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 マチさんは片方の眉をちょっとしかめた。二つの意味で驚く。マチさんが非日常的な顔を見せたことと、その程度の顔しかしなくていいのかということ。フランベルジェがなぞった跡を、トマトのような赤がベタリと覆った。まるで貼り紙のように。
 マチさんは、上から吊られた人形のように、クラクラよろめいた。頭は力なく回り、あたしを見た。目が合った。
 その時――
 心の中で「マチさん」と呼ぶことしかできなかった。
 たぶん、驚きすぎたせいで。
 マチさんを見て「マチさん」と呼ぶ。なんていう単純な言明。
 だけどあたしは、この時、分かったんだ。問答無用で分かった。嬉しいくらい分かった。マチさんの全部が。
 授業で習ったけど、パスカルという教科書の太字の人物は、「人間は考える葦である」などと言ったそうだ。今ならパスカル氏の気持ちにもなれる。あたしは人間全体のことは知らないが、皆野マチという女の子一人についてなら言える。「この人がマチさんだ」と。
 剣の刃がギラリと返った。二度目の斬撃が浴びせられた。マチさんの体に、大きな×印が穿たれた。
 間髪入れず剣が引かれた。突き刺さった。ズブズブズブー。根元まで。二人の影が一つに重なった。
「待って! さやきさん、やめて!」
 今更ながらに叫んだ。あまりにも遅すぎた。だがなぜ、あたしは今まで叫びすらしなかったんだろう? 分かっている。あっという間だったから。「やめて」と叫んだら、本当になってしまう。マチさんが斬られたことが。さやきさんが斬ったことが。
 さやきさんは、剣を強く握り、体を傾けた。突進した。屋上の縁。
 さやきさんは剣を手放した。
「おまえなんて、消えればいいのよ」
 屋上から、マチさんは蹴り落とされた。
 こちらに向き直るさやきさん。掃除の罰当番の後みたいに機嫌は悪そうだ。うつむいていた顔を上げた。顔半分が血で染まっている。
 あたしは、引き返して来たさやきさんと入れ違いに、屋上の縁に向かった。
 玄関先にマチさんが寝ていた。
 静かな風景だった。受取人不在の荷物が置かれているようで。
 おなかに剣が刺さっていた。でも、それも気にしていないみたいに、マチさんは目を閉じていた。
 痛いのも忘れてしまうくらい、眠たかったのかな。
「さすがの逸材ですね。流れるような処分でした。いつもよりスマートでした」
 あたしの傍に、牛氏が立っていた。
「使ってください。ここで涙を流すのは損かと思いますが」
 ハンカチを差し出した。男なのにハンカチを携帯しているのか。でも、借りておこう。
 ……?
 ハンカチを取ろうとしたあたしは、手に力が入らなかった。いや、体じゅうの力が重力と仲良くなったようで、地べたにひっついているだけだった。
「あああああ。うわああああああ」
 言葉にはできなかった。わめいているだけで精一杯だ。なんでなんだ。でもせめて心の中ではちゃんと言葉にしよう。ごめん。マチさん、ごめんよ……。あたしはどうして謝っているのだろう。あたしは、あたしなりに、ちゃんと努力したじゃないか。自宅でアイスキャンデーを食べたりしていたわけじゃないだろ。さやきさんにマチさんが襲われないように、うろうろながらも、立ち回っていたじゃないか。ていうか、立ち回ったのが悪いのか。あたしが屋上から顔を出さなきゃ、さやきさんには見付からなかったよね。
 ……でも。マチさんはきっと、あたしの不注意ミスを気にしちゃいなかったと思う。それどころか、あたしのことを許してくれてさえいたと思う。
 おそらく、マチさんは未来を知っていた。
 だから、あたしが不注意ミスするのも知っていて、黙ってさやきさんに斬られて、
 あたしを見て、笑ったんだ。
 少しだけ、本当に少しだけ。
 錯覚だったかもしれないけど、あたしにはそう見えた。
 ああ、だからなおさら、か。だからあたしは、謝りたくなったのか。ごめんよと。
 溜め息が出た。
 あたしは歯を食いしばった。さやきさんを睨み付けた。ハンカチを捨て、走った。これを実演するのは初めてだろうな。さやきさんが実演してたのを見たことがあるだけだ。
 グーパンチで、さやきさんを殴った。
 さやきさんは無言で膝をついた。
 効いているのかどうか知らないけど、構うことはない。やらなきゃ気が済まなかった。
 まだ気は済まない。まだ、まだ、まだ。二発目を叩き込もうとする。
 ひらりとかわされた。今度はあたしが地面に這った。
 分かっていた。
 いくら殴ったって、それと同じ数か、それ以上の数を殴りたい気持ちになるんだってことは。
「やったわね。……覚えといてあげるわ」
 さやきさんは血の混じった唾を吐いた。それは自分の血かい。それともマチさんの返り血?
「今までも私は敵を作ってきたわ。バカらしいから、もうやめていたの。おまえが久し振りよ。だから言ったじゃない。……学校では目立ちたくないって」
 さやきさんは自動再生みたいに言った。
「私が憎かったら、命でも狙えばいいのよ。無能力の凡人が私に挑んでも結果は見えてるけど。そういう奴らをかわいがるのは私の趣味よ」
 さやきさんは乾いた笑いを放つ。

「まあまあ、ご両人。真剣になりすぎませんよう。上杉さんにはコレをどうぞ」
 牛氏が間に入った。ぶ厚い本を開き、あたしに差し出した。さっき牛氏が読んでいたモノのようだ。
「未了台帳≠ニいうモノです。この町の未来の出来事が記されています」
 なんだ、未了台帳か。言われなくても知ってる。マチさんの仕事道具である。
 あれ? どうして牛氏がマチさんの道具を持っているの?
 疑問を唱える暇もなく、あたしの目は台帳のページに吸い寄せられた。
 そのページには、今日起こるイベントがすべて記されていた。
 ――もちろん、たった今起こるまで、未来のイベントだったものも含めて。
「何と書いてあります?」
 うるさい。
 悪いけど検索の邪魔をしないで!
「皆野マチ」という単語を探しながら読む。自然にそうしていた。
 あった。
 目ぼしい箇所を拾い読んだ。
 
〈天箒さやきは皆野マチを襲撃する。〉

〈上杉里美はこれを防ごうとするも、防ぐことはできない。〉

〈天箒さやきは所持せる剣にて皆野マチに斬撃を与える。このうち二度目の斬撃は致命傷となり、皆野マチは死亡する。〉

〈天箒さやきは当該家屋の屋上西側より皆野マチを落下せしめる。〉

「どうです。お分かりでしょうか? 皆野マチ氏の死亡は予め定められていたのですよ。そしてその通りになりました。運命に従ったとでも言うべきでしょうか? マチ氏が運命を受け入れていたならば、われわれがとやかく言う必要はありません。ご両人も険悪な雰囲気を作る必要は無いのですよ?」
 牛氏は偽善的に微笑んだ。
 彼が裏でいろいろ動いていることは分かったが、なぜ? なんのために? ……いや、そんなことではない。
 あたしが言いたかったのは、「違う」ということだ。
 マチさんは、「運命を受け入れた」んじゃない。
 それしかできなかったんだ。史士は自分の未来に介入できない。
「マチさん、あんた、悪趣味だよ。こんなイベント、楽しくない。面白くないよ。あたしが見たいわけないじゃないか……」
 息を吐くように泣き言が口をつく。こういう局面も人生にはあるんだな。あたしはまだ高校生なのになァ。

 でも、萎えている一方で、あたしは明晰に閃いた。
 今、あたしが見ている物は、未了台帳。
 ここには未来のイベントが記されている。
 それなら、今からは何のイベントが起こるだろう? 
 ――いや、きっと起こってくれるはずだった。
 一発逆転。
 起死回生。
 そう、文字通り、起死回生のイベントが。
 マチさんは、面白いイベントが起きると知ったから、あたしを自宅に招待してくれたはずだ。「イベントが発生する。だから、私の家に」と。そう言ってくれたのを覚えている。いつも通りの眠たげな目を覚えている。
 イベントがここで終わり?
 そんなの信じられない。
 そうよ。まだ続きがあるでしょ? 続きは台帳に書いてあるわよね? 
 まだイベントは続くよね? 終わった瞬間、マチさんに駆け寄り、抱き締めちゃうようなイベントが残っているのよね? 
 生き返ってくれるよね。マチさんなら、生き返れるよね。
 あたしは台帳を舐めるように見た。
 宝くじの束を握り、当選番号を見る人のような思いだった。
 どうか、奇跡的なイベントが記されていますように。


 無かった。
 どこまでも。
 何ページめくっても。

 たとえば、適当に抜き出す。

 
〈上杉里美は21時45分に帰宅する。〉

〈天箒さやきは21時02分に帰宅する。〉


 こんな他愛もない記述ばかりだ。
 あたしは台帳を見るのがイヤになってしまった。平凡なイベントが羅列されているだけで、何回見直しても、「マチさんが生き返る」とは書かれていなかった。

〈皆野マチは死亡する。〉

 その一行以降、マチさんの名前は台帳に現れなかった。
 何回も見返した。マチさんの名前が浮かび上がることは無かった。
 何回も、見返した。
 ページの一部分が、丸くふやけていた。
 あたしの涙でふやけたのだ。
「こんなの……。こんな台帳……」
 あたしは台帳を枕のようにして、うずくまって泣いた。
「わああああああああああああ、
 あああああああああああああ、
 ああああああああああああああああ――」
「悲しみに暮れているところ、失礼」
 いとも事務的に、牛氏があたしから台帳を取り上げた。
「借りた台帳は元の場所に戻しましょう。……そうですよね、皆野女史?」
 牛氏は幽霊にでも言うように、空気に向かって微笑した。机の上に台帳を置いた。
「牛、行くわよ。さっさとなさい」
 さやきさんがハシゴの降り口で催促する。
「あぁ、はいはい」
 牛氏はさやきさんに返答を投げ、こっそりとあたしの所へ来た。
 微笑仮面があたしに言った。
「泣かないで」
 予想もしないセリフだった。
 偽善くさい笑顔と、思いやりある言葉。
「――と言っても無理でしょうね。たしか、あなたが泣くことも、台帳には書いてありました」
「?」
「これからが、わたくしにとってのお楽しみです」
 牛氏は、むずむずと蠢く唇に人差し指をかざした。
 その瞬間。
 
 屋上がパーッと明るくなった。
 幻想的。
 いや、人工的? 機械的?
 ひとことで言うと「不思議な」景色だった。
 光球がたくさん浮いていた。
 屋上を取り巻いていた。
 光球はどれも大きくて、最低でも一メートルはあった。みんなきれいな球状で、いびつな形はしていない。色とりどりに光っている。絵の具を溶かしたように淡く光っていた。ガラス細工のように半透明で、空の星が透けて見えるほどだった。
「これは――」
「何――?」
 あたしとさやきさんの声が連なった。
 これはさやきさんの能力ではないようだ。
 なら、誰?

 ガシュッ
 
 机の上で音がした。
 台帳が無かった。
 いや、台帳と同じ大きさの穴があり、その中に収まっていたのだ。
 なに、この自動机? 
 それとも、机型ロボット? 
 どっちにしろ、いったいなに? 
 台帳が収納された穴は自動ドアのように塞がれた。元の天板になった。

 ジャキッ。

 別の箇所が開いた。中から白い物体がせり上がった。
 机と同じ白色のディスプレイだった。それと……? あたしは、浮いている球体をよけ、机に近づいた。
 椅子側から確認するとやはりディスプレイだ。
 ホワイトスクリーン。画面は真っ白である。
 これはテレビ? それとも――

 ジャキッ。
 ジャキッ。

 ディスプレイを囲む形で、左右にもディスプレイが生えた。
 グニュグニュグニュ。
 うわ。今度は何。
 天板が蠢いた。芋虫の足のようにぼこぼこと。
 キーボードの形が浮かんだ。
 普通のPC(パソコン)用のキーボードとは違った。キーの数が桁外れだ。キーボードの集合が、一つのキーボードとなっていた。つまり、三面をディスプレイに囲まれた台形状の部分が全てキーボードなのだ。
 気が付いたら、ディスプレイの斜め上にもキーボードが浮いていた。どんな原理だろう? というか、まるで要塞のようなこのPC(?)は、誰が使う代物なんだろう?
 コードは無いので電気が流れているとは思えないが、机はボンヤリ光っていた。起動音はしない。岩が置いてあるかのような静謐感。
「な、なによ、このふざけた景色は! 牛、おまえの仕業?」
「いいえ」
「一体なんなのよ。この風船は!」
 さやきさんは、悪夢を振り払うように、ツインのポニーテールを振り乱す。浮かんでいる光球に平手打ちを食らわせた。だけど、手は光球をすり抜ける。
「なによっ、これ! 頭にくるっ!」
 さやきさんは空を睨む。上空に定位している光球は三十個……。いや、五十個はあった。
「まさか……ッ」
 さやきさんは光球を突き抜けながら玄関側へと走る。
「……そんな! ありえない!」
 下を見て戦慄している。
「牛! どういうことよ! 皆野マチの死体が無くなって――キャア!」
 そのとき、屋上が揺れた。
 ものすごい揺れだった。
 さやきさんは尻餅をつき、危うく転落しかけた。あたしも机にしがみついた。
 
 ず・ず・ず・ずん!!
 
 まただ。この揺れは地震なんて規模ではない。地震だとしたら、この家の下に震源がある。
 ――って、下? 
 まさか。
 
 ドッバアアアン!!
 
「ひゃああーっ!」
 また激震。たまらず机の陰に伏せる。
 今見た光景を疑った。信じられないよ。
 屋上が破裂し、床のタイルが温泉みたいに噴き上がったんだ。
 こなごなの石がボコボコと机に当たった。
 土煙が収まり、あたしは机から顔を出した。
 屋上には人が二、三人通れるような穴があいていた。しかし、驚くところはそこではない。その穴が、工作機械であけたように、きれいに円形だったことだ。
 穴の傍らにマチさんが佇んでいた。
「マチさん!!」
 氷の上で回るように、マチさんは滑らかに振り向いた。








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