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                    Ψ
 
 翌日。いつもの時間に登校しているあたしは、憂鬱だった。
 昨日の夜、マチさんに会えなかったことが、あたしの動作を緩慢にしていた。
 もし昨日、あれから、マチさんがさやきさんに襲撃されていたら。
 いかにマチさんでも、剣を持った女にいきなり襲われたら、黙って斬られるしかないと思う。昨日会っていれば。二人で何か作戦を立てていれば……。
 という結末が、教室のドアの向こうに陳列されていないことを祈る。ああ、モヤモヤする。
 って、ドアの向こうというか、ドアの前にて対面しているあの二人は何?
 両方とも足があるから、死んでる人はいないね。ああ良かった。へえ、マチさんよりさやきさんの方が、少しだけ背が高いのか。なんて発見は置いといて、顔がくっつくほどの距離でどういう無言の会話を繰り広げているわけですか。遠くから見ているだけで心臓に悪いんですけど。
 よし。いっそ近付こう。
「おはよう! マチさん、さやきさん」
 さやきさんは、タラノキみたいなトゲトゲしい目をあたしに注いだ。ビルをガン無視して闊歩する怪獣みたいに、正面からマチさんにぶつかり、あたしの前に出た。
「どうして、私が先じゃない?」
 ドライアイスのような目であたしを睨む。
 さやきさんは顔を伏せた。素早く教室へと入って行った。
 あたしは自分の中のデータベースを検索した。その結果、一瞬だけれど初めてだったということが分かった。
 さやきさんが、泣きそうなくらいに気弱な顔をしたのは。
 じゃあ、あたしの中でくすぶりだしている、もやもやした痛い感じは何だろう。
「名前を呼んだ順」
 ふいに呟きが聞こえる。あたしは反射的に振り向く。
 マチさんは、いつものごとく浮雲みたいな様子で佇んでいる。
「マチさん、大丈夫だった? 何かされなかったかい?」
「何も」
 それを聞いてホッとしたあたしは、マチさんの肩を掴んだまま、膝をついてしまった。
 ……え。名前を呼んだ順って、何だろう。
 
 
「お前を殺す、と」
 マチさんの返答だ。
 さやきさんに何か言われたかと聞いてみたら、これでもかという直球がマチさんに投げられていたことが判明した。
 予想外というか、予想はできていたが衝撃は大きいというか。
 殺すぞと脅かされたにもかかわらず、マチさんは動揺している様子が無い。少なくとも、無いように見える。喜怒哀楽を浮かべることが可能なのか百年ぐらいかけて検証しなければならない顔面と、いつでも蒼白な肌の色は、マチさんの標準装備だ。あたしの目からは眠たげに立っているようにしか見えない。脅されて血の気が失せているのかどうかは、もともと蒼白なので判別できない。おろおろしているのは、あたしだけだ。
「マチさん。『異能者』は、さやきさんだよ。毒沢町長の幻像人間を消し去ったのは自分だって言ってた。次はマチさんを襲うつもりだよ」
「それで理解した」
 と、何かを思い出すように頷いた。
「昨日の朝、私は天箒さやきに対面している」
「え? うん、そりゃそうだね。さやきさんがうちのクラスに来たのは昨日だもん」
「それより前」
 あたしはマチさんから聞いた。
 きのう登校してきた時、マチさんは、メガネの青年と一緒に職員室に入ろうとするさやきさんを見掛けたという。さやきさんはマチさんの顔を見ると近付いて来て、「牛に調べさせた画像と同じ顔ね。ってコトは、毒沢重蔵を殺して偽者を仕立てたのはおまえね?」と訊いたそうだ。いきなり凄い挨拶だわ。
 マチさんは「知らない」と答えた。史士≠フ仕事には第三者への守秘義務があるから。
 昨日の朝、そんな接触があったのだが、さやきさんが詰問してきた理由が今分かった。――ということらしい。
「そんなコンタクトがあったのかい! どうして教えてくれなかったのよ」
「昨日の時点では、意味不明な出来事」
 いや、あたしは確かに「『面白い出来事』があったら教えてね」って言ったけどさ。
「だけど、とにかく、どうにかしなきゃいけないね。マチさんが狙われてることは明らかになったんだもの。あたしさ、昨日の夜、考えてみたんだけど」
 そう、何がベターか考えてみた。一番はさやきさんが思いとどまってくれることだけど、これは一番難しそうだ。さやきさんのことだから、一旦やると決めたら一直線だろう。止めようとしてみたって、あたしが異常≠セと言われ、第二の標的にもなりかねない。
 しかも、そういう一途な性格を逆手に取り、さやきさんを落とし入れようと企んでいる牛氏のこともある。
 全員にとって穏便に終わる未来が最善だと思う。
「マチさん、アレはどうなのかな? 例の未来変更≠チていう手続き。あれで平和に解決できると思うのよ」
「不可能」 
 ガッカリさせる答え。
「ええ、なんで!?」
「協定により、史士≠ヘ自分の未来に変更を加えられない。未来においても史士業務に従事している≠ニいう前提条件を担保しきれない」
 この際、細かい疑問はまとめて後回しだ。
「でも、せっぱつまってんのよ? マチさんの命が危ないかもしれないんだよ? 協定だか何だか知らないけど、目をつぶれないの?」
「可能」
「ああ良かった! じゃあさ、今回は不本意だけど、目をつぶろうよ。あとね、牛氏っていう人が居るのよ。さやきさんと一緒に居るメガネの人なんだけど、たぶんその人の未来も変更した方が――」
 左・右・左・右、マチさんは首を振った。一回ごとにあたしの希望を削ぎ落とすように。
「理屈では可能。しかし、構造的には不可能。だから現実的には不可能」
「どういうことなの!?」
「毒沢重蔵のケースを覚えている」
 普通の言明に見えるけど、雰囲気から判断すると、マチさんには珍しい疑問文らしい。
 町長のケース? もちろん覚えている。町長になる未来と引き替えに毒沢が命を取られるという、狐につままれたような仕組みだったよね。死んだ毒沢の代わりとして、幻像人間が配置されるんだ。
 ……あっ。
 そういうことかい……!
 あたしも無言少女とのコミュニケーションが上達したものだ。今はこう思ってるんだね? 「そう」なんて。
「死の未来が定められていれば、その未来を変える代価として死が要求される。結果的に無意味」
「え……。マ……」
 あたしは二の句が継げない。
 マチさんは史士≠セから、未来が記述してある台帳を読めるはずだ。
 まさか、マチさん、死ぬんじゃないだろうね。嘘だと言っておくれ。いやまだ何も言ってないけど。こころなしか、マチさんの顔色が蒼白に見えて仕方ない。てか、いつも蒼白だけどさ……!
「今のは、たとえばの話」
「ホッ。そうかい。なら安心だけど」
「そう、安心。私は史士=B未来は知っている」
 マチさんは霧のように気怠げな瞳をし、のんびりと言ってくれた。あたしを落ち着かせるように。
 ……でも、ちょっと待って。それって安心できるの? 未来を知っている、まではいい。しかし、それは未来が安全だということまで保証するものではない。
 未来を知っている、から大丈夫なのか。
 未来を知っている、から諦めている、のか。
 どっちなの?
 と、ひとこと訊けば良かったけど、あたしは訊かなかった。
 いや、だけど、本当は……。
 話を終えたマチさんは、音もなく教室に入った。あたしは、マチさんの気怠げな目が、本当に魂が抜けているように見えた。
 さすがにさやきさんといえど、学校の中では襲撃してこないと思うけど。いや、思いたい。
 神様、マチさんをお守り下さいますように。
 
 
 だけど、授業が始まってみると、さやきさんが居なくなっていることに気付いた。授業中の景観に異常をきたすこと間違いなしの本格的望遠鏡も無い。昼休みになっても、そして本日最後の古文の授業になっても、さやきさんは戻っては来なかった。年齢不詳の古文の老先生は、浮世離れした白髪の長髪をたなびかせ、夏休み明けの初めての出席をとった。
「天箒……? この生徒は誰ですかね?」
 と一人ごちて出席簿を閉じた。それから御老体お馴染みの源氏物語の雑学を唱え始めた。御老体の授業は、一年中源氏物語だ。源氏物語ですら雑学なのに、その雑学って。日本語で解説してくれているのにワンセンテンスも分からないという高尚な空気に包まれ、よそごとを考える。
 マチさんは……。うん、死んでるんじゃなきゃ、たぶん寝てる。いつもと同じ。
 今日は襲われなくて済みそうだな。
 さやきさんは、マチさんを襲撃する準備を着々と進めているのだろうか。
 じゃあ、学校には何のために来たのだろう?
「殺してやる」とマチさんに言うため? つまり、宣戦布告のためかしら? まるで武士みたいだ。「殺してやる」なんて宣言したら、警戒させるだけなのに。なんでだろう。分からない。

「里美」
 いつのまにか源氏物語の世界を知る生涯学習教室は終わっていて、うすぼんやりと机にくっついているあたしを、マチさんが見下ろしていた。
「今から私の家に」
 と黄昏時の沼の水のような目で呟き、風化作用に身を預けたかのように停止している。
 さりげなくカバンを背負っているところからすると、「私の家に」というのは、私の家に来るな・来て欲しくないが止むを得ず入れてやる・来てみるのはどうか・来れば?・来ない? などのどれかである気がした。最初の意味でないことを願ってやまない。
「マチさん。声かけてくれるなんて珍しい。マチさんの家に行けるのかな?」
 うなずく。
 あたしは、立ち上がるのとバッグを肩にかけるのを一呼吸でやったほど嬉しくなった。
 でも現在、雲のようにフワフワ歩くマチさんの頭上には、分厚い暗雲が掛かっていることも知っている。最悪、学校を出た途端さやきさんに斬られるということもあり得る。さすがにそれはねーよ、とは言い切れない。さやきさんなら、あり得る。
 そんなわけで、マチさんからせっかくの招待を受けたけれど、おいしくお茶を飲めそうな気分ではなかった。あまりに今日は日が悪い。
 校門を出たあたりで、マチさんが呟いた。
「面白いことがあったら教えてと言われている」
 その言葉に覚えがあった。
 あたしが言ったセリフじゃないか。
 あたしは昨日、マチさんに頼んでいる。「面白いことがあったら教えてね」と。もちろん興味本位でだ。そもそも興味に興味以外の動機が混ざるわけもないが。

 でも、今思うと、あたしは……。

「イベントが発生する。だから、私の家に」
 マチさんは淡々としていた。しすぎなほど、淡々としていた。
 そういう様子を見ているだけなのに、あたしはなぜか悲しくなってきた。
 悲しがるのは、おかしい。本当は舞い上がらなきゃいけないはずだ。これは単なるお茶飲みではない。マチさんはあたしの頼みを聞いてくれた。面白いイベントが起こりそうだからと、あたしに教えてくれたんだろう。あたしにとっては、待ちに待っていた場面のはずなのだ。
 マチさんは未来を知ることができる。未来のイベントに関して確信を持っている。――それがどんなイベントであろうとも。
 確かにあたしはマチさんに頼んだ。願ったのは、あたしだ。今から起こるイベントがどんなものなのかは、全然想像もできない。
 だけど、あたしはそのイベントを面白いと言えるだろうか。あたしの興味と好奇心を満たしてくれるなら、そういうイベントにも「面白い」と言わなきゃいけないんだろうか。――もし、マチさんの身に何かが起こったとしても?
 マチさんが白い雲とすると、あたしは灰色の雲みたいな顔で歩いていた。うわ、我ながらガラにもない。自分に対しても、マチさんに対しても、心が痛んだ。よおし、こんな鬱屈した気分は吹き飛ばしてしまおう。そのために、「ねえ、マチさん……。死なないよね?」と、軽い感じで聞いちゃおうか。あたしは、マチさんの肩を叩こうとした。
 けど、やめた。
 訊けなかった。






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