目次へ   






                    Ψ
 
 次の日の朝、待ち構えていたあたしは、マチさんが教室に入って来るなり彼女と同じ席に向かった。マチさんに用がある時は、彼女が動いている間にコンタクトしないとね。彼女は席につくとすぐに寝る準備に入ってしまうからね。
 あたしは、マチさんが座ると同時に机の傍に立ち、
「やあ、マチさん」
 めんどうくさがりな彼女は内容の乏しい挨拶に応えることはまずない。
「昨日ねえ、マチさんの家の近くに行ったわよ。……と思う」
 語尾に自信がなくなるのは、マチさんに無言で見詰められているからではなく、あたしは地理感覚が皆無な人間だからだ。たしかに藤ヶ丘ニュータウンには行ったけれど、マチさんちの近くに行っていたかどうかは地図のみが知っている。
「清見君と一緒だったんだけどね。清見君知ってる? 隣のクラスのさ。そうそう、あのニュータウン、丘の中腹ぐらいにコンビニあるよね。あとはぜーんぶ瓦屋根。ソーラーパネル載せたら相当発電できそうなくらいの」
「おそらく、そこはニュータウンの西地区」
 ここでやっとマチさんは一言。労働量をお菓子作りにたとえると、あたしがショートケーキをあらかた作り、マチさんがイチゴを載せるだけという具合なのだ。会話ができてるからいいけど。
「マチさんの家は西地区じゃないの?」
「東地区。西地区より若干新しい。アパートメント型の白い集合住宅も目立つ。西地区をカビの生えた餅とすると、東地区はカビの生えつつある餅」
「あんまり変わらないね」
「ニュータウンを冠する宅地は必ずオールド」
 マチさんは平静な顔でどうでもいい内容を呟いた。会話がうまくフライトしたなと思い、あたしはニヤリとする。あとは慣性に任せれば話が進むだろう。
「ところでさ」
 と切り出し、あたしは後ろ手に持っていたA4の紙を出した。ネットのニュースをプリントアウトしてきたのだ。
「このニュース知ってるかい?」
 今日付けのニュース。『K町長 毒沢重蔵氏 死亡』という記事である。記事によれば、昨日の朝、役場に出勤してきた職員が、町長室で倒れている町長を発見したらしい。遺体に外傷はなく、突然死とみられるという。
 前にも言ったけれど、K町の町長は人間ではない。マチさんの未来変更≠ニいうお仕事で造られた、周りの人からは本人にしか見えない自働的な幻影。
幻像人間≠ニいう置き物だ。
 その幻像人間≠ェ「死んだ」というのは、どういうことだろう?
「町長、死んだねえ。近く臨時の町長選が行われるそうよ」
「そう」
 マチさんは眠そうな目で紙を眺めていた。
 メガネを外し、ぱちりと畳んだ。
 メガネを机の隅にセッティングし、ふらふら〜と机に頭を近づける。おっと、ちょい待ち。あたしは両手でマチさんの頭を止め、時間を巻き戻すように元の位置に戻す。
 マチさんの耳元で、こっそり訊いてみた。
「死んだのって、アレでしょ? その、幻像人間=v
「毒沢重蔵の幻像人間は、昨日の朝から消失している。幻像の消失により、通常人間の死亡と同様の外観が形成されたもよう」
 なるほど。幻像が消えると、周りの人間には死んだように見えるというわけね。
 追って訊ねてみる。
「マチさんの仕業かい? どうやって消したの?」
 早いレスポンスで、意外な答えが返った。
「知らない」
「え? でも、毒沢の幻像は、マチさんの未来変更≠ナできたモノだよね?」
「そう。しかし、私が作ったものではない。未来が変更されるにつき、イベントの相互間の更新力により造り出されたもの。史士≠ヘイベントを変更するだけの存在であり、変更されたイベントが産出した物には関与しない」
 あたしは目を閉じていた。光射す天窓に祈りを捧げる神父さんのように、満足して。
 あぁ。懐かしいなあ。
 この、魔法使いの呪文を聞くような、心地良い意味不明さ。
 ――で、結局のところ、どういうこと?
「幻像人間の消失は不自然に早かった。同類の関与が考えられる」
「同類?」
 マチさんは、船を漕ぐようにコックリ頷いた。
「異能者」
「え」

 異能者、という三文字の衝撃に打たれる。
 その隙を突かれたというか、マチさんの額は机とくっついてしまっていた。瞳は既に半閉じだった。まだ寝ないで! もっと訊きたいことがあるよ! 面白くなってきたじゃない。
「ねえねえ、異能者って、どういう人? 敵なの味方なの?」
「わからない」
「異能者のこと調べる? 会談する? 戦う?」
「何もしない。今まで通り」
「えー。どうしてよ。面白そうなのに」
「めんどう」
 そうだ。この子は、面倒なことをしない性格なのだった。
 残念だなー。何もしないだなんて。
 じゃあ、せめて……。
「面白いことがあったら、教えてね」
「わかっ」
 た、という一文字を脳内で補完した。夢の世界の重力に引っ張られ、マチさんの瞳は完全に閉じてしまっていた。
 机にくっついて寝るマチさんを見ながら、あたしは胸を押さえていた。燃え始めてしまった好奇心の種火を包むように。
 やたらとニヤついてしまう自分が一層おかしくて、笑いを噛み殺しながら席につくのだった。
 
 
 朝のホームルームなんていうのは、ガヤガヤしているクラスの頭上から担任がどうでもいい連絡事項を通り雨のように降らせ、幕となるものである。
 特にうちのクラス担任である奥野先生は威厳も影も薄い。まず突飛なことはしないし、言わないし、受け持ちの英語の授業も面白みに欠ける。この人の代わりなら日本じゅうに5千万人も居そうなほど、普通すぎる人である。ホームルームでも授業でも生徒から空気扱いされてしまう奥野氏だが、地味に毎日ネクタイが違うのをあたしはチェックしている。今日の紺色は昨日と似ている。しかし、ちょっと暗めだ。
 不気味に教室が静まり返った。
 奥野先生のせいではない。
 先生に連れられて入って来た、女の子のせいだろう。
 何だろう、英国あたりの国宝級職人が全精力を込めて作った人形みたいな、とでも言ったらいいのかな。ツインのポニーテールの毛先から、既製品の上靴の先まで、小さい体の全身にキレイさが込められていた。
 そういう子が、ドラムカンみたいに無骨で無味乾燥なバッグを背負っているのは奇妙な感じだった。シックな茶色の帆布で織られたバッグは、高校生が中に入って隠れんぼできそうに大きかった。背負ってるというより、彼女がバッグに縛られているみたいだ。
 彼女はバッグを教卓のわきに置き、深々と一礼した。硬質な空気が波動のように伝わった。
「転入生を紹介するぞー。天箒(あまはき)さやきさんだ。みんなー、よろしくしてやってなー」
 奥野先生の普通な解説の後、彼女の自己紹介となる。
「天箒さやきです。学校には昨日から来る予定でしたが、K町に来たのが昨日だったので、準備に手間取ってしまいました。この町に来る前は、茨城の竜ケ崎市に二年ほど滞在していました。よろしくお願いします」
 彼女は小さいけどハキハキした声で言い、生真面目な笑顔で一礼した。
 教室が今さらざわめきだす。
 一日遅れでやって来た転校生。
 しかも、すごく可愛い。
 輝くばかりの可愛さが結晶のように閉じ込められ、強力な放射線みたいに発せられている感じすらある。ひいき目に見ても、雑誌や写真集のモデルにはならないだろう。「この人がモデルなら、あたしだって……」と思わせてくれる余地が、掛け値なしにゼロだからだ。クラスじゅうの分子運動を掌握して止めてしまいそうな可愛さは、まさに圧倒的。
 美人を花に喩えるのはよくあるけど、この子は普通の花じゃない。科学の粋を結集して作られ、きれいなピークのまま永遠に咲き続ける、ケミカルな花みたいだ。
 人間離れした美少女を前にして、どよめきは収まらない。でも、どよめきに包まれつつ、あたしは黙って少女の顔を見ていた。
 たぶん、あたし一人だけが、この子について一段深い理解の中に居る。だって、あたしは昨日、この子と対面しているから。
 そう、水道塔のてっぺんに居た子に違いなかった。
 あたしは彼女のバッグの中に望遠鏡が入っていることも予想できた。
 男子たちが、先生に言われ、新しい机と椅子を運んで来た。教室の後ろのすみに、天箒さやきさんの席ができた。
 さやきさんはバッグを担ぎ、自分の席に向かった。体からハミ出るほどのバッグだから、途中で思いっ切り、生徒の机にぶつかった。
 寝ていたマチさんは椅子ごと倒れ、頭からドサリと落ちた。
「あら、ごめんなさい」
 さやきさんは振り返った。口ではごめんなさいと言いながら、百点の答案を返された時みたいに嬉しそうだった。
 あたしの気のせいだろうか?
 彼女はバッグを直し、自分の席へと歩いた。
 進路上の人達は、凍りついたみたいに、彼女を見ようとしなかった。
 マチさんは周りの人達に助け起こされ、その時やっと目を覚ました。
 いつものごとく霧に包まれているような目。「大丈夫?」「異状ない?」と訊かれても、自分に何が起きたか認識していなかった。あたしはホッとした。
 同時に、胸の中をチクリと刺されたような気分になり、天箒さやきさんの方を見た。彼女独特の、空気を切り裂くような鋭い目が、あたしをえぐるように見た。だけどすぐに彼女はそっぽを向いた。
 さやきさんは、それからずっと、窓の外ばかり見ていた。
 
 これだけ綺麗な子だから、話し掛けられないわけはなかった。
 けど、さやきさんに近付く生徒は思ったほど多くなかった。
 話し掛けた生徒も、男女にかかわらず引き下がる羽目になった。
 さやきさんは数学の教科書に視線を落としたまま、
「ふうん」
「そうね」
「そうよね」
 としか言わなかった。
 前の学校のことを訊ねられると、
「ごめん、秘密」
 とだけ答えた。
 さやきさんと近付きになりたい男子も、仲良しになりたい女子も、一日目にして諦めつつあった。昼休みを過ぎると、午前中にコンタクトを試みた人達からは、早くも冷ややかな視線が投げられるようになった。
 コンタクトする人達も慈善事業ではないわけだから、実入りがないのが分かると急速に関心を失った。そして、「危険物」扱いした。見掛けはキレイだけど、マチさんを転ばせて悪びれもせず、クラスメイトとはコミュニケーションを取らない「危険物」。これは触らない方が懸命だ。そういうわけさ。
 そんな変化が目に入らないかのように、さやきさんは化学の教科書を読み耽っていた。
 あるいは本当に、クラスの人の顔を一回も見てないんじゃないかな。
 そして、仕方ないというか、予想通りというか、あたしは一日かけてこう結論していた。
 マチさんみたいに寝るために学校に来る人も面白いけど、さやきさんみたいに友達付き合いを一切しない人も興味深い、と。
 大きなバッグを空気のように担ぎ、さやきさんは教室を出た。
 あたしは追いかける。廊下で追い付く。
「や、お久しぶり!」
 片手を上げて挨拶してみる。初めて目が合った。何かの間違いだったかのように、さりげなく顔を逸らされる。気詰まりな沈黙。冗談は通じないみたいだね。最初から追い込まれた。このままの調子だと、今まで声を掛けた人達の二の舞だ。
 ……ここは、勝負だな。準備しておいたネタを出すしかなさそうだ。これでダメなら、その時に考えるさ。
「天箒さん、部活は、もう決めた?」
 うちの学校では、部活に一つ以上入らないといけない規則になっている。転校生も例外ではない。
 あたしは、去年の学園祭で、地学部がプラネタリウムの出し物をしていたのを覚えていた。
「天箒さんの入ろうとしてる部活、当てようか? 地学部じゃない?」
 望遠鏡を担いだ少女が入る部活って言ったら、地学部しかない。
「……興味あるの?」
 ガラス繊維が耳の中を進んでくるような、細く尖った声。突然訊かれたけど、何のことか分からない。
「天文のこと。興味あるの?」
「え、あ、そうだねー」
 われながらマヌケな反応。正直、さやきさんが乗ってくるとは思っていなかったんで、驚いていた。嬉しい驚きだ。
「そうだね。小学生の頃、八十八星座は全部覚えたよ。好奇心でね。一等星の名前なら、今でも全部言えるかな。スピカでしょ、レグルスでしょ、」
 階段を二段下りながら、星の名前を一個言う感じ。
「……カノープス、リゲル・ケンタウリ、アゲナ! これでどう?」
「アケルナルを忘れてる。これで全部。二十一個」
「そうだったかー。しくじったー。口ほどにもなかったね」
「おまえ、地学部?」
「ちがうけどね、天体観測には興味あるよ。それと……」
 あたしは勝負に出る。
 水道塔のてっぺんからダイブするような気持ちだ。あそこからダイブしたら死ぬだろうなあ。誰かがトランポリンでも置いてくれなきゃね。
「それと、真っ昼間から水道塔の上で望遠鏡を見ているさやきさんも、面白い人だと思うかな」
「……」
 さやきさんは焦がした鍋を見るように顔をしかめた。ポニーテールへと至る頭頂部をガシガシと掻いたりして、そういう仕草は思い切り人間くさい。
「やれやれ。学校では目立たないように生きようと思ってるんだけどな。おまえみたいに一人で何人分も目がキラキラしている種族は、どうも扱いにくいわ」
 さやきさんは、背は小さいくせに、貫禄が板についた顔で笑うのだった。前世はやんごとなき生まれだったのかな? しかし、なんだい。人をまるで妖怪みたいに。あたしはたいてい笑っているが、さやきさんが笑ったから、更にもう一段笑った。笑っても笑ってもまだ笑えるのが、笑いのいいところだ。
 さやきさんは階段を下り、左に向かった。
 学校を出るんなら右なんだけどね。
「ねえおまえ。購買はどこ?」
「購買を探してるのかい? だったら、真っすぐ行って左だよ。食堂の隣だね。何を買うの?」
 さやきさんは振り返り、「見ろ」とでも言うように、首元の真っ赤なネクタイを示した。
「転入の時、この学校の夏服は何とか揃ったけど、リボンとか徽章とか、小物が揃わなかったのよね。牛ったら、まったく、いっつも、細かい目配りができないんだから」
「牛って、何だい?」
「ああ、こっちの話よ。気にしないで。それで今日は前の学校のネクタイで来たわけ。担任の奥野に訊いたら、小物は購買にあるっていうから」
「そうかい、じゃ、行ってみようか。あたしは今のネクタイも格好いいと思うけどね」
「嫌よ。こんな蛾の化け物が止まってるみたいなの。この学校のださいリボンの方がまだましよ」
 というわけで、食堂の隣の購買へ。
 さやきさんは、リボンや徽章みたいな小物から、水着やジャージといった大きい物まで、まとめて一つの袋に買い込んだ。男物っぽい黒革のサイフには、ちょっとびっくりするほどのお金の束が押し込められていた。さやきさんは、木の葉でもちぎるように無造作に三万円出した。
「お金のこと? 先々で入り用になるからね。ほとんど必要費よ。遊ぶ金じゃないわ。普通の遊びには興味もないし」
 さりげなく言う。
「持ってくれる?」
 当然のように、いま買ったものをあたしに押し付けてきた。
 さやきさんは食堂に入って行った。においに引かれた様子だった。券売機で食券を買っている。
 でも、券売機の使い方、分かっているのかな。
 男子でも多いと思うけど。ざるそば大盛り五枚って。
「ちゃんと食べるわよ。天体観測≠ヘ体力を使うのよ。時間がある時に食べておかないとね。いざという時、観測対象≠ヘ待ってくれないわ」
「確かに。見る時間が遅いと、目当ての星座が沈んでたりするからね」
「そうじゃないわ」
 と、黒い瞳をざるそばに向け、言った。テーブルの上には、大盛りのざるそばが五枚。さやきさんは割り箸でソバをつかみ、一枚のざるにソバを全部集めた。
 それから、右手に七味唐辛子の壷を持ち、左手にお酢のビンを持った。
 ……え。
 さやきさんは、七味の壷を引っくり返した。ソバの山の上に、唐辛子の山ができた。
 びじゃ〜。お酢がかけられて、唐辛子の山が崩れていく。
 からになった壷とビンを置き、ソバみたいな何かをタレにつけ、勢いよくすする。
 五口目の咀嚼に入ったところで、あたしの存在に気付いたように、
「ん。どうしたの」
「ん。いや、べつに」
 って言うしかないよな。真顔で訊かれたら。
 ふと思ったけど、この子はどこかマチさんに似ている。
 外見は全然違うし、性格も共通点が無いと思うけど、どこかが何となく……。
 あ、大食いなところか。
「そういえば、この学校は部活動は強制加入らしいけど、委員会活動はどうなの?」
「委員会? っていうと、クラス委員とか、風紀委員とかかな?」
「そう」
 さやきさんは、主人が部下にやるように、箸の先であたしを指差した。綺麗な尖った目の下で、イソギンチャクが魚を飲むように、口いっぱいにソバを頬張っている。
「委員会は強制加入じゃないよ。入りたい人が入るんだ。クラスの六割ぐらいの人が入ってるかなあ」
「そう。良かったわ、強制じゃなくて。私は委員会には入れないのよ。もう入っているからね」
「へえ? 何に入ったの? さやきさんの感じだと、風紀委員とかかな」
「前の学校でも、その前の学校でも、同じ委員会≠ノ入っているの。私たちに仕事をくれるわ。経費も委員会≠ゥら出ているの」
「へ、へえ?」
 よく分からないが、さやきさんは自慢気に話すので、流れで相槌を打ってしまった。
「今日もするけど、おまえも来てみる?」
「何をするの?」
 最後の一口をすすり、さやきさんは立ち上がった。あたしも立ち上がる。
「決まってるじゃない。天体観測≠諱B委員会≠フ仕事のね」
 さやきさんは背中のバッグを叩いた。
 残っているソバツユを、喉を鳴らして飲み干す。
 ざるそばを食べる人を見て暑苦しさを感じたのは、初めてかもしれない。






前へ

次へ

 目次へ