いた。が、ヒロトの隣からすぐに大きな溜め息が聞こえてくるあたり、里美はいよいよガッカリしたらしい。そして、いつからかこの場所は里美の悩みを聞く場に変わるのだ。
「なあ、ヒロト君さあ、キミは直也と友達だよな。だったら、こないだまであたしが陸上部に居たこと知ってるかな」
「いえ、初めて聞きました」
「正しくは陸上部と文芸部の掛け持ちなんだけどね。あたしはどっちかというと陸上の方を頑張ってたんだよね。これでも中学の時は中距離で県大会上位だったんだよ。どころがですよ、高校に入ってみるとバケモノみたいに走れる子が居るわけなんだよな。相手を褒めるのは嫌だから名前は言わないけどね。足の速さはさあ、体の問題だから、どうにもならないんだよ。というか、そう理由つけて納得できるぐらいまで、あたしだってトレーニングしたってことさ。高校で伸びる子にはかなわないよねえ。体力の限界! 気力もなくなり、退部することにしました。あたしは文芸部一本でいくことにしたのよ。頭で勝負する文芸部なら、体の陸上部とは違って、どこまでも伸びて行ける気がしたからね。なのに、文芸部一本に専念した矢先から、才能の限界が目の前にちらつく日々さ。だけどね、あたしはここで二度目の挫折を味わうわけにはいかないんだねえ。それは、二度目の挫折だって認めてしまったら、一度目の挫折だって存在していたことが確定してしまって、つまり最悪の結末だもんね。だけど『陸上やめて良かったな』って思えるくらいに文芸部でうまくやれたら、あたしが文芸部一本に専念した価値は絶対にあるってことだし、それはいい結末だよね。そうなるといいなって思っているよ」
「感動しました」
 ヒロトは地味に感動したので、それを隠すために無感情な声で言った。
 やはり里美がクラスの人気者なのは納得である。たぶん喜怒哀楽の表出が素直なところがいいのだろう。ヒロトとは反対である。きっと陸上部も円満退部できたんだろう。ヒロトだったら角が立つ自信がある。
 というか、自分の能力を信頼するとか前向きな未来を期待するとかいうところがヒロトにとっては想像を絶している。こういう人を前にすると、クラスの背景の一部分に留まる生活を享受するというヒロトの信念が、ぐらぐらと揺らぎだす。もう忘れた遠い昔には自分も里美みたいな感情を持っていたのだろうか? ヒロトは自問する。頭のてっぺんから足の先まで多数決が取られ、即答が返って来る。「ありえないよ」。そのあとで、体の中の少数派がヒロトの口を借り、なんとか一つ溜め息。
「きれいな星だねぇ。ドがつく田舎ならではの景観だー」
 里美は立ち上がった。
「ヒロト君。ここって不思議な町だよねえ」
「何がですか?」
「パッと見、ただのド田舎だけど、中は相当ハイテクだもん。ハイテクって死語かな? ひとことで言ってみるなら、ド田舎がド田舎のまま二十一世紀まで続いたおかげで、中身だけ二十一世紀化しているって感じかねえ。これは文化人類学の領域かな? 家とか町とか道路とか、見掛けは山の真っ只中の田舎町なんだけど、あたしたちも含めて町の人間は二十一世紀人なんだよね。ネットとか携帯とかパソコンとか、工場では作業用ロボットとか、町の中はハイテクで溢れ返ってる。これは新しい時代の田舎町だよ。そう思わない?」
「奇妙なこと考えるんですね。昔からタイムスリップして来た人みたいだね」
「文芸部は目のつけどころが変なんだよ。変なところから見た景色を書くのが仕事の一つさ。……そうだよ! あたしバカだー。部室に籠もってシャーペンくわえてたって、ネタは出てこないじゃない! もっと外を歩いてみるべきだったんだわ! 外には刺激がいっぱいあるんだもん!」
 里美はとびきり嬉しそうな顔をしている。きっと今、彼女の中ではニューロンのネットワークがわさわさと発達中なのであろう。
「素材になりそうなものは沢山あるわ。この駅が実は銀河鉄道のステーションになってるとか、駅員が実はロボットだとか、でも何のロボットなんだろう……? うんうん、いい着想が湧いて来そうよ〜、ちょっと待ってね〜!」
 里美はビタリと椅子に座り込んでしまった。
 ネタが浮かぶまでここで粘ろうという算段だろうか?
「あのさあ、上杉さん」
 ヒロトは無自覚に口にした。気付いたらそれを言ってしまっていた。しかも、当然の展開であるかのようにだ。
「ちょっとした場所があるんだけど、行ってみる?」
 里美が飛び付いたのは言うまでもなかった。
 
                    Ψ
 
 しかし、駅を少しばかり離れてみると暗すぎて何も分からないという有様だ。人工物が極端に少ない風景は、学校あたりまで続いていた気がする。駅のあっち側であれば、町の中心部なので、それなりに栄えているのだが。こういう落差は、田舎町にはありふれている。
 ヒロトは今さら激しく後悔している。あのお堂に行ってみたとしても、里美が喜ぶだけのものがあるかどうか分からないではないか。
 だが、ヒロトが知っている中で里美の期待を満たせそうな場所といえば、あそこしか思い当たらなかった。たぶん大いに満足してもらえるだろう、という無根拠な自信も持っていた。自分が人のために動くとは珍しいなと思わずには居られなかったが、里美をあの場所に案内したいと思っていたのも事実だった。
 一つだけ不安定な要素がある。それは、かれんの秘密を見た時以来、あのお堂には行ったことがないということである。正確に言うと、恋人らしく理由もなくかれんと会いたくなるときがあり、何回も行こうとしたのだけれど、お堂のある丘も、丘へと続くトンネルも見付けられなかった。だから、今日だって行けるかどうか分からないし、仮に行けたとしても、里美と一緒にお堂に居るところをかれんに見られでもしたら、あらぬ誤解を招きかねない。
 それでも、行くよ。
 ヒロトの決意は固かった。これは勇気ではなく、暴走という類の行動だとは勘付いていた。
 しかしなぜか、暴走行為の果てに、はっきりとした何かを掴めるかもしれないという予感はあった。いや、予感というより、願望か。
 ……今年の僕は、手に負えない何かに化かされているような気がする。だって、そうじゃないか? クラス背景の一ピースである自分に彼女ができるとか、それが前から気になってた七条寺かれんだとか、しかもかれんは妖怪? 僕は確かに何かに化かされて、作り込まれた蜃気楼の中をさまよっている。
 こんなにほんわかした、夢みたいな蜃気楼を見せてくるものの見当はついている。
 その途方もない相手は、この季節。つまり、春だ。
 僕は春という季節の奥を覗いてみたいんだと思う。色とりどりの花を咲かせて幻惑し、ぼんやりした霞で空気を曖昧なものに化してしまう、春の真の姿を。
 だけど、どうして今なのか? 
 その答えは簡単。
 そろそろ今年の春も終わりに近付いているからさ。
 果たして、あっけなくトンネルは見付かった。
 
                    Ψ
 
「こんな所にトンネルかぁ。上は電車のレール?」
「知りません。見せたい場所はこの奥にあります。足元に気を付けて」
 ヒロトは率先して暗がりへと進んで行った。
 ……。
 どうも、長くないか?
「すっごい長いやねえ」
 里美の声が、ぐわらんぐわらんと反響した。長いと思っているのは、ヒロトの気のせいじゃないらしい。二人とも足がすくんで、ゼンマイ人形みたいにしか歩けなくなっているなら別だが。
「オバケでも出そうだねえ。ずーっと昔からトンネルに住んでるオバケ。この素材はどうかな?」
「僕だったら、トンネルの向こうにお化けの住みかがあるって設定にしますかねぇ。そのお化けは、人間になりすまして学校に通っていたりするんです」
「なるほど? そう設定するメリットは? 小説にとっての」
「別に無いですよ。ただ、事実だっていうだけです」
「事実って、なにさ?」
「すみません。冗談です。言ってみただけです」
「だったら、わたしにとってのメリットは?」
 ヒロトは冷や水を浴びせられる思いがした。
「かれん! ……」
 ちょうどトンネルを抜けた。
「上杉里美」と書いたお面をかざした少女が、星明かりの下に立っている。そのお面は、小屋で見た三つ目のお面だろう。あの時は名前は書かれていなかった。お面を捨てると、まぎれもないかれんの姿が現れた。
「ヒロトさん。わたしの秘密を口にしましたね」
 かれんはさっきと同じように、白とも黒ともつかない笑顔を浮かべた。しかし今のヒロトには、さっきの笑みが白と黒のどちらであったのか断言できる。
 ヒロトは落ち着き払うフリをするぐらいしか選択肢が無かった。逮捕された犯罪者はどうして容疑を否認してみせることがあるのだろうと不思議に思うことがあったが、それは否認してみなきゃ放免される確率がゼロだからに違いない。たった今理解した。
「おかしくないか? 腑に落ちないところがある。これは誘導尋問なんじゃない? 本当の上杉さんだったら、こういう流れになったかどうかは分からないよ」
「上杉さんには無断で、彼女のキャラクターを借用しました。しかし、既存の人物の名を記したお面は、モデル人物の人格を完全に転写するのです。また、無意識のうちに秘密を口にするということは、最大級にその人物を受け入れていたという証」
 わざとか偶然かは知らないが、かれんは「上杉里美」のお面をガサリと踏みしだき、丘のお堂に向かって歩き出した。チラリと振り返ったときの目が、あまりに怖ろしい感じがしたので、ヒロトは底引き網に引きずられる死魚のようについて行くのであった。
「パートナーの心模様を微細なレベルで感じ取れなければツチカガミとは言えません。あなたがわたしに釈然としない思いを抱いていることは感じていました。わたしは心苦しかった」
 かれんはお堂の下に腰掛けている。お堂の影に飲み込まれて、あまり良く見えない。
「各時点でのパートナーの潜在的期待を満たし続けることが、わたしの役目です。あなたがわたしに不満を覚え始めたのなら、不満のはけ口を設けるのはわたしのお仕事。上杉里美に変わることで、あなたの不満を吐き出させたんです」
 言葉一つ一つが浮遊して漂いだすかのような喋り方は、いつものかれんと同じである。
「わたしは力が足りなかったから、あなたの中に不安を目覚めさせてしまいました。だけど、あなたがわたし≠ノ秘密を話したことは良かったです。わたしはあなたの言葉の一つさえも他人のものにさせたくはなかったです。わたし自身への期待もありました。他人ではなくわたし≠ノ秘密を喋ってくれるならば、セーフ≠ネのではないかと」
 そう言った矢先、かれんは崩れ落ちた。あお向けなのかうつ伏せなのかも判別しかねる黒い影が、べったりと広がっていった。
「今日の例はアウト≠セったようです。他人に向かって喋ったようにしか見えない場面でしたので、無理もないでしょうね」
「……かれん」
 ヒロトは見ているだけで何もできなかった。
 お得意の状況分析だけは冴え渡っていた。
 これが固着化≠ニいう現象だろうな。固着化≠ナない可能性は何パーセントくらいだろう。いや、こういう問い返しは、合格者一覧に番号が載っていなかった受験生なんかがよくやる行為で、それ自体が結果を更に揺るぎなくする上塗りだとも言える。それにしても面白いくらいに呆気なく、悪い結果まで流れていったもんだ。そして、不幸が起きるときというのは、だいたいそういうものなんだよなあ! 何処でミスったか、終わってからしか自覚できない。僕はまさに春霞に包まれて、迷わされていたんじゃないのかな。これなのか。僕を化かしていた春ってもんの正体はこれか。冗談じゃない。今までは肌感覚として拒否感を覚えるほどだった春を、もしかしたら今年一気に好きになれるかもしれないと思っていたのに。こんな終わり方じゃ、僕はノルウェーあたりに移住を考えることになる。ノルウェーにだって春はあるのかな。いまいましい。
 情けないよなあ。今ごろ冷静を装って状況分析のフリか。分析を続けてみなよ。この光景を何て分析する? 「かわいかった女の子は、たちまち糞の固まりみたいな姿になってしまいました」とでも言うのかい。かれんをこんな姿にしたのは何処のどなた様だい? そう僕だよ。そしてこの墨の固まりみたいなモノは、僕の映し身なのさ。その呼び名は不幸=Bまたの名を醜悪≠チてところだ。僕は不幸を撒き散らす醜い生き物だ。人畜無害なモブキャラの着ぐるみを被っているだけのね。なんて厚かましい奴なんだろう。こんな奴は消えればいいと思わないか?
 ……さて、ここらへんまででいいですか? 分析は。それでは、お疲れさまでしたー。
 というようなシメの一言を付け加えてこそ、徹底的な分析人間と言えるだろう。
 だけど、今の僕にはそんな気はない。
 どうしてか分からないけど、そういう奴は本当にカッコ悪いと思うからさ。とくにこの場面ではね。だから僕は分析を中断してしまった。妖怪だって最高に可愛かったりするのだから、醜い奴にだってカッコつける機会ぐらいあったっていいだろう。
「かれん、聞こえる?」
 大きな声で叫んだ。
「良かったよ。会えて良かった。かれんの時も、上杉さんの時も、僕は最高に楽しかった……!」
 かれんは、「ありがとう。わたしも」と囁いた。それが最後だった。
 
                    Ψ
 
 翌日の朝、鼻をすすりながら駅から出て来るヒロトの姿があった。
「よう、風邪かー? だらしねえなぁ」
 偶然にヒロトを見付けた直也が、ヒロトの肩を叩いた。隣には松井梓が居る。カップルで登校とはお幸せなことである。
「じゃあ、教室でな」
 エネルギッシュな二人は足早に離れて行く。途中で梓が振り返って、一言ヒロトに叫んだ。
「ヒロト君。七条寺さんから伝言。『死ぬとは言いましたけど、生き返らないとは言っていません』って。何のことかしら? じゃあ、またね」
 ヒロトはタラタラと歩き続けていた。が、その小さい背中からは彼の寸評が聞こえてきそうである。
 さすが妖怪だなあ。まるで春みたいに、何回もやって来るんだ。けど、まあいいさ。
 僕は春が好きだからね。

(終)
(0804)







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