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【まちのおはなし】


 畜生。畜生。ど畜生めっ。あたしは数え歌みたいにそう呟きながら、よーやっと三階まで辿り着くのだった。
 たまらず膝に手をついて呼吸を整える。駅からの千五百メートル走で血管が破れそうだ。あーもう! 髪の毛が暑い! ジャマ! 切りたい! 徹夜明けの体は正直に悲鳴を上げてくれる。あたしが人間じゃなくてポンコツロボットだったら、煙とか水蒸気とか変な液とかがバーッと噴出しているような状況だろう。
 一時間目の始まりの鐘が鳴ったけど、ここまで来れば、もう余裕でしょ。
 あたしはハンカチで額を拭いながら教室へと歩く。途中で、見覚えのある男子二人があたしをバタバタと追い抜いて行った。
 あれは、ウチの組の佐藤君と須藤君じゃないか。今更急いだって、そんなに変わらないんじゃない? 
 あたしは、体をいたわってマイペースで歩く。
 すると、曲がり角の向こうから、音が聞こえてくるんだ。バシーン! バシーン! ってね。なぜだろう、嫌な予感がしてきたよ。
 廊下を曲がったら、予感の意味が分かった。
 五組のドアの前に、ヒキが居る。
 ヒキと言っても、ヒキコモリのことではない。うちらを担当している化学教師のアダ名である。顔がヒキガエルに似ているからヒキなわけだ。ものすごく分かりやすいでしょう? その体型から、メタボリックヒキという強そうな情けないような名前も付いているけど。確かに白衣が見事にムッチリと胴体に巻き付いているね。遠くからだと、土管からヒキガエルが生えているような危うい物体に見えてしまうなあ。……って、今日の一限目はコレだったのかぁ。
「はい、本鈴鳴りましたよ。出席番号」
「え〜。着いたじゃないですかぁ。駅から走って」
「いいから出席番号。本鈴前に着席することと言ってあるでショ」
「2505番!」
「2505……。上杉里美(うえすぎ さとみ)……。遅刻一回、と」
 ヒキ先生は、出席簿のあたしのマスをグリグリと赤に塗った。
 あたしはヒキ先生の顔面を注視している。このオジサンのあばた面を見る趣味はないし、こうして対面せざるを得なくなったので眺めているんだけど、この雰囲気はすごいやねぇ。下膨れした赤ら顔も、肉の中に埋もれかけている三角の目も、ぐっちゃぐちゃに絡まっている髪の毛も、本当にヒキガエルに似ているんだ。常に「バケガクは面白いよ」とか「バケガクは素晴らしい」なんて言っているこの方だけど、まず自分が人間にバケることをお勧めしたいと思う。そしたら人語を話せるようにもなるだろうから、あたしたちが授業についていけなくなる問題も解決である。
 あいたっ! ……ふわぁ〜。効くぅ〜。あたしの脳天に「気合棒」の一撃がお見舞いされた。
 ヒキ氏言うところの「気合棒」とは、何のことはない、丸めた教科書である。あたしは自分のナチュラルウェーブがかった長髪に感謝した。和訳すると天然パーマであるが、それが原因で小学生時代にいじめられた経験はないので、まあ時代が許したレベルの癖っ毛ということだろう。「気合棒」のショックをほどよく吸い込んでくれた。でも充分痛かったけど。
「遅刻五回で落第ですよ。はい中に入れー」
 彼はあたしの腰をグゥーンと押してドアの中に入れた。ちょっ、痛い。セクハラなんですけどっ。
 
 
「災難ね、上杉さん」
 後ろの席の板谷円(いたや まどか)ちゃんが声を掛けてくれた。いつもながら涼しげな眼であるなあ。この子の周りは空気が一℃ぐらい冷える感じだね。
「音が聞こえたわよ。バシーンって」
「あ、そうかい? いやあ、初・気合棒だったよ。部誌作りで徹夜してたら遅くなっちゃってねえ」
「文芸部、だったかしら」
「そう、副部長やってるよ。駅からダーッと走ってね、でも去年なら間に合ってたなあ。円ちゃんは今年転入してきたから知らないと思うけど、ウチの学校は学年が上がるごとに階も上がるんだよ。せめて二階だったらなあ。そうそう、苦労して作製している部誌だけど、そのうち春号を出すから。円ちゃんも買っておくれよ」
「安かったらね」
「シビアだね……。でも大丈夫、赤字覚悟で大放出するから。買わなきゃ損なくらい内容は面白くするしね!」
 部誌は八割方完成していた。部長はじめ三年の先輩方がサボりがちだから、初めてあたしが中心になって作っている。ハッキリ言って自信作だ。あと一つ二つ、ルポなり小説のネタがあれば言うことはない。そしたら締切日までに予定ページ数を埋められるだろう。楽しいネタが落ちていないものかな?
「こら、マチ、起きなさい。ヒキガエルが入って来たわよ」
 円ちゃんは後ろの席の子に囁いた。
 あたしの席から二つ後ろのその子は、皆野(みなの)マチさんという。
 たぶん、クラスでこの子の名前を知っている人の数は、この子と実際に話したことがある人の三十倍にものぼるだろう。不名誉なことで有名だからね。
 マチさんは、とにかくよく寝る。昼ごはんの時間以外で、机に伏していない彼女を見たことがない。いわばマチさんは学校で寝るか食うかしかしてないわけだけど、成長ホルモンの分泌が鈍いのか、栄養吸収率がいいのか、背は小さいしおまけにスリムである。食べても太らない体質はうらやましいよ。最近ジョギングスーツを新しくしたけど、タグを外していないあたしにはね。
 マチさんは今日も起きない。いつものようにメガネを机の左上に置き、学校の備品である机の備品と化している。綿毛みたいな軽そうな髪の毛が、窓からの風を孕んであちこち揺れている。手枕もしないでよく眠れるねえ。朝からこの様子じゃあ、知らない人が見たら死体だと思うよ。
 ヒキ先生が、横綱土俵入りみたく荘重に教壇にお立ちあそばした。円ちゃんは黙ってマチさんの肩を揺すり始めた。声を掛けても起きないから、仕方ないね。肩を揺すられたり叩かれたりして、やっとマチさんは自律行動を始めた。そうは言っても、血圧が二十しかないんじゃないかっていうくらい緩慢に顔を上げ、メガネを掛けただけなんだけど。目が回り切って動けないトンボみたいに、瞳が硬直しているよ。
「はい、起立ー。礼ー」
 ヒキ氏が一方的に号令を掛け、うちらは無言の非難をムンムンに漂わせてお辞儀する。朝から暑苦しい儀式をやってくれるよねえ。
 あたし達が座るやいなや、ヒキ氏はヒキガエルが舌を伸ばす素早さで教科書を広げ、チョウバエの幼生がのたくるような文字群を黒板に連ね出した。だいたい一回の授業で黒板二枚半も書くなんて許されると思う? それも四センチ角の字で隙間なくやられた日にゃ、誰がノートを取るものかいね。マチさんじゃなくても寝たくなるってもんだよ。今日のあたしは徹夜明けなんだ……。
 あたしは、ヒキ氏が板書をしてるスキを利用して、マチさんの様子を見てみた。漫画なら頭の上に渦巻き状の効果線が書かれそうなくらいに、眠たそうである。だって、目が半開きだもの。マチさんはメガネの位置を直し……と思ったら、外すのかい。メガネを畳んで、机の左隅にピシッと置き、あたしと目が合った。あたしを見てるような見てないような、ふわふわした目である。数秒後、マチさんは机に吸い寄せられ、いつものごとく天板とセットになるのだった。そんなに自然に寝られると、あたしも急激に寝たくなってくるなあ。
 でも気合棒は痛いしなあ。このヒキガエル先生は、普通に授業を中断して気合棒を振るうからねえ。それも、弱そうな見た目の子を選んで殴るっていうのは気に入らない。柔道部の佐々木君なんかノートを取ってないけど、殴られたの見たことないし。逆に、努力してるんだけど成績が良くない鈴木君あたりは、ちょっと手を止めただけでよく叩かれてるよ。弱者を選んで殴るのは同族嫌悪かい? 
 そんなことを思ってるそばから、英単語の内職を見つかった須藤君が胸倉を掴まれ、締め上げられてるよ。なにも単語帳を投げ付けることないだろ。
 こうして、二十分に一回は気合棒の音が響き、そうじゃない時はチョークの音が響き続けるウチのクラスである。あたしはとても不愉快だ。特に今日は徹夜明けで体のあちこちが内側からチクチクむしられるような気分だっただけにね。
 だからあたしは、わざと白紙のノートを開き、徒然草を書く前の兼好法師みたいにボーッとすることにした。いつもなら第一回の授業でとった部分のノートを出して、鉛筆を握る程度の偽装はするんだけどさ。だけど、馬鹿馬鹿しいや。なるようになれっ。
 ん〜? と唸ってヒキ氏がこっちに注目した。あたしがノートを取っていないからかなあ? 下等動物を見るような目で見下ろしてくれるけれど、まずあんたがカエルなわけでしょうが。学校教師なんて、地方自治体に寄生している虫みたいなもんじゃない。地方自治体だって国に寄生している虫みたいなもんでしょう。そいでもって、国は地球に寄生している虫みたいなもんだ。何が言いたいって? ヒキ氏がおめでたいってことだよ。あたしはこういう人は生理的に好きじゃないね。一年生の時に化学の授業がなかったのは幸せだったなあ。こういう人を見ていると、あたしは一丁勝負してやりたいなって気になるよね。授業が始まって二ヶ月目だし、そろそろ勝負する時かなあ。部誌作りが一段落してから臨みたかったとこだけど、今でも別に構やしない。ここであたしを怒ってくるなら、ひとつ対決といこうじゃないの。
 授業が始まるときに生徒が立たなかったり、ノートを取らなかったりすると、あんたが不愉快なのは分かるよ。だから気合棒が出るんでしょう。だけどあんたの作ったルールに細かく縛られなきゃならないあたしだって不愉快なんだからね。この理屈が分かるかなあ。人外の生き物には分からないかな。でも大丈夫、文芸部のあたしが噛み砕いて丁寧に説明してあげるつもりだよ。
 ……そんな具合に、あたしはバチバチ対抗心を燃やしていたけど、どうもヒキ氏はあたしを睨んでいるわけじゃないみたい。目が魚類みたいにどんよりしているから、一帯を睨んでいるみたいに見えてしまうんだよね。
 彼が目をつけていたのは、あたしの後ろ。
 皆野マチさんだった。
 彼は教卓上で出席簿を開き、名前を調べているけど、マチさんの名前は知ってるでしょうが。あんたが唯一廊下にまで立たせた女子なんだからさあ。
 さすがのヒキ氏も、女子はあんまり怒らないんだよ。エセ紳士ってやつだよね。そういうところが余計に女子に嫌われるんだけどね。確かに女の胸倉掴んで揺するわけにゃいかないだろうけどさ、でも男にやるんなら女にもやってみろって思う。そして、できないんなら男にもやっちゃいけないよ。
 まあ、男と同じくらいがっつり叱られた女の子というのが、マチさんなんだけど。
 マチさんは見るからに細くて小さくてか弱そうだから、ヒキガエルには格好の獲物だったのかも。あの時の説教で授業が三十分も削られたことは嬉しかったな〜。黙って怒られていたマチさんは可哀相だったけど。
 ヒキガエルの脳みそだって、三十分もコッテリ説教した女の子を忘れはしないだろう。今回は気合棒だけじゃなく、胸倉掴みと首絞めもやられたりして。そしたら女の子では初。……って、あたしはそんなこと考えてる場合じゃないでしょうが。
「センセー、黒板の字が読めません」
 いかん。もっとマイルドに表現するつもりだったのに、あたしの心中がそのまま出てしまった。徹夜の疲労が色濃いわね。
「んんん? 何だと?」
 ヒキ氏はあたしを睨み、出席簿に視線を戻す。
 あたしの名前を確認しているんだな。よし。ともかく、マチさんから注意を逸らす狙いは上手くいったわ。
 マチさん、この前は三十分も授業を短縮してくれてありがとう。今日はあたしが助けてあげるよ。発情期のヒキガエルみたいな鳴き声にはイライラしていたところだから。
「2505番、上杉里美か。もう一度、言ってくれ」
 洋画の字幕なら「ケンカを売るなよ?」と簡潔に表現されるところだ。
「先生の書く字が小さくて見にくいので、もう少し大きく書いてもらえないかなあと思って」
 あたしは極力イライラを押さえ、バンドのライブ中、最前列に超ブスなファンの女の子を発見したとしても笑顔でハイタッチを交わしていくイケメンボーカルのように、ニコニコと爽やかに問題提起した。
「黒板の字が見えない? だったら、前に来なさい」
 と言ってチョークの粉が散乱している黒板真下を指し示すヒキ氏。ちょっと待ってちょうだいよ。あたしが机と椅子をかついでそっちに行くより、アナタが字を大きく書いてくれれば済む話じゃないの? それはアナタねえ、自分の面相の悪さを百パーセント他人のせいにするようなものだわよ。あたしを見下ろして勝ち誇っている、脂ぎった赤ら顔はどう? 
 だけどさあ、あたしだってね、夜道でコートをはだけた変態に出くわしたときのようなマヌケ面を素で作っているわけじゃないんだよ。半分は圧倒的な異次元回答に対して失笑しているようでいて、半分は自分の狙いが当たって喜んでいるんだ。
 あたしの目的は、「よくぞきた勇者よ、今こそお前を滅ぼしてやろう」なんて定型セリフしか言わない大魔王みたいなロボット教師と論争をすることではない。
 論争するように見せかけつつ、彼の注意をあたしに向け、皆野マチさんへの怒りを忘れてもらうことなんだ。
 つまりあたしは、ヒキ氏を相手にしてるようで相手にしないという戦術をとることにしたわけさ。そして、相手にされないっていうのは、彼にとっちゃかなりの屈辱でもある。その事実にも気付かないとしたら、なおさら。正直、会話の中身なんてどうでもいい。
「あのう」
 あたしの後ろで静かに手を上げた子がいた。
「2502番の板谷円です」
「2502番、板谷円か。何の御用件ですか」
「私も先生の字が小さくてノートが取りづらいのですけど」
「なるほど。では君も、上杉里美と一緒に前へ……」
「いいえ。二人で前へ移動することは、前の列の人の邪魔になってしまいます。それに、私たちは担任の先生から所定の席を移動しないようにと申し渡されています。そして、もしかすると他にも字が見えにくい人が居た場合、先生が字を大きく書いていただいた方がクラス全体にとっても良い効果を生むと考えられます」
 ヒキ氏はあたしたちから目を切り、いまいましそうに人差し指で黒板をノックし始めた。
 円ちゃんが積極的に喋ることはあんまりない。だからって喋ることにいちいち重大な意味があるわけでもないけど、今回はヒキ先生を黙らせた。ヒキ氏側としても、クラス担任を持って来られては、自分の手法を押し進めることはできなかったというわけ。
 彼は戦意喪失した白熊みたいにすごすごと板書を再開する。再開後の三文字までは、ちょっと字が大きくなりました。
 ……ところで、うちの担任って、席を移動するななんて言ってたかな?
 まあ、ともかく良かった。円ちゃん、ありがとう。そしてマチさん、良かったね。
 あたしは授業の最後に、小テストの点が悪いことを理由に、放課後の追試を命じられたんだけどね。
 今日の昼休みは復習で潰れたな……。
 
                    Ψ
 
 そう決意しても、つい遊んでしまう昼休みである。部室で部誌の編集作業をしているうちに終わってしまった。
 でも、あたしは後悔しなかったよ。午後の授業を小テスト用の内職に回してみたんだけど、結局よく分かんないってコトがハッキリししていたからね。あたしは化学を根本から理解していないらしい。化学と聞いて真っ先に思い浮かぶのがヒキ氏のあばた面というのでは、不幸もいよいよ極まっている。
 ともかく放課後となってしまった。追試に出そうな公式と数値だけを覚えて会場に向かうとしようか。
 化学の教科書以外をカバンに詰めていたら、おや、皆野マチさんが等身大の立て看板みたいな目であたしを見ている。
「あれ。びっくりした〜。いつからそこに居たの?」
 マチさんはじーっとあたしを見詰め、本当に看板なんじゃないかと思えてきたあたりで、唐突に一言。
「ありがとう」
「え? ありがとうって、なに?」
「化学の授業の時、私が叱られないようにしてくれた」
「え、マチさん、あのとき起きてた?」
「起きてはいた。あと三秒あれば眠っていた」
 常々、この子と円ちゃんの会話を聞いて感じていたことだけど、この子はいつも文章の骨の部分しか喋らないんだねえ。絢爛に枝葉を付けて飾り立てる文芸部員にはスカウトできないかな。毎度ながらお玉を横から見たような開き具合の目を見ていると、どうしてあんまり喋らないのかが明瞭に分かるけどさ。仮に文芸部にスカウトしたとしても、この子にとっては寝場所が変わるだけだろう。
「いやいや、いいんだよ。あれはあたしが勝手にやったことさ。ヒキ先生の字は前から読みにくいと思ってたんだよー。それにしても、マチさんはいつも寝てるんだねえ」
 マチさんは黙って頷くと、何かに呼ばれたかのように教室を出て行った。たぶん呼んでいるのは家のフトンに違いない。
 あたしの歩幅は背の小さなマチさんと比べるとだいぶ大きいから、廊下の途中で自然に追い付いてしまった。
 あたしが肩を並べると、マチさんは言うのだった。
「めんどうくさい」
「ん? めんどう? 何が? まさか、あたし?」
「違う。人生の全部の事象」
「はぁ?」
「起きればおなかがすく。動けば疲れる。疲れたら苦しくなる。人生は、こうした構造。幸福は、この構造上に存在するとは思いがたい」
 おいおい。
 さりげない顔して、とんでもないこと言わないでよ。
 同じ列に座ってるあたしでさえ、寝言だと疑いたくなってくるじゃないの。あたしが化学室で追試を受けてる時にサラッと自殺するとか、無しにしてよね。
 ところが心配には及ばなかった。マチさんは自殺願望を持っているわけではなさそうだ。
「人生の全部の行動はロス。したがって、幸福とは、ロスと並行してのみ訪れ得るものと規定される。ロスが少なければなお良い。最もロスが少ない行動は睡眠である。睡眠は気持ちも良いので評価できる」
 要するにマチさんは、早く眠りたいので帰宅する行為さえ面倒だと言っているらしい。不思議な人も居るもんだねえ。うちで飼ってるミケだって一日十四時間ぐらいしか寝ていないよ。あたしなんか、寝る時間は勿体無いと思っちゃう方だけどなあ。
 まあ、世の中、色々な人が居ていいんじゃない? その人が幸せそうな顔をしていれば、あたしは言うことないよ。あたしも幸せな気分になれるしさあ。
 それじゃ、マチさん、階段を下りた所でお別れね。おうちでグッスリお休みなさいな。あたしは暗い魔窟のごとき実験室で蛙語の指導でも受けてくるとするよ。あ〜あ。気が重くて足が進まないや。
「あれ? マチさん?」
 足が進まなくて当然だ。
 自分の背中を振り向いてみたら、マチさんがあたしのブラウスのド真ん中をつまんでいるんだもの。
「待って」
「マチさん、どうしたの? 何か忘れ物?」
「今日は行かなくていい」
 あれ? ちょっと待って。普通に面白いんだけど。
 だって、マチさんが追試を中止する権限を持っているみたいに聞こえたんだもの。
「行かなくていい? そりゃあ、どーしてまた?」
「気合棒一発分免れた。そのお礼をする」
「いいんだよ、お礼なんて。大したことじゃないからさ。じゃ、あたしは追試があるから、また」
 あたしはチグハグな空気を一掃するべく、大昔の集団就職で上京する娘さんさながら、オーバーアクションで腕を高く挙げ、振り切るように歩き出した。
 その五分後、あたしはマチさんと一緒に、木陰が気持ちいい並木道を歩いていた。
 言ってみればこういうわけさ。魔窟であたしを待ち受けるカエルの魅力よりは、マチさんがあたしの腕を引く力の方が何百倍か強かったってね。
 
                    Ψ
 
「マチさん、どこに行くつもりなんだい?」
「うちにお茶を飲みに来る」
 マチさんは、未来が既に決定済みであるかのように言った。
「マチさんは電車通学生? ……じゃないよね。あたし電車で会ったことない」
「徒歩。家は町外れ」
 なんて言いながら、マチさんが来た場所はK駅だった。町内の古城をモデルにして建てられたという、黒い尖り屋根のモダンな駅である。あたしも含めて、県立五高(ウチ)に電車通学する生徒は必ずこの駅を使う。夏に涼しくて冬は暖かく……今はどうでもいいことかな。
「マチさん、なんだい、電車だったの。どっち方面?」
 マチさんは無言で上方を指差した。その背後には、ここまでお城を真似なくてもいいのにという急角度の折れ階段が見えた。
 あー、そうか。この駅の二階は空中歩道に連結していて、線路の向こう側に渡れるんだったよね。やっぱりマチさんは徒歩通学なんだ。
 あたしにとっては、線路の向こうに渡るのは初めてだったりする。電車通学生って大抵そんなものだと思う。何かと忙しくて町を歩く時間は無かったし、買い物や食事だったら、栄えているA市まで出た方がいいし。何を隠そうわがK町は数年前まではK村だったんである。正直、ビルの数よりも山の数の方が多いよ。間違いなく。
 連絡通路を下りて行ったら、一人の男が出口の柱にもたれてタバコを吸っていた。
 男は、ポケットに手を入れたまま、あたし達をギロリと見た。
 あたしはその顔が全然印象に残らなかった。白雪姫やシンデレラが着そうな真っピンクのスーツと、その中で弾けんばかりに膨れ上がった見事な体格が圧倒的過ぎてね。ヒキ先生程度ならビシャリと地面に叩き付けて扁平にのしてしまいそうだ。
 男は、あたしたちとの中間点ぐらいにタバコを吐き捨て、意味不明なセリフを投げ付けた。
「人違いでしたらご免ください。あんたはシシ≠フ方ですよね?」
 男は、あたしの方を見ているわけじゃない。
 っていうことは……。
「知らない」
 マチさんが一言答え、ピンクスーツの横を過ぎ去った。
 
                    Ψ
 
 あたしたちは駅に近接する商店街を過ぎた。意外にもA市の駅前を二分の一スケールで持ってきたぐらいの町があったよ。
 その次は、住宅地だった。
 K町の外側にそそり立つ山々を四分の一スケールで持って来たような地形に、住宅地のコーティングが施されている。
 つまり、そのぐらい隙間なく一軒家がひしめき合っている眺めなのだ。
「四十年前に開発されたニュータウン。今でも住民は一帯をニュータウンと言う」
「リフォーム業者が涎を垂らしそうなところねえ」
「高齢者率も高い。ニュータウンの子供が使う小学校は閉校まで秒読み」
 マチさんはどうでもよさそうな情報を無機質な声で口ずさみ、老人の萎縮した血管のような道路をテクテクと歩いて行く。
「ねえ。ところで、シシ≠チて何? あのピンクの男とは知り合い?」
 あたしは訊いてみた。話が切れるタイミングを計っていたわけではない。マチさんと居る限り、話が切れない時間帯なんて存在しないんだもん。思い出したから訊いただけよ。
「……」
 マチさんは、歩きながら器用に頭だけを回転させ、あたしを振り向いた。使い込んだスプーンみたいなシックな瞳があたしを見詰めること四秒。結局答えてくれずじまい、元通り後ろ髪がフワフワと揺れているだけ。
 まっ、答えたくないこともあるだろうね。人生いろいろだもんなあ。訊いたあたしが悪かったのかな。
「着いた」
 マチさんは、細い道の奥から入った細い路地の終点で立ち止まった。そいでもって、マチさんの目の前に家があった。
 つまり、マチさんの家は、不動産業で言うところの「ドンつき」に建っていた。
 こういう立地の物件は、一見ほかの建売と見かけが同じでも、値段は安くなるって聞いたことがある。風水的には路殺といって悪い運気が入って来るとか、隣との隙間を通らないと裏に出られないとかでね。
 べ、別に、あたしの父親が昔そういう家を掴まされたっていうわけじゃないわよ。少なくとも行き止まりには建ってないもん。
「入って」
 マチさんは玄関のドアを開け、何の変哲もない四角い建売の中へあたしを入れてくれた。玄関に入った時、靴を脱ごうとして振り返ると、道の向こうにピンクの人影がチラリ……。しかしドアが重みで閉まった。マチさんを見てみると、無言・無表情で後ろ手に鍵を閉めるところだった。
 ……って、入った途端、何だいこりゃ!?
 どでかい円柱が、内部を占拠していた。
 どれぐらいの代物かっていうと、この円柱が入る最小サイズの箱がこの建売なんじゃないかと思える感じだよ。しかも円柱は二階の天井までブチ抜いている。というか、マチさんの家、二階の床自体が存在していない。とにかく、こんな円柱が家の中に入っていたら、生活するスペースが確保できるわけがない。……あれ? 円柱にドアが付いてるね。それと、柱をぐるりと巻いて螺旋階段も。
「二階が私の部屋」
 マチさんは円柱まわりの螺旋階段を上がっていく。
 あたしは円柱に取り付いているドアを撫でてみた。
「この中が部屋になってるの? へえー。面白い家! ドアまで曲面加工されてるのね」
 把手に指をのせてみたら、それだけでドアが開いた。どうやら最初から完全に閉まってなかったみたいだね。
 あたしは、どうせだからと思い、ドアの隙間から頭を差し込んでみた。円柱の中がどういう構造になってるのか、気になったものだから。
 中は薄暗いけれど、様子が分からないほどではなかった。……なんだけど、それでも委細は分からない。あたしには馴染みのない大小さまざまな機械類がひしめき合い、部屋の形さえ曖昧になっていた。
 部屋の真ん中ではパン屋のオーブンみたいな大きい箱が稼動音を発しているし、壁には赤や青のランプが明滅しているし、天上からはウズマキ模様の突起物が鍾乳洞さながらの迫力で垂れ下がっている。そういえば空気もどことなく湿っぽいかなあ。
「そこは違う。私の部屋は二階」
 ひやりとした感触。マチさんが、ミルク風味のアイスクリームみたいな色の手であたしの腕を掴んでいた。あれ? マチさん、いま階段昇ってなかったっけ? あたしはドアを元の位置まで押し込んだ。
 そのタイミングで一つ気付いたことがあった。いやね、天井から垂れ下がっていたオブジェが何かに似てると思っていたんだけどさ。機械式の鉛筆削りをカパッと開けると、らせん状の刃が出てくるでしょ? あれを拡大した感じにそっくりだわ。
 だから何だって話だけど。
 
 
 二階のマチさんの部屋に通された。
 おや、こっちは至って普通じゃないの。ちょいと狭い感じはするけど、普通に長方形な部屋である。じゃあ、この家は四角の中に丸があって、そのまた中に四角があるんだね。なんか丸い部分の存在意義が分からないけど、その意味の無さは楽しいね。
 部屋を眺めてみて目立つものというと、遠い方から順に、クローゼットとエアロバイクとコタツぐらいである。エアロバイクはマチさんが漕ぐのかなあ。あたしも有酸素運動のために使わせてもらおうかしら。ダイエットしたいし。
 あとは、意外だけど、お菓子の袋が散らばりまくっていた。
 菓子パンの袋が半透明な山を築いている様子は、自主回収品を処分している工場みたいである。他にもチョコの空箱とか、ポテチの袋とか、カップめんのふたとか、クッキーの個包装とか。こりゃあもう、部屋がお菓子の包装でできてるんじゃないか? なんていう錯覚が起きたほどさ。ヘンゼルとグレーテルが絶望のあまり裸足で逃げ出すだろう。マチさんが甘党らしいってことは分かったけど、何年かかればこのぐらい散らかるのかは想像もつかないねえ。嫌なニオイはしないけど、中身が徹底して消費されているせいかしら。
 十分ほどあたしを待たせ、マチさんは何処からかティーセットを持って来た。コタツぶとんが暑いところに紅茶も熱い。だけど、旨い! あたしは勝手にティーポットから二杯目を注いでしまった。
 気が付くと、マチさんがジーッと駆動音のする防犯カメラみたいな雰囲気を湛えてあたしを見ている。
 当人比二割増くらいの温度のない顔。正直、怖いです。
「里美」
 うぎゃーっ! 名指し! 勝手におかわりしてごめんよおー。
「一つ、知らせておきたい」
「は、はい。すいません。何でしょう?」
「今からこの部屋で、不思議な演劇が展開されると思われる」
「は、はい?」
「しかし、その演劇が開始されても、気を使う必要はない。その時は里美は蚊帳の外のはず。好きなように時間を潰してくれればいい」
 想像してみてほしい。水銀が両目に沈み込んでくるみたいな圧迫感ある視線を向けられ、二十センチ未満の至近から意味不明なことを言われるあたしの気持ちを。笑うわけにも……。いかないんだよね?
「しかし、もちろん、演劇を鑑賞するという選択肢もある。それに備えて説明しておきたい」
 そう呟き終えると、マチさんは無表情のまま、細く長く息を吸い込み始めた。
 潜水で二十五メートルプールを往復できるくらいの空気が溜まったのではないかと思われた頃、マチさんは堰を切って呟きを溢れさせた。
 それを聞き終わった時のあたしの感想はこうだった。あたしは、この美味しい紅茶を一度も口に運ばなかったなあ、と。
「じつは、私は、K町全域の確定事項を出力変更するという異能を有している。出力変更の作業は、特殊な冊子に特定の筆記具で書き込むことによって行われ、減飾申請≠ニ増飾申請≠ニいう二種類の手続方法が存在する。ところで、この手続によって可能なのは、確定している出来事自体を遡及的に塗り変え、過去を改変することではない。過去の改変には極めて高等な知能を生得的に有していることが必須と思われるし、私の知っている範囲には過去改変能を持つ者は存在しない。私の手続で可能なことは、過去に起こったことの重量≠変えることである。その事象自体が潜在的に持っている影響力の範囲内で、事象の出力を書き換えることができる。具体的に言うと、人々が起こしたイベントの比重∞評判≠変えるにとどまる。しかし、それによって付帯的に現在≠フ性質が変更される。話を分かりやすくすると、人々はいわゆる下らない出来事に感動することがあり、また素晴らしい出来事に何も感じないこともありうる。これはイベントの出力問題に基づいている。ウィトゲンシュタインという哲学者は、貧相な三文芝居を鑑賞していた時、重大な哲学的教説を悟ったと言われている。これはイベントの可能的エネルギーが最大限に出力された一例。私の書類申請は、イベントに対する人々の反応を可能的範囲において決定できる。その効用は、以下のような形で発現する。たとえば、ある人間の評判が大きく変わる。また、現在広がっているA−1≠ニいう噂が、その発生時においてあり得べかりし、A−2≠ニいう噂に置き換わる。あるいは、告白に失敗した者が居るとして、相手から告白の印象を取り除くこともできる。相手は過去に告白されたことは記憶しているが、その事象へのマイナスイメージはゼロになる。言い換えれば、忘れているのと同様。告白した者は、もう一度白紙状態で勝負することが可能。しかしながら、具体的な例証を目にしない限り、里美が納得することは難しいと思う。言っておきたいのは、私はそのような仕事の遂行を託されている人間だということ。私の職業は、略称を用いて史士≠ニ呼ばれる。正式名称は、歴史変更書類等調製士≠ニいう。もちろん、この町においてごく一般的に見られる職業ではない。めんどうな仕事であり、さほど面白いとも言えない。私は資質を見込まれて史士をやっているに過ぎない。具体的に言えば、姉に言われて仕方なく。小さい頃から、姉は私の教育役。面倒でも、続けていればいいこともある≠ニ言われている」
「すっごい! 超・納得した。マチさん、あんた、かなりのやり手なのね!」
 あたしは百二十パーセントの元気を炸裂させて答えた。テレビ収録中の新人お笑いコンビのツッコミみたいにね。そうしないと、三度の息継ぎだけで歴史変更なんとか士の物語を喋り切ったマチさんに押されてしまいそうだったから。
 んー、何を言ってたのか鮮やかに分からなかったなあ。初出の難解単語が多かったものだから。
 けれど、あたしにも明確に分かったところがあった。最後の方のところだ。


「私は魔法使いだ」って言ったんでしょう?


 あたしは即座に信じることに決めた。なぜなら、こういう不思議すぎる展開は却って真実だったりするものだし、信じないなんていう良識的な反応は文芸部魂に反するつまらないものだからさ。
 文芸部のあたしは、慢性のネタ欠乏症でもある。唯一最大の基準は、面白いかどうかということ。面白いことがあれば、あたしは風見鶏みたいに全身でそっちを向くのさ。あたしにとっては面白さは正義、面白さは快楽なのよ。だから嘘か本当かなんて気になりはしない。むしろ、嘘か本当かを気にし始めると物事はつまらなくなってしまうものよ。面白きこともなき世を面白く。それでいいじゃない?
 でも、あたしは屁理屈をこねてみただけかもしれない。きっとそうだろう。マチさんの話を頭から丸ごと信じ込んでしまいたいと思った自分を隠すためにね。気を抜くとええ格好しいになるところは、われながら大いに軽蔑するよね。本を開いたとき紙の上に広がる非常識な世界が、あたしの暮らす地面の上にも来てくれますように――。そんなささやかな未来さえ、あたしが願わない人間だとしたら、だいたい文芸部なんかに入っているだろうか?
「やり手かどうかは、知らない。しかし、この町の史士≠ェ私一人なのは確か。夜寝る前に仮眠をとりたいので、早く仕事を済ませる。ついては、仕事への精神状態を調(ととの)えるため、事前にエネルギーを溜め込む必要がある」
 マチさんは、太陽の方向を見るプレーリードッグみたいに反射的に立ち上がった。
 そして、三つ並んでいるクローゼットのうち、右の扉を引き開け、静かに中へと消えた。
 もう昼寝してるわけじゃないよね? 今までのは夢遊病に伴う寝言だったとか……。
 クローゼットが開いた。史士@pの衣装に着替えたマチさんが出てきた。
 だって、石灰の粉で塗りたくったんじゃないかと思うような漂白しすぎのワンピースだよ。白光りしているんだ。それと首に掛かっている超特大の黒真珠ネックレス。本物だったらこの建売が十軒ぐらい買えそうだから、絶対にパチモンです。最後に、両手に抱えている万年筆。万年筆ってのは、お墓参りの花竹みたいに両手で持つものなのかい? どう見てもそれはオモチャだよね。ペン先が取れて中からチ○ルチョコとか出てくるんでしょう?
 マチさんは巨大万年筆をゴロリと床に置いた。
 今度は左のクローゼットに行き、その扉を開けた。ぎりぎり中に収まるぐらいの大きさで設計されているのは、二ドア型の銀色のケースだけど……。マチさんはケースの把手を掴み、体ごと移動して開ける。中から舞い上がる白煙。あ〜! 業務用の冷蔵庫じゃないの。
 マチさんは怖ろしいほどの手際の良さで上段からアイスクリームを、下段から菓子パンやカップラーメンやチョコレートを運び出し、テーブルの上に積み上げた。カップラまで冷蔵庫に入れちゃ駄目じゃないと思った一方、学校での弁が脳裏をよぎる。「めんどうくさい」。
 ひとときの静寂を残して、マチさんは食べ物の山を消し始めた。
 あたしは今でもこの場面をイリュージョンだと信じている。
 あたしが息を吸う間にパンの袋が開き、息を吐く間にパンが無くなっているのよ。目いっぱい頬張るでもなし、水で流し込むでもなし。板チョコなんて銀紙から出ると同時に十六ピースに割れているの。あーあー! カップラをそのまま食べちゃ駄目〜!
 マチさんがワンピースから露出した細い腕で素早く口を拭い、テーブル上を一払いする。
 たった今食い尽くされた食品の袋がフワフワと落ち、立体的な点描を部屋に描き加えた。
 マチさんは無言で宙返りし、万年筆のたもとに着地した。
 万年筆を手にして言った。
 いや、叫んだ。
 かなり早口で。
「よーし。それじゃあ今から始めます。歴史変更書類等調製士・皆野マチのお仕事」
 いつものごとく表情に乏しいけど、眼鏡の向こうが何て艶やかに輝いていたことだろう。
 そう、「もうヤケクソだっ!」てぐらいにね。
 あたしは引き込まれて、ついつい立ち上がってしまったよ。きっと沿道からだんじり祭りを見物してるような顔をしていたんだろうなあ。
「さあ。それでは私の仕事場へGO」
 マチさんは巨大万年筆を日本刀のごとく左の腰に据え、中央のクローゼットの扉を開け放った。
 三畳ぐらいありそうなクローゼットの中には、吹奏楽部が使う譜面台に似た物体が一つある。それだけだった。
 一般的な譜面台と比べると二つの違いがあって、それは吹奏楽部が使うものよりずいぶん立派なことと、台を支えている足が一本も無く、浮いているように見えることだ。
 前者は年季が入っているという理由で説明できそうだし、後者は透明なテグスで吊り下げているんだと思えば説明がつく。よね? 
 あとは、部屋の壁。
 三つの穴があいている。
 まず上に二つ。左の穴は、弧が下を向いた半円。右の穴は、弧が上を向いた半円。
 下には、人が口を横に開いたみたいな長方形の穴。で、これまた人の舌みたいに、細いレバーが突き出している。これは何かを切り替えるスイッチかしら?
 さて、壁にあいている三つの穴と、宙に浮いている譜面台。この位置関係から、あたしがどんな比喩を持ち出そうとしているか、たちどころに分かると思う。やることは一つだけさ。譜面台を人間の鼻と見なしてほしい。……まさにその通り! あたしの場所からは、まるで人の顔みたいに見えるんだよ。イタズラ心のきいたクローゼットだねえ。
 マチさんは穴からニョッキリと生えているレバーを足蹴にし、ガチャリと左に押し込んだ。
 壁の奥がぐんぐんと唸り出したかと思うと……。
 右目の穴から、分厚い本が落ちてきた。
 コンクリートブロックみたいに重そうな本を、マチさんは上手にキャッチし、譜面台へ運んだ。
 あたしは、マチさんの仕事の様子をナナメ後ろから覗き見る。
 いつものマチさんらしからぬスピードだ。のら猫が保健所員に抵抗するみたいに、両手でバサバサとページを捲っていく。本をよく見るため、あたしはマチさんに接近する。
「ざけんじゃねえよ≠ニ感じると思う。書式が決まっているから、仕方がない。町の一日のイベントを一冊に収める都合があるから、改行していられないのも事実」
 マチさんは本の左ページを指して言った。とにかく文字で埋め尽くされているのだ。逆ライトノベルとでも言ったらいいのかな。一回も改行がない真っ黒なページはゾッとするじゃないの。
 だけど、どの見開きも右ページが真っさらなのは不思議だねえ。左ページの文字を右ページにも持ってくればいいのにね。
「それは構造的に無理。左ページに確定事項が書かれ、右ページに変更事項を記入する。それがこの完了台帳≠フ書式」
 マチさんはページを捲る手を止めた。
「ここ」
 そう言ってマチさんが指差したのは左ページの中段あたり。
 文字地獄の中に目を凝らすと、こういう記述があった。
 
 
〈上杉里美が化学の小テストの追試を受けずに学校を去る。〉


「この確定事項を出力変更する。今回は減飾申請」
 マチさんは大振りの万年筆を両手に抱えた。まるで消防の人がホースを抱えているような持ち方だ。本が置かれていなかったら、こんな姿勢で何をやるのかは誰にも予想が付かない。
 マチさんは台帳の白紙ページに一文字ずつ書き込んでいった。これは凄い作業だと思ったよ。体全体で持たなきゃならないような筆記具を使って、B5のノートに書くような字を次々に並べていくんだもん。あたしより字がうまいし!
 
 
〈減飾申請 申請者・上杉里美 化学小テスト追試出力変更 出力極小化(0)〉


 マチさんは右ページにそんな字句を記入した。
〈追試を受けずに学校を去る〉という左ページの記述部分に高さを合わせてね。
「これで、終わり」
「これで、どうなるの?」
「出力をゼロに落とすということは、その事項の作用が当事者の現在に波及しないかのごとき外観が完成することを意味する。里美が追試に行かなかった事実は変わらないけれど、化学教師がその事実を成績の指標として意識に上らせることは二度と無くなった。したがって、今回の追試のさぼりが里美の化学の評定に関わってくることはない」
 マチさんは完了台帳≠ニやらを閉じ、爪先立ちで台帳を右目の穴に収めた。台帳は音もなく穴に吸い込まれた。
 あたしは、あたしのために一働きしてくれた背中に向かって、心の中で呟くのだった。マチさん、とりあえず仕事の説明は現代日本語でお願いします、と。それから申し訳ないけどマチさんの労力は無意味です。どうせあたしの化学の評定は限りなく1に近い2ですから。マチさんの言葉を借りれば、未来における「確定事項」とでもいったところだ。
 でもまあ、それはどうでもいいことさ。いつも石膏像さながらの血色で寝ているマチさんが、上気するほどの重労働をあたしのためにやってくれたってことが嬉しいじゃないか。たぶんあの万年筆が重いんだろうね。十キロ以上はありそうだからな。
「授業の時のお礼はした」
「ありがたいねえ。救われたよー、マチさん」
 あたしはマチさんの手を取ってブンブンと振った。
 ちょっと熱かった。
「マチさんが居たら、あたし、毎回さぼれるんじゃないかなあ?」
「今日は特別な例。史士を当て込んで生活することは、通常の人間の知覚を超えた空間からバイアスが掛かる。尋常な動作範囲から逸脱しやすい人間になる。巨視的には史士の恣意に任せるのが安全」
「えーと……。要は、マジメに生きなきゃだめってことかな?」
「そういう結論を導いて構わない」
「そうなのかぁ。なかなか楽はできないものなんだねえ」
「しかし、史士の存在は知った。私が史士であることも。裁量を信頼して待つべき」
 あたしを見詰め、マチさんは言った。

                    Ψ

 こんな具合に、マチさんの言う「演劇」は展開されたんだけども、劇というよりはマチさんの一人舞台だったよねえ。あたしは鑑賞していただけだった。
 だけど、結構ワクワクする一幕を見せてもらったかな。あたしはさっき、面白ければ嘘か本当かは問わないと言ったけれど、この原則には「本当ならばなおよい」という但し書きが付いていることを言っておきたいと思う。たとえば、嘘と分かっているイベントを面白がることは簡単じゃないと思うしね。
 だから、マチさんの隠れ職業をいかにも本当らしく見せる仕掛けの数々は、心から評価したいね。純白の衣装をはじめ、空中譜面台とか、巨大万年筆とか、壁の三つの穴とか。そういう「演出」の面では、マチさんの一人芝居は完璧に近い。少なくとも今現在、あたしは九十九パーセント本当だと思っている。あと一パーセントが埋まるのは、次回の化学の授業でヒキ先生と会話したときだ。
「演劇は、まだ終わっていない」
 いつもの調子に比べて発話速度が四十パーセント増な声を聞き、あたしは理性的思索から夢へと再び戻された。
 お菓子を大量に摂取して以来のマチさんの加速モードは、まだ途切れてない。
「演劇」が終わっていない? どういうことだろう? あたしはマチさんの仕事を見せてもらったじゃない。マチさんも完了台帳≠ニやらを片付けちゃったはずだ。
 ……あれ、でも、まだ巨大万年筆はネクストサークルでバットを回す野球選手みたいにぐるぐるさせてるのね。


「きゃあっ!」
 という悲鳴がした。
 この悲鳴で、あたしは全てを理解した。
 叫んだのは、あたしだからね。
 だって、部屋のドアが思いっ切り蹴り飛ばされて、ごついスーツ男たちが乱入してきたんだもん! 
 土足、土足! お菓子の袋を蹴散らさないで! 
 男たちはズラリと並び、入口を封鎖してしまった。
 全員黒服にサングラスなんて、初めて生で見たよ。笑えばいいのかなあ?
 でもだめだった。あたしときたら、顔が引きつっちゃって。悔しいよ。
 一段と重い靴音を鳴らして入って来たのは、駅で会ったピンクのスーツの男だ。
 彼に守られるようにして入場したのは、彼より頭二つも小さいおじいちゃん。
「すみませんねえ。お騒がせして」
 ……あれ? このおじいちゃん、どこかで見たことある。
「こうして訪問しないと、話を聞いてもらえませんからな。しかし、この現場を見る限り、しらを切られることは無さそうですかな。……皆野マチさん、藤ヶ丘2丁目13−50、家族構成はご両親とお姉さんの四人。そして、人知れずK町の史士≠フお役をつとめていらっしゃる。間違いありませんね?」
 おじいちゃんの問いが終わると、名刺でも出すように自然に、黒服たちが懐から拳銃を取り出した。
 しかも、あたしたちに向けたー! ひええ。
「居住者の許諾を得ないで家宅に侵入するのは法律に違反している」
「マチさん、あんた、そんなこと言ってる場合?」
 あたしは突っ込む。
「お譲ちゃん。この町では毒沢重蔵氏が法律なのよ。噂を知る人を締め上げるのは簡単だったし、この家の鍵を作った鍵屋もすぐ貸してくれたよ」
 ピンクの男は掌で鍵束を弄んでいる。マチさん宅の合鍵なんだろう。というか、毒沢……? あたしはハッとした。そこのおじいちゃん、K町の町長じゃなかったかな。たまに地元のニュースで顔が出てたりする。
「アレを」
 毒沢氏は顎をくいと突き出し、指図する。ピンクスーツの男は手にしたボストンバッグのジッパーを開放し、バッグを逆さにした。
 札束らしきものが、どさどさと床に落ちた。
 それでも、散乱するお菓子袋の高さを越えることはないけど。
「一億ある。仕事料だ。これを受け取るか、ご友人ともども鉛弾を受け取るか、お嬢さんが選べばいい」
 ピンクスーツは盛期のベニテングダケのように堂々と突っ立っている。
 マチさんはピンクスーツに言った。
「そちらの用件は何」
 ピンクスーツの男は、喜んだのか怒ったのか掴みかねる舌打ちを残し、漢方薬用に乾燥させた霊芝みたいな硬質な顔を毒沢氏に向けた。
「ありがたい。では話しましょう」
 と、毒沢氏。
 黒スーツの人たちは拳銃をしまった。
 マチさん、だめよ、こんな悪人の頼みを聞いちゃ。この一億だって町の人たちの税金からパクッてきたものに決まってる。でもあたしも死にたくないのは確かだし。ちくしょー、腹が立つわねえ!
「じつは、史士のあなたに変更申請していただきたい事項がありましてねえ」
「その事項が起こった年月日を聞きたい。台帳を取り出す時、必要になる」
「そうですね、年月日……。たしか八月二十日でしたかな」
 なんだこのジジイは? 焼きが回りすぎて脳のタンパク質が凝固でもしたんじゃないかしら。今が何月か分かってるの? うちの学校では三日前に衣替えがあったばっかりなんですけど。
「史士の変更申請は、過去の確定事項にしか適用されない」
 なんて、マチさんもクソマジメに対応しているし。
「多額の報酬を支払うのですから、よそよそしい態度はやめていただきたい。また、こちらの願いを悟っていただきたいですな。わたくし達は史士の顧客だった人間から聞き出したのですよ。ただでさえ隠れたお仕事をされているあなたには、更に隠れた裏のお仕事もあるそうじゃありませんか。ズバリ、未来の確定事項を変更できるとね。いいですか、あなたをお友達ともども殺すのは簡単なことなのです」
「……」
 一瞬、マチさんは物凄くダークな表情になった。
 あたしは、今までの世界が新聞の四コマみたいなデフォルメされた世界だったとしたら、この一瞬だけ線や影が入りまくりの劇画世界に変わったんじゃないかと思ったくらいだよ。なにより、マチさんの顔の各パーツが二ミリも動くものだったということに衝撃を受けたね。
 けれど、それは錯覚だったのかもしれない。あっけなくマチさんの顔は元に戻っちまっていたからね。
「八月の町長選、わたくしは五選を果たすつもりでおります。それほどまでに町民の信頼が厚いわけでしてね。しかし、若干の不安要素もないわけではないのです」
「そう。未了台帳≠ノよれば、あなたが落選する未来は確定している。八月の町長選で当選するのは無所属新人候補の清河正義。この未来が確定事項」
 あれ? マチさん、声が低くなってないかい? こころなしがドスがきいているような。いつもの声の音叉のとなりに、ちょっと低めの音叉が置かれてみたような。
 しかし、女の子が声を低くしてみても、男の迫力にはかなわないやね。
「なぜ? なぜ知っているゥ? やはりお前は、できるのだな、未来変更がッ! そうだ! 清河正義。あいつがわたしの邪魔をしよる。クリーンだの、改革だの、一新だの……。大学教授みたいな綺麗事を抜かしおって! 愚鈍、いや純朴な町民たちを、まんまと甘言で騙しよるつもりらしい。だがな、わたしにも四期十六年の歴史の重みがあるわ! わたしの歴史が! 敗れることなど! ありえんのだッ!」
「ある」
「だからこそッ!」
 毒沢は床を踏み鳴らす。血圧が上がりすぎて脳内では小規模の出血が三つぐらい起こっていそうだな!
「だからこそ、きさまに頼んでいるのではないかーッ! このスポンジ脳の白痴めが! きさまの話など聞かん! できるのか? できないのか? できないというなら、今すぐわたしはきさまらを……!」
「変更は、可能」
 マチさんは答えた。
 その途端、ぼろぼろに塗装のはがれた事故車が新しい塗装を施されたように、毒沢はえびす顔を回復した。変わり身の早さが怖すぎる。
「史士は、過去の変更は不可能。過去の歴史は、六面ともしっかり接着されたレンガの集まりのようなもの。各事項は、周辺事項との緊密なパワーバランスの上に存在している。一つのレンガを抜き取り、別のレンガと入れ替えようとすれば、周囲一帯のレンガも破壊されてしまう。史士には一つだけのレンガを入れ替える能力はない。せいぜい、そのレンガが入っている場所を忘却させること。この作業が、たとえば過去事項の減飾申請にあたる」
 毒沢はニコニコ顔で聞き入っている。いい気なもんだねー。
「未来の確定事項は、過去のそれとは性質が異なる。それはあくまで確定。理論的には、未来はどうにでもなる可能性があるので、逆説的に、適当な一つのビジョンを選択して当てはめることが行われている。積み上がったレンガ塔の上に、同様の形をした発泡スチロールを重ねておくイメージ。発泡スチロールは軽く、工作もしやすい。レンガ一個分の穴をあけ、そこへ予め特定のレンガを埋め込んでしまうことは難しくない。そうすれば、その未来事項は確定ではなく確定となる。この軽作業であれば、史士の力量でも可能」
「ありがたい。早速かかっていただきたい。謝礼はそれで足りるかね?」
「若干足りない」
「足りない分は後で出すとも。とにかくわたくしの当選を頼む。それさえ叶えば良いのだ」
「分かった。引き受ける。席を外し、応接室で待っていること。一つ下の階」
 こうして、鉄の嵐のような重い空気は部屋から出て行った。
 しかしながら、対等に交渉して報酬の上積みを勝ち取るマチさんもマチさんだ。なかなかやる。
 とは言っても……。
「マチさん、あんな奴らの言うこと聞いちゃうの? あたし驚いたよ。仏様みたいな善人顔して裏では汚れたことやってる町長なんて、まさか現実に居るとはね。あたしは電車通学生だし、住民票だってK町の外だけど、あんなのに町長やらせるのはどうかと思うわ」
「過去の台帳を参照したところ、権力依存型の者が首長の座を占める率は六十七パーセント。過半数に達している。役所は一面での統治機構に過ぎない。K町の総体性には影響を及ぼさない」
「それにしても、感情的にどうなのよ? あたしはイライラする!」
「それでいい」
 マチさんはあたしの後ろを指差した。
 エアロバイクがある。
「適度な運動はストレスを発散し、気分を爽快にする。未来変更は時間がかかる。漕いでいるといい」
 マチさん。話がおおもとのところで違うよお。あたしが言いたいことはねえ……。
「型通りの手続を遂行し、報酬を手に入れる。それが史士という職業の全部。それ以上の意味を要求する仕事ではない」
 マチさんはそう答え、壁の下部の穴から出ているレバーを反対方向に切り替えた。もちろん、足でだ。
 で、それっきり、穴のあいた壁のそばで銅像と化してしまった。
 時々まばたきをするから生きてる人間だって分かるけど、その嵌め込みガラスみたいな目玉の奥では何を考えているんだい? この子には感情ってものがあるのかどうか疑わしい。いっそ感情が無いのなら無いと言っておくれ。そっちのがスッキリするから。でもなあ、この子のミステリアスな雰囲気もあたしは捨て難いなあ。何も言わないであたしを見ているだけだけれど、全体の雰囲気が何かを語っている気がするんだ。それで、じゃあ黙って見ていようか、って気になってしまうのさ。「幽玄」とでも言えばいいの? うーん、日本の心だねェ。または、積極的に自己主張して相手を打ち負かしましょうという西洋ディベート主義へのアンチテーゼだねェ。……なんて、とりとめもない思考の鉄砲水に押し流され、結局あたしはまたマチさんのやることを眺めることに決めた。悪徳町長へのイライラを、エアロバイクのペダルに込めながら。せっかくだから一キロは軽くなって帰ってやりたいね。
 
 
「そろそろ未了台帳≠ェ来る」
 マチさんは壁の穴を注視している。
 さっき使ったのは右目の穴だったけど、今度は左目の穴だ。
 穴から音もなく吐き出された、分厚い台帳。
 マチさんはさっきと同じように台の上で台帳を広げる。
「三ヶ月先までの仮確定事項は、この一冊に収められている。仮事項だから容量を食わない」
 あたしは、ペダルを漕ぐ足に力が入る。
「マチさん、それにあたしの未来も書いてあるのよね? ちょっと教えちゃってよ。三ヵ月後のあたしは……」
 マチさんは曇った目であたしを見て、また台帳に視線を戻す。別に、マチさんの目に感情が表れていたわけではない。単純に光の加減で曇ったというだけだ。……と思う。
 台帳めくりを急ぎつつ、マチさんは淡々と呟く。
「明日が今日と変わらないように、三ヵ月後も今日と変わらない。驚くべき事象が現れる未来は、せめて五年以上先。史士が取り寄せ可能な未了台帳≠ヘ九ヶ月以内。里美は三ヶ月後も普通に生きている」
 マチさんはもう一回、じいっとあたしを見た。
 
                    Ψ
 
 悪徳町長の依頼は、滞りなく遂行された。基本的に、手続方法は同じである。左ページの未来事項に高さを合わせて、右ページに変更後の事項を書く。マチさんは〈八月二十日 毒沢重蔵、K町長選ニテ当選(本確定)〉という一行を書き入れた。
 しかし、過去の出力変更とは違い、未来変更には申請が受理されるまでの待機時間があるそうだ。未来を動かすのだから当然、かな? あたしがハンドルに付いているメーターのカロリー表示を増やす作業に地味にハマっている間、マチさんは温くなったお茶をおかわりしていた。
 やがて、唐突に「受理された」と言って立ち上がり、台帳を穴の中に返した。
 手続は一切終了したみたいだね。
 マチさんはクローゼットの扉を閉めたから。
「依頼者の願望は叶った」
 あたしは、マチさんの呟き速度が平常に復帰していることに気付いた。
 あたしも、額に汗をかいてきたところで、エアロバイクから降りた。
 あたしは、ハンカチで汗を拭きながら、不機嫌めかして言った。実際は、運動の効力恐るべしといった心情でありまして、言説とは裏腹な開放感を滲ませざるを得なかったけど。
「悔しいなあ〜。あんなひどい奴の望み通りになっちゃうなんてさ。世の中は力のある奴が勝つんだね!」
「彼が望み通りに当選を果たしたからといって、幸福だとは限らない。その点、報酬が手に入った私にはマイナス要素は無い」
 マチさんは意味ありげな言葉を言い残した。
 そして、服を着替えるため、右のクローゼットに消えた。


「未来の確定事項を変更することは、不可能ではないが、それなりの対価を要する。それが、『若干足りない』と言ったことの意味。未来変更の対価は、確実に依頼者にとっては多大のロスとなる。体力や精神的安定を摩滅させるのはもちろん、家族や仲間および自分の命を失うこともある。なぜなら未来は、自分自身が現在苦闘する結果として生じるものだから。未来変更を希望するならば、苦闘分のエネルギーを前払いすることは当然。また、このうえに更に、準備分≠ニいう対価が要求される。これは、自己の未来を知った上で未来変更を為しうるというアドバンテージに対して課される税金≠フようなもの。これらを全て支払うことで、未来変更は実現する。一般に、仮確定時点の潜在エネルギーが強く、動かすのが難しい事項ほど、対価は大きいものとなる」
 制服に着替えてクローゼットから出てきたマチさんは、しんと静まり返った部屋で、未来変更の仕組みをあたしに説明してくれた。
 それを聞いたとき、あたしの興味は一つしかなかった。
 あたしはその疑問をぶつけようと思った。
「じゃあ、マチさん、あのさあ……」
「なに」
「……うん、何でもない。……でも、やっぱり気になるなあ。……あのさあ、今回、毒沢が払う対価≠チていうのは?」
「彼自身の命と仲間たちの命。じつはこれでも足りない。しかし、今回は周辺事情を考慮し、特例として通した」
 あたしは一つのマチさん像を暫定的に導いた。
 つまり、彼女はあたしが思わずたじろぐほどの偉大なるエンターテイナーだ。そうだよね? だって、死体に被選挙権を認める法律なんて、ありやしないんだから。命がなければ当選することもできないでしょう?
「心配ない。依頼人が自己の命をもって対価とした場合、本人不在のまま本人実在の外観を装って事象が結果する
「?」
「つまり、次の町長は彼であり、町民にとってもそれは事実である。しかし町長の椅子に座っているのは透明人間である」
「あははは! そんなバカなことがありえるわけないじゃないの。でもさあ、その発想、今度の部誌の小説に使ってもいいかな?」
「ありえる。この仕事は長い。過去にも似た事例を見ている。里美たちは気が付かないだけ。確定事象が集合することによる堅牢性は、相当数の欠員を許容する。幻像人間も造り出す
 仕事が長いって、あんた高校生でしょう……?
 あたしはテーブルの下に落ちている銀紙を白旗のように振った。さっきマチさんが食べたものだ。
「ふうん。頭がコレになっちゃうわ」
「それを言うならショート。苺が余計」
 相変わらず、ギャグなのか、真剣なのか。
 マチさんがうつらうつらと頭を揺らし始めたので、あたしは提出するか決めかねていた最大の疑問を遂に口にした。
「じゃあ、毒沢たちは、もう死んでるの?」
「変更申請は通ったと言ったはず」
「で、でも! どうやって? その、対価≠支払わせるっていうのよ!?」
「一階」
 と、マチさんは口にした。
 その短い単語を聞いて、鮮やかに浮かび上がった。
 あたしが間違って覗いてしまった、一階の部屋のデザインが。
 そして、言葉足らずな呟きが流れる。あたしの頭の中が見えているみたいに。
「人間すりつぶしギミック。未来申請のエネルギーを抽出する」
「なんで……」
 ああ、声が暗くなる自分に気付き、余計に気分がダウンするよ……。
「なんで、殺しちゃったの? 悪人だから?」
「そうではない。一つには、彼ら自身が望んだこと。もう一つには……」
 小さな口を小さく開き、マチさんは発言を中断した。言葉を探しているようだ。
 言葉に詰まるマチさんを初めて見た。
 なんでだろうな、あたしはちょっと胸がズキズキした。
 ずるいな、マチさん。完全なパフォーマンスを期待される機械がミスっちゃいけないのと同じで、マチさんという人は常に淡々と説明を実行することを予想されているんだ。だから、一度つっかえただけで、あたしは動揺してしまっている。昔から使い続けてきたパソコンが突然ハードディスクごととんでしまうみたいに、マチさんもシステムダウンしてしまうんじゃないかってさ。失礼な表現だけどね……。
 マチさんはゆっくりとあたしを見据え、何かを話そうとする。
「おっとォー! 忘れていたよ」
 あたしは脳天気な声で叫んでいた。
 突然、閃きが走ったんだ。間違った考えを独走させるのはやめよう、ってね。不毛な愚考回路に入り込もうとしていた自分を一喝し、正気に戻したのさ。
 だって、マチさんは言ったじゃないか。「演劇が展開される」って。
 マチさんはあたしに上質な演劇を見せてくれたと思うよ。
 大がかりなセットも大道具も小道具も必要だし、マチさんはじめ役者もいろいろ必要だった。
 手間と暇をかけて不思議な演劇を見せてくれたのはどうしてだと思う? 
 あたしを楽しませようとしてくれたからに決まってるじゃないの。
 だって、観客はあたししか居なかったんだもの。
 やっぱり、あたしの結論に変更はない。マチさんは素晴らしいエンターテイナーさ。面白さに飢えるあたしを満たしてくれる、ほかに換えがたい友達だよ。
 だからさ、今回の演劇はあたしに幕を引かせてくれないかな? 
 あたしもちょっとは参加してみたくなったのさ。
「マチさんは、ここまでが演劇だっていうオチをつけるつもりなのよね? あたしも一杯食わされちゃったわねえ」
 マチさんは息を一つ吸い、吐いたみたいだ。肩が少し上がり、下がったから。
「今回のことも、私のことも、里美が大人になればいずれ理解される」
「それは、いつのことなのかな? ……あたしが、未来変更を依頼するお客として、ここに来たとき?」
「……」
 無言を媒体にした言語が、何かを語っている気がする。
「マチさん、外したわね。それはきっと見込み違いだわよ。あたしは、自分の幸せの匙加減は史士に任せるつもりだから。過去のことも、もちろん未来もね。その方が面白いと思わない?」
「私にとっては、仕事が一つ増えるに過ぎない」
 マチさんは角度にして二度ぐらい顔を持ち上げた。
「だけど、構わない」

                    Ψ
 
 長居してしまったから、おいとますることにした。
 マチさんは、駆け込み入店を狙っても体がつかえそうなシャッターのごとき瞼をしながら、玄関までついてきてくれた。そのとき、あたしは、一階の曲面ドアの下から赤い水が漏れているのを見た。びっくりしたけど、その赤い水がアメーバみたいな動きで部屋の中へ吸い込まれたときはもっと驚いた。
「マチさん、楽しかった。また明日ね」
「また」
 あたしは夜の建売群の中を帰路についた。今もってニュータウンと呼ばれる町のさびしげな明かりを見ていると、あの世とこの世の境界あたりを歩いている気になった。非現実感に包まれるのは、良くあることだ。浸れる映画や演劇の後は特にね。
 あたしは今日の出来事を部誌のネタに使うかどうか考えた。しかしすぐに却下した。あたしとマチさんには、もっと面白いことが起きそうな予感がする。事件は今日で終わりじゃない。それは確かな感覚。だから部誌には書かないで、まだまだ一人で楽しませてもらおう。
 そういえば、マチさんが何か言いたそうだったな。あたしが玄関から出る時に……。ドアは慣性で閉まっちゃったけれど。
 ま、いいかっ。
 あたしが鑑賞した演劇本編に比べれば、大したことじゃないだろうからね!

                    Ψ 

「ダイエットできた? 階下のギミックを動かしたのはあなた。あのエアロバイクが動力部。これは知らなくていいこと。私は定期業務として未了台帳≠フチェックを行っている。昨日台帳を見たところ、上杉里美が毒沢重蔵部下の銃弾に撃たれ、死亡する未来が記されていた。私は、上杉里美の未来を変更しておいた。死亡から生存へと。あなたは対価として殺人を犯す瑕疵(かし)を負う。しかし、本人が未来を了知していなかったため、準備分≠フ支払いは免除された。すなわち殺人を自覚することを免れた。その結果算定された対価の総額は、エアロバイクを七分間漕ぐことにとどまった。別の未来変更経路も、存在していなかったわけではない。たとえば、毒沢重蔵の依頼場所にあなたが居合わせなければ、銃で撃たれる未来も変更された可能性がある。しかし、未来事項間の因果性には脆弱性が認められ、安全の点で信頼できない。また、当該事項を直接変更できる状況でありながら、連関的に当該事項の変更を引き起こす方法はめんどう。拒否されるべき。私はよりよい経路を選択しただけ。史士業務の原則は、顧客の利益最大化を考慮すること。毒沢重蔵と同様に上杉里美も私の顧客。私は前者の当選を実現し、後者の追試無効を実現した。円満な解決」


(終)
(0806)

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