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【メタルマシーン】


1.

 12時45分。フトンと時計とギターケースだけがある部屋で起床。今日は三度寝したようだ。普段より一度多い。
 洗面所で洗顔・うがい・歯磨きその他を済ませる。木の皮のようにくすんだ色をした髪に櫛を通す。にわとりのトサカみたいに寝癖がついてたとしても、たちまち小綺麗にまとまる。短めだからというのもあるだろう。
 12時55分。玄関のチャイムが鳴った。宅配便である。なぜ分かるかというと、うちに来る人間は宅配便会社の配達員しか居ないからだ。
「荒岸(あれきし)さーん、お荷物です」
 二ヶ月に一度の定期便だろう。寝巻きのままドアを開ける。「中に運んで欲しいんだけど」と言うと、配達員は「カップラーメン しお」と書かれたダンボール箱を素早く部屋の中に積み上げた。配達員が怪力なわけではない。箱の中は文字通りカップラーメンしか入ってないからである。今月と来月の食料。配達員にハンコをやって帰すと、箱を開けてみた。やはりカップラーメンしか入っていないな。
 13時00分。学校のセーラー服に着替える。昨日から夏服になった。低血圧で体温が上がりにくいので、紺色のカーディガンを着込む。最近流行のニーハイも履くけれど、流行だから履くわけではなく、体が冷えるのを防止するためだ。
 13時05分。ギターケースを背負い、高校へ。ちなみにこのギターケースだが、バランスの悪いところで結んだ昆布みたいな形状をしている。
 13時33分。クラス着。みんなが一斉にこっちを見る。
「荒岸〜。おまえ〜、また遅刻してるのか」
 担任は出席簿をめくり返し、三分弱のお説教をくれる。息がコーヒー臭い。それに怒り過ぎだ。教頭の昇任試験にでも落ちたのか。ホームルームの最中に来たのは運が悪かったな。わたしは生徒たちとあちこち接触しながら、自分の座席までたどり着く。ホームルームは再開し、生徒たちは正面に向き直り、わたしへの注目もなくなる。さざ波立っていたクラスが、幾何学模様のできそこない程度には整然とした。
 わたしは荒岸アユミ。人間みたいな名前がついているけど、正体はロボットである。わたしは、「わたし」という自称表現をあまり好まない。「わたし」なんて言うと、まるで人間が喋っているみたいなので、なるべく使いたくない。
 わたしはとある大学の極秘研究プロジェクトで開発されたらしい。だから両親は本当の意味での親ではなく、大学の研究施設からわたしを引き取って使役している人間ということになる。わたしが作られた理由を訊いたところ、両親は「家庭の事情」で済ませた。わたしとしては生温い笑みを返して話を終わりにするしかなかった。
 両親はロボットであるわたしに長期間の人間世界滞在を命じた。わたしを人間世界で生活させ、様々なデータを取ることが目的だそうだ。定期的に食料を送ったり口座に小遣いを振り込むのはかれらの仕事である。現在わたしは高校に入れられ、両親が手配したアパートで一人暮らしをしている。なりゆきに従うのはロボットの大原則だろう。両親も含めてのことだが、上の階層のことはわたしには把握しかねる。わたしには環境だけが与えられる。だからその環境で生活する。それが全部である。
 ロボットであるにもかかわらず、わたしにはロボットぽい特徴や性質が無い。悪党たちをなぎ倒す100万馬力のパワーもないし、手持ちのコンピュータから敵の本部システムに侵入し内部破壊するハック能力も持ち合わせていない。つまり、「ただの人間」型ロボットということ……。ああ、一つだけ、能力? があると言えばある。それはギターの速弾きである。もう一度言う、ギターの速弾きである。物心ついた時から、つまりわたしが製造された時から、わたしはギターを背負っている。開発者がなぜギター演奏能力などをわたしに内蔵したのか分からない。たぶんふざけたんだろう。それか開発者の趣味か。
 わたしの頭部のX線写真には大きな黒い影が映り込む。それが開発グループご自慢の人工脳髄であり、荒岸アユミというロボットのコントロールセンターというわけだ。そこの片隅には現在のハードロック・ヘヴィメタルシーンで活躍する1000バンドの情報と楽譜が収められていて、わたしは即座にどのバンドの曲でも鮮やかに演奏できる。いつもフライングVという珍妙な形のエレキギターを背負っているのはそのためだ。けれど、わたしは開発者に訊きたい。毎日学校に行って授業に出ることを繰り返すという生活に、わたしの唯一の能力はどう役立つのかと。まったく、ギターの重みで肩が凝る。しかしギターは下ろせない。ロボットだから。
 14時14分。休み時間。ほとんど知らない女たちが話し掛けてくる。
「荒岸さん、今度の学級対抗球技大会なんだけど」
 この女、誰だっけ。中村……。中川……。知らん。どっちでもいいか。むしろ三人いるのでその1・その2・その3にしておくか。
「こないだグループ決めたんだけどぉ」
 その1。
「あなた居なかったんだよね〜」
 その2。
「日程が押しちゃってるから、人数足りないグループに入れていいかなぁ?」
 その3。
 わたしは「構わないよ」と答える。
「じゃあ、Fグループに入れるね。ちょうど均等に割り振れるから」
 その1はニコヤカに笑った。気持ち悪いな。わたしはこの女と面識があるかどうかも危ういわけなんだが。十年来の親友みたいな表情を作らないでくれるか。しかしわたしは表情を寸分も変えなかった。ロボットとはいえ人間の体がベース(らしい)なんだ。あまり色々な表情を作っていると、歳をとってから醜い皺になるからな。
 その1〜その3は向こうへと歩きながら喋っている。
「なんなのよ。愛想悪すぎなんだけど」
「やってやってるっていうのにさー」
「あんまり言うと聞こえるから」
 繰り返すが、ロボットとしてのわたしの性能は通常人間並みだ。聴覚が優れているわけではない。
 ちなみに、わたしは無表情でしかいられないロボットでもない。嬉しいと感じたら笑うし、感動したときは涙も流せるかもしれん。
 わたしにとって、そういう場面が全く無いというだけだ。
 15時30分。授業終了。エントロピーの増大という自然の流れを無理矢理に堰き止める掃除という蒙昧を拒否し、教室を出る。昇降口の外は雨が降っている。仕方ないから濡れて帰るかと思っていると、知らない男子が肩を叩いてきた。
「一緒に帰らない?」
 と言って傘を差し出す。傘か。役に立ちそうだから受け取っておく。
「偶然だね。でも良かったなあ。アユミさんとは以前から話したいと思っていたんだ」
 だから、誰だよ、あんた。
 にしても、人間というのは迂遠なことが好きな阿呆である。つまり、山に登るという目的のためにまず海で泳いだりすることから始めるのだ。人間並みの性能を持つわたしでさえ、この男が何を言いたいのかは分かる。それに、わたしには良くこの種の申し出があったりする。したがって、申し出られる前に封殺。
「わたしと付き合いたいの?」
 男は動揺したみたいだった。
 しかしこういうシチュエーションの経験は豊富と見え、逆手にとって攻めてきた。
「いや、実はそうなんだ。君のクールなところとか、すっげえイイと思うよ。そうだ、俺の名前、言ってなかったけど――」
「言わなくていい」
 わたしは、まだ開いていない傘の先を男に突き付けた。呆気に取られた顔をしているな。やっと地金が見えたぞ。
「わたしは、誰も愛せないから」
 男は再び、百回掻き混ぜた水飴みたいなニヤケ面を作る。
「な、なんでよ? 誰も愛せないなんて……」
「ロボットだから」
 わたしは宣誓みたいに大きい声で答えた。さすがに何も突っ込まれなくなった。本当のことを言ったのだが。わたしは傘を開いて雨の中へ出て行く。
 15時40分。学校近辺の宅地を通過。同一なフォルムの建売が、合わせ鏡を覗いたみたいに並びまくっている。わたしは本当に進んでいるんだろうか。平常心が雑巾しぼりみたいにネジられ、発狂の三十歩手前ぐらいまで行く。
 15時50分。繁華街を通過。雨降りの暗さのせいか、早くもネオンやランプがぴかぴかしてる。トロピカルジュースみたいな色の傘や、その下で着飾った人間たち。道路を重々しく滑る黒塗りの車。すれちがう人間と肩が当たったり、傘の水滴が垂れてきたりする。人混みを通るのは避けたいが、ここを抜けないことには、目的地の歩道橋まで辿り着かない。
 15時55分。町のはずれ。突然山道に。舗装こそしてあるけれど、道の両側は青々とした林である。まるで夢から覚める寸前にも似て、さっきまでの緻密な繁華街が一気に緑のモザイクに変わったかのよう。なだらかな坂を越えて、また下りると、緑の真ん中にぼーんと灰色が置かれている。あれが毎日の目的地。トマソン化した歩道橋だ。
 この歩道橋は、学校帰りの寄り道で名も知らない山に登った時、山頂から眺めて発見したものだ。かなり大きな規模の物で、下には高速道路が通っている。それでもこの歩道橋は巨大なガラクタなのである。というのは、高速道路を境界にしてこちらの市とあちらの市は接しているのだが、この歩道橋を渡って隣の市に行くことはできない。こっち側から登っていくことはできるし、高速道路をまたぎ越すことも可能だが、向こうの出口は鉄の門で封鎖されている。仮に門を乗り越えたとしても、その先は広大な荒れ地となっているから、町まではしばらくかかるだろう。それならば、こっちの町から電車を使った方が早い。
 どうしてこんなガラクタが出来上がったかというと、行政のミスによるものらしい。二つの市のあいだには、以前、合併計画があった。だが、行政機構の中心をどちらに置くかで揉め、合意していたはずの計画は廃案に。
 しかし、この騒動は二つの効果をもたらした。友好的だった両市の関係が険悪化したことが一つ。もう一つは、きわめて個人的なことだが、この歩道橋(ガラクタ)が残ったことである。
 わたしはいつものように歩道橋を登った。上にはいつものようにブルーシートの屋根がかかり、その陰でルンペンさんが寝ている。ここで生活してるらしいということ以外、この人のことは何も知らない。ルンペンさんという呼び名も、本人が「そう呼べ」と言ったから呼んでいるだけのこと。ちなみに向こうはわたしのことを「ギターのねえさん」と呼ぶ。起きていればだけれど。雨の降り始めに寝てしまったのだろうな。この人は歩道橋の階段下にもテントを持っていて、雨の時はそっちに居る方が多い。
 わたしは橋の真ん中あたりに立ってみる。何もするわけじゃない。何かしなければという心構えは、人間特有の貧乏根性であり、たいてい有害なものしか生まない。わたしは目を閉じて、下を行き来している車の音を耳の中へ流す。すると今日一日で溜まったストレスも流されていき、心が軽くなる気がする。今日は雨音とのアンサンブルだから一層良い。しばらく目を閉じていることだ。目を開けては駄目。車が流れている道路を見ると、人間の血管みたいで気分が悪くなるからね。
 それにしても、わたしは本当に人間が嫌いなのだな。こうして歩道橋の上で黙想しなければ人工脳髄が致命的なエラーに至りかねないくらいの負荷を、日々の生活から受けている感じがするのだ。
「気色悪い……」
 その一言に尽きる。いくら人間観察を続けてみても、人間たちの気色悪さを否定し得る要素は見つかる気がしない。ロボットであるわたしは、人間たちの不完全さが鼻についてたまらない。最も理解しがたいのは、人間たちはロボットでもないのにロボットになりたがっているということだ。だけど、わたしのような完全なロボットになることはできない。それはそうだろう。わたしは無から作られた命。0から生み出された1だ。だけど人間は親から受け継がれるだけの命。1から複製された1だ。
 人間たちはそのことを知っている。自分たちは完全なロボットには決してなれないと。それなのに、みんなして必死に、見込みのないロボットごっこを続ける。それは自分たちのグロテスクな本性を隠すためなのだろうと、わたしは思っている。
 たとえば、社会に法律という0or1のパラダイムを持ち込んでみたり。機械的なデザインの清潔な服で身を包んでみたり。「大学+就職+結婚=良い人生」のような演算的で予定調和的な人生を思い描いてみたり。身体(ハード)や精神(ソフト)が故障したら病院(メーカー)で修理してみたり。わたしのクラスなんかは工場のラインのシステムに酷似していると思う。教師の求める製品としての基準を備えている生徒だけが、クラスの中で楽しそうに生きることができる。構造は学校の外に出ても同じなんだろう。特に選ばれた高級なモノはエリートと言われ、そこに満たない普及品は一般人と言われることになる。
 まあ、しちめんどくさい例を挙げないでも、人間がどれほどロボ好きかはわたしが知っている。わたしを作ったのは人間なのだからね。
 ロボットである以上、わたしは人間たちよりも格段にロボット的だと自負する。その確信もある。
 だから、不愉快だ。よりによってわたしの前で人間たちはロボットごっこを繰り広げてくれるのだから。なんていう陳腐。なんていう欺瞞。ロボットでもない存在が、ロボットの真似をするな。あなた達は自分の正体さえ偽っているじゃないか。人間のくせに。どこからどう見ても人間のくせに。ロボットごっこのコーティングを施して、グロテスクな本体を隠している。
 そう。あなたたちはグロテスクだ。どんなに小綺麗なコーティングで飾ってみても隠し通せはしない。欲望に任せてわたしを作り出したのは誰だ? 理由も告げずにわたしを人間世界に送り込んだのは誰だ? 研究のために人間世界で生活させ、人間観察を強制してるのは誰だ? わたしの脳髄が壊れそうになっても検査すらしてくれないのは誰だ? わたしがブッ壊れて止まってしまったとしても、「欲しいデータは取れた」とか「つぎは改良型のロボットを派遣しよう」などと言うのだろう? 毎日同じところに居ながら、わたしがロボットだということすら気付かない鈍感な奴らは誰だ? それとも、気付いているのか? 気付いているから、本心とは遠く離れた空言ばかりを口にして、わたしを疲弊させるのか?
 ふん。いちいちまどろっこしくて嫌らしいじゃないか。しかし、わたしはあなた達とは違う。わたしは知っているのだ。あなた達がいくら足掻いても、わたしのようなロボットにはなれないということを。わたしの中には、グロテスクな部分も曖昧な部分もない。常に0か1、白か黒だ。わたしはどんな問題もデジタルに処理してみせる。絶対に。意地でも。それがロボットのアイデンティティというものだから。
「何も問題ではない」
 わたしはそう結論を導いた。そして目を開けた。いつからか傘が投げ出され、わたしはズブ濡れになっていた。わたしは傘を拾い上げると、橋から道路に向かって、ふわぁと傘を投げ捨てた。そして行方も見ずに立ち去った。この意味不明な行為は、黙想によってはストレスが解消されず、心にモヤモヤが残っていることの証拠なのだろうか。「何も問題ではない」というのは、わたしの演算ミスによる誤答なのか。
 いや。そんなことはない。わたしには演算ミスは無いんだから。


2.
 
 翌日。
 14時30分。起床。15時05分。着席。15時30分。授業終了。……らしいが、気付かない。17時00分。机の上で目を覚ます。17時03分。授業中に居眠りしたきり今まで起きなかったのだということに気付く。もう一度時刻を確認し、「嘘だろう?」と思う。
 17時03分30秒。教室にわたし以外誰も居ないことに気付く。わたしはふいに、誰も居ないわけではなく、透明人間で満員なのだという思いを抱く。その時、半分寝ぼけているせいかもしれないけど、わたしの人間嫌いな理由が完全に分かった気がした。
「そうか」
 わたしは帰路につくべく席を立った。
「ここには人間しか居ないのだものな……」
 今日もギターの重さが肩にこたえる。
 17時05分。廊下を歩いている。外は夕焼けである。自分の影が長ーくのびている。
「あ、あのー。荒岸アユミさん」
 背後から声がして、もう一つの影がわたしの影に重なる。振り向くと同じクラスの甲斐ヒロユキが居た。いかにも地味な感じの男だが、わたしは名前を覚えていた。わたしの観察データによれば、この男はクラスでも有数のオタク少年で、したがってクラスの嫌われ者筆頭格でもあり、趣味は鉄道に乗車することと鉄道写真撮影である。また、クラスには「甲斐ヒロユキは荒岸アユミが好きなんだって〜」等々の噂が流布しており、その噂はわたしの耳にも入っている。そのことに関して、わたしは完全スルーである。第一にわたしはロボットなので人間の恋愛の概念が分からない。第二にわたしは人間の気持ちなどに特段関心がないので、わたしをどう思おうと、まあご自由にということである。
 甲斐ヒロユキの名を覚えていたのは、以前に話し掛けられたことがあるからだ。しかもメタルの話だったのでよく覚えてる。イングヴェイ・マルムスティーンやチルドレン・オブ・ボドムの話をしてきたんだったな。ちなみに両アーティストともわたしのデータベースにコンプリートされている。激しい演奏とギター速弾きが特徴のメタルバンドである。「知ってる?」「弾ける?」とか言うので「知ってるよ」「弾けるよ」と答えておいた。そればかりかイングヴェイの所有するフェラーリが意外に安物なことや、わたしのフライングVがチル・ボドのギタリストと同じモデルであることなどを諄々と解説した。甲斐ヒロユキは一般人がオタクを見るような目でわたしを見ていたので、恐らくわたしの言ったことがチンプンカンプンだったのだろう。あるいは良くて半信半疑といったところだろうか。今回は何の用なのか。
「あの……。あの……。あのー……」
 おいおい。新人アナウンサーの発音練習か?
 わたしは甲斐ヒロユキを差し置いて靴を履き替える。
「あの、これから時間ないですか?」
「ん? わたしか?」
 ちょっと顔を見ただけで、甲斐ヒロユキは目を逸らした。いかにも自信なげな感じがオタクっぽい。だがわたしは、実はこの男が嫌いではない。文字通り、嫌いではないというだけだが。つまり、この男がクラスの人間たちから蔑まれ、嫌われているという点についてだけ評価している。わたしは人間たちが嫌いだからな。人間と同様な判断基準を持っていると見なされるのは吐き気がする。だから、人間たちが嫌うものについては、少なくとも嫌いはしない。
 とはいえ、この男に付き合うつもりはないし、時間だってない。いつもみたいに歩道橋に行く予定が、わたしにはあるからね。
「あの、その、ア、アユミさんと行きたい所があるんですけど」
「どこ?」
「八間市なんですが」
「隣の市まで、何しに」
「ハチケン・オープン・エアっていうイベントがありまして……」
「何のイベントか知らんが、パスだ。わたしは行く所がある」
 人間と一緒に遠い町まで行くのは時間と精神のロスである。せっかくの申し出だが、スルーさせてもらおう。わたしは昇降口を出た。おお、今日は晴れているな。
 ……わたしは後ろを振り向いた。なぜかは分からない。たぶん、ただ振り向いてみただけだ。甲斐ヒロユキは、まだポツンと立っている。
 そういえば喉が渇いたので、わたしはヒロユキに言った。
「帰り道の喫茶店なら行ってもいい。それでもよければ来る?」
 ヒロユキは何回も腰からおじぎをした。わたしは怖がられてるのか? ともかく、わたしは少し嬉しかった。おごらせればタダで茶を飲めるわけだから。飲んでる間は彼の世間話に付き合わされるのだろうけど、人間と話をするのは億劫だから無視を決め込むとしよう。もっとも、オタクだから面と向かってわたしと喋るのは苦手かもしれないけれど。
 

3.
 
 ところがヒロユキは喫茶店に着いた途端に話を始め、わたしが茶のおかわりを飲み終えるまで立て板に水と喋りまくってくれた。それも濃い話でねえ、水というよりコンデンスミルクみたいな濃さだった。わたしは多少ビックリしたよ。なぜかというと、彼は「先日のリベンジをしたいんです」などと言ってメタル話を始めたのだが、わたしのデータベースとタメを張るくらいの知識を獲得していた。ドイツの有名バンドの曲展開から、インドのスピードメタルバンドの新譜情報までね。というかインドのスピードメタルなんて初耳だぞ。データベースを更新しなければな。というわけで彼は人間にしてはそこそこの努力を払ったらしい。しかし、一朝一夕に速弾きをマスターするところまではいかないだろう?
「言われる通りです。ですからとりあえずボーカルの練習を始めました。手っ取り早いと思いまして」
「ふうん、頑張るのだな。しかし、なぜ突然メタルに傾倒しているのだ? キミは鉄道オタクだったのではないか?」
「それは、あの……」
 彼は顔を真っ赤にして机と睨めっこしている。
「鉄道をやめたわけではないんです。今でも好きですけど。だからその、今日は鉄道に乗って八間市まで行きたいと……。あの、アユミさん、早く行きません? 早くしないと、ハチケン・オープン・エアが終わってしまいますから」
 なんだ、急に真剣になったな。だが、そちらの予定を押し付けられるのは非常に困る。
「なんなの。オープン・エアとかいうのは」
「ロックフェスです」
「なに。こんな田舎でロックフェスか」
「そうなんです。それもマイナーどころというか、売れないバンドというか……。結構メタル寄りらしいです。人数は来るみたいですよ。行ってみません?」
 ヒロユキは紙ナプキンで汗を拭き取った。喋ることがそんなに緊張するのか?
 わたしは彼の目を見て返答した。
「そうだな……。お断りだ。わたしはギターを弾きはするが、見る趣味はない。人いきれの中で拳を振り続けるなど、エサをねだるサル山のサルと同等だ。あいにくだが断る。そして茶の礼は言っておく。ごちそうさまでした」
 だいぶ時間を食った。早いところ歩道橋に行かなければ。わたしは席を立った。が、ヒロユキに呼び止められた。
「あのっ、アユミさん、ついて行っていいですか?」
「どうして」
「途中で行く気になってくれるかもしれないから」
「ない。ゼロ」
「でも、一応」
「勝手にすればいい。キミという存在に干渉する気もゼロ」
 すでにわたしの心は歩道橋に向いていた。わたしは早足で店を出た。
「あのっ、アユミさん!」
 またか。うるさい男だな。今度は何だ。
「あの、すいません、お金なくて、家に財布忘れちゃって、払ってもらえませんか? どうしよう、カバンに入れたと思ったんですよ」
「……」
 わたしはシリアスな顔面の内側からニヤつきがアタックしてくるのを防ぐことができなかった。本当にダメな男だなあ。
 そうは言っても、わたしはこの男について来られることを喜んでいたわけではない。ヒロユキはオタクらしく粘着的にわたしにつきまとい、「アユミさん、早く電車に乗りませんか」「そっちは駅と逆方向なのですが」「もう絶対に間に合わなくなっちゃいます」などと言ってる。一喝してやれば子ネズミのように逃げたに違いないが、今のわたしはヒロユキを追い払うという軽作業にすら関心がなかった。これから自分の機能を止めようというわたしとしては、つまらない作業に労力を費やしたくはないからな。
 わたしは時間がきたことを感じている。明確に感じたのは、さっき誰も居ない教室で目を覚ました時だ。どうしてその時だったのかは説明できない。しかしとにかくわたしは活動を終えるべきだと思ったんだ。なにか非合理な直感によってな。ロボットが非合理な衝動に突き動かされるのはおかしいか? そんなことないさ。少なくともわたしは、この非合理な直感に従って動くことで、ある結果を導くことができる。納得できる結果が得られれば、わたしは満足なんだ。問題をデジタル処理する方法は、そのツールに過ぎないとさえ言ってもいい。
 一方、わたしの世界はどうなんだ。この世界で活動を続けることで、わたしはロボットとしての自分を満足させることができるのか? 納得できる答えは見つかるのだろうか?
「もちろん、無理」
 わたしはそう答える。うなだれた様子でヒロユキがわたしを見ている。自分のお誘いを断られたと思ったのだろうな。違うよ。わたしは人間全般にお断りを伝えたんだ。わたしは、本物のロボット。ロボットごっこが壮大に幅を利かせる人間の世界でなんか、生きることはできない。それではまるで、外に素晴らしい景色があるのを知りながら、その景色の絵を部屋の中で永遠に眺めているようなものだ。考えてみたら、ロボットがたった一体だけ人間たちの世界に送り込まれているということが、まずおかしいのである。これは非合理ではなく不合理な事態。不合理を突き付けられたなら、選択は二つである。耐え忍ぶこと、そして――。
 拒絶。
「入って来ないでね」
 歩道橋の登り口で、わたしはヒロユキに言った。彼はしぶとくロックフェスの一日券を二枚差し出したが、わたしは無視して階段を登って行く。
 てっぺんには今日もルンペンさんが居る。ちょっと体を起こした。わたしに気付いたかな。わたしは囁くように言ってみた。
「起きてる?」
「いいや。起きてない」
 わたしは橋の真ん中に立ち、猛スピードで車が飛び交う様子を見下ろす。
「ここから飛び下りようと思うんだけど」
「飛び下りれば?」
「ありがとう」
「さよーなら。ねえさん」
 ルンペンさんの返事を聞いたら、わたしは清々しい気分になった。
 いい頃合いだ。
 わたしは柵を鷲掴みにして、身を乗り出した。……よし。あとは柵に足を掛けるんだ。そして、わたしが生まれてから初めて立ち上がった時のように、足に力を込めればいい。そしたらわたしは活動を停止させることができる。熟れたフルーツが落ちるのと変わらない。落ちたらぐちゃぐちゃになり、ばらばらになり、だんだん形もなくなるだろう。わたしは消えて無くなりたい。それはきっと爽快なことだろう。わたしは、消えて無くなることができるのだ。昨日ここから落とした傘のように。
 なんとなく下を向くと、ヒロユキが「強」のワイパーみたいに手を振っている。彼は叫びながら階段を登りだした。だが、もう遅いぞ。既に片足を掛けた。わたしは両腕にグッと力を込め、さらに足をしっかりと踏ん張った。ふうわりと体は上がり、わたしの頭部は放物線を描く。放物線の頂点あたりのところで、わたしはあっちを向いてみた。最後に殺風景な道路を見るよりは、木の緑色でも見ていた方がいいからな。ところが、視界に映った景色は緑じゃなくて黒だった。
 黒山の人だかりってやつさ。人だかりと言うのも生易しいくらいの数だ。飴玉にたかる蟻の群れみたいに大挙して、人間がこんな所に何の用だ。わたしはルンペンさんにしか予定を言わなかったぞ。だから飛び降りを見学しに来たわけではあるまい。……見学?
 わたしの体は落下し始めた。
 ――と、思ったら、わたしは空中に立っているじゃないか。うひゃあ。おい、下を行くドライバーさんがた、わたしの体にはサービスエリアまでの距離は書いていないぞ。なんてことだ、手のひらからジュワアと汗が出てきてる。スカートの中がスースーしてる気もする。
「アユミさん!」
 甲斐ヒロユキ、あんたの仕業か。
 わたしは怒りがこみ上げてきた。飛び下りを止められたことに対してか? ちがう。それなら手を離すように命令するだけである。では、飛び下りを止められてみたら、今の状況に恐怖が湧いてきたことに対してか? ちがう。わたしはロボットだ。人間の自殺のようにガタガタ震えたりするものか。意地でも、怖がってなんかいるものか。
「ふざけるんじゃない、ヒロユキ!」
 早く手を離してくれ。いい加減にしろ。どこを持っているのだ。ギターケースから手を離してくれないと、わたしのギターが折れてしまうだろう。
「こっちを掴むんだ!」
 わたしは手を伸ばした。ヒロユキは必死に掴んだ。こら、しっかり支えろ! 体が柵にぶつかっただろ。ヒロユキは、わたしが激しく笑ったりしたら絶対にわたしを取り落としてしまいそうな、滑稽な形相をしていた。日ごろからもっと筋トレでもしような。頼りにならなそうなので、わたしは自力で柵の中に戻った。まったく徒労だよ……。
 それからわたしは歩道橋のあっち側に行ってみた。ルンペンさんやヒロユキに掛ける言葉もなかったし、それよりもさっき見えた人だかりが気になる。
 降り口の門は通常通り締まっていた。だが、向こうからは、ものすごい歓声だ。野外のオープンステージでプレイしているバンドと、拳を振り上げて熱狂するオーディエンスたち。「ハイ! ハイ! ハイ! ハイ!」という声援の津波が、顔に当たると痛いほどである。ヒロユキが言ってたロックフェスの会場はここだったのか。高速道路がうるさいから分からなかったな。
 ところで、歩道橋のあたりはステージ裏に当たるため、バンドの人間たちの姿もある。近くに居た体格の良い長髪男たちが、わたしの所に来た。
「おい、女子高生。何のバンド?」
「出るのか? なんで柵の中に居るんだ?」
 ごもっともな質問だ。順に答える。
「わたしは出演バンドではない。あっちの登り口には門が無い」
 男はタバコに火をつけ、厚い胸板の内部に煙を充填させる。
「俺達の名前、知ってるか? 知らないよね? 若い女の子には人気がないのさ」
「わたしはあなた達を知っている。バンド名はYao−Yoloz。ヨーロッパに通用する数少ない日本のテクニカル・メタル・バンド。タイトなプレイと重厚なコーラスが特徴のメロディアスな楽曲を得意としている。あなたはドラム担当のRaizing℃=v
「……こいつ、すげえ! なんなのよ? ファン?」
「そう言えなくもないが、特別に好きというほどでもない。わたしの特技はギター演奏だが、あなた達の楽曲もレパートリーに入っているというだけ」
吹くなよ〜、女の子。俺達の楽曲はエクストリームなレベルだぜ。メンバーは毎日五時間以上は練習してるんだ」
 わたしは見せた方が早いと思ったので、ギターケースからフライングVを取り出した。アンプに接続しないとショボいのだが、テクニックのレベルはこの人なら分かるだろう。とりあえず彼らの楽曲の中から、最も難度が高いと思われるフルピッキングの速弾きを実演してみた。
 彼は門の向こうでタバコを落とした。わたしの後ろでヒロユキがチケット二枚を落とした。


4.
 
 三十分後、わたしはステージの上に居た。
 正直、予想外だった。こんなふうにわたしの特技が日の目を見る時が来ようとは。と言っても既に夜で、観客の頭が満月の明かりに溶け合っている。
 Yao−YolozのギタリストであるSuizing℃≠ヘ、本番直前にステージ裏でフットサルをしていて、なぜか突発的に左手を骨折したのだという。事情の破天荒ぶりとおバカ具合は、まさにメタルだ。そして、なぜか速弾きができるわたしが近くに居たということも。わたしはバンドに感謝してもらってもいいだろう。マイナーなフェスティバルのトリをキャンセルしないで済んだのだからね。
 そして、あとは、わたしも感謝してやってもいいかもね。どうしてかって? それは、このステージでプレイしてみるというイベントが入力された結果、「どうしてわたしにはこんな特技があったのか」という疑問の答えが、わたしの中に出力された気がしたからさ。わたしは「これだ」と思ったんだ。人間たちを見下ろせるステージ。この場所がロボットのわたしにはふさわしいとね。
 あ、ところで、ヒロユキはステージ最背面の合唱隊に加わり、サビでのコーラスをやらせてもらっている。彼のボーカルトレーニングとやらも、無駄ではなかったのかね。
 ライブが終わった。わたしは何をやっていたのか殆ど覚えていない。もちろんリフやソロはキッチリ弾いたし、ステージを駆け回って観客を煽ったりもした。だけど振り返ってみると、記憶は一瞬なんだ。本当にステージに登っていたのか、それとも夢だったのか分からない。しかしどちらだとしても、わたしの記憶として焼き付けられたことは確かである。そして、それだけが大切なことじゃないのか? 


 わたしとヒロユキは、よっこらしょと門の中に入って、冷え切った歩道橋の階段を登っていた。しかしわたしは、少し長めに目をつぶってみさえすれば、えげつない虹色にフラッシュするライトが気持ちよかったことや、曲が終わるときお客さんの熱狂にステージを浸蝕される快感を、そのまま甦らせることができるのだった。
 まあ、だが、今回の偶発的イベントがあったからといって、人間への評価は全く変わらない。わたしはああいう状況で音楽をプレイするということは評価するかもしれないが、それは音楽というもの自体に与える評価なのだ。会場に居る人間一人一人への評価ではないし、人間たち全般への評価でもない。人間たちの中にわたしのようなロボットの居場所がないという結論は、依然として変わることがないだろう。
「いい曲やるじゃないか」
 わたしはルンペンさんに言われた。
「帰るのかい。死ぬのはどうなったんだ」
「まあ、そのうちかな。今日はそういう気分ではなくなった」
「待ってるぞ。いつでも」
「ありがとう」
 わたしとヒロユキはさっきのステージの話をしながら歩いた。自分のパフォーマンスについては反省すべき点がいくつかあったものの、ヒロユキにギターの話をしても理解はされないだろう。だからヒロユキにはわたしが気になった点を指摘しておいた。
「キミ、最後の曲の二回目のサビのところ、音程が外れてたよ」
「すいませんでした」
「まったく、もう。ちゃんとやってくれないと困るな」
 ヒロユキはわたしのアパートの前までついて来た。今回は彼がしぶとく追い掛けて来たわけではなかった。わたしは追い払おうとしたわけではなかったからな。追い払おうと思う前に到着してしまっていただけである。ヒロユキがどうだったかは知らん。あるいはわたしを送ろうというつもりだったのかもしれないが、わたしは人間の内面のややこしい心理になど一向に興味がない。黙って鍵穴に鍵を差し込んだ。
「あの、アユミさん」
「なんだ。まだ居たのか」
「明日、学校に来ますよね……?」
「さあ……。わたしはねぼすけだからな。寝ているかもしれない。誰かが起こしに来れば、行くかもしれないが」
 わたしはドアを開けた。だいぶ疲れていたから、ヒロユキを振り返りもせずドアを閉めたよ。そして、鍵を掛けるのも忘れて眠り込んでしまったさ。

(終)
(0805)

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