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【夏休みなら、来年も】


 ここは貴族御用達のサロン。吊りランプのべっこう色が店内を艶かしく照らし、深夜の怪しげな雰囲気を盛り上げる。サロンを包み込むウィンドウは氷のような鋭い意志で埃や手垢の付着を嫌うかに見え、そこに映り込む店内の雰囲気を二倍する。三人の貴婦人がティーカップを手にたあいない世間話に興じ、サロンに一輪の華やぎを添えている。
 そういう描写ができないでもない。妄想力といわれる範囲において人間の想像力を使用することが許されるならば。
 たとえば、視力が0.01にも満たない人間を平日深夜のファミリーレストランに連れて来たら、「ほら、ここはヨーロッパのサロンなんだよ」と言って騙すことも全く無理な相談とは言えない。
 妄想にとりつかれた人間は、こういうプロセスをひとりでにやってしまうのが特徴だ。現前する世界への視力を無意識に落とすことによって、そこに新たな妄想世界像を塗り重ねてしまうのである。妄想する人間というのは、常にどこか冷静さを欠いているが、大抵そのことを自覚していない。なぜかというと、妄想は麻薬のように楽しいものなので、その快楽にハマってしまうと、冷静になろうなんていう気は失せてしまうからだ。実際、妄想ひとつで本場のサロンに旅行できるとしたら、安いものだろう? 
 そして、人間が妄想に取り憑かれる場面は思ったよりも多いものである。現在サロンに居る三人の貴婦人たちも例外ではない。三人全員がその妄想世界に浸っていると言い切るのは失礼だろうが、ユリエにとっては百パーセントそうである。「私は貴婦人。むしろ女王でもいいわ。このサロンは、今夜、私達三人の貸切。だって今日はとても大切な一日なんですもの!」――彼女の深層意識は、こんなところだろう。ユリエは、貸切状態であることを確認するために、店内をひとわたり見回す。ぐるんという彼女の頭の動きに合わせ、黒髪のつややかなツインテールがムチのようにしなう。そして、二つのテールを作っているピンク色のリボンは、二つとも大きな蝶々結びで存在感を主張している。
「ここのアイスココア、甘くて美味しいわね! けーこ、みなみ、飲んでみたら!」
 ユリエは水滴が付きまくったトールグラスをずいと差し出す。
「わ、私、オレンジジュースがあるから……。まだいいよ。ユリちゃん飲みなよ」
「私は、甘い飲み物は苦手で……。紅茶も残っていますし……」
 二人とも、自分のグラスとティーカップを差し出し、やんわりと拒否の意向を示す。
「そーなの? じゃあいいわよ。でも、ほんとに美味しいわよ? これが何杯も飲めるなんて幸せよね! 私、おかわりしてくる!」
 ユリエは氷の大量に入ったグラスを傾け、器用に液体だけを口に流し込んだ。そしてシートから飛び降りるように駆け出し、ドリンクバーの機械があるコーナーへと向かうのだった。
 対面のシートに座っている二人は顔を見合わせた。
「ドキドキするね!」
「そうですね……。藤ヶ丘公園から北側って、行ったことなかったし……。ここのファミリーレストランも初めて……」
「今日は友達だけだもんね」
「それが一番楽しいです……!」
 桂子とみなみは声を潜めて喋る。他に客も居ないのに声量を気にかけるあたりが、こういう環境に慣れていないことを示している。まあ、みなみに関しては、もともと声量があるほうではないが。
「何を話してるの? さあ、飲んで、飲んで! せっかく汲んで来たんだから」
 いちばん声量の大きな少女が、ココアのトールグラス三つを手に戻る。
「ユリちゃん、コップは一人一つじゃなかったかな?」
「戻さないと、叱られるかも……」
「え? そうなの? 知らなかった、けど、いいんじゃない? 大丈夫よ!」
 ユリエは二人の前にグラスを置き、自分のお替わりをグイと一飲みする。
「ありがとう。私、いただきますね」
 みなみはそう断り、グラスに手をつけた。ユリエに比べると全く飲んでいないように見えるが、おそらく彼女にしては飲んでいるほうである。
「おいしい?」 
 テーブル上に身を乗り出して訊くユリエの破顔。
「おいしいです」
 みなみは柳の枝がなびくような静穏さで笑う。ちょうど彼女の長髪も柳みたいに揺れた。
「だけど私達三人の夢が叶ったわ! 一度、このファミレスに来てみたいって話してたもんね! すいてて良かったよね!」
「今日は火曜で、平日だから」
 桂子が思い立ったように手を合わせた。取り決めがあるわけでもないのだが、三人の意見やスケジュールを調整するのは彼女の役割になっている。ユリエに任せておくと暴走する可能性があるし、みなみは主体的に行動することがまずない。真昼の太陽みたいなユリエと夜中の星空みたいなみなみの中間に位置しているのが桂子なのだろう。
「平日だから、サラリーマンのみんなは寝る時間なんじゃないのかな。明日も会社だから」
「どうして? そんなの、徹夜で行けばいいのにね! みんな体が弱いのかなあ」
「うちのパパは体が強いみたいよ。毎日一時頃寝てるもん」
「そういや、けーこは大丈夫なの? うちに帰らなくて。あんた門限七時じゃなかった?」
 ユリエが訊く。
 みなみも隣で、心配そうに見ている。
 桂子はテーブルの上に携帯電話を置いた。
「いつも通り、七時には帰るって言ってきたけど、まだ何もないの」
「ははあ、おじいちゃんね? ……悪いの?」
 すかさずユリエが追い訊き。
「ママもパパも悪くないって言ってる。でも、今まで一回も病気しなかったおじいちゃんが倒れたものだから、二人ともびっくりしてるんだと思う。たぶん病院にお見舞いに行ってるんだわ」
「桂子ちゃん、病院に行ってあげなくていいんですか……?」
「そう言われると思って、お見舞いは昨日行って来てあります。おじいちゃんなら、どこが悪いか分からないくらい元気だったわ」
 桂子は腰に手を当ててめずらしく自分を誇示するようなポーズをとる。そしてみなみに笑顔を向けた。
「だから全然大丈夫。本当はね、今日もお見舞いに行くように言われてたの。だけどね、今日はこっちに来たかった。みなみが転校しちゃうのは、私には大問題だもの」
「私には、でしょう?」
 ユリエが顔を突き出す。
「見直したわよ、けーこ! お見舞い休んでまでこっちに来たなんて。ま、私も今日は家庭教師の日だったんだけど。当然! サボッてきたわ。あっはっはっは!」
 ユリエはうるさいほど快活に笑い、桂子と同じくみなみを見た。
「引っ越しても元気でね。みなみ。手紙よこしなさいよ」
 みなみは戸惑いの顔で交互に二人を眺める。
「なんだ……。私も今日は引越しの準備があって……。黙って抜けて来たんです……。私だけかと思ってました」
「ますます、偶然ねえ」
 ユリエは感心して腕を組む。
「私達は最後まで気が合うみたいだね」
 桂子も優しい笑みを崩さず言う。
 みなみはまるでうなだれているみたいに、テーブルを眺めていた。
 しかし、顔を上げた時には、一日じゅう雨を降らせた雲が消えたあとの星空みたいに、ひんやりして爽やかな表情になっていた。瞼はすこし涙で光っていたけど。
「なんか、嬉しいです。ありがとう。ありがとう、二人とも」
「な、なによ……」
 ユリエは目をこすった。非常に悪いタイミングで目にゴミが入ったようだ。
「みなみ、あんた、嬉しそうな顔して、ほんとは悲しいんじゃないでしょうね? やめてよ、せっかく明日から夏休みなのに。今年の夏休みは、三人とも今までで一番楽しくなるって決まってるのよ! だってせっかく小学校最後の夏休みなんだもの! っていうわけで、今日はその前夜祭よ。いい? お祭りなのよ? こーゆーめでたい日は乾杯って決まってるんだから。さあ、盛り上がっていくわよ!」
 ユリエは上澄みができたココアのグラスを握り締める。桂子とみなみもグラスを手に持った。さあ乾杯! ――という直前、店員がテーブルの前で深々と一礼。
「お客様。当店では小中学生のみでのご来店は午後十時までとなっております。すみませんがレジの方で清算していただけますでしょうか?」
 三人は一列になってレジに向かった。思い切り不機嫌な顔を隠そうともしないユリエを先頭にして。それでもユリエはココアを胃に収め切ってはいたが。
 
                    Ψ
 
 桂子とみなみは時々背伸びをしながら、レジの向こうを眺めている。
 そしてユリエは意識が飛んでいるみたいに虚ろな目をしている。
 アルバイトの学生店員が、何倍か髭の濃い店長を付き添わせて来る。
 店長はカウンターを回り込んで来て、やっとカウンターから頭が出るぐらいのお客を、真上から問いただす。
「君ら、金ないんだって?」
 みなみは店長の汚れたエプロンを前に、臆病にまばたきを繰り返す。ユリエは悔しそうに唇をぎゅっと結び、店員をきっと見詰める。
「いくら足りないの? ……七九〇円。ドリンクバーは大丈夫と……。ステーキの分、足が出てるんだな」
「お金はあったのよ。ちゃんと準備してたんだもん! 準備してたんだけど、机の中に置き忘れて来ちゃって――」
「それじゃあ駄目じゃないの」
 威勢のいいユリエも、自分に落ち度がある以上、言い返すことができない。
 いつもの三人なら、こういう失態は避けられたはずだった。
 お金なら準備できてるわ! みなみが来れる最後のイベントなんだもん! 大船に乗ったつもりで私に任せてよ! ――事前のユリエの宣言を信じないわけではないが、ユリエにはかなり大ざっぱな部分がある。いつもなら桂子とみなみはそのあたりを分かっていて、いちおう財布の中身を多めに準備したはずだ。だが今日に限って、準備がおろそかになってしまった。おそらく、それぞれの家の用事をすっぽかして抜け出すという仕事に神経を使った結果、お金のことは忘れてしまったのだろう。
 とくにユリエの落ち込みぶりを先程までの彼女と比べてみると、その変貌具合は一種の芸に見えないこともなく、見物料を払ってもいいという人間さえ存在するかもしれない。
 しかし店長は言った。
「お金を忘れてきたんじゃ、しょうがないな。じゃあ君達のご両親の電話番号を教えてよ」
 ユリエはギョッとして背筋が伸びる。
「教えたら、どうするの?」
「君達が払えない分、保護者の方に払ってもらうんだよ」
「えーっ? ウソ!」
「嘘じゃないでしょ。このまま君らが帰っちゃったら、君らはステーキ一皿分泥棒したことになっちゃうんだよ。泥棒はいけないことだって、学校で教わっていないのかな? うちとしては誰のご両親でもいいんだけど、誰が番号を教えてくれるかな?」
 三人とも黙り込む。桂子はユリエを一瞥する。みなみもユリエの様子をうかがう。
 ユリエはひとり沈痛の世界へと入り込んでいた。
 もともとユリエほど顔と心が一致している人間も珍しく、それは三人の中でもとくにそうだ。彼女は慎むとか隠すということを知らず、常に百%、自分の世界を友達にぶつけてくる。だからユリエが落ち込むときは、ふだん発散しているエネルギーが百%内側へと向かうので、見ている方としては非常に痛々しいのである。――もっとも、ここまで沈鬱なユリエは桂子もみなみも見たことがなかった。
 店長に申し出たのは、みなみだ。
「うちの電話番号でもいいでしょうか?」
 店長は口を開き掛ける、そこへユリエが素早く割って入る。
「ダメよ、みなみ! それはダメ」
 この一幕、ユリエの表情の表現は流れと逆になっていた。つまり、味方のみなみを敵のように真剣に睨み、クルリと店長を向いてニヤリと口元を引き上げたのだ。
「この子じゃなくて、私のうちの番号おしえるから。ねえ、それでもいいよね?」
「もちろん、それでも構わんよ」
「あぁ、良かった。じゃあそうして」
 カウンター内に戻った店長が電話を取り、ユリエはその様子を一心に念じるような目で追う。
 その時、店長は一旦持ち上げた受話器を戻した。
「待って。お金だったらボクが払う」
 という声がしたからだ。
 入口に少年が立っていた。
 ドアが開いた音もなく、来客を知らせるベルも響かない。いつのまにか、居た。
 キザに片膝を曲げ、腕組みなど決めて。
 だが、いかんせん三人よりも背が小さい子供では、決めたポーズもかたなしである。
 それでも、店長を含め、誰も吹き出しはしなかった。
 それはたぶん、店長にとっては、本当にお金を払ってもらえるという期待が生まれたからだろう。四十路(よそじ)も近そうなベテランの彼は、とりあえずお客様の言葉を奉ってみるという脳内回路ができている。
 そしてたぶん、三人がまじまじと子供を見詰めたのは、店長とは全く別の気持ちからだろう。
 その子供は超絶なる美少年だった。
 それはもう、背の低さがそのまま可愛さに転じてしまうほどの。
 年齢は三人と同じぐらいであろう。ちょっと大人びた白地のボタンダウンに、涼しげなカーキ色のカーゴパンツ。細い腕や足はムラなくキツネ色に焼けている。同じ色をした顔を、クセのない黒髪がしなりと飾り立てている。大きな二つの瞳には、三人がファミレスに走って来るとき見上げた星空のような青が宿っているように見えた。
「君は、誰ですか?」
 店長はただの子供とも客ともつかない人間に対する曖昧さで尋ねる。少年は黙ってカウンターに近付いてくると、店長に片手を差し出す。日焼けの色が薄い手のひらには、何も握られていない。
 彼はいちど手をきゅっと握り、店長の顔の前で開いた。
 五百円玉が一枚、百円玉が三枚。五本の指の四つの隙間に、各一枚ずつ挟まっていた。
「わあっ」
 とユリエが感嘆を漏らした。店長は思わず十センチほどのけぞった。少年は支払いトレーの上で手を広げ、四枚の硬貨をトレーに落とした。まだ声変わりしていない高音を控え目に響かせた。
「ごめんなさい、店長さん。この三人がお金がないふりをしてたのは、友達のボクを引き立ててくれるためだったんだよ。最近手品の練習をしてるんだって言ったら、実際やってみてよってことになってね。この三人は手品が盛り上がる場面を作ってくれることになってたんだ。いざっていう時になってお金が出て来なかったらどうしようと思ったけど、ちゃんと出て来たね。練習した甲斐があった。そのお金はちゃんと本物だよ。確かめてみて?」
 店長は、少年に向けていた異常なまばたきの回数を、そのままトレーに移す。お金を手に取って振ってみたり、凝視してみたりしている。そのあいだに少年は三人をチラリと見る。それだけで三人は今後どう動くべきかを察知したに違いない。チラリと見るという行為は同じでも、店長にやられるのと少年にやられるのとでは意味が違う。店長の場合は、三人が逃れるべき災難なのだから。
 少年は自信と余裕たっぷりに店長の動きを観察している。本物でしかないものを偽物だと疑ってみたって、結局は本物だって納得することになるのに――。そんな突き放した涼しささえ瞳に浮かべながら。
「毎度ありがとうございました」
 かくして四人は、出口のドアが閉まる音を背後に聞くことができた。まず何よりも先にみなみが頭を下げた。もちろん少年に向けてだ。
「ありがとうございました。どうしてお金を払ってくれたんですか……?」
 少年は釣銭の十円玉を投げ上げながら、
「きみたちの味方だから」
「……」
 みなみの喉の入り口が微かにひゅっと鳴った。おかしなタイミングで息を吸い込んだらしい。口に手を当てて目を見開いている彼女というのも、ふだんの落ち着きからはあまり見られない姿だ。もっとも少年は十円玉キャッチに夢中のようだが。
 苦々しい顔をしたユリエが、少年を上目で睨む。
「あんた誰なの? 払ってくれたのはありがたいけどさぁ。なんか下心でもあるんじゃないでしょうね」
「下心?」
 放り投げた十円玉をキャッチした少年は、はたとユリエを向く。その目はユリエと同じくらい真剣だ。つか、つか、とユリエに近付くと、右手を振りかぶって思い切り振り抜いた。
 中には十円玉が入っていたはずだ。
「きゃ……!」
 ひじとひざを出してダンスみたいな格好で防御するユリエ。
「……?」
 だが、いつまでも十円玉が弾む音はしなかった。
「消えたんだ。ボクが消した。あんなモノなんて、出すことも消すことも自由自在。ボクにはどうでもいいもの。下心なんか、ないよ。ボクはきみたちを助けてあげたかっただけ。それを忘れないで」
 ユリエは桂子とみなみの呆然とした様子を見て、十円玉が本当に消えたことを知ったようだ。目の前でじっと問い質すような少年を見て、しゅんとして呟いた。
「……言い過ぎた。ごめん。あんたには感謝してるわよ。助けてくれたんだし」
「それでいいんだ。そういうのが似合う」
 少年はニコリと目を細め、ユリエに右手を差し出した。
 たった今ふてくされていたはずのユリエだが、握手する顔には早くもえくぼが浮かぶ。
「私、ユリエ。こっちは桂子、そっちはみなみ」
「ボクはユウタ。よろしく」
 ユウタは不思議な少年だった。今夜出会ったばかりなのに、昔どこかで会っている感じがした。
 ユリエは幼い頃よく一緒に遊んだ近所のお兄さんを思い出した。そのお兄さんの顔も名前も覚えてはいないのだが、ユウタを見ていると彼に再会したような気持ちが湧いてくるのだった。
 そしてユウタが不思議であるゆえんは、桂子とみなみも同様の懐かしさを感じていたことにあった。
 三人はその気持ちをはっきりと言葉に表せないまま、どこか浮かれた思いが込み上げるままに、ユウタと一緒に夏の夜を探検してまわった。
「ユウタには本当に助けられたわ。家に電話されたら、私たちが用事をすっぽかして遊んでるのがバレちゃうところだったもん」
「私なんて、三時間も門限すぎちゃってる」
「私もそう……。家に知られたら、きっとすぐに連れ戻されちゃってたと思います」
「ふうん。きみたちは何か、いけない会合でも開いていたわけ?」
「そうよ! ところでユウタは、私達の中でイチバンかわいい子は誰だと思う?」
「え? なにその急な質問。そうだねえ……」
 ユウタはためらったように見せつつも、ユリエからみなみのところへと軽快に回り込み、
「この子っ」
「この子じゃなくて、みなみでしょ! 名前ぐらい覚えなさいよ」
 まるで自分の人形のように、みなみの後ろから両腕を掴むユウタを見て、ユリエはほっぺたを膨らませる。されていることに動揺してのろのろおろおろと右や左を向くみなみを見て、クスッと息を吹く。
「けどまぁ、ユウタの選択に異論はないわ。私も桂子も、ユウタと同じ意見よ」
 ユリエに合わせて桂子も頷く。
 みなみは夜空の下でも分かるほど顔を赤くして、一度だけなんとかユウタの顔を見ようとするが、けっきょく真下を向いてしまう。
 ユリエはカエルのようにそこへジャンプして、からかうようにみなみを見上げる。強引にみなみの体を回し、ユウタの方に向けた。
「こんなにかわいい、私達の大親友が、明日から別の町へ引っ越して行っちゃうのよ。だから、この世で一番大親友の私と次に大親友な桂子とで、今夜はお別れパーティーってわけ。全員、親には秘密でね」
 桂子が妹の悩み相談に三時間つきあわされた姉のような苦笑いを浮かべ、話を引き取る。
「ユウタ君が助けてくれなかったら、あの店長が私達のうちに電話しちゃって、悪事≠焜oレてたと思うよ。だから、ありがとう。私達はね、今夜だけは、三人で悪い子になろうって計画していたの」
「へえ! きみたち、仲いいんだ」
「もちろんよ!」
 ユリエの大声にかき消されているが、「そうなのよ」「仲、いいです」という返事も裏に入っている。
「いい話を聞かせてもらったなあ! きみたちが喜んでくれると、ボクも……冥利に尽きる」
 途中で聞き取りにくい部分があったが、聞き取れたとしても、三人には冥利という言葉の使い方は分からなかっただろう。
 ユウタはショウリョウバッタみたいにひらりと体を舞わせ、四人の先頭に移動した。
「おいでよ。もっと楽しもう」

                    Ψ

 いつのまにか住宅地は終わっていた。ユウタが進み始めた道は、足元に生の土の感触が伝わってくる。四人の左と右とではくっきりと景色が違った。あたかもこの道によって住宅地は押しとどめられ、雑木林も進出を妨げられているようだった。ユリエたちは左に四角形の静かな家族絵図などを見、鼻には蚊取り線香のにおいをかぎ、右には甲虫の羽音や高い梢のそよぎを聞いた。
「あ! 見て見て! 上!」
 空気を焼きながら切り裂いて行くような高音が走った。
 びかびかっとランプを光らせながら、上空にジェット機が出現する。窓から客の顔だって見えそうなくらいの低空飛行。まるまると太った胴体に赤や青のランプをちりばめ、見ているとくらっときてよろめいてしまうくらいの低さを滑って行く。となり町の空港に向かうところなんだろう。K町を通過する路線が年に何本かあることは、外で遊ぶ子供ならよく知っていた。それにしても、このくらいの低さを飛ぶものだったろうか? ジェット機は四人の歩いている道をトレースするように飛び、しばらくは轟音を残した。
 まもなく、バシッという衝撃とともに、ユリエの胸に大きな黒い物体が止まった。最初はびっくりしたが、立派な角を生やしたカブトムシだった。――ちなみに、ホームセンターでヘラクレスオオカブトが二千円だった時代は過去のものである。十年前に外来生物規制法が整備されて以降、日本では在来のカブトムシが権威を取り戻していた。
「わ、幸運! 持って帰りたい! だれか帽子とか持ってない?」
 誰も持っていなかった。ユリエはしぶしぶ手放した。ユリエの手のひらから渡って来たカブトムシを人差し指で遊ばせ、ユウタは宥めるように言った。
「また捕りに来たらいいじゃない。夏休みは長いんだから。――ほら、見てごらんよ。ここ」
 ユウタは道端の木に駆け寄る。それは幹がくねるまでに成長している柳の大木である。ユウタが指差した箇所を桂子の携帯電話で照らしてみると、樹液が木の肌を濡らしていて、珍しい昆虫がびっしり。ユウタの指から這って行ったカブトムシがそこへ加わっても、もういちど採り直そうという気にはならなくなるほどだ。この地方ではカブトムシ二十匹とでも交換が成り立つかどうかというヒラタクワガタや、幻の存在とさえ言われるヒメオオクワガタまで、安逸に樹液を味わっているのだから。
 蝶も集まって来ている。闇夜の中で青黒い羽根を見せびらかすように上下させるオオムラサキなんかは、その都市の住民にとっては大変残念かもしれないが、百万都市の夜景くらいでは比較対象にもならないだろう。
 めずらしくユリエは黙っている。カブトムシ一匹でさえ持ち帰ろうと騒いだくせに、虫たちに手をつけないばかりか、大はしゃぎすらしない。なぜかと思ったら、ユリエはジーッとユウタを観察し、ユウタが気が付くと慌てて顔を逸らすのである。とびきり残念そうな顔を虫たちに送ったりもしつつ……。つまり、いつもどおり三人だけでこの場所に来ていたら、ユリエはとっくに虫を服にひっつけまくっていただろう。
「あとで絶対捕りに来よう! けーこ、この場所覚えておいてよね! でもユウタ、ここって一体どこ?」
 ユウタは知り合いを紹介するようなしぐさで右手の林を示し、
「この林は藤ヶ丘公園のふもとだよ」
 今度は左手の宅地を示し、
「北小学校の校庭からは、林の遊歩道につながっているからね。公園にも登って行けるよ」
「ここが藤ヶ丘公園! じゃあ、いつもと逆がわなのね」
 地理感覚がないみなみ以外は、瞬時に現在位置を把握したらしい。藤ヶ丘公園というのは某ニュータウンの片隅にある公園で、その名の通り小高い丘となっている。もっとも、四十年前にニュータウンの開発がなければ、現在のニュータウンの全体は藤ヶ丘公園と区別できない緑色であっただろう。藤ヶ丘公園は、かつての住宅敷設を逃れた部分だということだ。ここでユリエたちが遊ぶときは、南側の遊歩道から入り、丘のてっぺんへと至る。南小学校の学区的には、それが自然である。反対に、丘の向こうがわにある北小学校だったら、北から登るのが本道だろうというお話……。であるが、この説明をみなみが日本語として受け取ってくれるかどうかは微妙だろう。彼女は依然として大秘境に居るのではないだろうか。
 しかし、ユリエや桂子も秘境ムードを感じていないわけではなかった。すぐそこが藤ヶ丘公園だというではないか。終業式の朝、つまり今朝、ユリエたちは担任から注意を受けていた。
 ――藤ヶ丘公園に遊びに行く者は、石の城≠ノは近付かないように。もろくなっていて崩れそうなところがあるらしいからな。
 藤ヶ丘公園のてっぺんには、石の城≠ニ呼ばれるモニュメントが存在する。その名の通り、巨石を組んで造った城塞のような形である。遺跡の類らしいが、K町は財政難であるため詳しい調査は実施されていない。じっさい行くかどうかは別として、「行くな」と言われた場所の近くに居るというだけでも、ユリエたちの冒険心は刺激されるものなのである。ユウタみたいな人間と一緒に居れば、なおのこと。
「みんな、空を見てくれる? ちょっと驚くよ。ここは特等席なんだ」
 ユウタは上空を仰ぎ見た。
 上がった。三人はもちろん、藤ヶ丘公園の端までも覆ってしまいそうな、
 花火。
 赤、青、黄色の三色で彩られ、大輪が花開く。そして消える。それを合図に、途中からは数えるのをやめたぐらいの花火ショー。光の花が開く音は三人の耳を突き抜けるようで、景色は立体視のメガネでも掛けているみたいに浮き上がって見える。ユリエは感動やら畏怖やら判別できない気持ちに襲われて、歩いていくだけで精一杯だった。だから今まで疑問に思っていたことをユウタに訊ねる気も失せてしまった。オオムラサキは昼の蝶で夜は眠っているんじゃないかとか、打ち上げてる人の姿が見当たらないのに花火が真上で開いているようにしか見えないとか。
 ユウタがプラスチックのトレーに乗ったお好み焼きを手渡した。
「はい、どうぞ」
 ユリエは一口食べてみた。じゅわりと広がる熱気。鼻をくすぐるかつおぶしの香り。ユウタを見詰めるのも、もはや何度目か知れない。ユウタはみなみにお好み焼きを渡している。
「えーと、誰だったっけ?」
「あの……。みなみ、です」
「明日、引っ越しちゃうんだよね。じゃあ、ボクと同じなんだね」
「え……?」
「きみと同じさ。ボクも明日になったら遠い所に行くんだ。せっかく会ったのに残念だよね……」
「そうなんですか……?」
 みなみの顔は、しだいに俯いていく。花火が上がっているのは空だというのに。それからしばらくの沈黙。ところで、みなみとユウタが喋っていようと黙っていようと、遠い位置にいるユリエには何も聞こえない。花火の音に消されてしまうからだ。
 みなみは顔を上げ、とつとつとユウタに訊いた。
「どこに……。行くんですか……?」
「それはちょっと、言えない」
「だったら、連絡は取れる?」
 桂子がユウタの肩を叩く。片手には携帯電話。
「携帯もってたら、教えて」
「ああ、いいよ。それなら――」
 ユウタは顎に人差し指を当て、その場で考えているような仕草。そのあと桂子に番号を告げた。
 みなみに笑顔が浮かんだ。
 風に運ばれる紙くずみたいなはかなげな表情でそのシーンを見ているのは、ユリエであった。
 花火乱舞もやがて終わり、あとには煙り空と静けさが残った。あいかわらず住宅地と森林とがせめぎ合う曲がり道を歩いていくと、左手の空がじわっと赤っぽく染まった。住宅の隙間を抜けて、お囃子の音色が流れてくる。
「さあ着いたよ。最後はここだ」
 四人が到着したのは藤ヶ丘北小学校。校庭を一杯に使って夏祭りが行われていた。
「うわっ。すご……!」
 ユリエは校門に立て掛けられた「夏祭納涼盆踊大会」の看板ごしに立ちすくんだほどだった。屋台は森のようにどこまでも軒をつらね、そのあいだを行きつ戻りつする人々は、校庭の白い砂を見えなくさせるほどだ。大きな庭石を引っ繰り返すと信じられない数の虫がうごめいていることがあるが、この大賑わいもそれと似ている。
「北小の学区って、こんなに人いるんだ……!」
 ユリエはまたもユウタに質問するのを失念した。看板を見た時点では、「盆踊りの時期ってこんなに早かったっけ?」という疑問が湧いていたのだが。
「いっぱいあるから、全部回れるかな? だけど楽しんで行ってくれよ。ボクもちょっと行ってくる!」
 ユウタは痛いほどの力でユリエの肩を叩き、ありあまる力を使い果たそうとするかのように、駆け足で人々の渦へと飛び込んで行った。
「あ、ちょっと、ユウタ!」
 密林のごとき人波に向けて無意識に手を差し出していた自分に気付く。人々の浴衣は流動するモザイクのようにごちゃごちゃ移り変わり、ユウタがどのあたりに入って行ったのかはもう分からない。じりじりと痛む肩に、ユリエはそっと手を当てる。なぜかは知らないが、ユウタには二度と会えなくなる気がした。
 みなみが一人ささやいた。
「ユウタさん、行っちゃったんですか……?」
 その湿っぽい声が聞こえると、ユリエは胸に痛みが走った。みなみの柳眉の下で開かれた目は、触ろうとする指を切る笹の葉のような静かな力を持っている。まるで、その目には確かな何かが見えているみたいに。
「私達よりもお祭りが優先か。子供だねえ。私達も子供だけどね」
 桂子が苦笑した。ユリエは桂子がいつでも穏やかさを完全に手放さないでコメントをくれることを有難いと感じる。とくに今、そう感じる。
「さて、ユリちゃん、どうする?」
「そ、そうね。とりあえず、私達も見て回ろうか……」
 と、ユリエは提案してみる。自分では思い切り笑ったつもりだけど、うまくできていただろうか。
 それからどういう屋台を回り、どういうものを食べ、どういうアトラクションをやっていたのだろうか。ユリエは人々の浴衣の帯の色とか、たくさんの足のあいだに見える校庭の砂とか、そういう景色しか思い出すことができない。
 あとは、桂子とみなみの取るに足りない会話なんかを覚えていた。
「桂子ちゃん。さっきユウタさんの番号きいていましたよね?」
「うん、一応ね」
「お願いがあるんですけど、後で……」
「え? 番号を知りたい? 言ってもいいけど、みなみ携帯もってないんじゃない?」
「ここで覚えるから大丈夫です……。忘れないですから……。私と同じなんです……。あの人も、遠くに行くって言ってました。あとで連絡してみたいな……って」
「へー。私は驚いてるよ。みなみはああいう不思議ちゃんが好みなのかな。クラスに居る時は、男子の存在を認識しているのかと思っていたけど」
「……」
 みなみは慌てるでもなく赤面するでもない。
「はい……。好きだと思います。いいお友達になれそうだと思っているんです」
 みなみはすがすがしいほど力の抜けた顔で微笑した。そして、忘れ物がないか確かめる時のように、一度うしろを振り返った。
 そう、取るに足らない会話であろう。
 ユリエとしては、「なによ。みなみはユウタが好きなの? だったら今から言いに行かなきゃ! ユウタを探しに行くわよ!」と、いつも通りの調子でみなみを引っ張っていけばいいだけなのだから。
 だけど、そうしなかったことは確かだった。
 そのとき重ねてみなみが呟いた。
「感謝したいです……。どうしてこの町にはいい思い出しかないんでしょう……。楽しいことを味わいすぎちゃったから、行かなきゃいけないんでしょうか……。行かなきゃいけないのに、感謝の気持ちしか出てこないです……」
 ユリエは背中で聞いていた。
 ……覚えているのは、そこまでだ。
 今、ユリエは、会場のどこかにある白テントの下で雨やどりをしている。夏特有の肌を削るような雷雨ではないが、しとしとと長く続きそうな雨降り。やぐらを何周も囲んでいた盆踊りの同心円がほどけ、ぶち模様の浴衣がうちわをかざしながら次々とテントに入る。
 ユリエの隣で桂子が言う。
「はぐれちゃったみたいね。みなみと。大丈夫かな」
「……けーこ。あのね」
 ユリエは上の空で呟き、
 突然、桂子の腕を捕らえた。
「今の私、おかしいでしょ? おかしいよね? 分かってる! それは分かってるけど、今は黙って聞いて! 携帯貸してちょうだい! 私、携帯もってないから。急いで貸して、早く!」
 桂子はユリエの勢いに押され、何はともかくという感じで携帯電話を手渡した。
 携帯を抱えるように握りしめるユリエを見て、桂子にも怪訝な顔色が表れてくる。
 ユリエは桂子をぎりっと睨む。その目は誘蛾灯のように青ざめてすわっているようにも見えるし、祭りの照明で赤く血走っているようにも見える。ユリエは携帯電話を短刀のように突き付け、桂子に囁いた。
「出してくれる? ……ユウタの番号」
 桂子は自分がどんなことをやったのかは未だに分かっていない。しかし、携帯を渡したせいでユリエがこんな形相になったのなら渡さなかったほうが良かったかもしれない、と思った。そして、ユリエのお願いを断る理由はなかった。二人は仲良しだからである。桂子はユウタの番号を表示させて渡す。ユリエはすぐに電話した。
「……ユウタ? 私。ユリエ。お祭りの会場にまだ居る? よかった! 大事な用があるの、行ってもいい? ……うん! すぐ行く!」
 電話を終えたユリエは、ねばつく溶岩みたいな思い詰めた目のまま言った。
「恩に着るよ、けーこ。ほんとにありがと」
「一体どうしたっていうの?」
「どうしたって……? けーこ、何も分かってないの? あんたをみなみから引き離して、ここまで連れてきたのは、この私なのに」
「え……?」
「すぐ戻るから、待ってて!」
 ユリエは桂子の返答も待たず、テントの外へ飛び出した。

                    Ψ

 ……やぐらの上。
 ユウタが指定した場所をめざす。人はまばらだし、雨も大したことないし、やぐらはすぐそこだ。なんで遠く感じるんだろう? 息を切らしてやぐらに登り着くと、ユウタが真ん中に一人で座っていた。
「やあ。きみか」
「覚えてよ……。名前……。雨やどりできる所に行かない? ここに居ると、濡れ……」
 その時、ユリエは登りきったハシゴを危うく落ちるところだった。
 驚きのあまり。
 テラテラと雨で黒光りしている床だが、ユウタの周囲だけは真っ白く乾いたままである。雨がユウタをよけている。
「雨? 心配しなくて大丈夫。すぐやむ」
「どうして? あんたが降らせているから?」
 ユウタはぼんやりとして答えない。
 口を開いたのは、ユリエがやぐらの中へと進んで来た時だ。
「下に仲良しの子が居るよ。あの子も呼んできてあげなよ」
 校庭に立っているみなみの姿が見えた。
 みなみはやぐらの方を向いていたが、やぐらの上は見ていなかった。もし見たとしても、座っているユウタの姿は見えないだろう。
 ユリエもしゃがみ込めばみなみから隠れることはできただろう。だが、そうはしなかった。三人とも用事があっても、三人とも暗黙のうちに抜け出してくるような仲間だ。こんな会場で離ればなれになったくらいなら、どっち方面を探せば見つかるか勘が働かないわけはない。きっと隠れる前に見付かる。しゃがみ込もうとした途端、パッと目を開けるのではないだろうか。ユリエはそんな空想さえしてしまう。
 みなみは目を閉じて立っている。それは、目を閉じた暗闇の中にK町での思い出を投影しているように見えたし、体を濡らす雨さえ心ゆくまで味わいたいと考えているようにも見えた。
 ユリエは回れ右をして、ユウタの背中に向かって呟く。
「みなみ。やましいからじゃないわよ。くやしいけどさ……。ゴメンって思うけどさ……。ぬけがけでもしなきゃ、私は、みなみにはかなわないんだもん」
「え? なにか言ったかい?」
「言ったし、これからやるのよ! ついてきて!」
 ユリエはユウタの手首を強引に掴んだ。
 
「みつけた。みなみっ」
 雨が収まり、ふたたび校庭に人が広がりだす。桂子がみなみに駆け寄った。
「こんなところで、なにを?」
「えへへ、なにも……。私がまいごになったことって、昔もありましたね。二人に見付けてもらったんでしたよね。そのとき、ユリエちゃんにきつく言われてましたから。まいごになったら動かないで立ってなさい、私が探してあげるからって……」
 はぐれてから三秒しか経っていないような調子でみなみは応え、ふだんは若干吊り目な彼女の目が時として垂れ目に見えることもあるのだと思わせる笑顔を湛えた。
「その様子だと、ユリちゃんには……会ってないね?」
「ユリエちゃんも何処かに行っちゃったんですか?」
 と尋ねたみなみは、何かを感じでもしたのか、急に後ろを向いた。
「どうしたの、みなみ」
「ユリエちゃん……?」
 裏手にこんもりと広がる藤ヶ丘公園の影。木のシルエットが連なってステゴザウルスの背中みたいだ。
「校庭から公園に登れるって、ユウタが言ってたわね。だけどまさか、夜なのに登ったりしないでしょう」
 桂子は親友を安心させようとむりやり笑ってみる。しかしみなみは、しっかりした目つきで公園のシルエットを見上げているだけだ。はじめからずっと。桂子は、安心しようとしているのは自分だと気付いた。
 桂子は自分の中に居るユリエに向かって、冷静に問い掛けてみる。「藤ヶ丘公園に気まぐれで登ることは無いという保証を、私にくれますか?」と。
 何回やってみてもユリエは同じことを笑顔で即答するばかりだ。
「桂子ちゃん? 桂子ちゃん? 大変。大変です……」
 みなみが耳元で叫び、桂子はハッと我に返る。
 祭りの賑わいが、跡形もなく消えていた。
 だだっ広い校庭に立っているのは、二人だけであった。
 
                    Ψ
 
「疲れたなあ。どうして藤ヶ丘公園に行こうなんて思ったの? 夏祭りはつまらなかった?」
 ユウタは口と同様によく動く足で、跳ねるように遊歩道を上がる。疲れているようには見えない。急斜面を登っているユリエの背中には、ファミレスを含む北学区の夜景がこぢんまりと広がりだしたけれど、そんなものを見ていたらユウタに置いて行かれそうだ。桂子から借りてきた携帯電話が鳴ってるけど、それもこのさい無視。そういえば、いま気が付いたけど、ユウタは素足で歩いているんだな。
「ちょっと。歩くの早いってば! ……。お祭りはねえ、見なくても構わなかったのよ! 言ったでしょ、私はあんたに用事があるって。そっちの方が大事」
「そうだったかな。何の用事があるの? ゆっくり聞くからおいで」
 一足先に頂上の広場に着いたユウタが手を差しのべ、ユリエをぐいっと引っ張り上げた。携帯電話がまた鳴っている。これじゃ雰囲気が台ナシ! ……まあいいか。自分は雰囲気なんかを気にする柄じゃない。
 ユウタはぶらぶらと石の城≠フ方へ。ユリエも追いかける。
「ねえ、明日は何処に行くのよ」
「きみに言ったって始まらないよ」
 反射的にカチンときたが、ユリエにしては必死の努力で押し隠す。
「それ、どうしてよ? あんたは普通の人間じゃないから?」
「へ〜。どーして、そのことを?」
「誰だって気が付くに決まってるわ。あんたに会ってから、フシギなことしか起きてないじゃない。偶然だとしたら、出来過ぎにもホドがあるわ!」
「偶然だったんじゃない?」
「違うわよ。花火を打ち上げてる人も居なかったじゃない! それからね、盆踊りの季節にはまだ早いはずよ」
「しまった。すこしトチったか」
 ユウタはサラリと答え、微笑とともにユリエを振り返った。その目がみなみに良く似ていると思ったのは何故だろう。
 ユウタは石の城≠フ側壁に手をつき、いかにも適当な感じで訊いた。
「んで? ボクが人間じゃなかったら、何なのさ?」
「べつに、どーでもいい」
「?」
 カメのように首を突き出すユウタ。
 ユリエは二歩、三歩と近付き、ユウタに両手をのばした。
 ……が、けっきょく途中でやめ、胸の前で腕をたたんでしまった。
「あんたが人間じゃなくたって構わないわ。私はカッコイイなって思うだけ。あんな不思議なことできるなんて、すごいよ」
「あははは。そうかもね」
「だ、だから……。残念なのよ」
 襟足のあたりが、うだるように熱い。リボンをほどいたらどうなるんだろう、なんて思う。ユリエはユウタと目を合わせていられない。といって、遠ざかることもできない。――ああ、もう! なにこれ? どうしてカラダが言うこと聞かないんだろう!
「……ねえっ! 私、ユウタが好きなの。すごく好き。だから、行って欲しくないのよ!」
 ……なーんだ。と、ユリエは思った。いざとなったら、私はちゃんとユウタを見詰めて、真っ正面から叫べたじゃないの。
 と言っても、やはりカラダのいろんなところが制御できていないようだ。涙は出るし、息は詰まるし。
 ユウタは壁を背にずるりずるりと座り込み、細い腕をのばした。
 ユリエも手をのばすと、ぎりぎりつながった。
「大丈夫だよ。遠くへ行くわけじゃないから」
 ユウタの手が震えている。声も急に弱々しくなった。まるで花がしぼんだかのようだ。
「きみが見抜いた通り、ボクは人間じゃない。ボクの正体は、夏休み≠ネんだ」
「え?」
「夏休み≠セよ。きみならまだ分かるはず。おかしいなんて思わないはず」
「ユウタは、夏休み≠フ妖精、みたいなものなの?」
「妖精でも、幽霊でも、ご自由に。無数の子供たちの夏休み≠ヨの期待が集まったものがボクなんだ。子供たちが夏休み≠ノ何も期待しなくなったら、ボクは存在しなくなる。だけど、それは絶対にありえないのさ。今年もきみたちみたいな人がボクを呼んでくれた。ボクは一年に一度、夏休みの前夜だけ現れることを許される。ボクは子供たちの夏休み≠ヨの期待をすくい上げて、形にして見せてあげることができる。一晩かぎりの力だよ。きみたちは信じるよね?」
「信じる。私は信じるわ……」
 ユリエはユウタの手がどんどん冷えていくのを感じた。
「でも、もう夜も更ける。そろそろ消える時間なんだ。来年のボクは、今年のことを一つ残らず忘れちまう。毎年そうなんだ。ひょっとすると昔もきみたちに会っていたかもしれないけど、ボクには分からない。だから、ボクには相手の名前を覚えるっていう機能が無いのさ……。ねえきみ、今年の夏休みと来年の夏休みは、まるっきり違うものだよ。きみたちは背が伸びるし、好きだったものが好きじゃなくなったりするし、その逆もあるだろうし、友達関係も変わったりしているものさ。そうだろう?」
「そんなことないと……思うよ……」
 ユリエが途中で言い詰まったのは、ふいに涙が湧き出すのをゆるしてしまったからだった。
「変わらないわよ。いいものは変わらないって……。思うから……」
「人間には変わらないものもある。思い出なんかそうだ。変わらずに持っておける。それはいいことだよね。正直、ボクはね、つぎに出てくるときに何も覚えていないなんて嫌だよ。来年の今日、きみたちと会っても、ボクは気付かない。それがとても悲しい」
 ユリエは涙がボロボロこぼれて止まらない。だけど、もはや気にはせず、まばたきや呼吸さえ殺してユウタを一心に見ていた。来年はもうユウタには会えない。ユウタは居るかもしれないけど、いまここに手をつないでいるユウタじゃない。来年は自己紹介からやり直し。再来年もそう。積み上げるもののない永遠のループ。ユウタの腕は、鉄の彫刻みたいに重たくなる。
「でも、いちばん悲しいのは、あの子のことを忘れちゃうってこと、かな」
「あの子?」
「こうやって一人になると、ひしひしと分かるんだ。あの子と一緒に居た時間……。ほんのちょっとだったけど、その時間がどんなに素晴らしかったかっていうこと。あの子もボクと同じだね。遠いところに引っ越すって言ってた。もう一回会いたいよ! ところがここに居るのはきみだ。無理な話っていうことか」
 ユウタは夜景を眺めて呟いた。
 ユリエは草の上にぺたっと座り込んだ。まだユウタと手をつないだままだが、そのことを忘れていたぐらいだ。思わず吹き出したくなるほど、ユリエは無意味に空虚な感じがした。しかし笑う元気はなく、涙を拭くぐらいには冷静で、現在の一瞬一瞬が重苦しかった。
 喩えて言うなら、ここちよい夢から覚めて、しかも寝坊していると分かった時みたいな気持ちである。
 しかしながら、夢心地という聞こえのよい表現を使うのは、どうも逃げている感じが否めない。
「ふふん。なによ。ただの妄想だったんじゃない。勝手な妄想に振り回されて、みんなを振り回してさ。本当に私ってバカ!」
 音が聞こえる。
 電話の呼び出し音だ。いま掛かってきたのだろうか。あるいは、さっきから鳴っていたのかもしれない。しつこいので、仕方なく出る。あいている方の手を使って。
「はい。もしもし?」
 動転した声が響いてくる。そして、動転してくれているおかげで、ユリエは途中まで桂子の役をやりおおせたのだが。
〈桂子、あなた、今何処なの? 帰って来て、病院に来なさい! おじいちゃんが、おじいちゃんが!〉
「……」
 ユリエは無意識に携帯を耳から遠ざけていた。
 そして、意識的に電話を切った。
 ため息ひとつつくにしても、そのあとに吸う熱帯魚の水槽の水みたいな空気が喉につっかえて苦しい。夏の夜の空気は、湿気が多くて濃すぎるから嫌いだ。だけど、こんなに空気が濃いのは一年中で夏しかないのだし、そう考えると残念ながら好きになってしまう。
 ユウタが顔を引きつらせて笑う。
「ねえ、傷付いたかい? だけどさあ、しょうがないじゃない。きみはあの子じゃないんだもの。期待に応え続けるだけの役割って、じつは疲れるんだよ。たまに八つ当たりしたくなることもあるんだ」
「今の私もそうよ。あんたに当たり散らしたい気分だわ。よりによってここでみなみのこと言わないでもいいじゃないの……。だけど残念だったわね。ここに居るのは私よ。みなみじゃないわ。あんた、今晩かぎりで消えちゃうんだってねえ。アハッ、いい気味!」
 ユリエは背骨のない軟体動物のように、うずくまったまま呟く。
 ユウタは驚いて顔を上げた。
 つながっている片方の手を、ユリエがぎゅうっと握り返したからだ。
 ユリエはぐいっと手を引き、飛び跳ねるように立ち上がった。彼女は腰を折り、ユウタにずいと顔を近付けた。
 そして、やわらかに笑ってみせた。その表情は、夏の湿っぽさと暑さの中に置いていたら半日で腐ってしまいそうなくらい、まっさらでツヤがあった。
「ここにみなみが居たら、どれだけ良かったんだろうね。私だってそう思うよ。だけどここには私しか居ないわ。だから、どうする? 悪口を言う? それとも追い払う? 悪口いわれたっていい。追い払われたっていい。……それでも、私はここに居たい! だってあんた、消えちゃうんでしょう? ひとりで消えるなんて、嫌だよね。寂しいよね。消えちゃうのは怖いけどさ。残念だけどさ。でもせめて私がついててあげる。いっしょにいてあげる!」
 ユウタは黙っていた。じっと聞いていたようだった。
 あるいは、なにも聞こえていないかのようだった。
 ユウタは、子供とは思えない力で、腕も取れよとばかりにユリエを引っ張った。ユリエは悲鳴とともに地面に倒された。
「気配り無用。いっしょにいるって? 最初からそのつもりだよ。きみはボクといっしょに来てもらうよ……」
 石のように硬い両手がユリエをつかんだ。
「きみみたいに大人びた子供は、大っ嫌いだよ。子供だったら、夏休みには期待しなきゃいけない。ただの期待じゃないよ。無条件の期待。形のない期待。夏休みっていうだけで入道雲みたいにもくもくと湧いてくるような、そういう期待じゃなきゃだめなんだよ。だけどきみは、ボクを望んだね。ボクという特定のモノを望んだよね。それはお金とか地位とかを望む大人と変わりはしない。きみは大人になってしまったんだよ。だからきみは夏休みを迎える資格は無い。ボクはきみを連れて行く!」
「ちょっとまってよ! ユウタ、なにを……!」
 心理的にも物理的にも、そう叫ぶだけがせいぜいだった。
 喋っているうちにユウタの体は人間の形を失い、ぶよぶよと動く石の怪物と化していたのだから。
 ユリエが逃げようとすると、石の指先がひどく肉に食い込むのだった。ユリエがなおも抵抗すると、怪物はセメントみたいに体を枝分かれさせ、両側からユリエを板挟みにした。石のつるが植物のように伸び、ユリエを完全につかまえた。
 
                    Ψ
 
「ユリちゃーん!」
「ユリエちゃん……!」
 桂子とみなみは空しく声を張り上げる。ユリエを探して公園のてっぺんまでやって来たものの、どこにも姿はない。立入禁止と言われた石の城≠フ影のみが、静かにたたずんでいる。
「みなみ! こっち来て!」
 桂子は草むらの中に何かを見付け、微動だにしなかった。
 駆け寄ってきたみなみも同じだった。
 桂子はこわごわとピンクのリボンをつまみ上げ、石の城≠ヨと目をやる。
 まるで大きな生き物が這って行ったような痕が、草の上に残されていた。
 リボンを握りしめ、桂子は石の城≠フ入口に向かう。みなみはその後ろに。
 みなみは、入口に差し掛かった時、桂子の後頭部に頭をぶつけた。桂子が急に立ち止まったからだ。
「ギャーッ!」
 耳をつんざく絶叫。こんな奇声などまず上げないだろうという桂子が、奇声を上げている。そのことにみなみは驚く。
「桂子ちゃん? どうし……」
 ひたっと体を寄せてくる桂子。あまりの重さにみなみはよろめく。桂子は腰がぬけていた。二人はひとかたまりで倒れ、倒れながらもみなみは奥を見ようとする。
 石の床にぽっかりと浮いている、ユリエの上半身。
 ここに救急隊がいたら、彼らは110番通報するだろう。上半身しかない人間に人工呼吸しても徒労でしかないし、彼らが冷静であったとしても「体の半分が石に飲み込まれた」なんて考えるのは難しいのだから。とにかく、小学生ならずとも恐怖を覚えるような光景だった。
 が、みなみは悲鳴を上げるヒマもなかった。床が沸騰するみたいにぼこぼこと揺れ動く。
「キミハ……。キテクレタンダネ」
 石の柱が粘っこく盛り上がり、両膝立ちのみなみを取り囲む。みなみの目に涙がにじみ、小さく開いた唇は血色がない。
「あなたは……。誰……?」
「ボクダヨ。ユウタダヨ」
「ユウタ……。さん……?」
 やがて、みなみの目つきが変わった。
 まるで、自分の部屋で物を整理しているときのような、落ち着き払った目に。
 唇は一文字に閉じ、小生意気なふぜいさえ漂った。
 そしてみなみは言った。
「嘘」
 と。
「あなたはユウタさんじゃない。ただのオバケです。石の城≠ェ立入禁止になったのは、オバケが出るからだったんですね。ユリエちゃんをさらって食べるつもりなんですね」
「チガウ。ボクハユウタナンダ。ボクハナツヤスミノヨウセイダ。ミンナガネガウ、ナツヤスミノ……」
「夏休み……?」
 すっくと立つみなみ。顔色ひとつ変えずに言う。
「馬鹿にしないでください。なにが夏休みですか。さっきまで、あんなに……。あんなに三人とも楽しかったんですよ。あなたは本当に夏休みなんですか。どうしてこんなことにならなきゃいけないんですか?」
 石の化物に意見する親友を、桂子はファミレスでの記憶を辿りながら眺めている。そして、店長の前で一番先に番号を言おうとしたのはこの子だったなあと思い出すのであった。
「いやです」
 みなみは肩にかかる髪の毛を暑そうに払いのける。
「こんな夏休みは、いやです。私達はこんな夏休みを送るわけありません。送っていいわけがありません。本当の夏休みを返してください」
 みなみは座り込み、非力な手で石の床をぴしゃっと叩いた。
 なんと、たったそれだけで床には亀裂が入り、石の化物はみるみる砂礫と化した。夕立の時に響く雷のような悲鳴を残して。
 ハッと気付いた桂子がユリエの所に走る。みなみと二人がかりで、埋もれていたユリエを掘り起こした。
 
                    Ψ
 
 窓から眺める夏空はどこまでも高い。あまりにも暑すぎて、夏休みの象徴ともいえる入道雲すら消し飛んでしまったのだろうか。
 ユリエは病室のベッドに座り、リボンがないためばさりと下ろしている髪のように、気が抜けた顔をしている。この病院のどこかには、お見舞いに来てくれている桂子のおじいちゃんも入院中である。桂子のおじいちゃんは、昨夜一度危うくなりかけたが、けさになって嘘のように回復したという。
 目を覚ました時、みなみは居なかった。予定通りに今朝引っ越して行ったそうだ。もっとも、ユリエは起きていたとしても、足の骨が折れている以上、みなみを見送りには行けなかっただろう。ユリエは桂子から鉛筆を借り、さっそくベッド上で手紙を書いている。
 部屋に蝿が入って来たので、桂子が窓辺に行き、からからと網戸を閉めた。
 桂子は外を眺め、呟いた。
「みなみは行っちゃったけど、私達、もっと仲良くしたいね。みなみの分も」
「そうよね」
 ユリエは涙声で言った。集中力を切らしたらしく、鉛筆を放り出し、トイレに向かう。しかしユリエは怪我のことを忘れていたようだ。ベッドから降りた途端、ギプスがつかえて転倒。
「大丈夫? 松葉杖つかわなきゃ」
 桂子が助け起こそうとする。
 ユリエは手を上げて断りを入れた。
「やめて。ちゃんと立つから……。私は大丈夫!」
 ユリエがベッドを掴んで起き上がる間、桂子は立て掛けてある松葉杖を取って来る。ユリエは松葉杖をついて廊下に出た。桂子もついて行く。
「あんまり焦っちゃだめよ? どうせ夏休みいっぱいかかるんだから」
「ちぇーっ。これだったら今年の夏休みは必要ないくらいよ! けーこ、退院するまで、毎日来てちょうだいよ! じゃないと退屈で死んじゃう」
「はいはい、分かったわよ。……ま、今年は諦めて、おとなしく宿題でもするのね」
「そんなの知らないわ。でもこれは確実よ! 来年の夏休みは、今年の分まで遊んでやるってこと! そうね、まずは北小学校の夏祭りをゆっくり見たいわね! それと、藤ヶ丘公園にハイキングにも行きたい! あとは、みなみの家に遊びに行くとかはどう?」
「いいね! やろう、やろう。でもその前に、まずは、壊れちゃった携帯電話を弁償してもらうわね?」
「げっ」
「そう青い顔しないで。毎日勉強みてあげるから」
「ちょっと待って。私、勉強きらいだし。まず話がつながってないし」
「骨がつながるまでの辛抱ってことね。覚悟してもらうわよ〜」
 笑顔で指の骨を鳴らす桂子のオーラを不気味に感じつつ、ユリエは泣きが入る。こういう時は、こう言わざるを得ない。
「はぁ……。たすけてよぉ、みなみー」
「申し訳ないですけど……。お断りします」
 と、つつましく答えるみなみが目に浮かぶけれど。

(終)
(0807)







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